ゲーム論


環境型ゲームを見直す


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 環境ビデオ、環境音楽などという言葉がある。背景のようなもので、特に思考や行動に強い影響を与えない映像や音楽である。 環境という言葉はいろいろな意味で使われるが、環境ゲームというものを考えてみたい。 ただ環境問題や自然に優しいといったゲームではない。

 定義づけるなら、状況は変化するが、プレイヤーの行動や判断によって変化するのではなく、ゲームの進行とともに勝手に変わっていくゲーム、あるいは、プレイヤーの行動や判断によって勝敗が左右されないゲームとでもしたい。 言い回しが難しいが、例を挙げればわかっていただけると思う。 具体例としては、人生ゲームが好例である。このゲームはルーレットを回してボード上のコースを進んで行くと、 状況が変化していく。深い判断を行わなくてもゲームは進んで行くし、判断によって勝敗は確定しない。 AかBか判断するところでAとしたから負けたという場合、それはBとするのが正しかったのではなく、そのときはBを選んだ方が勝っていたというだけのことである。

 ギャンブルゲームと異なるのは、ギャンブルゲームはほとんど無機質であり、また、単調なことの繰り返しである。 環境ゲームの場合、その環境が命であり、思考や判断でなく、いかに環境で楽しませるかが鍵となる。

 思考型アブストラクト(抽象)ゲームの対極といっても良いかもしれない。 あるいは映画や本のように、展開が決まっていて、それを行なっている者がストーリーを勝手に変える余地が無いものと言っても良いだろう。

 環境ゲームの特徴は、ゲーム中に選択や判断があっても、その判断の「良さ」がゲームの結果に、勝敗に影響しないということである。 これはとりもなおさず「技術」が不要であることを意味する。

これらのゲームに対する評価としては、一般的にはプレイヤーのレベルを問わないゲーム、誰でも遊べるゲームと言うことになろうし、ゲーマーから見れば子供のゲーム、レベルの低いゲームと言うことになるだろう。 「レベルが低い」とは思考能力の低いという意味なのだろう。だが、それはゲームのレベルが低いと言うことではない。 いや、ゲーマーでさえ、重いゲームの合間にはそういうゲームを楽しんでいる姿を多く見かける。

 環境ゲームには、環境ゲームなりの価値がある。 思考を停止し環境に浸ると言うことは、和み、癒しの効果がある。強い者が勝つのでなく、弱い者でも勝てると言うことは、ある意味で平等であり、平和である。 会話を楽しめる本当のコミュニケーションがそこにあり、環境ゲームはそのための立派なツールである。 日頃、仕事やら勉強やらで競争し、疲れている人間にとって、果たして休日にゲームで競うのが息抜きになるか、娯楽になるか、ということである。 そういうゲームはそれが趣味の一握りのゲーマーたちのもので良い。 一般市民には不要である。

 殺伐とした世の中である。現実とはこういうもの。自分ではどうにもならないものが多い。 それができたら、と言うシミュレーションが多くのゲームのテーマだが、それ故に非現実的である。 ゲーマーは現実社会とかけ離れた人間、世間知らずが多い、という批判がある。 そういう意味では、環境ゲームを楽しめる人間の方がよほどレベルが高いと言うことが言えるかもしれない。

ゲームオタクには不評かもしれないが、社会にとっては環境ゲームは大切である。 人生ゲームが売れているのは、決してネームバリューのためでなく、理由があるのである。


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