ゲーム論


ゲームとは何か


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 ゲームとは何か。その解釈は人それぞれだろうと思います。 ここでは私なりにゲームというものを定義してみます。
 ゲームと類似した言葉がたくさんありますので、 それとの違いを明示することでゲームというものを明らかにしていこうと思います。

1.遊びと遊戯の違い(playとgame)

 遊びのうち、「ルールのあるもの」「勝敗のあるもの」「始めと終わりのあるもの」 をゲームと呼ぼうと考えています。 例えば「じゃんけん」は、ただしているだけなら遊びですが、「どちらかが3回勝ったらやめよう」 あるいは「負けた人から抜けていって、最後に一人が残ったら終わりにしよう」 というルールを定めればゲームになります。

2.玩具と遊戯の違い(toyとgame)

 玩具はもの。遊戯は所作。人が何かをして始めてゲームになります。 器具はゲームとは呼びません。
 遊戯専用の道具があるため、わかりにくいかと思います。 例えばメンコはそれ自体は遊び道具であって、遊びでもゲームでもありません。 人が手に持って打ち付ける行為が遊びになります。 ゲーム機もゲームではなく玩具なのです。
 玩具としての名前とゲームとしての名前が同じであることが多いため混同されがちですが、 上記のように考えればわかりやすいのではないでしょうか。 「メンコ」の他「双六」「福笑い」「竹トンボ」等、古いお遊びはそのような物が多いのですが、 これはその玩具が一つの遊び方しか持たないためでしょう。
 「○○をおもちゃにしてはいけないよ。」という言い方がありますが、 遊ぶ目的で作られたものでなくても玩具になり得ます。 それでルールを決めて遊べば、それは立派なゲームです。

3.競技と遊戯の違い(competitionとgame)

 楽しむのがゲームです。遊戯の「遊」がなければなりません。 結果が楽しければ良いのではありません。 逆にいえば、経過の楽しさが結果の楽しさを上回っていれば、勝敗にはこだわらない。 それがゲームの良いところでもあります。
 今、○○遊戯、○○ゲーム、○○競争というのを人に聞いてみたらどうなるでしょうか。 マネーゲーム、核のゲーム、受験戦争、開発競争などでしょうか。 最終的に勝てばよいというのがこれらの目的です。
 ゲームは元々は競うものすべてでしたが、過程に楽しみを伴わないもの、 最終的には結果だけが問題になるものは競技になってしまいました。

 途中の楽しみにかかわらず結果だけを問うようになると、結果を出すために専門的技能が必要になり、 専門的技能を高めるためには人並み外れた訓練が必要で、その訓練は通常肉体的苦痛を伴います。 従ってその訓練を行って技能を高める者は楽しんでおらず苦しんでいると考えるのが普通です。 又、精神論からも苦痛に耐えて得た勝利こそ喜びが大きい、という考えが一般的で、 最中に楽しみを感じるのは悪徳・不謹慎という考え方が一般的になってしまいました。 途中に喜びを感じるゲームは悪徳・不謹慎であり、競技というのはそれとは別物、 ということになりました。
 日本では特に「道」という言い方をし、単に強いだけでは無く、人間的に優れていることや、 その事に対して格好の良いことを言う必要性まで生まれてしまいました。 でもそれはそれしかやらないこと、それ以外はできないことの言い訳のようにも聞こえます。 そのため、馬鹿にされないように人間的にも優れていることが要求されたのでしょうか。 世間は表向きには要求していながらも期待していなかったり、 そうあるべきだと思いながらもそんな人間のいるはずがないと思ったり様々なようですが。

 そのような考えのために、努力は結果に結びつかなければならなくなりました。 従って運によって結果が大きく左右されてはいけなくなりました。 楽しみを捨て、人の2倍も3倍も苦しい修行を積んで修練した者が勝利しなければ、 その結果の勝利の価値が低くなると考えられたのです。 このため運の要素は極力排除されるようになりました。 サイコロやカードで決めるのはけしからん、きちんと実力によって決めるように、 ということになったわけです。 逆に運の要素を持つもので決めた勝利は価値が低い、ということになり、 そんなものは誰も気にしなくなりましたので、 自然に関心を持つ者が減ったということもあったのでしょう。 運の要素を持つものゲームは価値が低く、 高い報償も与える必要も無いということになっていったのです。
 ゲームのうち、実行中に娯楽のないもの、 運の要素のないものを競技と呼ぶようになりました。

4.スポーツと遊戯の違い(sportsとgame)

 スポーツでも野球や卓球やテニスはゲームといいます。 みんな元々は遊びでありゲームだったのです。 勝つことが目的になり、肉体的技術が勝敗に結びつくと肉体的技術を鍛錬するようになりました。 が、肉体的技術の鍛錬は楽しくなく、実際のゲームもまた楽しくありません。 というより楽しくないほど肉体的技術の鍛錬をしないと勝利できないようになってきました。 技術の差さが著しく、ほとんど苦しまずに勝利できるものはべつかもしれませんが。 もちろん楽しむためのスポーツもまだありますが、まだマイナーです。
 こうなってしまったのは、過程の楽しみより勝利の楽しみの方が大きいためです。 また見ることが価値を持つようになり、そこで勝つことの価値、 つまり勝つと得られる報償もさらに大きくなりました。 その結果、単に楽しむためでなく、名誉や金銭等のためにそれを行う者が出現し、 勝つために専用の訓練を積み、その訓練を積んだ者でないと勝利を味わえないようになってしまいました。 そればかりか楽しむこともできないようになってしまい、 一般人の手の届かないところへ行ってしまいました。
専門の技能の内、「体力」あるいは「身体的技能」のいる物をスポーツと呼びたいと思います。 「競技かるた」がスポーツと呼ばれていないのは、伝統的であること、 上半身しか使わないからでしょうか。 それとも記憶力が大きな位置を占め、それが「身体的技能」と思われていないためでしょうか。

 また過程を見ている者に楽しませるために結果を重要視することとなり、 結果に対する報償を大きくしたことが結果重視になった原因でもあります。 結果に関係ないスポーツでは過程を重視する傾向にありますが。
 肉体的技術が勝敗に現れるのがスポーツです。境目は明確ではありません。 ボウリング、ビリヤード、ダーツ、アーチェリー等々分類が難しいですね。 見ていて楽しい物、素人(大衆)にわかりやすい物はスポーツになる傾向があります。 また、スポーツという言葉の印象が良く、ゲームや遊びという言葉の印象が悪いため、 当事者はできるだけスポーツに見られたがる傾向があります。 でもチャンバラや吹き矢までスポーツにしたがるのは異常ではないでしょうか。
 おかげでほとんど肉体的技術のいらないものでも、ゲームとみられるのを嫌がります。 ボードゲーム・カードゲームの大会も「マインドスポーツオリンピック」と言って、 「ゲームオリンピック」と言いません。ゲームも嫌われたものです。
 スポーツは健康的、ゲームは不健康、スポーツは明るい、ゲームは暗い。 スポーツは良い子、ゲームは悪い子と言ったイメージが作られつつあります。
 囲碁・将棋のような運の要素のないゲームだけはまだ評価が高いようです。が、 運の入るゲームの評価は低いままです。 その囲碁・将棋まで「頭のスポーツ」という言葉を使おうとします。困ったものです。

5.文化と遊戯の違い(cultureとgame)

 遊びの中には、見ていて楽しいものがありますが、 特にその美しさや難解さに価値を見いだすものが出てきました。 勝ち負けに関係なく、美しいかどうかが基準となると、ゲームの存在意義も変わっています。 人々は勝つためでなく、美しく行うためにそれをするようになりました。 そして周囲も美しく行う者を見ることで報償を払ったり、 自分に美しく行うことを教えてもらうことで報償を払うようになると、ゲームの性質も変わってきます。
 そのゲームを行う者は、単に結果の善し悪しを求めることを卑しいと考え、 自分たちの行っているものは遊びでなく文化であると唱えるようになります。

遊びも様式に権威を求め出すと方向が変わってきます。お茶、お香も最初は当てる遊びでした。 今では立派な文化となってしまいました。ゲームと言おうものなら怒られてしまうでしょう。 勤労は美徳、遊びは悪です。これらは精進、上達が目的なのです。 過程を楽しんではいけません。途中で笑おうものなら叱られるでしょう。 それ自体を楽しむことを是とせず、真剣にやらなければいけないのです。 こうして華道や茶道がゲームから離れていってしまいました。

6.そしてゲームが残った

 上記全てからおいていかれ残った物が今日言われているゲームということになるでしょう。 しかしそのゲームも、正しく捉えられているわけではありません。

7.ギャンブルと遊戯の違い(gambleとgame)

 結果が未確定であり、結果について当事者が関与できないものをギャンブルと呼びましょう。 ダイスの目も、明日の天気も、試合の結果も、選挙の結果もすべてギャンブルです。 結果の予測がついても、配当率を変えることによりギャンブルにできます。 起こりそうもない方の配当を高くすれば、ギャンブルとして成立するわけです。 当事者が関与できても自分の有利なように結果を変えられなければギャンブルとなります。 また、実力によって結果が予測できても、運の要素があれば結果が未確定であるとしてギャンブルになります。 たとえどんなに勝率が低くても。 万に一つの可能性があればギャンブル(=勝つ可能性がある)だと思っている人がたくさんいます。 でも長い目で見ればこれらは結果の決まったものなのです。 ただ事象の起こる順番が決まっていないだけです。 だから1回1回はギャンブルとなります。
 麻雀をギャンブルゲームと思っている人は多いでしょう。 しかし、明らかに実力の違うもの同士がやっている場合、それはギャンブルと呼べるのでしょうか。

8.ゲームの現状

 世界では毎年数百の新しいゲームが出現していますが、ほとんどはその年のうちに消え、 相変わらず古いものが強い状況です。囲碁、将棋等の古いゲームは連綿として続いています。  20世紀ではパーティーゲームやクイズゲームという新しいジャンルも生まれました。 ゲーム大賞やゲーム・オブ・ザ・イヤーのなどのおかげで、ゲームの文化的価値もほんの少し 高まったような気がします。
 しかし、定着する前に、コンピュータの出現によりゲームの様相は一変してしまいました。 コンピュータゲームは人間生活にそれまでのゲームの数百倍の影響を与え、 今やゲームといえばコンピュータ・ゲームのことで、そうでないゲームは、 「コンピュータでない」「人間同士の」などと、わざわざ形容詞を付けて呼ばなければなりません。
 そして機械が相手をするゲームの登場により、そうでないゲームの立場は脅かされつつあります。 また、機械による解析により、必勝法が解明されるようになってきています。 チェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフ氏がコンピュータのディープ・ブルーに敗れました。 人間同士のゲームはなくなってしまうのでしょうか?
 コンピュータによるゲームをデジタルゲーム、それまでのゲームをアナログゲーム、 という呼び方もあるようです。しかし、コンピュータゲームはデジタルなゲームではなく、 デジタル技術によるゲームなのです。 決してそれまでのゲームの対極にあるものではなく、その発展形なのだと思います。

(日本人形玩具学会での講演(2000)に加筆訂正しました)


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