何がナウシカの幸せか!?

オータム(SVD85360@pcvan.or.jp)


 この原稿を書くにあたって、LDで「耳をすませば」を見ました。ああ、何度も見ても、これはいい! じゃなくて。1年単位で映画を作る環境にあっては、ナウシカ完結と「耳をすませば」製作は、ほぼ同時といってよく、「耳をすませば」が何かヒントになるのではないかと思って見たのですが、結局、何も分かりませんでした。はい^^;。

 ナウシカの結末では、ナウシカは、オーマ、セルムと緊密な共同関係を持って、事態を打開(墓所を破壊)したわけです。ここには、物語前半に、ナウシカと共に苦楽を共にした、ミト、ユパ、クシャナ、アスベルらは、ナウシカの行動とは直接関係がない物語の中にあって、出来事をナウシカと共有していない訳です。
 しかも、何があったのか、出来事の真相を伝えようともしないわけです。
 このことから言えば、ナウシカとこれら前半の仲間達との真の心の交流は、不可能になったと言えるのではないかと思います。
 もし、ナウシカの幸せが、「心の底から信じあえる仲間がいること」だとすれば、これは永遠に失われたと思います。
 ここで、セルム(または森の人)との人間関係を想定して、彼との間で、嘘をつかない信頼関係を想定することはできるのですが、立脚する生活環境があまりに違うので、心の底から安らぎ合う関係にはならないような気がします。
 というわけで、他の何かを「ナウシカの幸せ」としないと、どうも、ナウシカの幸せというものを考えられません。

 突然話は変わりますが。大海嘯以後のナウシカは、それまでのナウシカと同一人物とは思えません。もしかしたら、大海嘯以後のナウシカが何者であるかを、考察し、そのナウシカにとっての幸せを考えた方が良いのかもしれません。

 ということで、大海嘯前後のナウシカの違いを、以下のように仮定してみます。

  1. 自我の境界が不明確になった
     一部の他者の心が日常的に見えるようになり、ナウシカはそれ(他者の心が見えること)を平然と受け入れるようになったことです。

  2. 目先の問題より構造問題
     目の前の困った人達に心を砕くことがなくなり、それよりも、悲劇の源を垂れ流す墓所の破壊が至上目的となり、オーマも蟲使いも、ナウシカの目的に(真相を知らずに)参加することになっていて、彼ら自身の救いにはなっていません。ただし、精神的に救われた、という見方は可能でしょう。

 以上の2点が、新ナウシカの特徴であるとするなら、このように考えられないでしょうか。

 2に関しては、墓所の破壊によって、満足を達成したと言えますので、その意味では「幸せ」でしょう。

 問題は、1になります。ナウシカ自身は、自分の他人の境界が曖昧になったために、ナウシカ本人の「幸せ」というよりも、森の人や、心を持つ腐海の者達を含む全体的な安心感こそが、「幸せ」なのかもしれません。とすれば、人間的な「幸せ」ではない、と言ってしまっても良いのかも知れません。
 とすれば、「ナウシカが子を産む」というシチュエーションの意味づけが変わってしまいます。というのは、「ナウシカが子を産む」というのは、ナウシカの個人的な幸せであると常識的には考えてしまうのですが、新ナウシカの性格を考えると、「心を共有する者達の総体を、より良い方向に向かわせるための手段となる子を産む」という可能性も、あながち否定できないと思うわけです。

 こんなことを考えていると、ナウシカの幸せとは、以下のように定義することができます。

「より良く生きたいと願い、世界を憂い、心で会話をする能力を持った者達の総体の幸せ」

 ここでは、「心で会話をする能力を持った者達」という部分が、世界に生きているすべての者達とイコールでないために、一種の特権階級とみなす考え方もあると思いますが、この問題には触れません。

 さて、それでは、この者達の幸せとはなんでしょうか?

 このままで行けば、腐海と汚染地帯は消滅の運命にあります。森の人も清浄の地では生きられません。ですから、「そのときには、何とかなっているかも知れない」というあやふやな期待感を別にすれば、未来は暗黒でしかありません。
 結局のところ、彼らに幸せがあるとすれば、自らの滅びと引き替えに、後に続く者達(人類とは限らない)の繁栄の場を提供する、ということでしかないわけです。

 では、本当に、自らの滅びと引き替えに、新しい清浄の地を残せたら、本当に幸せなのでしょうか?

 これは、生きている者が持つ生存本能、子孫を残そうとする本能に逆らった行為であり、不自然と見ることができると思います。ということは、彼らの幸せとは、本能ではなく、頭で考えたものであり、一種の宗教的な考え方と見ても良いと思います。
 もし、これが一種の宗教であるとすれば、教義の陳腐化、つまり、時代の変化によって、ある時代には適切であった教義が、新しい時代に不適切になるという状況が起こります。たとえば、森の人の子孫が、本当に腐海が消滅する時になって、ナウシカ時代の教義のままに生きるとは限らないわけです。

 結局のところ、今の時点での彼らの幸せとは、信じることしか無いのかもしれません。
 とすれば、ナウシカは、自分の行為と決断の正当性と、望むべき未来を信じることが、幸せである、と考えることができます。

 ああ。暗い。暗い内容でごめんなさい。
 オマケとして、もう一個付けます。

 墓所を破壊して数日。ようやく落ち着きを取り戻したナウシカは、もはや、心での会話ができない自分に気付いた。まるで自分ではない何者かが乗り移って、オーマを操り、墓所を破壊し去ったようにも思える。なぜ、墓所を破壊したのか、理由も覚えていない。墓所で何を聞いたかも覚えていない。だが、自分の行った破壊に慄然とするナウシカ。しかし、それは、本来の自分を取り戻した証明でもあった。ナウシカは教祖のように敬われることを断固として拒否し、復興を手助けするボランティアの先頭に立って、現場で働き続けた。信じあえる仲間達に囲まれて人としての幸せな一生を終える。

おわり


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