■しかしてその実態は?・・・・■
  足尾銅山周辺の鉄・軌道と索道(大正5年)


1.松木街道の古地図

 精錬所前から銅親水公園に向かい松木街道を散策中、ふと、下のような古地図を示した案内板が目に付いた。そこには、「足尾商業案内便覧図復刻委員会・・・」と記されていた。
松木街道案内板の古地図
 この古地図では、右側が北となっており、
 ■左下が本山駅や古河橋、右隣が精錬所(4本煙突)。
 ■左上に本山坑がある。
 ■右端の図外が、銅親水公園方面(松木渓谷)
 ■地図には坑外軌道を示すもの、索道(鉄索)を示すものが見える。
 この地図を入手できれば、足尾周辺の鉄軌道・索道の全貌に迫れるかも知れない・・・・。達磨小僧は、光明を得た。
 その後、足尾町内の一商店でこの地図が入手できることが分かり現地へ赴いた。その地図とは、
 ■「復刻版 足尾町商業案内便覽圖(地番入)」
   1992年4月20日発行 足尾町商業案内便覧図復刻委員会
   原本は、大正5年4月20日発行の同図である。
 ■足尾町中心部を5千8百分の1でカバーしている。
 ■サイズはほぼA0版、3色刷りの精緻なもの。
  足尾の最盛期大正5年(人口3万8千余)を伺い知ることができる。
 ■地図には、
   ・鉄道及び停車場
   ・鉱石運搬電車線路
   ・鉄道客馬車及び貨物運搬用線路
   ・玉村式鉄索
   ・坑道、坑内電車運搬通路
   等や(古河)会社家屋と一般家屋の区分が記載されている。
 ■裏面は、「足尾町實商業大勉強家便覽付足尾附近商業家」。


2.沿革

1)坑外軌道の歴史
 足尾銅山(古河鉱業・足尾鉱業所)はわが国屈指の銅山として長い歴史を持つ。
明治期に入り近代鉱山としての整備が始まるといち早く輸送手段として鉄道が利用され足尾鉄道が足尾本山に到達する遥か以前の
明治25年ごろには足尾各地区に坑外軌道網が整備された。主な路線としては、
  ・足尾(渡良瀬)−沢入(水運を利用して桐生方面へ)
  ・足尾(渡良瀬)−地蔵坂(架空索道で細尾峠を越え日光方面へ)
が存在し、軌間は、初期にドコービルを導入したことから610mmであった。
動力は、初期に馬力、
明治24年には一部区間を電化、大正末期にはガソリン機関車(通称ガソリンカー)が投入された。戦時中も、ガソリン統制にめげず発生炉(代燃装置)を搭載して運転を続けたが、自動車の急速な普及に伴い昭和29年には廃止されたという。
(文献21)
(2)大正5年の鉄・軌道
(3)大正5年の索道

(4)所見
■足尾線開通後であり、細尾方面への軌道・索道は廃止後と思われる。
■軌道は、通洞−足尾間で途切れている。
■間藤−本山(現在の松木街道踏切)および足尾駅北方2箇所で軌道と
  足尾線が交差している箇所の交差方法は?
■索道は極めて規模が大きく坑外運搬手段の主力であったと思われる。
■銀山平−利根間(直線で8kmくらい)にも索道があった。

3.現在の状況

<A地点:小滝坑>
小滝坑口のこるトラス橋。案内板には昭和6年架橋とある。構造上も他の桁に比べれば新しい。かつては、坑内軌道がこの上を渡っていた。坑外軌道はこの地区まで達していたが、急勾配の山道に併設された軌道をどのようによじ登っていたのだろうか。
(2004.7)
<A地点:小滝坑>
頑丈な鉄扉で閉じられた坑口。本山・通洞・小滝の3坑口から掘進した坑道は、備前楯山内で連絡していた。
(2004.7)
<A地点:小滝坑>
坑口に置かれた転倒式の鉱車。昭和29年に閉坑されるまで最盛期は人口1万を擁する地区であったことなどまったく想像できないほど周辺は静まりかえっている。
(2004.7)
<足尾駅北方>
「渡良瀬橋」に並行してパイプラインを通す橋梁。B地点の桁とほぼ同一構造。架橋時期、軌道との関連は不明。前出の古地図(以下古地図)では、軌道は「渡良瀬橋」上に敷設され、その先の車庫で途切れている。地蔵坂(細尾)方面はこのルートの延長上にあったものと想像される。
(2002.11)
<B地点 足尾ー間藤>
松木川を渡るトラス橋。右側にはわたらせ渓谷鐡道の第一松木川橋梁がある。桁はピン結合の古典的なものだが架橋時期、軌道が渡っていたかどうかも不明。古地図では、木橋の記号が記されている。
(2004.7)
<B地点 足尾ー間藤>
幅員はかなり狭く現在は歩道として利用されている。
(2004.7)
<B地点 足尾ー間藤>
第一松木川橋梁。鉄塔式橋脚は19世紀製の輸入品をいずこからか流用したものということで、歴史的鋼橋の一つに挙げられている。軌道は、写真左側でアンダークロスしていたものと思われる。
(2004.7)
<古河橋>
足尾線廃線上から見る古河橋。足尾駅方面に向かう坑外軌道は、橋を渡り右折して松木街道上を進んでいたと思われる。この附近は、馬車軌道(後にガソリンカー)と鉱石電車軌道の結節点だったと思われる。
(2003.5)
<C地点 本山坑>
さわやかな夏空と対比を見せる廃墟。かつてこの場所に、多くの人々、軌道車輌が蝟集して採掘が営まれていたなどということはまったく想像ができない。
(2004.7)
<C地点 本山坑>
古河橋方面を見る。左の道は水平に精錬所上部へ、右の道は急勾配を下って古河橋へ向かう。この両方の道に軌道が併設されていたと思われる。左の道は、立ち入り禁止である。
(2004.7)
<C地点 本山坑>
上の写真から右の道を古河橋へ向かったところ。ガードレールの道が精錬所上部へ向かうルート。こんな山肌にへばりつくような場所に電車庫があったのだろうか?
(2004.7)
<D地点 精錬所−廃石所>
松木街道から対岸上方に見える華奢なスパンドレルブレーストアーチの鉄橋。軌道時代のものかは不明。現在は松木川上流からの導水管が通っている。精錬所上部の軌道ルートのはこの場所で谷を渡って廃石所へ向かったと思われる。古地図によると電車区間であり橋梁の記号がある。
(2003.5)
<D地点 精錬所−廃石所>
尾根一つ上流側にはプラットトラス(上路)の鉄橋が見える。やはり華奢な作りで現在は導水管が通っている。前後には石材で法面を補強した築堤が見える。
(2003.5)
<D地点 精錬所−廃石所>
古地図に「高原木長屋」と記された箇所および廃石所付近を俯瞰したものと思われる写真を示した案内板。右下が廃石所と思われる。精錬所方面に向かう黒い線は線路かはたまた道路か?
(2003.5)
<D地点 精錬所−廃石所>
銅親水公園展望台から見た「高原木長屋」および廃石所跡と思われる箇所。奥が精錬所方面。なお、公園からこの地区への進入はできない。遠望する限りでは鉄道はおろか建物の痕跡すらないが、唯一電柱のみがここに「何かがあった」ことを教えてくれている。古地図では、ここが軌道の最北端である。
(2003.5)
<松木ダムの上流側>
平成元年訪問時には近くへ寄れなかったが現在では、銅親水公園の遊歩道を通ってここまで来ることができる。やはり、導水管が通っている。トラス桁は足尾駅北方及びB地点のものと酷似している。古地図ではこの地点に軌道はない。
(2003.5)
<中禅寺湖 半月山>
晴天時には足尾地区をはるかに見下ろす半月山の観光道路駐車場に坑内で使用されたと思われる1t角鉱車が3両展示されている。
(2004.6)

4.あとがき

 一枚の地図を得て謎のほんの一端には触れることができたが、60年以上にわたる軌道の歴史の中での変遷、残された構造物や遺構と軌道の関連などまったく解き明かすことができていない。時間という壁の厚さを思い知らされる。しかし、タイムマシンのような資料に出会うことを祈りつつ今回の調査はここまでとする。ご覧いただいた方には消化不良でまことに申し訳なく思う。

 本サイトは足尾に関し自然の大切さや資本家と民衆といった視点を投げかけることは本意ではない。ただ、鉄道という視点から足尾に目を向けていただき興味を持っていただければ幸甚である。



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更新    2004.11.24 古地図から得た情報と現地調査から全面見直し。
作成    2004.6.8
写真撮影 2003.5,2004.7

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