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朝、おねぇちゃんの部屋を出る。リユックをしよってバス停まで歩く私はすでに世界をさまよう旅人だ。
「あんた、すごいね。ヨーロッパの若者は、ほんと、そんなリュックしょって旅してるわ。あんた、ほんまもんのバックパッカーやね」と、おねぇちゃんは言う。そういうおねぇちゃんは、かわいそうに、仕事の資料を詰め込んだ重いトランクを引きずっている。
「これ、覚えてない?志賀高原に行くのに買ってもらったリュック。ママがちゃんとしまってたんだよ」
「へぇぇ。そうやった? さすが母さん、物持ちええね。そんで、私は何に荷物を入れて行ってたんやったつけ?」
「おねぇちゃんはボストンパックだったよ。ママは私がまだちっちやいから、荷物をなくしたりしないように、リュックをしょわせたんだよ」
「あんたがまだちっちやいから、そんなすごいリュックをしょわせてたん?さすが母さん、変わってるわ。ちっちやいあんたにそんなものを選ぶ母さんも母さんやけど、しよってくあんたもあんたやね。あんたら変わった親子やわ」
おねぇちゃんはきやきやきやと笑うが、私に言わせれぱ、あんたとママが変わった親子なんだよ。
バスが来た。空港までは十分足らずで着くだろう。まったくおねぇちゃんはいい場所に暮らしている。
大阪空港から成田へ。
「成田へ着いたら、フジカワさんが待ってるかもしれへん」
フジカワさんというのはおねぇちゃんのコーラス関係の知り合いだ。なにしろおねぇちゃんの初ヨーロッパ旅行というのは、国際親善コーラス団の一員としての参加だったのだ。それは、ヨーロッパの各地、各教会を渡り歩いて歌いまくる、という趣向のものだったらしい。ザルツプルクのモーツァルトの生家の前で歌った時には、お金を投げてくれる人まで出て困ったという話もある。そんな「変り者」のおねぇちゃんには、会社以外にもいろいろ知り合いがいる。さて、フジカワさんはJALに勤めていて、大阪から東京に転勤になってしまった。東京に転勤になっても、在阪のコーラスグルーブの毎夏の旅行には参加していて、その時の写真を渡す約東なんだと言う。
「帰りに待ってるのかもしれへん。でも、とにかく、フジカワさんが手を回してくれて、私たち、もしかしたら、ビジネスクラスでいけるかもしれへんよ」
成田に、フジカワさんの姿はなかった。しかしその手は回っていた。私たちはディスカウントチケットで、なんとJALビジネスクラスの快適空の旅。あまりの快適さに、私は少なくとも七度、「フジカワさん、ありがとう」と、まだ見ぬフジカワさんに手を合わせたほどだ。隣ではおねぇちゃんが、さっそくウサギを作っている。
「オカワリハ、イカガデスカァ」と外国人スチュワーデスさんの注いでくれるワインを、私は少し飲みすぎたらしい。やがて私は深い眠りに落ちていった。もともと私は、離陸の瞬間ガックリ眠くなるといううまく出来た身体を持っているんだけど。
ふと目覚めると、おねぇちゃんも眠っている。「私、飛行機、あかんねん。寝られへんねん」と言っていたおねぇちゃんだけれど、さすがに疲れていたんだろう。おねぇちゃん、早くその目の下のクマをとって、ルーブルを楽しもうね。
ド・ゴール空港に着く。入国審査のおにいちゃんに、パスポートと入国カードを渡す。すると、「パスポートなんて要らねえ。カードだけ置いて、さっさと行け」と怒る。パスポートなんて見てもくれない。もちろん入国スタンプなんて押してくれやしない。そういえば、前もそうだった。
「何、この、お手軽入国は?」と、おねぇちゃんも眼をグルグルさせる。そういう国なんだねえ。実にラフな国だ。
おねぇちゃんは当座のお金を両替に行く。それから私たちはターンテーブルのそばのベンチに腰掛けて、荷物が出てくるのを待つ。
「あっ、あれかな?」
「違うな」
「なんか、赤いのが出てくると、あんたのリュックかなと思うわ」
「それにしても、なんか、寒くない? これが百五十年ぶりの猛暑なんか?」
「さっき、両替に行った時にさ、出迎えの人が喋ってるのを聞いたんだけど、確かに暑かったんだって、咋日まで。今日から涼しくなったんだって」
「へえ。いい時に来たんやな。あっ、あれ?」
「違う違う。あっ、あれは?」
「おねぇちゃん、いくらなんでも私のリュックはあんなにちっこくないよ」
「そやね、いくらなんでもね」
「いや、ちょっと待って。やっぱり、あれだ!」
私は走りだす。ターンテーブルの横に立っていたおじさんが、
「これ?」と言って、リュックをすくいあげてくれた。おお、私のかわいい相棒よ。大きなトランクケースたちに混じると、なんと、こじんまりと、なんとかわいらしいのでしょう。
まもなく出てきたおねぇちゃんのトランクも取って、私たちは空港を後にする。
「おねぇちゃん、こっちこっち」
「うん。パリは、あんたに任せたわよ」
私をパリガイドに任命するなんて、おねぇちゃんもいい度胸をしてるじゃないか。
「この出口を出ると、NAVETTEという無料バスが、……あ、あった」
なにしろ予算二万では市内までタクシーに乗るなどという賛沢は許されないのだ。
「これでどこ行くん?」
「工一ル・ウー・工一ル(RER)、パリ郊外電車の空港駅まで」
「あんた、すっごく予習したんやねぇ」
おねぇちゃんはちょっと感心している。そりゃそうよ。あんたは実の妹が完壁主義者だということを知らんのか。
空港駅に着く。
「そんで、これでどこ行くん?」
「パリ・ノール(北)駅まで」
私たちは運賃表を見上げて北駅を捜す。
「ノール?ノルド、じゃないの?」と、先に<NORD>の文字を発見したおねぇちゃんが、この語学の出来ない馬鹿妹が、というような軽蔑のまなざしを向けてくる。
「ノールでいいんだよ。フランス人は晟後の文字なんてろくに読まないんだから」と私は訴えるが、おねえちゃんは、
「へえ。ま、とにかく、パリはあんたに任せたわ」と、まったく信用していない口振りで言って、顎で私を窓口に促す。よし。切符を買うぞ。
「プール・ガール・ドゥ・ノール(北駅まで)。ドゥ(二枚)!」と叫んで百フラン札を山すと、切符二枚とお釣りが44フラン戻ってきた。振り返ると、おねぇちゃんが嬉しそうな顔をして、
「通じたやないの」と言う。ふん、そりゃあ、いくら馬鹿妹でもこのぐらいは出来るというものさ。
郊外電車にごとんごとん揺られて、パリまで。車内はがら空き。少し雨が降っている。雲が重くたれこめた、いわゆるパリの空、ってやつ。途中、ダンガリーシャツにジーンズといういでたちのおにいさんが乗ってきて、そんなラフなスタイルではあるけれど、首にさげたカバンを見ると、どうやら車掌さんらしい。車掌さんは何かわめき散らしている、乗客はほとんど無視してるけど?
「なあにをわめいてんだろ」
「なんか、金払え、って言ってるみたいよ」
なるほど、向こう側に座っているおぱあちゃんがお金を払い出した。
「あ、そういえば、この車両、外に『1』って書いてあった」
それがどうした、という顔をおねぇちゃんがする。
「そして、私たちの切符には『2』と書いてある」
「えっ、じゃあ私たち、二等料金で」等車に乗ってるの?」
「うん。工一ル・ウー・工一ルの一等二等にっいてはどのガイドブックも暖味で、予習のしようがなかってん」
「追加料金払わなあかんのかな」
しかし私たちの不安をよそに、次の駅で車掌さんは降りていく。
「わからんなあ」
「ええんやろ。ラフな国やから」
北駅に着いた。雨はやんでいる。<22℃>の字が見える。涼しいはずだ。日本はここんとこ、連日37度だった。
「駅を出て、右に行く。すると、マジェンタ通りという大きな道にぶちあたり」
「あんた、ほんとによく予習してるわ。よっぽどヒマやったんやね」と、おねぇちゃんは誉めたような、馬鹿にしたような言い方をする。
「あった。あれだ。あのホテルだよ」
「ボンジュール」と、私はフロントのおにいさんに声をかける。とりあえず、無視。下を向いて何かしている。まったくパリの安宿のフロントマンときたら愛想がない。それでもこのホテルは日本で予約出来るんだから、星有りのましなホテルなんだ。
「ボンジュール」私はもう一度言う。おにいさんは初めて気が付いたというように顔をあげ、
「オゥ。ボンジュール」と言う。白々しいやつめ。私はバウチャーを渡す、おにいさんがキーをくれて、部屋は二階だと言う。部屋番号は101、でも二階。確かにここは異国の地だあ。宿泊カードを書いていると、「フロントのおにいさんのお友達」てな感じのおじさんが現れて、このおじさんは妙に機嫌良く、英語でおねぇちやんに話しかけてくる。カードを書き終えて、おにいさんはエレーターで上がれと言ってるようだけど、どれ?どれがエレベーターなの?指さされた方へ行ってはみたけどわからない。私たちがまよまよしてるのにフロントのおにいさんは、やはり無視。気のいい「お友達」おじさんが来て、ドアを開けてくれる。ああ、これ、エレベーターのドアだったのか、倉庫かなんかのドアかと思ったよ。
私たちはホテルの部屋でちょっと休憩。その後、晩ご飯を食べかたがた北駅界隈にとって返す。さっきは気が付かなかったけれど、北駅というのは素暗らしい建築物だ。駅というよりは芸術作品だ。この、立ち並ぶ彫像群は、なんなの、いったい。
私たちはさっそく売店で絵ハガキを物色する。
「あった、北駅」
「なあ、せっかくやから、北駅の絵ハガキで、家に手紙出そうよ」
「うん、そうしよう、そうしよう」
「北駅のはこれしかないみたい。あとはエツフェル塔とか、凱旋門とか」
「それ、でもほかのに比べて高いな。5フランもする」
「でも、まだ行ってないとこので出してもしゃあないもんなあ」
つつましい姉妹は大枚5フラン、つまり95円を支払って絵ハガキを買う。その辺のカウンターでちょいちょいと到着の報告を書く。次は切手を買わなきゃあ。駅の近くに郵便局があるはず。私はフランス語会話集を出して、通り掛かったおばちゃんを呼び止め、
「ウ・工・ル・ビュロー・ドゥ・ボスト(郵便周はどこですか)?」と尋ねてみる。するとおばちゃんは何か、尋ね返してきた。どうやら、捜しているのは郵便局か、ポストか、と言ってるらしい。返事にまごついていると、おばちゃんは、
「ラ」と、前方を指さし、「ラ。ラ。ラ」と言いながら去ってゆく。
「ラ?」
おねぇちゃんと私は、おばちゃんの指さした方を見つめる。そこには、ちょこんと、ポストが。
「ラ、じゃあなくてぇ」
「そうかあ。おまえ、『ラ』なのかあ。女の子なんだね」
私は黄色いポストをナゼナゼしてみる。まったく、どうしてこんなものに女性名詞と男性名詞の区別があるんだろ。ほんとに外国語はわからない。とにかく、もう一度、最初からやりなおしだ。今度はキャリアウーマン風女性に尋ねてみる。彼女は身振り手振りを交えて、なんだか一生懸命教えてくれる。
お礼を言って、彼女の身振り手振り通りに行ってみる。なあるほど。今、工事中なんだ。だからこんなに近いのに、入り口の場所を説明するのが大変だったんだ。
なんとか郵便局へ行き、ハガキを出す。それから通りを渉って、向かいにある『クイック』というハンバーガーショップに入る。二階の、大きな窓の横の席に座ると、そこからは北駅の正面を眺めることが出来た。
「ほおんと、北駅って、すごいねえ」
私はガイドブックを読んでみる。
「あの、屋根の上の、真ん中の彫像は、パリの女神なんだって」
「へぇぇ」
「そんで、ロンドンやフランクフルトや、いろんな都市の女神がまわりにいるんだって」
女神たちのいるガール・ドゥ・ノール。まずここからスタートだなんて、私のプランは、まあ、ほんとに完壁だったのね。
ぐっすり眠って、朝の光を感じて目覚める。私はシャワーを浴びて、星有りホテルだから湯ぶね付き。明口からはしばらく湯ぶねになんか浸かれないだろう、私はゆっくりお風呂を楽しむ。髪を乾かしながら窓から通りを眺める。マジェンタ通りを行き交う人々や車。ああ、なんて気持ち良い朝なんでしょう。
「おねぇちゃま。朝ですよ」
「おねぇちゃま。涼しくて気持ち良い朝ですよ」
「おねぇちゃま。パリの朝ですよ」
おねぇちゃんはやっと目が覚めたようだ。開ロー番、
「あんたって、元気やねえ。時差ぼけゼロなんやね」と、また誉めたような、馬鹿にしたような言い方をする。
今日のホテルは朝ご飯付き。下に降りていってテーブルにつくと、これぞパリジェンヌといったような細身で金髪のおねえさんがカフェ・オ・レやパンを運んでくれる。
「これだけ?」と、おねぇちゃんはちょっと悲しそうな顔をする。
「マーマレードも付いて、豪勢やん」
「ハムもチーズもないの?」
「フランス式朝ご飯はこんなもんです」
「あんた、ドイッに行ったらびっくりするわよ」
でもほんとは朝が弱い私には、これで充分。私たちはチェックアウトして北駅へ向かった。
構内に入る。おねぇちゃんが、
「あんたのお友達がたくさんいるやない」と言うので見てみると、バックパッカーたちがござを敷いてころがっている。
おねぇちゃんは公衆電話で、家に無事到着の連絡をする。おねぇちゃんのトランクに腰掛けて、私はあたりを眺めてみる。広々とした駅。しかも、ヴィクトル・ユーゴーが偽パスポートでベルギーに逃亡したという歴史的な駅でもある。ここから、北へ、東へ、様々な国へ行く列車が出発しているのだ。私はしばし旅情にひたる。と、
「すいません。日本の方ですか?」と、日本語の声が聞こえた。見ると、日本人の女の子たち男の子たち、そしてひとり黒人の男の子の、いかにもこれこそバックパッカーという集団が立っていた。
「そうですけど?」
するとリーダー的雰囲気の女の子が言う、
「あのう、ここは、どこでしょう?」
はっ?
「ここは、なんという駅なんでしょうか?」
なんととぼけた若者たちよ。こんなとぼけた日本の若者たちが世界を旅していたのか。あきれるような、尊敬するような。恥ずかしいような、誇らしいような。
「パリ北駅だけど、あなたたち、電車で着いたの?」
「船と、電車で」
とするとイギリスからドーヴァーを渡ってきたのかな。
「実は私たち、困ってるんです」
ほぉ。そりゃあ、このでかい駅の名前もわからぬようでは困るだろう。
「フランスに着いたんだけど、どこでも入国スタンプを押してくれなくて。で、讐察に行ったら、やっぱりそれでは困るって言われて。それで駅なら入国手続きをしてくれるだろうって、ここを教えてもらったんです」
なんと、フランス警察は、自国のラフな入国審査ぶりを知らぬのか。
「でも、どこで入国手続きをしてもらえるのかわからなくて、さっきからうろうろしてるんです」
「しなくてもいいと思うよ」と、あっさり私が言うと、今度はとぼけたバックパッカー集団が「はっ?」という顔をした。
「私は咋日、ド・ゴールに着いたけど、空港でも入国スタンプなんて、押さへんもん」
「え」
「前来た時もそうだった。私がフランスに出入国した証明は何も無い」
「え?」
するとどう見ても黒人の男の子が素晴らしい標準日本語で、
「いい加減な国なんだ。もう帰ろうよ」と言う。
「帰るかどうかはともかく、いい加減な国やから、そんなことのためにうろうろするなんて無駄やね。さっさと目的地に行きなさい」
集団は「どうする? どうする?」とうろたえる。ああ、あなたたちはやっぱりイギリスから来たのかしら。イギリスは、こんなにいい加減ではなかったでしょう。でもここは、ラフな国、フランスなのです。おねぇちゃんもいつのまにか戻ってきて、「何、何? 何事?」と嬉しそうだ。と、黒人の子が、
「だって、飛行場でさえそうなんだもの。ねぇ」とまとめて、私に礼を言って去って行く。とぼけた、たくましい、日本の若者たちよ、さようなら。かくて、北駅に住むパリの女神に見守られて、旅人たちはそれぞれの道をゆく。