大伴宿禰伯麻呂
おおとものすくねおじまろ
- 生没年 718(養老2)〜782(天応2)
- 系譜など 道足の子。子に弥嗣がいる。
- 略伝 750(天平勝宝2)年、従五位下。752(天平勝宝4)年、東大寺大仏開眼供養会で久米舞の舞頭を担当する。この年、上野守。756(天平勝宝8)年、聖武天皇崩御の際、山作司に任じられる。764(天平宝字8)年、伊豆守。765(天平神護1)年、従五位上。翌年3月、大納言藤原真楯(旧名八束)が薨じた時、弔使。道鏡の法王就任後の同年11月、正五位下に昇叙され、さらに同年12月、称徳天皇の西大寺行幸に際し正五位上に昇叙される。767(天平神護3)年2月、造西大寺司次官。同年7月、兼駿河守。768(神護景雲2)年7月、右中弁兼遠江守。769(神護景雲3)年4月、西大寺行幸に際し従四位下。同年5月、員外左中弁。8月には員外右中弁。同年12月、新羅使の来朝理由を問う使として大宰府に派遣される。770(宝亀1)年10月、右中弁。翌年1月、他戸親王が立太子すると、兼春宮亮。同年11月、従四位上。774(宝亀5)年9月、宮内卿。775(宝亀6)年、正四位下。776(宝亀7)年9月、兼越前守。778(宝亀9)年1月、参議。779(宝亀10)年11月、兼左大弁。781(天応1)年4月、正四位上。同年5月、兼衛門督、さらに兼中宮大夫。同年12月、光仁上皇が崩ずると、御装束司。782(天応2)年2月、薨ず。時に従三位参議中宮大夫兼衛門督、65歳。続紀薨伝には「宴飲談話、頗る風操あり。天宗高紹天皇(光仁)、之を寵幸したまふ」とある。
系図へ