ここで、育児日記が始まる前、陽太が生まれたときのことを書き留めておこう
(忘却の彼方に消えてしまう前に)。
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それは、99年10月21日(木曜日)のこと。
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はじまり |
以前から教えられていた予定日は10月16日だが、すでに4日過ぎた。予定日なら二人の結婚記念日でちょうどよかったのだが、生命活動がそう単純に割り切れるわけがない。
この週の火曜日の検診に行ったみーは「予定日を2週間過ぎると胎盤の機能が弱ってしまうらしい。そこで、あと10日間過ぎたら強制的に入院させられてしまい、陣痛促進剤とか帝王切開で産むようになるんだって」と、ショックを受けている様子。なぜか、順調に自然分娩で生まれるものと信じていたおめでたい二人は、それもなんだかなぁ、と想像すると不安な気分になったのだ。そこで、二人ともこのころは毎日お腹に向かって「早く出ておいで」と、声をかけていた。
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午前2時10分(10月20日深夜) 自宅 |
宵っ張りな二人は、前日眠りについたのが1時半くらい。まだ寝入りばなのところ。横で寝ているみーが、「あいたた」というのをぼんやりと聞いた。妊娠も末期になると胎動が多く、また力強くなるため、ここのところこういったことは別に珍しくない。いつもならそのまま眠ってしまうところだったが、続いて「痛い!」と大きな声を出したので、「ん?」と少し覚醒した。すると続いて「あ、破水した」という。ここで、眠い頭で一瞬状況を考える。そして「お、いよいよか」と思ってむっくりと起き上がる。自分でも比較的落ち着いていたのは、寝たばかりで感覚的には前日の夜の延長だったせいかもしれない。みーは「いま『ボンッ』っていう大きな音がしたよ」という。残念ながら外までは聞こえなかった。
幸い、破水は大したことはなく、自分で歩ける状態。みーが杉山医院に状況を電話をすると、「入院しましょう」とのこと。そこでみーは服を着替え、身近な持ち物の用意をしている間に、私はスケボーに乗って駐車場まで車を取りに行く(このとき時計を確認し、2時25分)。入院用の荷物はすでに大きなバッグに荷造りしてあった。戻ってこれを積み込み、みーを乗せて出発。みーは後部座席にバスタオルを敷いて、横になっている。まだ痛みはないようだ。通い慣れている道ではあるが、夜の道をゆっくり慎重に運転する。「いよいよだねー」と話しながら、暗い車の中で何か新しいことの始まりのような気がしたものだ。甲州街道でUターンするときも、対向車は来なかったが、慎重にと信号が変わるまで待っていた。
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午前3時15分 杉山医院 |
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とりあえず、入院記念の一枚。まだまだ余裕 |
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お産のテキストを読む。この後のことを考えると、このころはまだ序の口だった |
杉山医院に着くと、ちょうど一瞬先に駐車場に入った車がいた。どうやら、ほとんど同じタイミングで先客が来たらしい。先にその人が診察になったので、待ち合わせに二人で腰掛けて待っていると、みーに最初の陣痛がやってきた。このとき3時30分。昼はけっこう賑わっている産科さんなのだが、夜は静かなもので、1Fには助産婦さんと看護婦さん1人ずつくらいしかいない。先客が診察を終え2Fに上がっていったあと、みーが診察。破水が大したことはないので、このまま自然分娩で時間を待つことになる。ほっと一安心。最初の診断では子宮口は3センチ程度。ちょうど希望していた和室がふさがっていたので、しばらくは心音を測定するための狭い部屋(いまから思えば窓もない納戸みたいなところ)に臨時で入ることになる。このころ4時くらい。
みーは「陣痛が始まると、いままでの痛みと違うからすぐわかるっていうけど、ほんとうにわかるわ」といって、ベッドに横になっている。もちろん私にはさっぱりわからない。痛いといっても、このころは間隔は20〜15分くらい。その合間に病院が以前くれた「お産のためのテキスト」を読む余裕もある。私は横に座って、陣痛の間隔を時計で計りながら、まずは記念にベッドに横たわるみーの写真を撮る。お腹に胎児の心音を撮るための装置を付け、モニターからそのグラフが打ち出されてくる。これは、赤ちゃんがお産のストレスに耐えられるかを調べるためらしい。赤ちゃんの心拍数はだいたい130〜140くらいで安定しているが、たまに160〜180くらいまで速くなったりする。この後、しばらくは15分間隔での陣痛が続き、私は時計で計り、痛いときには腰をさすってあげていたが、そのうち強烈に眠気が襲ってきた。このころが一番眠かった。
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午前8時30分 狭い部屋 |
このころ部屋に診察に来た看護婦さんが、「子宮口柔らかいですねー。初産だったら2〜3時間で生まれるでしょうに」というので、みーが「えー、昼までには産みたいんですけど」(まだこんなことしゃべれる余裕があった)というと、看護婦さんはにっこり笑って「ええ、明るいうちには生まれるでしょう」とあっさりと答えてくれた。これは実に的を射た回答であったのだが、みーはこの状態がまだ半日も続くと思って、落胆していた。
朝食が運ばれてきたが、みーは「食べる気がしない」という。そこで、もったいないので代わりに私がいただく。朝からいわしの丸干し2匹、昆布の煮物、マカロニサラダ、ノリ、ご飯、ヨーグルト、ミカン、牛乳とまるで旅館の朝食のよう。さすが入院費高いだけある(^ ^;)。一食浮いたので、私はラッキー。ヨーグルトとミカン、牛乳はみーのために置いておくが、結局食べなかった。このころ陣痛間隔は5分くらいになってきており、みーもかなりきつくなってきていた。私はほかにやることもないので、みーの腰をさすり続け、陣痛間隔を計るくらい。9時半になり、お医者さんが登院してきたので、みーは診察してもらいに診察室に行く。
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午前10時30分 陣痛室 |
陣痛室のみー。そんな部屋があるとは思ってもみなかった |
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そろそろ辛い。言葉少なで、顔も蒼白 |
みーが診察に行き、かなり時間がたった。看護婦さんが呼びに来たので、私は「いよいよか!」と思って行ったら、カーテンで仕切られたスペースがあり、そこのイスにみーが座っていた。そのときはてっきり勘違いしたのだが、後から聞いたらこれはまだ分娩ではなく陣痛のためのスペースだったのだ。子宮口は5センチくらいまでは開いてきたそう。このままいけば昼頃も夢じゃないかな、と思った私もやはり甘かった。1Fの公衆電話から会社に電話をして、「休みます」と伝えて戻る。
ここではお腹にセンサーを付け、陣痛の強さがモニターに映し出されるようになっている。おそらく筋肉が収縮するときの電気を拾っているのだろうが、痛がるみーには悪いが、これは見ていて面白い。グラフの下のほうで平坦だったモニターの線がぐぐーっと上がっていき、レベルの100までいって、しばらくしたらまた緩やかに落ちてくる、ちょうど富士山のような波形を描く。これを4〜5分ごとに繰り返す。たまに100まで行かない弱い陣痛もある。看護婦さんに「この100ってのはどういう数値ですか?」と聞いたら、「子供を産める最大の陣痛の強さです」といってくれたのだが、具体的にどういう数値なのかは教えてくれなかった。たぶん、看護婦さん自身もよくわかっていないのかもしれない。陣痛の山が来るときはみーの手を握っている。
みーは座っているのが辛くなり、いろいろ体位を変えていたが、看護婦さんが陣痛用のイス(座面がドーナツ状で前に肘置きのある背の高いロッキングチェアみたいなもの)を持ってきてくれ、それからみーはしばらくはほとんどこれに座っていることになった。このころ陣痛は4分間隔程度になってきたが、あいかわらず子宮口は5センチから進展しない。みーは、脂汗をかいて痛みに耐えている。緊張しているせいか唇も紫色だ。ときどき水差しの水を口にして唇をしめらす。1時間くらい陣痛室にいたが、埒があかないので、再び部屋に戻ることになった。「あまり痛いときは注射がありますから、言ってくださいね」と看護婦さんが教えてくれる。
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午前11時30分 二人部屋 |
しかし、ここからが本番だった。ひとり部屋がまだ空かないので、とりあえずその隣の二人部屋に移してもらう。これには、正直言ってほっとした。みーはそれどころじゃなかったかもしれないが、私は納戸のような場所に6時間くらいもいたので、窓があり日当たりのいい広い部屋は天国のようだった。高い入院費払って(こればっかだけど)、肝心の出産日をずっと息苦しい部屋に押し込められていたんじゃ、文句をいってやろうかと思っていたくらいだ。
みーは痛みがさらにきつくなってきて、口を開くのも大変そうだ。部屋に運んだイスに座ってうなだれている。痛みの時の「ヒッヒッフー」という呼吸も、声になって出てしまう。これが断末魔のようなか細い声。看護婦さんに「声を出すと疲れますよ」と言われているので、私も「声にしないで」と言葉をかけるのだが、それどころじゃないらしい。せっかくなので、持ってきたCDラジカセで、PLUS時代の友人、郁ちゃんの初CD「Building」をかけてあげる。一言でいえば、いま話題の“ヒーリング系”の音楽なのだが、果たしてみーの耳には聴こえているのかどうか(後で聞いたら「ちゃんと聴こえてたよ」といっていた)。私はといえば、ずっと腰をさすり続けているので、右手のひらがヒリヒリと痛くなってきた。ハンカチ大のタオルを当てて両手を交互に使ってさするようにした。お昼前の天気予報を見ると、いい天気だ。ここ1週間くらいはずっと晴天の予報が並んでいる。まさに「陽太」の名前にふさわしいかも(これは名前を決めた後からのこじつけ)。
すぐに昼食の時間になる。が、みーはとてもじゃないけど食べられる状態ではない。ここで、あまりに辛いので、みーが疲れて一息入れたいということで、看護婦さんに頼んで注射を打ってもらう。この注射は、痛みを和らげるものではないそうだが(陣痛がなくなるといけないので)、痛みの合間にリラックスでき、多少体力が回復できるようになるという。実際、注射のあと腰をさすりながら見ていると、陣痛の合間にすうっと眠り、軽い寝息をかいている(しかし、本人は寝たことを意識していなかったらしい)。付き添っているほうも、この間は少しほっとする。この状態が1時間くらい続いた。郁ちゃんのCDを3回くらいリピートする間に、そろそろ陣痛間隔は3分ってところになってきた。CDをボサノバに変えて流し続ける。みーがうとうとしている合間に、私がまたみーの昼食をいただく。お昼はエビフライ3匹で、すごいボリューム。女性で全部平らげられる人はそう多くはないんじゃないかと思うほど。うーん、食事はすごいんだよな。
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午後2時00分 母親到着 |
みーが少し落ち着いて、こちらも一息ついているころ、永代のお母さんがやってきた。平日で仕事のはずなので、こちらはちょっとびっくりしたが、聞くと、同僚たちが「いいよ、行って来なよ」と言ってくれて、お昼から抜けてきたそうだ。ここで、私はみーの付き添いをお母さんにまかせ、少し外の空気を吸いに行く。腰をさすり続けたので、右手は手のひらがピリピリと神経が電気を発しているようだ。
杉山医院は京王線の代田橋、甲州街道を渡った北側にあるのだが、代田橋自体は小さな街だ。病院の近くを少し回ってみるが、小さな飲食店と商店が何軒かあるだけだ。お店の中では「はしや」というスパゲティ屋が少しは有名なのかな。出産後、みーが入院している間に2回ほどいったことがあるが、まあおいしかった。あとは、小さなラーメン屋とか定食屋、赤提灯の焼鳥屋くらいしかない。
少し歩いて気分転換したが、やはり落ち着かなかったので、すぐにみーの部屋にもどる。お母さんが、みーの腰や足の裏を一生懸命マッサージしてくれている。しかし、けっこう強く揉んでいるので、端から見てるとかえって痛くないのかとも思ったりした。早朝から来た私は、そろそろ時間切れだ。何がっていうと、前日の朝から風呂に入っていないため、頭が痒くなり、顔も油っぽくなって自分の体が気持ち悪いのだ。この時点で、まだしばらくかかりそうだったので、いったん家に戻ってシャワーを浴びてこようかとも思ったが、こういうのって、いなくなったとたんに生まれたりするからなぁと思い、結局そのまま居続けた。果たしてこれが正解だった。
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午後3時30分 分娩室へ |
部屋を移ってから、何度か看護婦さんが検診に来てくれるのだが、あいかわらず5センチからほとんど進展しない状態が続いていた。3時のおやつにお汁粉がでてきた(ほんとに食事はいいんだよな)が、当然誰も手を着けられない。そのうち、みーはどうにも耐えきれなくなり、「早く産みたーい」という泣き言も出てきた。それがピークに達した3時半ごろ、見かねて私が看護婦さんを呼びに行った。部屋での内診のあと、いよいよ分娩室に移ることになった。脇を看護婦さんに抱えられ、NASAの宇宙人みたいな状態で出ていく。
みーが分娩室で前準備をしているころ(これは私は知らない)、私は看護婦さんに呼ばれ「これを着てください」ということで、白衣と帽子を渡される。やったーと思い部屋で着替え、呼ばれるのを待って部屋や廊下でうろうろしている。一度カーテン越しに声をかけたら、「まだっ!」と看護婦さんとみーから同時に返事されてしまった。おとなしく部屋で待っていると、ようやく「ご主人どうぞ」と看護婦さんが呼びに来た。いざ、いそいそと分娩室へ。
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つづく 次回、感動のクライマックス
(出産時は直截的な描写もありますので、未成年の方や心臓の弱い方はご遠慮ください(^ ^;))

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