ゲーム論


伝統ゲームを勉強してくれ!


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 毎年、正月になると、頭の痛いニュースをテレビや新聞で見かける。 だいたいこういう内容である。

「○○小学校で、昔の遊びを体験しようと古式ゆかしくかるた大会が行われた。 生徒たちは十二単衣に身を包み、百人一首に興じ、平安の趣に触れた。」

 この記事には大きな誤りがあるのだが、おわかりだろうか。 おわかり無い方、百人一首にどういう歌人が入っているかご存じだろうか。 鎌倉右大臣として『世の中は常にもがもな渚漕ぐ海女の小船の綱で悲しも』 という歌を詠んだのは、鎌倉三代将軍源実朝である。 番号が振られている百人一首では通常99番目に置かれている 『人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思う故に物思う身は』 を詠んだ後鳥羽上皇は1221年の承久の変で隠岐に流された。 こういう人たちの歌が入っていると言うことは、 百人一首ができたのが鎌倉時代であることがわかるだろう。 実際、藤原定家が京都の小倉山荘で百人一首を編纂したのは、1235年頃と言われている。 他にも諸説あるが、いずれの説も鎌倉時代の中期である。
 さらに、藤原定家が編纂した百人一首は歌集であって、かるたではない。 かるたの成立は、詳細は別ページに譲るが、室町時代以降、 それを床に撒き、取るような遊びをするようになったのは江戸時代以降であり、 十二単衣を着てかるた取りをするというようなことは、あり得なかったということはおわかり頂きたい。 江戸時代の川柳に『百人一首(ひゃくにんしゅ)絵ができたのはずっと後』 というのがあるくらいである。
 しかるになぜ、多くの学校、公民館、子供会などでこういう行事が行われているかと言えば、 担当者が歴史を知らないから、と言う他はない。 単に、百人一首の札に平安貴族の衣装を着た人間が描かれているから、 との理由で行っていると言って良いだろう。
 このような誤りが、周囲の人間に及ぼす影響も大きい。 既に多くの人間は百人一首かるたが平安貴族の遊びであったと思っているようである。

ちなみに「かるた協会」というものが存在するが、やっていることは 「百人一首かるたの早取り」のみである。 しかし、『かるた』というのは百人一首だけではない。世の中には実に様々なかるたが存在する。 ついでに言えば百人一首も小倉百人一首だけではなく、他にもたくさんあるのである。 かるたという言葉が百人一首の代名詞のように使われるのは、同協会の尽力の賜だと思うが、 結果としてそういうことになったことが良いことだとは思わない。 また、百人一首かるたの存在意義が競技かるただけのように解釈される同協会並びに全国のかるた会のあり方も、 正しいとは思えない。 協会を名乗るなら「小倉百人一首の早取り競技協会」とでもするべきであり、 「かるた協会」であるならば、かるた自体の正しい歴史を伝えて欲しいものである。



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