季刊かすてら・2004年夏の号

◆目次◆

軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

青い過去

 美野洋次郎(1952‐)の短編小説。2003年(平成15)、『小説宇宙』掲載。いわゆる、描写する文章は全くなく、小さな古道具屋も営む作家の一年間の経営収支の体裁を取っている。仕訳帳、総勘定元帳その他の帳簿の形式で描かれ、取引に関する事項と金額だけが延々と記載される。作家自身も古道具屋を営んでいるため一種の私小説であり同時に実験小説でもある意欲作として評価されたが、後の作家の告白によると納税申告書類を誤って編集者に手渡した物らしい。舞台演出家のフランコ小林がミュージカル化すると言っているがスポンサーが付かず実現が危ぶまれている。

●町の天狗●

 木が伐り倒される大きな音がしてびっくりして目が覚めた。外に出て見ると東の空がうっすらと明るくなっていた。町は静まり返っていて何の異変も感じられなかったが、半径二キロ以内には大きな木が一本もない事は判っている。一番太い木は公園の櫟と小学校の銀杏だがどちらもせいぜい大人の太股くらいの太さしかなく伐り倒してもあのように大きな音はしない。ついこの間まで林業をやっていたのだから間違えようはなかった。もう一度眠って夜が明けてから近所の人に聞いてみた。皆、あああれね、という顔をしてさして興味もなさそうに話した。月に一二度あんな音がする事がある。古くから居る人に聞くと七八年前かららしい。越して来たばかりの時は驚いたし恐ろしくもあったが今では慣れてしまった。雷か何かの自然現象であろう。という事であった。しかし林業をやっていた自分にはあれは疑いもなく木を切り倒す時の音である。経営に行き詰まって山から出て来て一月も経っていない。木の種類や太さまで特定できるほどはっきりしていた。そう思って周辺を歩き回ってみるが倒れた木も切り株もない。天狗倒しだと思った。山中で大木を切り倒す音がするが行ってみると何事もないと言う現象である。自分は経験がないが死んだ父が遭ったという。天狗の悪戯だと言うが本当の所は判らない。自分同様山に棲めなくなった天狗が町に来ているのかなとも思った。父に教えられた通り近くの神社に頼んで山の神を奉って貰うとそれ以後は起らなくなった。近所の人は半年もするとそんな現象があったという事も忘れてしまったが自分は町で鳶や鴉と目が合うとつい挨拶をしてしまう。天狗の遣いかも知れぬと思うのである。

●僧侶とクジラ●

「ん? 何を言っているのかよくわからないな。あんた他心智が目覚めたばかりの人だね。他心智。一般にはテレパシーって言うね。俺は坊主だから、横文字使われると尻の穴むずかゆくなっちゃうんで、他心智って言ってるけどね。テレパシーでは言語と無関係にコミュニケーションができるって言ったりするけど、あれはうそ。他心智って言うのは思ってる内容を伝えるわけだから。普通はみんな言葉で考えてるんだもんね。
言葉が通じない者同士が他心智で話し合うには、ちょっとコツがあるの。イメージと感情は言葉が通じなくても、わりと正確に伝わるからさ、うん、感情なんかあんまり正確に伝わるから、油断するとどれが自分の感情なのか分からなくなる。それで、他心智では単語の音や形のイメージと同時に意味や感情のイメージも伝わるから、単語の翻訳は必要無いんだよ。現代思想のことはよく知らんのだけどシニフィアンとシニフィエってえの? あれが分かちがたく結び付いてるんだな。だから、問題は文法構造の違いなの。文章をね、一次元(リニア)に伝えないで、空間的な意味の構造として図式化したイメージを送るといいみたい。こういう感じで。欧米の人は苦手みたいだけどね。おっ、ロシア語が出るね。あんたロシアの人かい?」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。例のソビエト崩壊で帰る国を失ったのだ。解放されたということもできるが。それに私は人間ではない」
「人間ではない? まさかソビエト製のスーパーコンピュータじゃないだろうね。機械に他心智が使えるとは思えないけど」
「人間の手による操作が加えられているが私は機械ではない。現在私は太平洋を回遊中だ。イメージを送ろう。私は私自身の姿を見たことがないが、これは私と同じ種族の映像だ」
「驚いたな。ザトウクジラじゃないか。他心智を使う動物は時々いるけど、知性を持って言葉でものを考えるクジラってえのは初めてだ。信じられないけど、他心智でうそをつくことはほとんど不可能だし。まあ、テレパシーを使う坊主がいるんだから、言葉を使うクジラがいてもいいか。遺伝子工学とかで知能を高めたのかい?」
「私が生まれたのは一九六二年だ。現在でも不可能と思われる遺伝子の操作がその頃できたわけはない。私の高知能化は外科的な手術とホルモン投与によるものだ。この実験は、ソビエトの軍事的な研究のひとつとして行われたものだが、私が唯一の成功例だ。私と同じ処置を施されたクジラは数多いが、私以外のすべてが死んだ。したがって私は世界で唯一の知性を持ったクジラということになる」
「ほう、そいつぁあさみしい話だね」
「さみしくはない。私たちザトウクジラはもともと社会的な種族なので、そういった感情が起こってもいいはずだが、今のところさみしいという実感はない。高知能化の処置の際に本能のどこかが壊れてしまったのかもしれない」
「自分がさみしいことに気が付いてないのかもしれないよ。そういう人って意外と多いんだ」
「私がソビエトの研究者の管理から離れ、自由に太平洋を泳ぐようになってから数年が経つ。人間とクジラとでは時間の感覚も違うから、これからさみしくなるのかもしれない」
「他心智の使い方がうまくなってきたね。しかし、一次元(リニア)な文章を空間的なイメージにするといっても、普通はもっと二次元的な展開になるものだけどね。あなたのはずいぶん三次元的で、ちょっとびっくりするな」
「それは私が水中生活者であるためだろう。陸上で生活するものは一般に横方向にのみ移動するものだ。我々水中生活者は、横方向に移動するのと同じ様に縦方向にも移動できるため、空間に対する意識が三次元的なのではないだろうか」
「なるほどね。家の二階から声かけられても、俺たちはまず横の方を見るから、どこから声をかけられたかなかなか分からない」
「ところで、あなたは仏教の僧侶だといったな」
「生臭坊主だけどね」
「あなたは『禅』というものをよく知っているか?」
「まあ、俺は禅宗の坊主だから」
「私に突然テレパシーが目覚めた理由を考えたのだが、人間の管理から解放されて、自由に海を泳いでいたことに禅と同じ効果があったのではないだろうか」
「確かに坊主に他心智が現われる割合は、それ以外の人よりも若干多いみたいだけど、ことさら禅宗の坊主に多いわけじゃないよ。数は少ないけど密教僧に強い力を持った人が現われたりするけどね。クリスチャンや無宗教の人にも他心智を持つ人はいるし。修行や人格の完成度と他心智はまったく無関係ではないだろうけど、高僧になれば必ず他心智が現われるというものでもないし、年を取ると力がなくなっちまう人もいるしね。世界中に他心智のネットワークを張り巡らそうとする計画もあるんだが、この力の不安定さがネックになって、うまくいかんのよ。
 ただ、他心智が現われるのは東洋人の方が圧倒的に多い。割合で言うと八対二ぐらい。遺伝的な理由だと言う人も多いけど、俺は文化とか言語構造の違いが理由じゃないかと思っているけどね」
「禅とは一体何なのだ」
「難しいことを聞くね、いきなり。日本ではわけの分からない会話を『禅問答』と言うくらいで、説明するのが難しいんだが・・・・。直観とか予知とかいうものがあるよね。あれは一般に他心智のような神秘的な力だと思われているけれども、実はそれほど神秘的な現象ではない。人間は普通言葉で考えているけれども、それとは別にイメージの組み合わせで行う『思考』の様なものがある。心理学で『無意識』と呼ばれたりする心の活動だ。このイメージ思考によって得られた結論は、その結論にいたる経過を言葉でなぞることができないので、いきなり結論だけが得られたような気がするんだな。それで直観という神秘的なイメージになる。今抱えている問題を解決するヒントが夢の中に現われるというのも、イメージ思考によるものだろう」
「化学者のケキュレが、自分の尻尾をくわえている蛇の夢を見てベンゼンの構造式を発見した、というようなことか」
「そう。言葉の思考とイメージの思考をフルに働かせれば、いろんな問題の解決がうんと楽になるわけだな。仏教ではこの状態を『観自在』といっているけどね。イメージの思考は言葉にとらわれていては働かないから、この思考を働かせるためには、言葉で考えるのをやめなければならない。夢の中に問題解決のヒントが現われたりするのは、眠っている間は言葉による思考が止まっているか、非常に弱くなっているからだろう。人間は何も考えないでいるということがなかなか難しいから、それで考えるのをやめる訓練が必要になる。仏教の言葉では『莫妄想(まくもうぞう)』妄想することなかれ、と言うんだが、大雑把に言うと、その訓練がまあ坐禅だな。坐禅を組んで無念無想になる訓練をしているわけだ」
「私が解放されてからテレパシーが目覚めるまで、私は何も考えないでいる時間が多かったように思うのだが、これは坐禅と同じ効果があったのだろうか?」
「と、言われても、その場にいたわけではないから分からないが…」
「私の記憶を送ろう。(以下の内容はテレパシーで感覚が直接に送られたものであり、文章で表すことは不可能だが、無理に書き表すと次のようになる)明るい海中で、ひれも動かさずに漂っている感覚。頭の数メートル上に海面があり、そこから海中を照らす太陽の光が揺れている。海水は空気に比べて透明度が低く、空気中のように何キロも先を見通すことはできない。視覚に代わる認識手段は音。水中では音の減衰は少なく、水は空気に比べて五倍も速く音を伝える。背景に流れるのは、波が岩を洗い、あるいは海底の小石が波にすれ合う音。泳ぐ魚たちが尾びれを打ちふるわせている音。海底の海老や蟹が這いまわる音。岩陰や珊瑚の陰に身をひそめて獲物を待つ魚たちが呼吸する音。海の中は沈黙の世界などではなく、豊かな音に満ちた世界であった。そしてどこからか聞こえるザトウクジラたちの美しくも物悲
しい歌声。尾びれをはためかせて泳ぎ始める。尾の力ははっきりした実感を持って水に伝わり、鼻先で海水を押し分けるようにして加速する。体の周りを流れていく海水の感触。いきおいをつけて上昇する。海面を突き破って巨体を空におどらせる。体からは海水が銀色の滝となって流れ落ちる。上昇が頂点に達すると、体を横倒しにしながら、ゆっくりと海面に向かって落下していく。海面に体が叩きつけられる爽快感」
「何という気持ちのよさだ。これじゃあ、何かを考えようという気にならないのも無理はない。まさしく無念無想だな」
「快感がともなっていては禅にはならないのだろうか」
「そんなことはないけど・・・・。坐禅の目的は、問題解決のためイメージ思考を発揮することだといったでしょう。あなたには解決すべき問題の存在が感じられないよ」
「そう、私は毎日の生活に満足していた。餌を求めて回遊する暮らしにも、有限である自分の命にも。私は言葉を使って考えなかったのではなく、考えるべき問題を持たなかったのだ。今日までは」
「今日まで?」
「そうだ。今日私は別な知性と会話をかわすことの面白さを知ったのだ。ソビエト時代の私にとっては、会話と言えば訓練と知識を詰め込む教育だけであり、楽しいものではなかった。しかし、こうして自分に与えられた知性を発揮して、ほかの知性とコミュニケートすることは実に面白いことだ。今、初めて私は自分が知性を持つことをうれしく思っている」
「これからもっと知り合いが増えるよ。俺が他心智であんたのことを言いふらすからね」
「テレパスというのはどのくらいいるものなのだ?」
「非常に不安定な力なので、はっきりした数は分からないが、世界中でだいたい数千人。多くても一万は越えない」
「人類の人口に比べると非常に少ない数だが、私のこれからの話し相手の数としては、多すぎる数だ」
「他心智は空間的距離とは無関係に伝わるみたいなんだが、一度でも実際に会った人とは他心智が通じやすくなる傾向があるな。それから、くり返し話し合ってお互いによく知り合うと、他心智が通じやすくなる」
「相手に対してより正確なイメージを持てば、その相手とテレパシーが通じやすくなるということか」
「そうだ。あんたは物分かりのいい生徒だな。俺の弟子にならないか」
「仏教僧になる気はないが、仏教には興味がある。というか、たった今興味がわいて来たのだ。これから、人間との会話によって、さまざまなことに知的興味を持つだろう」
「それは素晴らしく楽しいことだけど、苦しみを伴うことでもあると言うな」
「アダムとイブが知恵の木の実を食べた話か」
「そうだ。キリスト教では原罪という。また仏教では、言葉や論理にとらわれると物事の真の姿が見えなくなるという考え方がある。『太った豚よりやせたソクラテス』なんて言葉もある。知性が低くて満足している者よりも、知性が高くて不満足な者の方が幸福だというんだな」
「私は今初めて自分の興味にもとづいて知性・言葉を使うことに興奮していて、そういった知性に対する否定的な感情は、理解しにくい。仏教の最終目的である、悟りとか解脱とかいったことは、知性を否定するものか」
「まあ、道元という十三世紀ごろの坊さんは、山河大地、山川草木すべて仏の相ならざるはなく、谷川の音も鳥の鳴き声もすべて仏の説法となる、というようなことを言ってるがね。草木や動物を悟っているとは言わないから、悟りは知性を否定するものじゃないだろうな。さっきも言ったけど、言葉による思考を否定するのじゃなく、それを含んで超えた知性を悟りというのじゃないかな。それが観自在ということだと俺は思っているけどね。悟りというのは安定していて静的な、ちょっと退屈なイメージがあるけど、観自在の状態というのは、自由自在というくらいで非常に動的で面白い状態だと俺は思っているんだけどね」
「『解脱』というのは、輪廻を離れて永遠普遍な存在となるということだと理解しているが、それはキリスト教的な『神』に近いものと考えてよいか」
「キリスト教でいう神というのは、絶対的な一者ということだよな。神と人間の間を仲介するものがキリストだろ。限りある命しか持たない人間に対して、神は永遠であり、人間から神にいたる道はない。仏教ではそういう絶対的一者というか、根源的な実在者というか、そういうものは立てない。人間というのは必ず死ぬよな。あんただってそうだろ。個体というのは必ず死を迎える。人類だって永遠じゃないだろう。どんな種族だって必ず滅びる時が来る。太陽にだって燃え尽きる時がいずれはやって来るんだから、太陽の寿命を超えて人類が生き続けるとは思えないだろ。現代の物理学ではこの宇宙にも始まりと終わりがあるということになっている。よく知らんのだけどそうなんだろ?」
「そうだ。私の知識では、宇宙はビッグクランチ、あるいはヒートデスという形で死を迎えることになっている」
「人も、人類も、星も、宇宙も、安定した循環系でありながら、常に変化・進化し続ける。そして時間的に有限な存在なわけだ。だから、宇宙と人が相似であるというのは乱暴な話だが、少なくとも我々自身も宇宙の一部であるわけだから、自分を見つめることによって、何か『この宇宙に不偏的な真実』にいたる、というのが解脱ということだと、今のところ俺は理解している。まだ修行中なんではっきりしたことを言えないんだけどさ。こういう考え方は道教にもあって、老子さまは『人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる』なんて言ってる」
「それはヨーロッパ的思考法と対立させると面白い。ギリシアに始まるヨーロッパの思想では、存在はどこまでも自己に対立する、主観に対立するものとして捉えられる。外的な存在は全て主観に対立し、主観によって変えられ、利用される。つまり、あらゆる存在は人間に奉仕するためにあるのだということになる。この考えは、ギリシア哲学、キリスト教、デカルトの自然観に共通であり、近代科学技術を産んだものだ」
「うん。これは聖書にも出ているし、プロテスタントの牧師さんも言ってるんだけどさ、豚や牛は人間に食べられるために存在するのであり、人間の生命を維持するために奉仕するのである、だって。あんたみたいな『人間でない知性』のことは、欧米の人はどうとらえるのかね」
「私は人間に食べられたりはしない。ザトウクジラは国際保護動物だ。ヨーロッパの思想に対して、仏教では、主観と存在、人間と自然・宇宙を相互に関係するシステム、連続したつながりを持ったものとして考えるわけだな。宇宙というメインシステムのサブシステムとして星があり、地球という星のサブシステムとして人間やクジラがある。そして、宇宙と人は相似であるから、あるいは、宇宙と人は相互に深く絡み合った有機的なシステムであるから、自分を知ることによって宇宙に不偏的な真実を知ることができるということか」
「よくできました。あんた坊主になりなさい。クジラの和尚だ」
「海の中では檀家がつかない。それでは解脱というのは、輪廻からの解放とは無関係なのか」
「檀家だって、妙なこと知ってやがる。『迷いから悟りへ』とか『輪廻から解脱へ』とかっていうのは、もともとインドの宗教に一般的な目的でね。悟りとか解脱とか涅槃というのは仏教に固有の言葉ではない。お釈迦さまは、そういう既成の言葉を上手に使って新しい教えを分かりやすく説いたんだな。仏教の根本的真理のひとつに『無常』ということがある。一切のものは移り変わる。すべてはうつろいゆく存在である、ということだな。しかし『すべてはうつろいゆく』という真理はいつも変わらない。移り変わりゆく事物を輪廻に例えると、『無常』という不偏的真理は解脱という言葉に例えることができるということじゃないかな。
 不偏的真理を知ることによって、有限な存在であることの苦しみから逃れるとでも言うか。まあ、我々はいずれ必ずやって来る死に向かって驀進しているわけでさあ。今日一日生きたってことは、一日分だけ死に近づいたってことだから、『今日一日生きた』って言うのと『今日一日死んだ』って言うのは同じ意味なんだよな。生と死は同じ意味なのよ。言葉の遊びだけどさ。生と死が同じならば、死を悲しむ必要はない。無常が常ならば、常ならざるを悲しむ必要はないってえことかね。お釈迦さまは息をひきとられる時にこうおっしゃっている。『私の肉体は滅んでも、法(ダルマ)は不滅である』と」
「興味深いな。あなたともっともっと話したい気分だ」
「俺もだ。ソビエト崩壊のときあんたがどうなったのか詳しく聞きたいな。それにあんたに会ってみたいよ」
「それもよいな。どこかの海で待ち合わせよう」
そして、ある晴れた夜の海。満天の星の下、ボートに乗った僧と、その横に浮かぶクジラ。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2004年4月〜6月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2004年10月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2004年春の号
季刊カステラ・2004年秋の号
『カブレ者』目次