「風の谷のナウシカ」 〜 癒しの未来

春生 文(UMF48651@pcvan.or.jp)
Illustrated by たけしのたけし


 母に愛されなかった娘、母に可愛がられなかった娘は良い母親になることが出来ない、とは、良く言われることです。実際、幼児虐待のケースなどで母親自身がそう告白することが多いようですが、女性に限らず、良いお手本を持てなかった場合、人は無軌道になりやすいのかもしれません。
 ともかく、その身にたまった毒のせいで子のほとんどを亡くし、ようやく一人得られた娘、ナウシカを、ナウシカの母は愛さなかった。
 死の匂いのする母。生を単純でいたいけな喜びと共に享受せず、虚無の中に捕らわれた母。そんな母を間近に育ったナウシカには、やはり良い母親になることは出来ないのでしょうか。

 本当に強靭な人間ならば、良い雛形など得られなくとも、自身の力によって立つことも出来るのではないでしょうか。
 女が、その過去において幸福な子どもではなかったとしても、明日、とか、未来とかいう言葉を、素直にそのままの意味で受け止めることが出来るなら、子どもを持つこともそれほどの脅威ではありません。過ちは繰り返されやすいからこそ、繰り返さぬように努めねばならないのです。明日や、未来といった言葉は、「今のようにはならないこと」を前提として初めて、立つ言葉です。

 ナウシカには、「わたしの子どもたちはみな、とても元気です」と、あの笑顔で言ってほしかった。言える日を、持ってほしかったのです。
 森に生きるナウシカの子ども、国の主として生きるナウシカの子ども。彼女の愛を受けた男たちのすべての子どもたちと共に、世界は「明日」を得る…。
 悲しい娘は、幸せな母としてしか、生まれ変わることは出来ないから。

 女の幸せ、てなんなんでしょう。
 愛する男と結ばれて子どもをもうけ、幸福な家庭の安らぎを得ること、なんでしょうか。そう考えると、家庭の安らぎそのものがゴールのように受け取られてしまうかもしれませんが、じつは、家庭の安らぎというものの中にある本質こそが、ゴールとされているのだとわたしは思います。
 つまりは、存在の肯定ではないかと。
 家庭を持つ、子どもを持つ、ということは、最低でも一人の人間には人として認められ、人として愛された証明になりえます。非常に「まっすぐ」であることを前提とした理屈ですけれど、とりあえず家庭を持つことで、人はある程度「安定」することが出来ますよね。存在が、「母」としてであれ、「大黒柱」としてであれ、なんらかの形で肯定されるわけですから。
 だけどそこで、「たった一人の人間にたった一つの存在(あるいは二、三のバリエーションを保つことを約束されたとしても)として肯定される」ということの是非が出てくるんじゃないか、と思うんです。つまり、「妻」でなかったり、「母」でなかったり、あるいはもっと性格的な事柄も含め、「たった一人の人間によってしか読み解かれることのない書物」としてしか生きられないのは、息苦しいことかもしれない、ということ。
 時の権力者が多くの愛人を持ち、多くの女に子どもを産ませた背景というものの一端には、「より多く読み解かれるべき書物としての」権力者という指向があったのかな、と思うわけです。つまり、わたしにとってナウシカという女性は、まあ、権力者というではないにしても、「もっと多く読み解かれてゆくべき」人物ではないかと、そういうふうに感じられるんですね。

 森の人セルムにとって、ナウシカというひとは、どこか弱々しく、しかしどこまでも飛んでゆける力強い命に溢れた、鳥のような女性なのかもしれない。
 そしてアスベルにとっては、抱きしめた時の温かな鼓動そのものの喜び、なのかもわからない。
 愛する男たちの過去や思いにしたがって、ナウシカという女性の意味も変化してゆくんですね。
 そして、たった一人の男にしか愛されなかったら、その女の意味は、その男の思いの通りにしか読み解かれてゆかないのです。女という存在をひとつの肥よくな大地であるとすれば、埋められたただ一つの種によってしか、樹木を育てることが出来ないというのと、同じこと。もっと多くの可能性、もっと多くの命。それをはぐくみ、生み出す力と、より多くの命のみなもととなるにふさわしい大地。そしてほうぼうから読み解かれ、一つの巨大な世界樹となって記憶に残ってゆく女神のような女。
 それがつまりナウシカではないかと、わたしは思うんです。

 愛されたという実感を持てないまま大人になると、世界全体が、ひどくよそよそしい感じをもって、自分を「ただ」見ている、という感覚に襲われることがあるのではないでしょうか。世界は「ただ」自分を乗せて回っているに過ぎず、この命がどうなろうと知ったこっちゃないんだ、とでもいうような。
 けれども、例えば「家庭」のような小さな枠組みの中でひどく愛された経験を持てたのだとしても、一歩外に出ていってみたとき、そこに広がる世界はやはり、よそよそしいものに過ぎないかもしれない。
 どのみち、他人は誰もはじめから自分の味方ではないし、世界は「ただ」、乗せて回ってくれているに過ぎないんですね。
 けれどもそこで初めて、さびしい子どもは解放されるのではないかと、わたしは思っているんです。五感の意識を高めて空を見上げ、寝そべったとき、自分に対して好意的な生命だけを、感じとることが出来ます。それはもの言わぬ生命ですが、世界中に溢れているものです…。例えば目に見えるものならば星であるとか、そうでなければ、季節の変わり目の空気の匂いのようなもの。自分にとって好ましく、好ましく美しいと感じることによって関わりを持つことが出来るすべての世界。それらがみんな、さびしい子どもの味方になってくれるんですね。

 ナウシカと、世界というものの関わり方は、さびしい子どものそれと同じです。いったん、すべてから拒絶され、すべてを拒絶したところから始まる、深い洞察と友愛。それは肉の身を越えた、生命としての感覚です。
 そうなると、もはや、肉の身としての解放など無意味なのかもしれないんですが、そこへいってしまうと、ナウシカは本当に「意識のひと」になってしまって、あの原作のエンディングみたいになってしまうんじゃないか、と思うんです。実際、あの作品から受ける感覚として、わたしにとってナウシカは「意識のひと」で、あんまり子どもを産んだりしなさそうだな、ていうのはあるんですけど。つまり、簡単に言うと「超越自我」みたいなものでしょうか。
 もっとも、「超越自我」でありながら、具体的にがんがん行動を起こしていっちゃうところが、ナウシカのすごいところなんだと思いますけど。
 その調子でがんがん子どもも産んでくれるといいな、と思うんですね。

 女にとって「ああ、この人の子どもを産んでもいいな」という感覚っていうのはあんまり理屈ではなくて、単に優れてるから、とか、逆にすごく好きだから、とか、そういうふうに単純には言い切れないものがあるんですね。
 でも、ナウシカほどの人ですから、「産んでもいいな」ぐらいに思わせるアプローチをする男がものすごくたくさんいたっていいし、そのために自分を高めてくっていうのも、アリじゃないかと。
 そうしてナウシカには、大地としてたくさんの命の源になってってほしいな、て思うんですね。
 だって、何人いるか定かでないたくさんの夫たちと、それぞれに物語を持って、それぞれに子どもを持って、それぞれ別々の形の愛情を共有するというのは理想かもしれない。嫉妬とか、そういうものを考慮しないのはあまりに絵空事的かもわからないですけど(ギリシャの神々だって嫉妬しますから)、本当の神というのは、もしかしたらそういうものかもしれないですよね。
 つまり、殺しあったり、空に突き抜ける塔を建てようとしたり、そういう過ちを侵さないような子どもたちの父であり母。
 そうなるともしかして、まっとうな子どもたちを産み育てることの出来る人間は、すべて「本当の神」なのかもしれないですよね。
 すべての人間が「超越自我」的に生きることが出来るようになると、ほんとはもう、生まれた瞬間から親なんていうものは要らなくて、ただ、世界に対する感じ方のありようだけなんだと思います。重要なのは。
 こう、空を見上げるだけで、一気に成層圏を突き抜けてくくらいまで意識を飛ばせる人には、ちっぽけな不幸せとか、どうでもいいわけだから。

 結局、人を「癒す」のは、限定されたいくつかの「肯定」ではなくて、意識の広がりそのものなんじゃないかとわたしは思うんです。
 つまり、世界そのものを自分が肯定する能力、いや「肯定する資格」を持っていることに気づける力、というのか…。
 わかりにくい話になってしまいましたけど。

 原始の力というのは結局、見えないものを見る力のことなんだと。
 ナウシカのこだわりのないたくさんの子どもたちが空に舞うとき、そこに初めて、新しい意識とか、新しい生命とか、そういうものが生まれていくんじゃないのかな、と。

 心の中にものすごく気持ちのいい風を感じながら、…思ったりするんです。


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