あっと驚く映画企画 〜『瑞雲』の物語〜

autumn@piedey.co.jp オータム

 モデルグラフィクス誌上で、アニメファン的な視点から、あっという事件が起きた。
 それは、宮崎駿が、心の中に暖めていながら実現することができなかった幻の映画企画に関する話が誌上に載ったためだ。
 これは、水上偵察機『瑞雲』を主役メカに配したもので、『瑞雲』の元搭乗員のインタビュー記事と模型製作記事の後に、さりげなく1ページだけ掲載されていた。

 『瑞雲』とは、太平洋戦争末期に生産、使用された水上偵察機である。「水上機」とは、水に浮くフロートを胴体の下に装備して、水面からの離発着を可能にした航空機である。ちなみに、紅の豚のサボイアS21は「飛行艇」と呼ばれ、水上機とは呼ばれない。これは、胴体そのものが着水時に浮力を持つ形態のためだ。「水上機」は通常、胴体の他にフロートと呼ばれる浮力を持たせる部分を持つ。「偵察機」とは、もちろん、空中から敵の状況を調べる任務を持った航空機である。水上偵察機とは、つまり、偵察機の任務をこなすための水上機である。しかしながら、旧日本海軍での水上偵察機は、ただ単に水面から離発着するだけでなく、戦艦や巡洋艦上に設置された火薬式のカタパルから射出される使い方も想定されている。
 なお、似て非なるものに、水上観測機なる機種がある。これは、任務が『偵察』ではなく、戦艦や巡洋艦の発射した砲弾が目標に正しく落下しているかどうかを上空から『観測』するための機体である。

 さて、旧日本海軍では水上機というカテゴリーが、他国に比べ異常に発達していた。これは、南方の島々を含む広大な戦場で戦わざるを得ない状況に陥りながら、土木工事能力が著しく劣り、飛行場を容易に整備できないことが理由であった。アメリカならブルドーザーを持ち込んで、あっという間に整地して航空機の離発着を可能にするところを、旧日本軍は機械力を利用せず人力で土木工事を行っていたのである。これでは、急速に展開する戦線に適応することなど、できよう筈もない。その結果、とりあえず広い海があれば運用できる水上機が重用されることになった。零式つまり昭和15年制式採用の水上観測機などは、観測機でありながら、敵戦闘機に観測を妨害された場合を想定してある程度の空戦能力を持たされていた。その考え方の延長線上として、有名な戦闘機『零戦』にフロートを付けた水上戦闘機『2式水戦』という機体まで開発し、運用した。フロートは空気抵抗も大きく重量も馬鹿にならないので、それを付ければ性能は低下してしまう。しかし、どんな場所にもすぐに展開できる便利さは、そのデメリットを抱えても有り余るメリットであった。この考え方は、その後、陸上機の改設計ではなく、最初から水上戦闘機としての性能に特化した専用機体の開発に進み、これが『強風』と呼ばれる機体として完成する。水上戦闘機として最初から設計された機体は、世界にも他に例がないと言われている。
 このような思想の流れの中にあって、旧日本海軍では、水上機は水上機だから低性能でも構わないと考えるのではなく、より高性能、多目的を目指す考え方が主流となっていた。
 そこで、新しい水上偵察機として開発された『瑞雲』にも、高度な要求が盛り込まれることになった。完成した瑞雲は、偵察のみならず、爆撃任務もこなせる、美しく先進的な機体となった。
 しかしながら、いかに高性能であろうと、完成したのは太平洋戦争末期であり、既に兵器の性能で戦争の流れを変えられる時期は過ぎ去っていた。

 さて、『瑞雲』とはそのような経緯を持った機体であるという前提で、宮崎駿の映画構想を見てみよう。
 あらすじを簡単に書くと、映画の冒頭で、南の島に被弾した『瑞雲』が不時着する。胴体の下には爆弾があるが、後席搭乗員は死亡しており、パイロットだけが生き延びている。島には村があり、パイロットも村に来るように村人が勧めるが、パイロットはそれを聞き入れない。パイロットは『瑞雲』を修理する。それに、村長の娘が食事を運ぶ。そして、修理が完了したとき、パイロットは任務を果たすべく飛び立つべきなのか、それとも、村に残り村長の娘と結ばれるべきなのか。どのような決着を付けても納得が行かないということで、映画にできないというのが宮崎駿の言葉である。
 これは、ある種の究極の選択であろう。戦争反対を叫ぶのはたやすい。しかし、現に自国が戦争を遂行中で、母国に毎日のように爆弾が落ちている状況で、ただ戦争反対と叫んで、戦いを放棄して良いのだろうか? 同胞を救うために努力することを放棄することは、倫理的に間違った行為ではないのか? では、同胞に落ちる爆弾を少しでも減らすために、敵艦隊を攻撃すれば良いのだろうか? それは、敵の兵士を殺傷することとイコールだ。敵兵にも家族があろう。それに、たった1機で攻撃を仕掛けたところで、戦争の成り行きはほとんど変わらないだろう。むしろ、返り討ちにあって自分が死ぬ確率も高い。生きてさえいれば、もっと様々な貢献ができるかもしれないのに、死ねばそれで終わりだ。そんな無謀な攻撃で無駄死にすることは、同胞への裏切りと言えるかも知れない。しかし、だからと言って、少しでも戦う手段があるにも関わらず、それを使わないのは、同胞への裏切りのように感じられるかも知れない。つまり、堂々巡りである。

 もちろん、最初から戦争をしなければいい、と言うのはたやすい。宮崎駿自身、そんなことは、はなから承知だろう。だが、世の中は単純ではない。現実に戦争は行われているし、日本人がその当事者に立たされないと言う保証は何もない。その時、この映画と同じようなジレンマに立たされることも無いとは言いきれない。
 では、そのとき、あなたは、どう判断するのだろうか?

写真の模型について
 すまん。未完成品である。モノはフジミの1/72瑞雲11型初期型だ。ダイブブレーキの穴をピンバイスで貫通させている他は、普通に作っている。

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