藤原久須麻呂 ふじわらのくずまろ 生年未詳〜天平宝字八(764) 略伝

南家仲麻呂(恵美押勝)の子。母は藤原房前の娘、袁比良(おひら)。山慢女王を妻とし、三岡をもうける。名は訓儒麻呂にも作る。旧名は浄弁。
天平宝字二年(758)正月、東海・東山道問民苦使。この時名は浄弁とある。同年八月従五位下に昇叙された時は既に久須麻呂と改名。同月、父仲麻呂と共に藤原恵美朝臣を賜姓される。その後美濃守・大和守等を経て、天平宝字六年十二月、参議となる。同八年九月、父押勝の乱に際し、中宮院の駅鈴・内印を奪おうとして坂上苅田麻呂らに射殺された。
天平宝字四年(760)から同六年頃、大伴家持と歌を贈答(万葉集4-786〜792)。久須麻呂が家持の娘を息子(三岡か)の嫁にほしいと言ったのに対し、家持は娘の成長を待ってほしいと婉曲に断ったものらしい。

藤原朝臣久須麻呂の来報(こた)ふる歌 (二首より一首)

春雨を待つとにしあらし我が屋戸の若木の梅もいまだ(ふふ)めり(万4-792)

【通釈】春雨を待つということでしょうか、我が家の若い梅の木も、まだ蕾のままなのです。

【補記】家持の歌「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも」(大意:雨はしきりに降っているものの、我が家の梅の花はまだ咲かないことです。あまりに若過ぎるからなのでしょうか)への返事。この「梅の花」はおそらく家持の幼い娘。久須麻呂の歌の「若木の梅」は彼の息子であろう。両家の子女の結婚をめぐって父親同士が交わした歌と思われる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日