紀清人 きのきよひと 生年未詳〜天平勝宝五(753) 略伝

国益の子。「紀氏系図」によれば大納言大人(うし)の孫。また同書によれば贈太政大臣諸人の兄で、光仁天皇の母橡姫(とちひめ)の伯父にあたる。名は浄人にも作る。
和銅七年(714)二月、詔により三宅臣藤麻呂と共に国史撰修を命ぜられる。『日本書紀』編纂の補充人事かという(書紀とは無関係と見る説もある)。この時の官位は従六位上とあるが、翌年正月、一挙に三階昇進して従五位下に至った。優れた学者として重んじられ、養老五年(721)正月、首皇子(当時21歳)の侍講に任命され、退朝後、皇太子に学芸を教授した。同月、学業を表彰され、絹布などを賜わる。同七年正月、従五位上。その後右京亮・治部大輔兼文章博士などを歴任し、天平十六年(744)十一月、従四位下に昇叙された。同十八年正月、元正上皇の御在所の肆宴で応詔歌を詠む(17-3923)。万葉集にはこの一首のみ。その後武蔵守に任ぜられたが、天平勝宝五年(753)七月十一日、卒去した。時に散位従四位下。

紀朝臣清人が詔を(うけたま)はる歌

天の下すでに覆ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか(万17-3923)

【通釈】天の下をあまねく覆って降り積もった雪が、いちめんに輝いているのを見ますと、その神々しさに心打たれます。

【補記】天平十八年(746)正月、元正太上天皇の中宮西院での肆宴で、上皇の詔に応じた歌。「すでに」はすっかり・全体に、の意。純白の雪を「貴し」と詠んで、太上天皇の霊威を誉め讃えた。

【他出】古来風躰抄

【主な派生歌】
とぶ蛍ともし火のごと燃ゆれども光をみれば涼しくもあるか(光厳院)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月05日