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いま思うこと
 日々思っていることを、いままでのようにftpでサーバーにいちいち送っているのが面倒に感じてきたので、**さんに習って、BBS形式のものもつくってみた。
 自分のことを私とか俺とかいうより僕と言いたい感じがつよくなってきたが、うまく説明できない。
(04年5月9日)


 海外の生活で、いちばんその土地と合わせにくいのは、まず言葉であり、その次は食事で、更に諸々の習慣なわけだけれど、「朝飯にはみそ汁がなければ嫌だ」などと言って、その土地に合わせる気もない頓馬は外国に行くな、としかいいようがない。
(03年10月21日)


 俺より十年以上若い世代は、ヘヴィーメタルとパンクを区別しないそうだ。俺らが若い頃、はっとしたり逡巡したりした経験なんか、無用だからすっとばしてしまってかまわない。だけどもそう言ってはいけないのかもしれない。俺も”レイブ”に行ってみるか。
(03年8月25日)



 カレーをつくるときのコツは、タマネギををたくさんつかうことだという月並みな固定概念にとらわれていた。12年前に同居人がタマネギをまったく使わずにおいしいカレーをつくってくれた。そのときのちょっとした驚きと感謝の気持ちは、いまでもおぼえている。
 カレーの辛みを増すためにはトウガラシを入れればよいと思っていた。しかしそれも、ただの俗論だと悟った。トウガラシだけでなく、ショウガやコショウ、そしてミントを入れるのが秘訣なのである。
(03年8月24日)



 自然食主義者は、「無精卵はよくない食べ物だ。有精卵を食べろ。」という。
未だに私にはその理由が、いまひとつ理解できない。
生命を尊重し、殺傷をやめていく、という観点からみれば、無精卵を食べるほうがマシだということになるまいか。
(03年8月16日)



 個人的にはレッド・ツェッペリンはあまり好きでなかったし、レコードの一枚も持ってなかった。だけども実は、中学生になった頃に、レッド・ツェッペリンの「移民の歌」をきいて衝撃を受けた。今なら素直に、レッド・ツェッペリンが1970年代初頭の最も重要なロック・グループだと認めることができる。ロックで表現できる感覚を飛躍的に拡大したと言えるからだ。
 つまり、個人的な好き嫌いと全体的・歴史的な評価はやっぱり区別すべきだ。と、僕は言いたい訳だ。精神の天動説と地動説はどちらも偏向に行き着く。ついでに言えば、音楽は「負」的なもので、歴史は音楽をつくったが、音楽は歴史をつくらなかった。ということも冷静に受けとめるべきかもしれない。
(03年7月23日)



 三島由紀夫は、太宰治の苦悩などラジオ体操をやればすっとんでいってしまう。というようなことを述べたことがある。私は高校生の頃、太宰治はさんざん読んだが、三島はほとんど読まなかった。それでも、三島のこの言は名言ではないかと思ったりもした。

 しかし今なら、私は三島の言をかなりの程度理解し尊重(笑)するが、彼に賛成はしないだろう。最近の私の解釈では、太宰の苦悩と三島の煩悶は、かなりの程度、同根に由来していると考えることができるからだ。
(03年7月7日)



 週刊誌を読んでいて、「なんだろうね」と思ってしまう。
 政治家の息子がプータローやっている。とか、吉永小百合が渡哲也と食事した。とか、結局それだけの内容。何がおもしろくてこんな、どこにも驚くような要素がない、どうでもいい記事を書くんだろうか。レポーターとか編集者とかが、可愛くもあるが痛ましい存在に思えてくる。これじゃ総合誌の売り上げが落ちるのも、仕方がないのではなかろうか。

 もしかしたら書いている者は、私の友人や親族であったりするのかもしれない。けれども、ちかごろの総合週刊誌の編集者やレポは、政治家のスキャンダルにしても少年の犯罪にしても、でてきたゴキブリをひっぱたくことしか思いつかない能なしばかりに思える。総合週刊誌が売れなくなることは、人々の叡智がすこしは向上したことを示す傍証といえないだろうか。だとすれば、小さな希望をみることができるのだけれど。

(03年7月6日)



 「痴漢にまちがえられた」という話をたまに聞く。私は幸運にも、そういう目にあったことがなく、人間の心理はわからないと、なんとなく思い続けていた。
 最近、はじめて会った若い女からA自分が思ってもないし言ってもないはずなのに、「あんたはこんなことを言った」なんて嫌なことを言われた。放っておくしかない。
 だけども、こういうのは女性に限ったことではないと思う。高校生の頃、電車のなかで中年男からすごい剣幕で睨まれたことがある。どうやら、私が漫画かなんかのことで思い出し笑いしたことを、彼は、馬鹿にされたと勘違いしたらしい。そんなことをいまだに覚えているのは、私の一種の小心さに由来する。
(03年6月19日)



 何度か地方に出かけることがあった。
 岐阜県・明智町では、古い町並みに心を引かれた。
19世紀以来のあらゆる政治社会的な変動も、この町並みを変えることはできなかった。
何百年もの間、いま私がそうしているように人々は、ツバメが飛びまわっては雛に餌を与えるのを見てきたのだろう。なんて思った。
 岡山市では、暴走族と警察のいたちごっこが面白かった。「不謹慎だ」と叱られるかもしれない。

 自分の町(蒲田)についても、いつも発見がある。「真澄(眞澄)」という居酒屋が閉店してから、行きつけの店は自分の住居があるビルの地下のパブだけになってしまい、かつてのような情報が少なくなっていた。夜の3時や4時に気晴らしに町を歩き、案外たくさんの居酒屋が営業しているのに気づいた。その半分はタイ料理が専門。中国系の人々を対象にしたスーパーとかもあった。もっとすごいのは、吉祥寺あたりにありそうな、西域衣料・雑貨店が、こんな時間でもやっていることだ。
 蒲田や川崎・横浜の繁華街ではすんなり受け入れられるこんな変化も、山の手の住宅街では「外国人排斥」の激しい抵抗にあうことになる。あるメディアの取材に、「老人は違和感や犯罪への不安をもつだろうし、中年や青年にも職を奪われる懸念もあって、かなりの抵抗があるだろう。それでも日本も結局は、アメリカや西欧と同様に、他のアジア諸国の人たちを受け入れることになるだろう」と答えた。

(03年6月1日)


 Inomataがいちばんの拠り所にしていた精神分析は、フロイトやユングの手法ではなく、アドラーの手法だった。そういうことについて「遺稿集」のような形でまとめようかと思ったが、とても私の手に負えるものではないことがわかってきた。それに、Inomataが私宛に書いたものは断片的に過ぎて、かなり恣意的にアレンジしなければ、ほとんど意味をなさない。
 むしろInomataは、「未開」なもの、言いかえれば意識以前のもの、無意識の更なる無意識みたいなものに、憧れをいだいていたと思う。彼はそれを追求することができなかったし、そんな暇もなかった。率直に言えば、彼はその方法も知らなかっただろう。私は、その方法を多少知っていたけれど、Inomataほどの憧れをもっていなかった。だからやっぱり、あまり考えてこなかった。しかし、その先には海のような膨大な拡がりがあることに気づかされた。それは「自分をみつける」とか「自分のこういう面に気づく」というようなことに止まらない、もっと深遠な「無」の世界であるかもしれないし、もっとずっと豊かな世界であるのかもしれない。たぶんその両方なのだろう。その海は、未だに海図もなければ、どんな危険があるかも、あまりよくわかっていない。その海に向かうことは私の必然でもあるし、Inomataも生きていれば結局そうしたと思う。

(03年5月11日)


ただ朴訥だというだけではなかったし。
怒鳴り散らす時もあれば、何も言えない時もあった。
「ビューティフル・ライフ」の柊二みたいな、
生真面目だけども、どっか屈折したところがある微妙なバランス。
さーっと通り過ぎた時。

簡単にバランスを失ってしまったっけ。
そしてそのあと通ってきた、とんでもなくひどい時間。

どうにかバランスを取り戻している現在。
オーストラリアとカナダとUKと・・・の人たちが放射する閃光。

(03年5月6日)


夜になると
あそこがここになる
夜になるとあれがこれになる
夜になると中が外になる
               (友部正人「夜になると」より)

こういう感覚は、うまく言葉にできないんだ。すくなくとも、できなかった。
だけども、胸から突き上げてくるような感情があった。たぶん、エネルギーもあった。

<夜だ すべてがやすんでいる>とうたったのは、友部じゃなかったけど。

他人の心を共有するようになって、そういう感情が生まれた。
つらいことは他人と率直に相談した。そうせざるをえなかったのかもしれない。
そういう感情を大切にしたいと思いつつも、いつしかそこから自分は開放されていると思いこむようになった。
自分の意志が入り込めない領域を設定した。そう思うことが卓見であるかのように。

いま、ふたたび、空々しいものを感じ始めている。

(03年4月27日)


 「現代詩手帖」4月号は、友部正人の特集だ。いろんな人が寄稿している。

 僕が友部さんを聴くようになったきっかけは単純明瞭で、二十歳を過ぎてからだけど、信頼する友人が勧めて聴かせてくれたりレコードを貸してくれたりしたことだ。
 もう既に心のどこかがパンク・ロックのほうに傾きつつあった僕には、かったるい感じの楽曲も多かった。それでも、いくつかの歌はすぐに骨の髄にしみこんでいった。いくつかと言ってもひとつやふたつじゃない。「現代詩手帖」も含めて、いろんなところでいろんな人が友部さんの初期の歌について述べているのとおなじことを感じたので、僕なんかがくどくど書かなくてもいいと思う。

 その後、久我山に住んでいた時、近所の知人の小さな催しに出かけたら、友部さんを紹介された。と言っても、初めて会ったわけでもなくて、その前にいくどか彼のライブを聴きに行っていた。
 紹介されて、いきなり友部さんから「君は新宿の○○○で壁のほうにいたね」と言われた時は、驚きもしたが、いたく感激した。記憶力とかだけじゃなくって、ほんとうに他人のことを思っている人だということを知った。すこし会話したのだけれど、少年期か青年期の純心さをずっと保っていられるすごい人だな、こんな人は何百人に一人もいないな、と思った。たいていの人は、だんだん世間ずれしていってどうしょもなくなっていくのだけれど、この人だけはそんなことはないんじゃないかな。なんて思った。

 その後、彼と会話する機会はほとんどないし、彼も僕も久我山から転居していった。実はあのころ僕が傾倒していたパンク・グループのライブに彼も行っていたのだけれど、そんなことは少し後で知った。その後も、彼の歌や彼が書いたものに、しょっちゅう教えられたり励まされたり、はっとさせられたりして今日に至っている。

(03年3月30日)


 それなのに僕ら人間は
 どうしてこうも比べたがる?
 一人一人違うのにその中で
 一番になりたがる?

SMAPの「世界で一つだけの花」(槇原敬之 作詞)の一節だ。

昨年、日本以外に四つの国にsった。
「あの国はこの国より、よい国でしょう」というひともいた。
ただ「あの国は、よい国でしょう」といえばいいのになあ。

(03年3月23日)



 もし人間が、徹底的に自分を客観視することができないとすれば、
 自由主義も、民主主義も、唯物論も、ハイテク・科学も、
 いつでも宗教に転換する。
 背景に利害があれば、それらは暴走する。
 それらへの反発も生まれる。
(03年3月16日)


 「ボラの大群が戻ってきた 品川・立会川再び活況」だという。
俺はこの川のもうすこし上流の近くで生まれ育ったんだけど、魚なんて一度もみなかったな。 コウモリはいたけれど。
(03年2月23日)


 「納豆・もやし生活」というのが、私の造語だ。

 北海道に住んでいた頃、冬に野菜の値段が高くて、もやしとタマネギぐらいしか買えなかった。そんな貧乏な青年の生活のことだ。 往時の自分の生活のことだ。

 私は「清貧」などという言葉が嫌いだ。そんな生活を他人に勧める気はまったくない。勧める人士も嫌いだ。馬鹿げている。
 何故なら、体験として言えば、更に追いつめられればご飯に醤油と味の素をかけて食べることになるし、もっとひどくなれば、家畜の餌にするような雑穀をどこかから「調達」して食べることになる。いくつもの段階を経るとしても、その途中に程度の変化はあっても、決定的な質の変化はないとしか思えないからだ。


 しかしその後、東京・久我山に住んでいた頃、スーパーで納豆ともやしだけを買って行く青年を見かけた時、底知れぬ親近感をいだいたことを白状しておく。北海道だけじゃないんだな、とも思った。
(03年2月9日)


 ヨットにのるのに、ヨットの材質のほうが重要か? スキルのほうが重要か? と、聞かれた。
 自分がヨットをのりまわしているのなら、気の利いた答え方もできるだろうけど。
 いまの自分には、どっちも重要じゃん、としか思えない。
 
(03年2月8日)


さあ 起きよう

目覚まし時計として使っている、タイマーつきラジオから、
スペースシャトル・コロンビア空中分解事故の報
昨晩のインターネットのニュースで、「通信不能・・・」と
されていたので、ああ、やっぱり
合掌

高熱で熱かっただろうな。一瞬だったのかな。気の毒に。

ほかにも「気の毒」なひとたちはたくさんいる訳だけれど、
それについて、大統領はどう思っているのだろう
(03年2月2日)


 秋に某「超大物」老政治家の講演を聴いた。「(某政府外郭組織の)データ隠しはけしからん。こそこそやるな」という主旨の話からはじまった。そして戦後に、ある法律を通過させる際、議決の直前に修正を要求し、応じなければ自分の党派は賛成しないという圧力をかけて急遽変更させて成立させたというエピソードを披瀝していた。
 こういうのはもちろん矛盾で、法律の内容について「こそこそ」と党派のかけひきで蹴たぐりみたいに操作するのは公明正大でないし、ほんらいの意味での「民主主義」ではないだろう。公然と議論すべきなのだ。
 しかし私たちは、この老政治家をなじることができるのだろうか。「退職金を二回もらう」ために公務員などになったような人が、「勇気をもて」と言っているのを聞いていると、空々しくならないだろうか。
 私たちの身辺を点検すれば、社会が変化する兆候があるのかないのかわかるはずだ。そんなものはどこにもない。と言ったほうがよい。「ユーザー」より「ユーザ」と言うほうが「進歩的」だというのと同次元の、青臭い進歩性しか見あたらない。「意味」はあるかもしれないが「価値」はないのだ。
(02年12月29,30日)


 これはほとんど誰でも思っているようなことだから、くどくどとは書かない が、北朝鮮がやった拉致事件というのは、とてもいやな感じを受 けた。ほんとはわからないし、北朝鮮当局の言とは裏腹にどこかで生存している可能性もゼロではないが、どうせ殺されたのだろうと想像した。百歩譲っても、殺された
に等しい
悲惨な境遇に置かれたのだろう。そう感じた
 しかし、マスコミ・メディアによる小泉首相への批判は、ただの付和雷同で 無責任な感じがした。拉致された人々の家族が同じことを言うのは理解できる としても、だ。それなら今後どうするのですか、と尋ねられたら、マスコミの 連中はなんと答えるのだろうか。拉致問題の真相を追及しろというのが精一杯
ではないか。
 社会的・政治的な事件には、自分が直面しているのと同じ実感と、まったく無関係な人の実感の、 両方の立場を同時に保持してみるべきなのではないか。どんな事件でも、 二つの立場から下す判断の中間のどこかに落としどころがある。
 昨日、数人の日本人とひとりのイギリス人と会話していて、そんなことを思 った。
(02年9月29-30日)


 私はいくつかのホームページをつくっている。
 ちょうど1年前にそれらの構造をみなおして、一部はアドレスを変更した。
 同時にアクセスカウントも再開したのだが、ひとつは八千数百、ひとつは、五千数百・・・・・。 1年間で一万を超すサイトはない。

 このサイトはカウントをとっていないが、メールの数などから推定すれば、年間で千人前後だろう。私の気力や能力を反映したものと受けとめている。

 もともとは、どちらかと言えば日常生活をはみだしたところで思うことがあって、このホームページをはじめた。
 他人が思っていること、特に多数の人が思っていることと同じことを書くのなら、わざわざホームページをつくる気にならなかっただろう。
 だから、最初から多数の人がみてくれるとか賛同してくれるなどと思ってもいなかったが、内容を更新せず、閲覧者が増えもしないのは、自分の怠慢だ。

 この際、蛇足を書けば、「新風街通信」の名称は、私のなかの二面性を意味している。<新風街>は、十三歳まで過ごした、映画「神の子たち」を連想させるような京浜工業地帯の貧民街や、現在まいもどって過ごしている、同じエリアの、不況下の町工場地帯を体現している。 風街は、思春期を過ごした、知的で余裕があり、はっぴいえんどの「風街ろまん」みスいな明るさと躍動に満ちた環境を示している。実際、それは松本隆が風街と呼んだエリアそのものだったのだから。
 たぶん、「新風街」と「風街」の著しいコントラストは、どうしても私が書くものにあらわれてしまっているのではないか。

 地方の知友や、ネットで知り合った知人に、心境を知らせるために、こんなホームページをつづけてきたが、その間いろんな重要なことがあって、岐路にさしかかっていると感じている。
(02年9月8日)


 私が期待して信頼していた若い詩人が、意外なことを書くので驚いている。
たしかに十代のころのようなやみくもな「反権威主義」は生産的でないだろう。
私のような40代の者にとって、こんなスタイルは「退屈だ」と言える。
なんでも自分の頭だけで思考して判断するのは、ほとんど不可能だ。
医者に行けば、特に難病の場合、医者を信用するしかない場合は多いだろう。
ここまでは私なりに理解できるし、同意すると言ってよい。

 しかしほんとうに、権威=信用 だろうか?

医者はどんな場合でも完全だろうか?
特に不祥事をおかした医者だけを想定しているわけでない。

 まして理工系の私のように、自分の専門分野で「権威」ある「先生」どうしが愚にも付かぬ論争ばかりしているのをさんざん見させられてきた者にとって、この詩人の主張は受け入れがたい。

 権威を支えている根拠を、時に、あるいは稀に疑うべきではないだろうか。
 健全な懐疑心は必要だ。

 権威が自分を否定すれば自我防衛的に「反権威」になり、逆に都合がよければ 権威を利用する、そんなご都合主義者ばかりがこの世にいるわけではない。
 
 私たちに必要なのは、反権威でもなければ、権威を目指すことでもない。
バランス感覚だ。
信用などは、そのあとで勝手についてきてくれる。

 同人誌をつくったが売れなくて部屋にため込んでも、思わぬなりゆきで単行本になって印税がはいってきても、商業文壇で成功しても、吉増剛造のように、「詩」のラジオ番組でナレートしても、それはプロセスだ。
 重要なのはやっぱり中身だ。
そのあとでどのように結実させるかは、社会が決めることではない。
自分の不断の努力と思弁だ。
(02年9月2-3日)


 私の漠然とした「政治経済情勢予測」では、今年度の後半あたり、景気はもっとひどくなるだろう。その根拠は、現在の日本政府の、少なくとも表向きの方針が、公的機関の「リストラ」を先にやり、本格的な景気対策を後回しにするものだからだ。メディアもそれに追随し、付和雷同している。私の考えでは、順序が逆だと思う。
 アメリカ政府は、そのことの不毛さに気づいているが、日本に下手な刺激を与える恐れと、自国の行政の不手際を考慮して、思案しているようにみえる。
 中国脅威論のような観点は興味深いものではあるが、世界経済総体のなかでは、まだ部分的な意味しかないのではないか。長期的にみれば、先進国の地位がすこしずつ地盤沈下しているということは言える。

(02年8月25日)


 季節のない街に生まれ
 風のない丘に育ち
 夢のない家を出て
 愛のない人に会う

 泉谷しげるの「春夏秋冬」の冒頭部分だが、古いテープを数回聴きながら書き取った。
歌詞や漢字が正確かどうかわからない。

 先月、新宿のtalkで、シオンがこの唄をカバーしているビデオを視聴することができた。
ひどい話だけど、聴きながら「あれ、これ誰の唄だっけ」と考えてしまった。
同席人に教えてもらったのだが、そういえば、泉谷を聴きこんだことはなかったなあ。
若い頃、自分の隠れたフォーク志向を抑圧してしまった結果なのだろう。
俺もこの唄と同じで、全然余裕がなかった。
そしていまも。

 シオンのカバーは印象的だった。
一人旅のスピリット。
16年ぶりに会ったシオンはとても穏やかだった。

(02年7月6日)


 高校生のとき、「園芸部」というのをやっていた。
一時期、校舎の増改築やらで花壇や耕地がなくなり、利用できそうな場所はどこも耕そうとした。
特に花が好きだったというわけではないが、植物は好きだったし、今でも好きだ。

 報道では、河川敷で野菜などをつくっているのを、<東京都>が撤去したという。
確かに「河川法」とか、法律には違反しているのかもしれない。
しかし、格段の不都合があるとも思えなかった。
個人が公共地を私物化するのがけしからん、というのなら、<東京都>が場所を貸して家庭菜園をやらせてあげればよい。物置小屋が水害の際被害を増幅するというのは屁理屈な気がするが、そうだとしてもやりようはあるはずだ。

 こんな融通がきかない役人はどこにでもいる。
それだけでなく、管理することが彼らの好みであり、主観的な存在根拠にもなっているのだ。

(02年6月2日)


こんな、燃えるような夕日は、
めったにみたことがありませんでした

太陽は、光のハローで、
なにもかも、ごまかしてしまいそうです

ひとの様々な可能性
様々なひとの相違
様々なひとの共通点

だけども、ひとびとは同時に太陽を見ることができる
とんでもないことではないでしょうか

(02年5月28日)



 俺は雨宿りの場所をさがしてんのさ
 雨がこれ以上激しくなる前に安全な場所に隠れたいんだ
 ばかでかい広告宣伝板は未だに何かを買え買えってうるさいぜ
 街のBGMは無責任なことばっか言ってうるさいぜ
 安っぽい楽観論や「ポジティブです」ってやつがうるさいぜ
 およそおめでたい嘘っぱちにはファックオフって言ってやるんだ
 俺達をうんざりさせるマス・プロダクションは
 こんな時代になっているっていうのに
 いまだに何もなかった振りをして闇雲に突っ走れって言いやがる
 一つの神話やら歴史ってやつが終わったってことを知らないのか?
 それとも 一つの神話やら歴史ってやつが終わったからって
 現実の時間や生活は続くってことを知らないのか?

            カオリンタウミ『RAMBLING IN THE RAIN』より

 俺もそう思う、などと安易にはいえない。
だけども、俺も似たような詩を書いては、破り捨てたような気がしてしまうのだ。

 この詩人は亡くなるまえにマディ・ストーン・アクセルと名乗っていた。
(02年5月15日)


 「言葉を失っていると感じているなら、それは言葉を失っているんじゃない。
  ソウルだ。」 
               
木村ユウ「リリカル?」より

 俺らの世代でAこれくらいのことを言える奴はいないのだろうか。
 俺らの世代には、福田和也とか大塚英志のような優れた批評家はいても、優れた詩人や優れた散文家はいないのか。
 そんなはずはない。
(02年5月6日)


 たしかに、谷川俊太郎の詩は、「倫理的でないこと」を意識的に主題にえらんでいる。日常的なことがテーマになっている。生まれた時、父親(谷川徹三)は、「猿の子」と思ったのだという。子供の頃、父親とあまりコミュニケーションがなかったそうだ。 エディプス・・・・が希薄なのだろう。そういうふうに言えば、私もそれに近いと言える。が、谷川俊太郎の詩を読んで作詞を始めた友部正人や中島みゆきは、「師匠」よりも、内省的な作業にエネルギーをつかっているようにみえる。
 日常の繰り返しについての感覚がひとによって違うからで、これは、どんな兄弟や友達がいたかとか、どんな恋愛をしたかとかにも、大きく依存する。
 それでも、その繰り返しを受け入れなければいけないし、そのなかで、ちいさな変化を味わうことを知らなければいけない。ああ、俺ってなんてだめなんだろう!
(02年4月28日)


 カジュアルウェアという言葉は、「ふだん着」の意味だろう。
だから、casualという英単語は、「ふだんの」とか「日常的な」という 意味かと思っていたが、必ずしもそうではないようだ。
 英和辞典で引くと、「不定期の」、「臨時の」、「偶然の」というよう な意味があることがわかる。「日常的な」のつもりだと、「普通の」という ニュアンスを含むかのように思いかねないが、むしろ逆のニュアンスを もつ場合があることを知った。

 こんなことがすごく気になった。
「非常のこと」が、なりゆきで
「平常のこと」になることが、よくあるからだろう。
(02年4月2日)


 俺みたいな、温厚で、たくさんの人の前ではしどろもどろの小心者でも、時には、相手をひどく傷つける口汚い発言をすることを知った。相手が売ってきたケンカだから、「心から謝りたい」などと言えば嘘になる。しかし、後味がわるいことは、いかんともしがたい。
 そのせいか、昨日から体調を崩し、ひどくだるい。
(02年3月29日)


 説教がましいのは嫌いだ。
 倫理や法をつくることができるのは、強者だ。
 倫理や法をダンビラのように振りかざすのは、強者による弱い者いじめだ。
 でなければ、強者どうしの勢力争いだ

 昔から、心のどこかで漠然とそう感じてきた。
先日オーストラリアに行って、すこし考え方が変わった。

 電車の乗車料金は、学生や未成年では極めて安くなっている。
 そのかわり、車内に「学生や子供は立っていなさい。あるいは、大人とおなじ料金を払って座りなさい。」と掲示されていた。

 日本も同じようにすればよい。と思った。
学校の道徳教育にも教科書問題にもあまり興味がわかない。
 上で述べた、強者の論理の押しつけに思えるからだ。
 実際、道徳だのなんだのと言っている人種に限って、電車の中で人を押しのけたり、座席で股をひろげて座ったりしている。
 若者に道徳が欠けるとすれば、大人の実態の反映に過ぎない。
 それよりも、オーストラリアのような、社会的な「道徳教育」のほうが、自然で嫌みがなくていいな。と思った。
 どうみても、オーストラリアのほうが人の心は豊かだオ、何事もオープンに思えた。
(02年3月11日)


 
いままで、影響を受けつつも距離を置いていた、ふたりの評論家について....

 週刊ポスト(2月22日号)での、大前研一のコラムを読んで、「そうなんだよなあ」と思った。
家計が苦しいからと言って、昼食代を節約してもほとんど意味がない。
出費を削減するなら、
 1.子供の教育費
 2.住宅の購入費
 3.老後の蓄え
の三つを対象にしろ、ということだ。
 大前さんのように、そのことをビジネスにおける問題解決と結びつけて述べるのは、私には恥ずかしくてできない。でも、たしかに、いまの日本の社会では、この三つにこだわればこだわるほど、心の自在さは喪われていくような気がする。こだわるから、つまらない社会になっている。といったほうが正確かもしれない。

 『立花隆「嘘八百」の研究』という本が、別冊宝島Realの027号として、本屋の店頭にならんでいた。「嘘八百」は言い過ぎだろう。イントロで、編集部という組織が立花隆という個人をこきおろすのは、まったく感心しない。無責任で党派的だ。この本の最後に小さく書かれてある、編集局長、編集長および編集の三名が責任をとるのだと解釈しておく。
 だが、本文は、おもしろい内容ではある。いま読んでいるところだ。
(02年2月24日)


 先月、ジョージ・ハリスンが亡くなった。

 個人的には、思春期にずいぶんお世話になった。が、それだけでなく、ほんとうは様々な音楽に象徴的な足跡をのこしたひとなのではないだろうか。
 日本の新聞を読んでも、静かなビートル(ズ)とかなんとか、過小にあつかわれていると思った。日本語の新聞がつまらないので、英字新聞を買ってみたら、多少は大きくあつかわれていたが、関係者の儀礼的な談話ばかりで、型どおりの内容でしかなかった。
 だが、少なくともロック音楽は、ジョージ・ハリスンの前と後では、まるでちがっている。それ以前の、プレスリーを思いだしても、世界はアメリカとヨーロッパとでしか成り立っていないみたいな、閉じられた感じしか受けない。選挙に出たがっている独善的な音楽評論家には申し訳ないが、はっきりいってしまえば、プレスリー等は陳腐化している。ジョージ・ハリスンが、欧米仕立ての感性の壁をこじあける役目を担ったのは明らかだろう。1970年当時は<ニューロック>なんて言葉もあった。
 私は、たいした知識も造詣もないので、でしゃばったことを述べる気はないが、「パッセージズ/Passages」の解説では、現代音楽も共通する課題をもっていることが示唆されている。
 ジョージ・ハリスンも、欧米の旋律をもっと徹底的にくずしていくことには強い抵抗を感じていたらしいことを、いちおう付言しておく。いまのアメリカ人の過半は、まだ欧米中心主義で、ジョージ・ハリスンの地平にも達していない。
(02年1月13,14日)


車いすで移動している浮浪者をみかけた。

いろんな、相矛盾する感想が、脳裏のあちこちをよぎる。

たいへんだろうな。
 そうでもないんじゃないか。
ひとは平等にはできていない。
 平等感は人の本性だ。
おどろいた。
  いままでの流れの延長に過ぎない。

言葉がもうすぐ、なくなってしまう。

   今年の冬が、厳冬にならないように....

(01年12月 3日)


17000円も払って、「谷川俊太郎全詩集」のCDを買った。
「癒着した胸の空洞から・・・」
だけども、私にはなにも聞こえない。
私の伯父が、いやいやながら戦争に行ったように、私も、生命と交換できるものがなにかを知らない。

たしかなことは、より具体的な描像をもつものが大切だと思っていることくらいだろう。

食券よりラーメン
計画より結果
国家より社会
ブランドより感性
お金より気持ちのよさ


1日の晩、NHKで、シオンのライブをやっていた。
15年くらい前のメジャーデビューのころに戻ったみたいで、なんだかよかった。
さすがに、指輪をたくさんはめたりはしてなかった。
シャイなところは相変わらずで、そのへんだけは、ちょっと私に似ているかと、思いだしたりした。
十数年前、夜明けちかい街のなかで、「シオンさん」なんて手を振って、お互いに照れくさい思いをしたような...
(01年11月23日)


 つめたい風が、なにもかも、すっきりさせようとしている。
 気持ちよい感じだ。

 ふだん、孤立を避けている者が、急にたたかおうったって、無理なのです。
 よりそったり、ひとつの方向だけに気を遣うのでなく、一人で、自分自身がもっている価値観や倫理観について、
底のほうから考えなおさなければいけないのです。
 社会通念や慣習をも疑わなければないのです。

 そしてもっと、自分を客観的にみなければいけないです。

 そのためにこそ、野性が必要なのです。
(01年11月10日)
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