「今日の日はさようなら」という名曲がいかにしてできたのか、またこの曲にまつわる逸話、フロッギーズとの係わりなどを、作詞作曲した金子詔一氏の手記からご紹介します。
———今日の日はさようなら———
金子詔一
今日の日は、さようなら またあう日まで
<略>
『今日の日はさようなら』も、多くの人の思い出がつまっている。僕が作者です等と、しゃしゃり出る幕はない。
確かに僕の身体から生まれてきた歌かも知れないが、もう僕の手を放れて、勝手に一人歩きしているのだ。
100万人の人が、100万通りの物語を心に描いて、歌い継いでいる。
<略>
信じあうよろこびを
大切にしよう
今日の日は、さようなら
また会う日まで
恥ずかしかった訳ですよ、いくら僕でも。
フォークソングといえばヘルメットかぶってギターを持って、新宿西口でフォークゲリラの時代です。“信じあう”? なに柔な女学生みたいなこといってんだーと笑われながらも口ずさむ? でも僕はゲバ棒持って、若者らしく権力に楯突くなんてガラじゃない。まねしてみても似合わない。それは先生や親に楯突くようなもんで、とてもできない臆病者。権力と戦うなんて、どんなにカッコよくても、もともと僕にはとてもできない。岩蔭にかくれて嵐がおさまるのをじっと待っている虫ケラみたいな弱虫くん。愛だとか、恋だとか、人生とか、ありったけの言葉を弄びながら、青春まっただなかは、男と女とギター。おぼえたての少々のお酒とタバコ。世の中の仕組みもまだよく分からない世間知らず。お金のことはもっと分からない。「金なんて…」といってみたりするオボッチャン。「ホントは欲しいくせに…」と言われてみても、まだお金の力を知らない。お金がないことのホントの悔しさも知らない。
臆病な柔な戦争反対論者が、岩蔭からそっと口ずさんだメロディ。
「信じあうよろこび…? そんなもんで平和が訪れるなら、警察いらねぇって」と吐き捨てるようにお説教されればすぐに黙っちゃう。
「そうかもしれない…」と思っちゃう。
そんな臆病者の僕の歌は、フォークゲリラが歌わなかったフォークソングとして、1960年代おそるおそる世の中に登場していく。
ハーモニィサークルという若者のボランティアグループが集会の最後に歌い、やがてフロッギーズが学生のフォークコンサート「スチューデント・フェスティバル」で歌い、名手森山良子が歌い、世界のジョーン・バエズが歌い、いつのまにか、教科書に登場し、流行り廃りの激しい時代に40年以上も歌い継がれ、今では中国語やタイ語やアラビア語にもなっているという。しかし、もちろん今日も戦争は絶えない。
『今日の日はさようなら』は、どのようにして生まれてきたのか?
フォークゲリラになれなかった、この臆病で柔な戦争反対論者にチョットした異変が起こったことがきっかけだった。
立教大学の大学院時代に、森田宗一判事に逢ってから、金子の言動が少々変化したのだ。判事と言えばドロボーだって恐れるコワイ人。ところがこの判事さん、紙芝居か講談のように話す。思わず引き込まれる名調子で、戦後の焼け野原で野球をする少年達の様子を手に取るように語る。クライマックスはちょっと風変わりな“お兄さん”が、この野球少年達の前に登場する。
“お兄さん”は今風に言えば、ホメゴロシの名人である。
「その転び方ナイス!」
「そのカラブリ、バットがうなって、めちゃナイス!」
「そのエラー、身体で止めたから、すばらしくナイス!」
「その負けっぷり、てんでナイス!!」
“ナイス兄貴”が登場してから焼け野原の野球小僧たちの顔が変わり、子供達の世界が変わっていく様子を熱く熱く語る森田判事。たったひとつの言葉が世界を変える瞬間を目玉をぎょろぎょろさせながら再現する。このナイス兄貴の話に背中を押されて、臆病な僕でさえ「何かできるかもしれない!」と思い始めたのであった!
この森田判事に会ったのは『ハーモニィサークル』という名の集会だった。
ここでボランティアという言葉を初めて聞いた。篤志家(ボランティア)が集まるいわゆる奉仕団体である。代表は大野重男さん。当時警視庁少年課に勤めていた。大野さんは、非行少年を救おう———!と訴えていた。誰の心にも宿る明るい面を見なさい−−−!と、若者に説いた。ハーモニィというのは、人間関係のハーモニィという意味で、音楽団体ではなかった。現在の財団法人『ハーモニィセンター』の前身である。我輩は、妖怪博士に折角入れてもらった“大学院”を脱出して、このサークルにのめり込んでいったのである。オッパイのことで頭が一杯の自分自身が、いつ非行青年になってもおかしくない23才。危なっかしい一人のボランティアであった。
このサークルの会員がザルをまわしてカンパしてくれたお金で西ドイツへ行くことになった。はじめての海外!1963年東京オリンピックの前年である。「ベルリンの壁」があり、壁にはいくつも散弾の後があった。壁を越えようと試みて、毎日、何人もの人が殺されていた−−−。見張りの機関銃を持った兵士と目を合わせるのが怖くて、目をそらせて、ふと空を見上げると、壁の上を翼を広げた鳩が自由に飛んでいた。
この旅行から帰国して、しばらくして 『今日の日はさようなら』 は生まれたのだった−−−。
空をとぶ鳥のように
自由に生きる
今日の日はさようなら
また会う日まで
厚生年金大ホールの緞帳が、まさに上がろうとしていた。もうイチベルが鳴って、5分で本番だ! 舞台のソデで僕は4〜5人の男達に囲われていた。「世界のジョーン・バエズがさ、無名の君の歌を歌うんだね。」と男は言った。まさにそういうことだねー!と僕は思った。もう一人の男が口を添えた。「幸運に感謝、ラッキー! すごいことだね!」「まさにそうだよね!」と僕は再び思った。森山良子は、当時契約したばかりのレコード会社がジョーン・バエズの契約会社とは異なっていた。だから一緒には歌えない−−− と説明された。もう一人の男が「さあ早く…!」と目で合図した。それから僕は、持ってきたハンコを書類のあちこちに押した!「大丈夫。君の人格権は護られるんだよ。作者の名前まで変えちゃう訳じゃないんだよ−−−」と男は説明した。緞帳が開いて、その晩ジョーン・バエズは日本の若者に助けられながら、『今日の日はさようなら』を日本語で歌った。
厚生年金大ホールのミキサー室ではテープレコーダーが回っていた。その時、アクシデントが起きた! なんだか一大事らしい。テープが絡まっちゃった…? という。グチャグチャになったテープを一人の男が「俺が何とかする!」と言って持ち帰ったという。あの晩、日本のフォークソングファンはただひたすら世界のジョーン・バエズの歌声に興奮した。しばらくして小さなドーナツ盤となってレコードが出現した。グチャグチャになったはずのテープは、どうやら大丈夫だったらしい? いや、あの晩もしかしたらグチャグチャになったのは、男たちの音楽ビジネス上の取り決めの話だったのかもしれない? と今では思う。10年くらいが過ぎて小さな英語学校の経営で僕がふらふらになっているのを知ると梁木さんがヒトハダ脱いだ−−−。
梁木さんは自称、拓大の空手部でダブルの背広に角刈りの見るからにコワーイお兄さんであった。「ケリ入れてやろうか!」とニコニコ笑いながらいわれると、みんな震え上がった。
その梁木さんが「学校大変なんだってね!頑張ってね!」と書類を送ってきてくれた。
これで著作権が100%金子詔一に返ってきて、僕はJASRACの正式会員に改めて登録した。
<略>
心のやさしい高倉健さんが何人も登場して、物語をもりあげてくれた! まるで映画を見ているようだった!!
<略>
大昔、フロッギーズの小山光弘・通称「P」が、
「みんなで考えたんだけど……」と神妙な顔をして訪ねてきた。
「一番の歌詞 “明日の日を夢見て、希望の道をー”
これにかえてもいいかな?」
「夢見てなんて、女学生みたいで柔じゃない?
それに一番だけ他と違うってのも、なんだかヘンじゃない……?」
「………」
「でも、まいっか!」
「まいっか!」は、今では森山良子様のランドマークになっちゃったけど、当時の俺様も、ずいぶんいい加減だった。
<略>
「今日の日はさようなら 作詞・作曲/金子詔一」
いつまでも
たえることなく
友達でいよう
今日の日はさようなら
またあう日まで
(*明日の日を夢見て
希望の道を <P・小山>)
空を飛ぶ
鳥のように
自由に生きる
今日の日はさようなら
またあう日まで
信じあう
よろこびを
大切にしよう
今日の日はさようなら
またあう日まで
<終わり>
1964年 青少年団体(財)ハーモニィセンター設立のため立教大学大学院中退
1972年 英語トレーニングクラブ(株)エフ・アイ・エー設立
1975年 選挙制度の改革を訴え、東京都知事選挙に立候補
1981年 総理府主催第八回東南アジア青年の船ナショナルリーダーを努める
1985年 英語九九推進ムーブメントのため(株)地球人村を設立
現在、企業研修デザイナーとして創造力開発をテーマとした外国語学習プログラムを開発し注目されている。
作詞作曲代表作「今日の日はさようなら」「チャーリーブラウンの歌」他。向田小学校・千福が丘小学校・愛鷹小学校などの公立小学校の新しい校歌を制作。
主な著書「スヌーピーの英会話学校」「チャーリーブラウンの英会話学校」他