Alternative Views》 2001年5月16日、5月26日、7月23日

涙の許容字体と字形設計方針

内田明 <uchida@happy.email.ne.jp>

昭和56年10月1日付の官報号外88号で公布され即日発効した「人名用漢字許容字体」のうち、「当分の間用いることができる」とされた“旧字体”あるいは“いわゆる康煕字典体”であって、JIS X 0213:2000 のおかげで符号レベルで常用漢字と区別できるようになった字体の一つに、「涙」があります。

JIS X 0213:2000 の規格票が例示している1面86区83点の「涙」は、旁の下半分が「犬」であり、旁の上半分(「戸」のようなカタチのところ)が《ノコノ》型[《ノコノ》型参考図]になっていて、「人名用」の参考欄も《ノコノ》型、「康煕字典」の参考欄が《一コノ》[《一コノ》型参考図]型になっています。

宮城県立図書館で昭和56年10月1日付の官報号外88号を確認してみたところ、当時の大蔵省印刷局活字で刷られた“旧字体”あるいは“いわゆる康煕字典体”の「涙」は、規格票が“人名用”の参考欄で示している《ノコノ》型ではなく、《一コノ》型になっていました。

《一コノ》型と《ノコノ》型の違いが“字体”の差であり《一コノ》型のみが人名用に許容される字体であるというならば、JIS X 0213:2000 が掲げる例示字形は「人名用漢字許容字体」としては不適当であり、わたくしは、同規格の目的に適うよう、旧字体あるいは康煕字典体であって人名用に許容されているところの「涙」を《一コノ》型にデザインしなければなりません。この違いが“デザイン差”であるならば、《一コノ》型でも《ノコノ》型でも構わないということになります。

確認のため、JIS X 0213:2000 が参考情報として掲げている4種の漢和辞典・字典を眺めたところ、参照字体としてすら見出し文字に《一コノ》型を掲げるものは無く、すべて《ノコノ》型を正字としていました。辞典の付録として掲げられている「人名用漢字」においても、《ノコノ》型の「涙」が許容字体とされています。

更に、基本的に“新字体”ではない漢字の字典である次の3冊も調べてみました。

『新修漢和大字典』は、見出し文字の字形が《一コノ》型で、熟語見出しや解説文を記した本文の字形が《ノコノ》型という印刷になっていました。『修訂増補詳解漢和大字典』は見出しも本文も《ノコノ》型で、『標注訂正康熙字典』は見出しも本文も《一コノ》型でした。

規範の類がこうした状況である一方、民間の明朝体活字の歴史を総覧するような記述を行なっている、文化庁文化部国語課『明朝体活字字形一覧 1820年〜1946年』(大蔵省印刷局、1999年、ISBN4-17-414500-8)を眺めると、1946年に生まれた“朝日文字”及び“諸橋大漢和”だけが《ノコノ》型であって、他は例外なく《一コノ》型の字形で「涙」が表現されています。

ほんとうのところ、官報で告示された「人名用漢字許容字体」は、2つの字を共に許容しているのでしょうか。JIS X 0213:2000 は、1面86区83点の符号位置について、2つの字の“デザイン差”を許容しているのでしょうか。

この問いを前に、Kandata 2.01.0402 においてわたくしは、“JIS X 0213:2000 への適合性の観点からはデザイン差と見てよいはずだ”という判断をしました。その上で、積極的にどちらかの型を選ぶということを諦め、府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房、2001年、ISBN4-7601-1997-3)の例示字形に倣い、1面86区83点の「涙」を《ノコノ》型に作りました。

全般に、“拡張新字体”や“拡張旧字体”を作ってしまうことを避け、《本邦の明朝体活字の歴史の中で実際に一般に通用していた字形を尊重すること》を基本方針にしよう、そのために《『明朝体活字字形一覧』で優勢かどうか》を大きな根拠にしよう、その補助として(あくまで補助として)『旧字旧かな入門』を頼ることにしよう――と心に決めようとした矢先に、このような特例を作ってしまったことが良かったのかどうか。1ヶ月以上を経た現在も、大きな迷いを引きずっています。

ひょっとすると、「涙」についてのみ、しかも「涙」の第4画についてのみ拘泥するのは、かなり間抜けなことなのでしょうか。

Kandata 2.01.0402 制作に際して私が下した判断、並びに、字形設計についての上記の方針に関する、ご意見ご感想、ご指導ご鞭撻を賜れれば幸いです。


2001年5月26日追記

1

わたくしの疑問は、JIS X 0213:2000 に関する疑問でありますが、“国語政策方面”への疑問の方が大きいとも言えます。

ちなみに、現在販売されている『常用漢字表 現代仮名遣い 外来語の表記 (付 人名用漢字)』(編集発行大蔵省印刷局、平成4年7月6日初版、平成10年6月25日3刷、ISBN4-17-214503-5)では、常用漢字表の本表において括弧書きしている『いわゆる康熙字典体』の例示字形が《ノコノ》型の大蔵省印刷局活字で示され、人名用漢字許容字体表の『当分の間用いることができる字体』の例示字形が《一コノ》型の大蔵省印刷局活字で示されています。

この不一致は、件の官報でも同様であるように見えます。

康熙字典の字形が《一コノ》型であることや、『明朝体活字字形一覧 1820年〜1946年』を見る限り《本邦の明朝体活字の歴史の中で実際に一般に通用していた》“旧字体”の字形が《一コノ》型だったようであることから考えると、『いわゆる康熙字典体』も“かつて使われていた字体であって今後も当分の間用いることができる”「涙」も、共に《一コノ》型に作るのが適当であるに違いないと思うのですが、ほんとうに、ほんとうのところは、どうなのでしょう。

ともあれ、やはり、「涙」についてのみ、しかも「涙」の第4画についてのみ拘泥するのは、かなり間抜けなことなのでしょうか。

2

ちょっと昔に印刷され綴じられた紙の束において、同一字体の実現字形に揺らぎがある――ということと、ちょっと昔の印刷界において字形についての“規範”意識があったか無かったかということの間には、違いがあると思うのです。

明朝体活字字形としての規範はあったのか、無かったのか。あったとすると、どのような形だったのか。

やっぱり、「涙」についてのみ、しかも「涙」の第4画についてのみ拘泥するのは、かなり間抜けなことなのでしょうね。

3

わたくしが、たまたま出会った「涙」の第4画に拘っているのは、敬愛する『旧字旧かな入門』へのバグレポートも兼ねているからでもあります。同書18ページに曰く:

ここでは、新字体に対応する旧字体の一覧表を示し、旧字体とはどのようなものかを具体的に見ることができるようにしました。この一覧表の作成にあたっては、『明朝体活字字形一覧 一八二〇年-一九四六年』(平成十一年、文化庁文化部国語課)を参照し、実際に作られてきた活字の形がどのようであったかを根拠とし、字形にばらつきがある場合には優勢なものを選ぶという方針をとりました。

――とのことなので、少なくとも「涙」はバグである、と。

7月23日付追記

築地電子活版の小池さんよりお教え頂いたところによると、X0213の1面86区83点は、“包摂除外”を定めた規格票を文字通りに解釈し、「常用漢字表のカッコ内字」である《ノコノ》型[《ノコノ》型参考図]を意図しているものと受け取るべきであるようです。(「常用漢字のカッコ内字」と「人名用漢字のカッコ外字」との齟齬について法務省の見解が明解でなかったために、WG2での議論を経た後、政令文字であるこれらの文字を符号化するため、字種として「人名用漢字のカッコ外字」をほぼ含む「常用漢字のカッコ内字」が優先され、これに「常用漢字のカッコ内字」に見えない「人名用漢字のカッコ外字」を追加した字種を、さしあたり『人名許容・康煕別掲』と呼称することになったとのこと。)

また、『旧字旧かな入門』が「旧字体」を見い出した基準としては、『明朝体活字字形一覧 一八二〇年-一九四六年』に収められていない“ポイント活字”によって明らかとなる大正〜昭和期の字体の変遷(整理)を勘案した上で、部分字体に「戸」を含む字形の扱いが決定されており、「涙」は単純なバグではないとのことでした。

小池さん、また5月16日版に言及いただいたみなさん、どうもありがとうございました。