鎌倉雪の下のころ おおだんともあき
新雪の下だより No.1 (1973.1.8 発行) より

「ひとむかし」
 それはふゆこが生まれた年だから、昭和34年にまちがいない。あれから、もう十四年になる。十年ひと昔とすれば、それはもう「ひと昔半」の過去になってしまったのである。
 京都にいたわたしたち一家は、突然、鎌倉へゆくことになった。生れて3ヶ月のふゆこをつれてであった。
 なつこはまだ影も形もなくて、わたしたちの家族は3人きり。知る人もいない東国におもむいたのだが、たった2年間のその鎌倉の生活が、その後のわたしたちに、さまざまのものを生み出してくれた。

「雪の下のすまい」
 住いは、鎌倉雪の下のある谷あいにあった。わたしは、この「雪の下」という地名が気に入った。好きであった。
 谷の奥の大きいオヤシキの一部をかりた。もう亡くなったその家の主人は、日本でも有名なフランス文学の学者であり、その前夫人は森鴎外の娘さんであったとのことであった。
 二階だての大きな書庫があり、階上にも幾つか部屋があって、そこは別の家族がかりていた。
 わたしたちは書庫とそれに付属した2室をかりた。わたしはこの書庫の広大さをとても好いていたが、冬の寒さは格別で、わたしの身体のためによくないと多くの人が忠告したものだった。
 わたし父親に四才十ヶ月のときに死なれて親類を転々として育ったわたしには、この雪の下の住まいは、三十年ぶりに恵まれたわが家庭の味であった。
 赤ん坊のふゆこは、この雪の下で、ハイハイをするようになり、階段をはい上る力をもち、そして大地に足をつけて歩きだすよう
になった。つまり、赤ん坊から子どもになり、われわれ人間社会に仲間入りしたのだ。

八代斌助先生
 朝8時まえに歩いて勤め先へゆき、夕方家にかえる、というまことに普通の生活を、その二年間したのだった。
 勤め先は小さな私立の学校であった。小・中・高と小さいながら一貫教育で、校長先生は三井家の一族であった。もちろんオトノサマであって、副校長がまだ三十を少し過ぎたばかりのわたしであった。
 学校なんて何も知らない。まして、小さい私立学校なんて全く無縁であったわたしを、中高部長

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で副校長といった立場において、京都から鎌倉へ赴かせたのは、八代斌助先生であった。
 任命するほうも、受けるほうも、あとから思うと「よくもまあ」とあきれるのだが、とにかくそのおかげで、わたしの人生のもっとも面白い時代がはじまったのだ。  立教大学、桃山学院(大阪)、松陰女子学院(神戸)その他十指にあまる学校と、聖ルカ病院の理事長であった八代先生は、その鎌倉の小さな学園の理事長でもあったわけで、わたしは理事長から特別に送りこまれた副校長だったのである。
 こう書くと他人ごとのようだが、世間知らずのわたしは、そんな事情なんぞ、何一つ知らない。とにかく面白い学校にしてやろうじゃないか、という一念であった。  この学校のことを書く気持ちはない。いずれ「カエルの学園」という題で、ユーモア・ノン・フィクションとでもいう新形小説を書く
つもりだ。
 鎌倉雪の下の時代に、わたしは家庭にめぐまれただけではない、多くの「人間」に出会うことができた。その第一の人が、八代斌助先生であり、先生とはその後神戸で八代学院設立の労苦を共にしたのであった。

「父ばなれ」体験
 八代先生は45年秋に亡くなられた。古稀をこえておられたのだから、年に何の不足もないが、先生の不通人とはちがった力を尊敬するものからは、八十も九十も、あるいは百才まで生きる人であるとおもえた、そのおもいからすると、七十才は若死にであった。
 八代先生に会い、先生と一緒に仕事をし、やがて先生ともはなれて、ひとりで仕事をしだしたことは、わたしにとって「乳ばなれ」であり「父ばなれ」であった。
 その八代先生によって仕事をした最初の場所が、鎌倉であった。鎌倉雪の下は、病気ばかり
していたわたしが、はじめて世間と世界に眼をひらいた、人生の旅の第一の宿だといってよかった。

川島喜代詩夫妻
 鎌倉雪の下の生活がはじまって間もないころ、わたくしは一人の出版人と知り合った。それが川島喜代詩であった。
 ある夜、私は立教大学の早坂泰次郎教授の宅によばれていた。その家は新宿から小田急にのって何十分かいったところであった。夫人の手料理をいただいて、楽しく話し合ったあと新宿まで出てきたが、時間がおそくてもう鎌倉へはかえれないというのであった。
 「しまったなぁ」
 立往生であった。東京に誰一人知人はない。
夜中11時、12時に「泊めてくれ」とゆけるような親友のいるはずがない。

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 といって、ちょっとホテルへといった気のきくそのころでもなかった。ふところも寒かった。
 「じゃあ、わたしのところへいらっしゃいよ。立川でね、ちょっと遠いですけれども」
 早坂先生宅から新宿までいっしょだった川島喜代詩が、立往生のあわれさに声をかけてくれた。夜中の1時をすぎて、「はじめまして」と訪問し、「これはこれは」と出迎えた川島夫人は、ネグリジェ姿であった。
 川島夫妻とわが家族との以来ずっと続く深い温かいまじわりは、この一夜からはじまったといってよい。

歌よみのたより
 「鎌倉へもきてくださいよ。ぜひ泊りがけで」  とさそったら、川島夫妻はやってきて、一夜おおいにだんらんした。楽しかった。  ところが、あとがいけない。数日して、何と「オオダンになって入院した」といってきた。
 オオダン家に泊まった翌日か
らオオダン病になったとは、何をシャレているのか、といいたかったが、病気はほんもので、何ヶ月か、彼の人生において珍しい患者体験をしたのである。
 その病床から、彼の便りがたびたびあった。今までとだえていたウタが、病床の彼のなかにあふれるようによみがえってきたという。
 「いろいろ本をよんだり、ものを考えたりしているうち、ひょいとリズムがよみがえって、歌ができはじめました。」
 こんな手紙の一節とともに、五首の作品がかいてあった。


 風のふく響きのなかに眠りしが
 吾の聴きゐる暁がたの雨

 静脈を針がとらふる時のまの
 鈍き痛みも日課のひとつ

 おとろへし身をやしなふと臥し
 てゐる吾をめぐりて新樹の光

 一連の長き経過のごとくにて
 風ふきすぐる音をききをり

 にほいつよき黄の散薬をのみ
 つぎてしづかにをれば梅雨に
 入りたり


 彼は当時誠信書房の編集長であり、佐藤佐太郎門下の歌人であった。彼のこの手紙とわたしの「ふゆこのいのちとわたしのいのち」という一文とで、「雪の下だより」第1号はうずめられている。1960年6月20日附けになっているから、昭和35年、わたしが鎌倉へいった翌年の夏のことである。
 以後毎号「雪の下だより」には「川島喜代詩のうた」がのった。  歌集「波動」によって川島が何か賞をもらったのは、数年後の

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ことだが、このなかの多くの作品は、雪の下だよりにのせられたものであった。

「雪の下だより」のこと
 あの貧乏な生活のなかから、よくもこんなものが出せた、という感慨がある。
 「雪の下だより」
 とにかく小さくて手書きだが、しかしちょっとシャレている。はじめは二、三百部つくったのだが、だんだん部数はふえて、千部も刷るようになった。
 全部で20号まで出たのだが、その間に断続がある。鎌倉雪の下にいるころに、10号まで出したが、その後浜松、神戸と居をかえても、やはり「雪の下」の名前に愛着があって、それをつづけた。
 雪の下だよりの中心は、「ふゆこおやばか」であった。ふゆこが一歩一歩大きくなり、わたしたちの生活もさまざまな経験を吸収して太ってゆく。そのプロセスを書きとどめたかった。
 鎌倉から浜松へ移って、そこで一年。「雪の下だより」は11号から13号まで。
 浜松から神戸垂水の山の上へ移って20号まで。最後の20号は1965年6月1日付となっている。
 なつこが登場したのは、17号、1962年の暮に出たものからである。そして、その号から、何と写真がはいった。雪の下だよりも、その断続した歴史のなかで、部数もふえ、技術も高くなってきたのである。

「新雪の下だより」のこと
 「ふゆこおやばか」は、あつめられて「親子関係の人間学」という書物となって出版された(誠信書房)。もう絶版で手に入らないが、わが家に2冊だけ残っている。
 この書物と「雪の下だより」を20号あわせて、ふゆこにおくるといったら、ふゆこの眼が輝いた。自分の生いたちが描かれた書物があるとは、珍しい幸福で
あろう。私にはお金をつくる力はない。ゆったりと恵まれた生活を彼らに与える力もない。しかし、生きて愛して表現した、その証拠を残すだけはしてゆきたい、という気持ちである。
 ふゆことなつこが、「わたしたちが書くから、また出して」と盛んに要望した。彼らのことを書くのでなく、彼ら自信がかく「雪の下だより」を「新雪の下だより」として出す。
 ふゆこはやがて14才となり、なつこは10才半である。
 
 
 
新雪の下だより No.1
(1973.1.8 発行) より転載

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