1960年代から70年代にかけて、当時最大ともいって良い、フォーク、ブルーグラス、カントリー・ミュージックの学生音楽活動団体「スチューデント・フェスティバル(Students' Festival)」がどのようにして発足したのか、また森山良子さんデビューの逸話を金子洋明氏の著書『プロデューサー感覚』金子洋明 ダイヤモンド社刊(1994年10月27日 初版)からご紹介します。

———プロデューサー感覚———

 金子洋明

父の背中が教えてくれた

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 プロデューサー憲章———。人が人を動かす。人の心が人を動かすというのは、その第一条的なものだろう。そして、それと同じくらいに重要なのが、プロデューサーは場所を作るという考え方だ。そのことを最初に無意識のうちに行っていたのが高校時代だった。
 きっかけはFENで聴いたハンク・ウィリアムスだった。私は子供の頃から半強制的にクラシック・バイオリンを習わされていた。それまでの“義務”だったバイオリンが、こんなに自由でのびのびとした陽気な楽器だったのかと思わせてくれたのがカントリー&ウェスタンだった。高校二年の時、現在毎日広告の部長をしている武田温志と一緒にバンドを組んだ。彼は私のいとこで、中学、高校、浪人、大学と一緒だった。彼がバンジョーで私がヴォーカルとバイオリン。昭和36、37(1961、62)年のことだ。
 まだバンドをやる人間は圧倒的に少数派で、学校から見れば不良学生としか見られない時代だった。桐朋学園は比較的自由な学校ではあったが、コンサートやバンドは風紀を乱す、として許可されていなかった。私は学芸会の副委員長に選ばれ、学校側と交渉し、コンサートを実現させた。コーラス・グループやクラシック、ブラスバンド以外の桐朋学園の学内コンサートの第一号が、その時の学芸会だったはずだ。
 それはプロデュースと言ってもさしつかえはないかもしれない。自分で学校と交渉し、開催の許可を取り、会場のセッティングや曲の構成を考えるという手順は、プロデューサー的だった。でも、それはあくまでも一高校の学芸会レベルに過ぎなかった。そういう意味で“原点”は、大学時代に始めた「スチューデント・フェスティバル」がすべてだったと言っていいだろう。今のフォークソングの源流がそこにあり、ミュージカル・ステーションの原形、そして、ほとんどのスタッフの関係がそこから始まっているからだ。
 高校時代、バンドにあけくれていた私は、見事に大学受験に失敗、浪人を余儀なくされた。バンド熱は収まらなかった。代々木予備校に籍は置いていたものの、ほとんどの時間をバンドの練習とダンスパーティのアルバイトに精を出していた。
 私がその時に夢中になっていたのがヨーデルだった。カントリー&ウェスタンとブルーグラスとヨーデルの組み合わせにとりつかれていた。ギターやバンジョーをやる人間は学生の間でもいることはいた。さすがにヨーデルはいなかった。“誰もやっていないことをやれ。それが一番目立つ”———その考えは今も昔も変わっていない。私は家にいるときは洗面器を抱えて、「ヨロレイ、ヨロレイ、ヨロレイティ」と喉をきたえていた。洗面器を顔に近づけると、エコー感が変わる。その調節で喉が変わったように思えるからだ。喉がつぶれ、洗面器の中に血を吐いたこともある。そんな私に、父は、ほとんど無関心のように見えた。そして、そのことが、私を音楽に駆りたてていたのかもしれない。ステージに立っている時、私は、自分に違う世界があることを感じていた。浪人中にまわった米軍のキャンプで一晩に150ドルを手にしたこともあった。1ドル=360円の時代に、それは大金だった。
 バンド狂いの浪人生は、東京農業大学に入ることができた。カントリー&ウェスタン少年にとって、夢はアメリカの牧場生活だった。自分の牧場でテンガロンハットをかぶりヨーデルを歌う。それが十九歳の私の憧れの姿だった。大学に入ると、すぐにバンドを組んだ。農大の学生ではない。国立音楽大学の四人の女子大生をバックに、男は私一人という、なんともわがままのカントリー・バンド。名前を「カントリー・メッセンジャーズ」。
 でも、問題があった。バンドは結成したものの、演奏する場所がなかった。せっかく、どこに出ても目立つ編成のバンドを組んだのに、演奏できなければ意味がない。私は、そのための場所を作ることにした。
 場所がなければ、その場を作ればいい。状況が悪ければ、状況を変えればいい。そうやって生まれたのがスチューデント・フェスティバルだった。それが、私のプロデューサーとしての実質的なスタートともなった。そして、動機は、誰がなんと言おうと“自分が目立ちたい”ということでもあった。
 昭和38年、1963年夏。今から31年前のことだ———。

二つの原点 —— スチューデント・フェスティバルと森山良子

 この本は、これからプロデューサーという仕事に就いてみたい、と思っている人に読んでもらえるとよいと思う。音楽をビジネスにしようと考えている若い世代の人たちに、何かの参考になってくれればこれ以上のよろこびはないのだが、私自身の体験も、そんな一つの参考例にとどめてもらえればうれしい。
 もし、プロデューサーに興味を持っている人に、「最も大切なことは何ですか」と聞かれたら、「夢を持つこと」と私は答える。音楽をプロデュースすること、コンサートをプロデュースすることは、聴き手に夢を与えることであり、聴き手に感動を伝えることでもある。それは、作り手にそうした感動や夢がなければ伝えようがないことは、自明のことでもあるだろう。
 スチューデント・フェスティバルは、そういう意味では、きわめて個人的な“夢”からスタートした。簡単である。私自身が“人前で歌いたかった”からだ。そして、歌える場所がなければ、「自分でつくろう」と思ったことから始まった。そうすれば、同じように音楽を志す同志たちとも、共に喜びをわかちあえるのではないだろうか。それは“人助け”でも“他人のため”でもない。あくまでも“自分のため”の行為だった。きっと、その時の私自身は、それが“プロデュース”ということなのだとは思っていなかったような気がする。“自分が目立ちたい”“自分が歌いたい”と言うことが先決だった。それでも“夢”はあった。そのために資金を集め、人と交渉し、頭を下げることは苦労とは思わなかった。
 第一回のスチューデント・フェスティバルは、東京銀座のガスホールだった。使用料を前金で払って会場を借りる。米軍キャンプで稼いだ150ドルが、その資金になった。不足分は、今だからいえるのだが、父親の背広を質に入れてつくった。
 音楽雑誌などの年表を見ると、“日本のフォークソング”の第一号は、1966年に出たマイク真木の「バラが咲いた」と書かれていたりする。私は、これは正確ではないと自分の体験からいえる。「バラが咲いた」は浜口庫之助さんの作詞作曲による“フォーク調”のヒット曲ではあるものの、フォークソングの歴史は、それ以前から始まっていた。
 アメリカでキングストン・トリオの「トム・ドウリー」がビルボードのナンバーワンを18週も続けたのは1958年の秋のことだ。昭和33年。日本では、この年に2月に初めて日劇ウエスタン・カーニバルが行われ、ロカビリーが日本に上陸した。キングストン・トリオは、カントリー・グループではなく、“フォークソング・グループ”として日本に紹介された第一号だったと思う。「トム・ドウリー」の日本での発売は昭和34(1959)年1月になる。アメリカの学生たちによる“モダン・フォーク・ムーブメント”として紹介されていた。“フォークソング”は“新参者”でカントリー&ウェスタンとは違うものと思われていた。
 第一回スチューデント・フェスティバルは、青山学院大学のブルー・マウンテン・ボーイズや桐朋学園高校出身同士のウェイ・フェアリング・ストレンジャーズ、カントリー・クインテット、カントリー・トラヴェラーズら4、5バンドが出た。その中には、私のカントリー・メッセンジャーズもあった。ほとんどがカントリー、ブルーグラスのバンドばかりだった。二回目もそうである。それはフォークソングに門戸を閉ざしていたわけではない。カントリー・ヨーデルに夢中だった私が、フォークソングに関心がいっていなかったということのほうが大きかった。昭和39(1964)年1月18日の第三回スチューデント・フェスティバルで、初めてフォーク・グループが参加する。モダン・フォーク・カルテット(MFQ)。そのリーダーがマイク真木だった。現在MS(編注=ミュージカル・ステーション)のスタッフになっている専務吉田勝宣や総務部長重見康一も、MFQのメンバーである。その後、九月(編注:正しくは十月)に行われた第六回に黒沢久雄率いるブロードサイド・スリー、第七回に初めて森山良子が出演し、スチューデント・フェスティバルは、カントリー&ウェスタン系のバンドとフォークソング系のグループとの境界のない、東京でも珍しい学生イベントとして定着していく。
 私は相変わらず自分のステージでは歌っていたものの、コンサートをプロデュースしていくことに充実感も味わうようになっていた。プロ意識はなかった。でも、コンサートに関わるすべてのスタッフ・ワークは身をもって体験したいと思っていた。当時、日比谷公会堂に阿部さんという有名な照明家がいた。私は、自分のコンサートの照明も自分で手がけたいと思い、日比谷公会堂の舞台裏に学生服でもぐりこみ、阿部さんに、「バカヤロ」といわれながら、照明の基本を教わったりしていた。自分で資金を出して、会場を借りて、出演者を集めて、自分でもプレイして、裏方もやる。ワンマンの快感。プロデュース・ワークを知るというより、自分の知らない世界を知るということがステージに返ってくることの新鮮さにわくわくしていた。

 プロデューサーとしての原点のコンサートがスチューデント・フェスティバルだとしたら、アーティストは森山良子から始まった。もし、森山良子に出会えていなかったら、その後の今の私はなかっただろう。そういう意味では、プロデューサーは、どういうアーティストと出会うかで運命が決まる、といっていい。同時にどういうアーティストを手がけたかが、プロデューサーの評価になるという典型的な例になるかもしれない。プロデューサーとして名乗るのは、誰でも名乗ることができる。それこそ、名刺に刷りこめばよいのだから。でも自分が名乗ったからということと、社会が認知することとは別のことであるのは説明の必要もないだろう。
 第一印象がすべてを決める。第一印象にすべてを賭ける———。森山良子のことを思い出すと、まさに、そんな鉄則どおりだったことに、我ながらあらためて気づかされる。
 彼女との出会いは昭和39(1964)年の成城学園の学園祭だった。私はいとこの武田と一緒に遊びに行っていた。主な目的は、簡単に言うとナンパである。かわいい女の子いないかなぁ、という誰もが経験する“文化祭詣で”だった。「カントリー」という文字が目にとまり入った階段教室で、彼女はバンドで歌っていた。ナッシュビル・ローファーズというバンドだった。自分の身体が隠れてしまうくらいの大きなギターを持って歌う彼女の歌声を聞いたとたん、私は鳥肌が立った。そんなに美しい声は聞いたことがなかったからだ。ショックだった。感動した。現在でもその時のことを鮮明に覚えている。
 私は武田と二人で階段教室のコンサートが終わるのを待って控え室の教室へ行き、出てきた彼女に「君は最高だ」と伝えた。でも、突然現れた正体不明の大学生もどきに彼女は明らかな警戒を示し、走って逃げて行ってしまった。名前も家も連絡先も分からないわけだから、ここで逃がすわけにはいかなかった。私と武田は、成城学園の駅まで彼女を追いかけて同じ電車に乗り、代々木上原の駅を降りて、彼女の後をつけた。彼女は“グングン”というニックネームのいとこと一緒で、私たちの姿には気づいていた。家に入る寸前まで彼女たちは素知らぬ振りをし、20メートルほど手前から脱兎のように家に逃げ込んだ。
 今思えば、明らかな痴漢行為でもある。そのまま110番通報されても文句の言えないところだった。でも私は、彼女が“逃げ込んだ”家の呼び鈴を押し続け、険しい表情で現れた母親に、スチューデント・フェスティバルを主催している東京農大の学生であると自己紹介し、彼女と話をしたいと言った。森山良子の父親は日本のジャズ・トランペット奏者のはしりでもあった森山久さんである。つまり、プロのミュージシャンの家庭に正体不明の大学生が、彼女をコンサートに出したいと乗り込んでいったわけだから相手にされるはずはない。母親にケンもホロロで追い返されたのだが、私は落胆しなかった。住所も家もわかったのだから、あわてることはない、という気持ちだった。
 「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ということわざがある。私の場合、アーティストを射んとすれば友を射よ、ということになるかもしれない。森山良子には、黒沢久雄という強力な先輩がいた。映画監督黒澤(編注:ママ)明さんの息子である。カントリー派だった森山良子にジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ」のレコードを渡して覚えさせたのは彼だった。黒沢久雄のいたブロードサイド・スリー(その後メンバーが増えてブロードサイド・フォーとなる)はスチューデント・フェスティバルに熱い目を向けていた。彼等を出演させることは、そのまま森山良子に私の存在を知らせることにもなった。
 彼女が初めて出演した第七回のステージは感動的だった。昭和39(1964)年のクリスマスの夜だった。私は客席で初めて味わう感動に酔いしれていた。他の出演者に対して持っていた“俺のほうがうまいぞ”という意識が全くなくなっていた。こんなに歌のうまいシンガーの前では、自分のことなど素人と同じだ、と思っていた。そして、彼女は絶対に素晴らしい、彼女の歌をもっとたくさんの人に聴かせてあげたい、そのことに夢中になっていた。

欠点を利点に変える

 プロデューサーは、自分の手がけるアーティストの人生を変えてしまうことさえある。そのことの責任を引き受けられない人間は、プロデューサーになるべきではないのではないだろうか。才能のある人間が、必ずしもその才能を自覚しているとは限らない。そして、その才能の発揮を拒んでいる場合もないとは限らない。そういう時のプロデューサーは、本人や家族に対して、“埋もれた才能”を認識させることから始めなければならない。私が後に手がけることになる五輪真弓も本田路津子も、プロになるという意志は毛頭なかったのだから。本田家の徹夜の家族会議に出て、彼女をプロにするよう説得したこともあった。
 昭和40(1965)年はすでにアマチュア・フォークのブームが訪れていた。大学の学園祭にフォークソングは欠かせぬものになり、森山良子は学生の間ではすでにアマチュアのスターだった。スチューデント・フェスティバルは、そうしたアマチュア・フォークのメッカになっていた。彼女のもとには、デビューの話が殺到していた。家族は音楽に対しては大変な理解を持っていたが、高校を卒業したらプロになってもかまわない、ということになっていた。
 昭和41(1966)年は、フォークソングが一気にお茶の間に浸透した年だ。マイク真木の「バラが咲いた」、ブロードサイド・フォーの「若者たち」は、大ヒットになり、若者たちの愛唱歌になった。そして次は森山良子がターゲットになった。
 フォークシンガーはテレビに出ない。いつの間にか、そんな定説がつくりあげられた。たしかにテレビ局のディレクターやプロデューサーの中には、コンサートに顔も出さず、旧態依然とした「出してやる」的態度のままの人間も少なくなかった。とくに70年代までのテレビの音楽番組は、歌謡曲が全盛で、3コーラスの歌を2コーラスにブッタ切ったり、間奏を抜いたりという無神経な扱いを平気でやっていた。フォーク系のアーティストが、いつの間にかテレビと無縁になっていたのは無理もないことだったと思う。
 でも、私のことを考えると、なかなか、そうも言いきれないものもある。森山良子にしろ、ブロードサイド・フォーにしろ、テレビとはかなり密接な関係があった。ブロードサイド・フォーの「若者たち」は、フジテレビの青春ドラマ「若者たち」の主題歌だった。テレビドラマとのタイアップで売れた先駆的な例になるかもしれない。
 森山良子の場合は、もっとダイレクトだった。手前味噌になるになるが、テレビの活用例としては、これも画期的だったのではないだろうか。
 昭和42年。1967年1月、当時“フォークの女王”として学生たちにカリスマ的人気のあった女性フォークシンガー、ジョーン・バエズが来日した。コンサートは新宿厚生年金会館の二日間公演で、二日目はテレビ中継がされることになっていた。そして、うまいことにその数日後に、森山良子がフィリップス・レコードから「この広い野原いっぱい」でデビューする日だった。私は、その日に狙いをつけた。目標は、そのテレビ中継の場に森山良子を登場させることだった。フィリップス・レコードとは、デビューのキャッチコピーまで考えていた。“天使の歌声”である。
 それに、もうひとつ加われば、鬼に金棒だと思っていた。“日本のジョーン・バエズ”というやつだ。キャッチコピーがデビュー時に相当の意味を持つのは、当時も今も変わらない。全国中継のテレビで、二人が一緒に歌うシーンを流せれば、本人のお墨付きを得たも同然になる。
 バエズの宿泊ホテルは、赤坂のヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)だった。その前年の六月にビートルズが泊まったホテルでもある。私は、テープレコーダーとギターを持ってマネージャーと直談判し、10分間だけ本人と会うことができた。私はテープレコーダーで森山良子の歌を聴かせ、本人出演を取り付けることが狙いだったのだが、思いがけず、彼女の前で歌うことになったのは私のほうだった。ジョーン・バエズの前で披露したヨーデルは、私にとっても“栄光の一瞬”だった。彼女は私の手をとり、「明日のコンサートで歌わないか」と誘ってくれた。
 翌日、私はスーツを着て新宿厚生年金会館に行き、彼女に紹介されてステージに上がり、ヨーデルで「コロンバス・スタケット・ブルース」という曲を歌った。でもそのことで有頂天になってはプロデューサーはつとまらない。たしかに、バエズと共演できたことは最高の喜びだった。しかし主目的は森山良子だった。私はそのコンサートの夜、彼女のホテルの部屋で森山良子のテープを聴いてもらうことに成功した。バエズは「明日のコンサートに連れてきなさい」と約束してくれた。
 コンサートは高崎一郎さんの司会で始まり、私たちのコーナーになった。1曲目は私のヨーデルとバエズのコーラスで前日歌った曲を。2曲目が、森山良子で「愛の喜び」を。3曲目が、バエズと森山良子のデュエットで「今日の日はさようなら」というコーナー。“日本のジョーン・バエズ”と言ったレッテルは森山良子にとって不動の金看板になった。彼女は、レッテルから逃れようと、その後10年以上も苦しむことになるのだが、新人アーティストのデビュー・ストーリーとしては、改心のプロデュース・ワークだった。
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 アーティストは孤独な存在でもある。才能を信じることと裏腹な自己不信の絶え間ない葛藤の中に放り出されていると言っていい。そして、本人にとって、何が自分の“利点”であるかは必ずしも明確でないことの方が多い。“欠点”を“欠点”として意識させ、自信喪失の谷に落としてしまうのか、それとも、そのことが“利点”であるとして説得力をもたせることができるか。それこそ、プロデューサーの責任と言っていいのではないだろうか。ともあれ、“学生スター”森山良子は昭和40年代前半で最も人気のあるシンガーの一人になった。
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『プロデューサー感覚』金子洋明 ダイヤモンド社刊(1994年10月27日 初版)より抜粋
(注=原文は縦書きのため、一部漢数字を洋数字にか変えています)
金子洋明(かねこ・ひろあき)
1943年生まれ。学生時代から、コンサートの企画・運営に携わり、「スチューデント・フェスティバル」を組織、主催する。
1969年、音楽総合プロデュース専門の会社「ミュージカル・ステーション」を設立。現在のニューミュージックというカテゴリーの基盤をつくる。
森山良子、五輪真弓をはじめ数多くのアーティストのプロデュースを手がけるほか、コンサート、イベント、および東急文化村などの劇場コンセプト・プロデューサーとして、エンタテイメント・ビジネスの多方面で活躍している。