足利義満 あしかがよしみつ 延文三〜応永五(1358-1408) 号:鹿苑院・北山殿・天山道義

室町幕府三代将軍。足利義詮の長男。母は石清水八幡宮社務善法寺通清の娘紀良子(順徳天皇の孫ともいう)。幼名は春王。
貞治六年(1367)、十歳の時父が死去し、家督を継ぐ。翌年、元服。次いで将軍に就任したが、実権は管領細川頼之が掌握した。頼之はすぐれた手腕によって幕府権力の強化に成功するものの、次第に諸将との対立を深め、内乱の危機が迫ったため、康暦元年(1379)、義満は頼之を罷免して斯波義将を管領とすることで有力守護たちの不満を抑えた。以後は自ら幕政の主導権を握り、朝廷での地位も急速に進んで、永和四年(1378)に従二位、康暦二年(1380)には従一位に昇った。永徳元年(1381)、内大臣。またこの年、京都室町の豪壮な新第が完成した(「花の御所」と呼ばれる)。同二年、左大臣に昇る。同年、後小松天皇(北朝)を推挙して即位させた。翌年、准三宮宣下を受ける。嘉慶二年(1388)に駿河、翌年厳島に諸将を率いて遊覧し、各地の大名を威圧。その後、山名氏清を滅ぼし(明徳の乱)、土岐康行を追討するなど、守護大名を制圧した。明徳三年(1392)、大内義弘を仲介とした南朝との交渉が奏効し、南北両朝の「合一」を成し遂げる。応永元年(1394)、将軍職を長男義持に譲り、太政大臣に任ぜられたが、翌年辞して出家し(法名は道有、次いで道義。道号は天山)、以後は法皇然と振る舞った。同四年、新邸北山第が完成し、やがて室町より移住(義満の死後は鹿苑寺となる)。同六年、大内義弘を討つ(応永の乱)。この頃から西国支配を強め、また元冦以来絶えていた中国との国交を再開して対明勘合貿易を行なった。この際、明の皇帝より国王に封ぜられ、自らも表文で国王を称した。応永十三年(1406)十二月、正室日野康子を後小松天皇の准母とし、自らは天皇の准父に等しい地位に立つこととなった。同十五年三月、同天皇を北山第に迎える。同年四月、次子義嗣を親王の儀に准じて元服させ、皇位簒奪計画を着々と進行させていたが、翌月六日、病にかかり急死した。薨年五十一。朝廷では太上天皇の尊号を贈ることを決定したが、幕府はこれを辞退した。墓所は京都市北区の相国寺鹿苑院。
 
春屋妙葩・義堂周信ら禅僧に宋学・詩文を学ぶ。和歌は初め二条為遠を、のち為重を師範とし、至徳元年(1384)、為重に新後拾遺集を撰進させた。応永十四年(1407)十一月二十七日の内裏九十番歌合に出詠。幕府でもしばしば歌会を催した。永和百首作者。新後拾遺集初出。勅撰入集二十六首。

足利義満木像 京都市北区 等持院

百首歌たてまつりし時、春雨

春雨のふる日やけふも暮れぬらしまだ落ちやまぬ軒の玉水(新後拾遺60)

【通釈】今日も一日春雨が降りつづけ、そのまま暮れてゆくらしい。夕方になってもまだ落ちやまない軒の滴よ。

【語釈】◇ふる日 「降る日」「経る日」の両義を掛け、春雨が何日も降り続いていることを暗示する。◇玉水 しずくの美称。

【補記】永和元年(1375)、後円融天皇に詠進した永和百首、十八歳の作。

【参考歌】平資盛「新勅撰集」
さみだれの日をふるままにひまぞなき葦の篠屋の軒の玉水

百首歌たてまつりし時、水鳥

薄氷なほとぢやらで池水の鴨のうき寝をしたふ波かな(新後拾遺513)

【通釈】薄氷はまだすっかり水面を閉ざすことなく、池で浮寝する鴨を慕うように寄せている波であるよ。

【補記】さざ波が鴨にしきりと打ち寄せるさまを、「慕ふ」と言いなした。永和百首。

百首歌たてまつりし時、神祇

たのむかな我がみなもとの石清水ながれの末を神にまかせて(新後拾遺1517)

【通釈】一身を託して祈ることだよ。我が一族のおおもとをなす源氏の氏神、石清水の社に――その流れの末は神の意のままに任せて。

【補記】「みなもと」に足利氏の本姓「源」氏を掛ける。京都男山の石清水八幡宮は源氏の氏神。「みなもと」「ながれ」「末」と、水の縁語を連ねている。これも十八歳の時の百首歌。『武家百人一首』に採られている。


最終更新日:平成15年11月15日