147. 東京の大手濠から神田川まで

著者=近藤 純正
東京大手町の大手濠から北に向かって神田川まで、さらに秋葉原 の電気街までを往復した。(完成:2016年7月10日)

トップページへ 小さな旅の目次



東京大手町の気象庁で観測中の時間つぶしに、千代田通りを北上し、お茶ノ水駅から東へ 向かい神田川沿いに歩いて秋葉原の電気街まで買い物に行くことにした (2015年10月16日)。

千代田通りからお茶の水にかけては大学や大病院が多い。左手に目立つのは明治大学の高い ビル。杏林堂病院や日大病院があり、お茶ノ水駅を過ぎると真正面に東京医科歯科大学と 付属病院、その西側に順天堂大学と付属病院がある。

東京医科歯科大学の学園祭「第64回お茶の水祭」の横断幕が張られている。あすの 17日と18日開催の準備らしい(写真①)。

東京医科歯科大学
写真① 東京医科歯科大学。

進路を東に変えて神田川の北側に沿って聖橋を過ぎたころ、女性から「昌平橋はどこで しょうか?」と訊かれた。私は秋葉原へ行く途中、昌平橋のほうへ歩いていたので、 同行することになる。

左手に湯島聖堂の入口がある。以前のこと、湯島聖堂を見学したことがある。ここには五代 将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟が、その近くに孔子像がある。日本の学校教育の 発祥の地であり、江戸時代には昌平坂学問所があった。

昌平橋のたもとの案内板の説明を要約すると、次の通り。
昌平橋の架設は寛永年間(1624~44)である。元禄4年(1691)将軍綱吉が湯島に 聖堂を建立したとき、相生橋(芋洗橋)の呼び名であったが、孔子誕生地・魯の昌平郷に ちなんで昌平橋と改名させられた。明治維新後に相生橋と改められたが、明治6年 (1873)に大洪水で落橋、同32年(1899)に再架設、再び昌平橋と呼ばれる ようになった。現在の橋は、昭和3年(1928)の架設である。


神田川の次の橋は万世橋である。昌平橋との間には赤レンガ造りの高架が見える(写真②)。 これは旧万世橋駅跡である。これと並んで中央線が神田駅を経て東京駅に延びる。

旧万世橋駅跡
写真② 旧万世橋駅跡。

秋葉原の電気街で部品を探した後、再び大手町の気象庁へと、お茶の水橋から同じ道を南下 する。この界隈にはたくさんの楽器店が並んでいる。

神田錦町三丁目に来て、進路を西へ変えると、古い様式の建物がある(写真③)。博報堂の 旧本社ビルの正面外観が復元されたものである。神田地区に残る学士会館、共立講堂と並ぶ 歴史的景観の一つである。

博報堂
写真③ 博報堂旧本社ビル。

続いて学士会館へ向かう(写真④)。私の仙台在住時の東京への出張時は、たびたび宿泊した ところだ。

学士会館
写真④ 学士会館。

学士会館の南西端に新島襄生誕之地の記念碑がある(写真⑤)。NHK大河ドラマ 「八重の桜」の主人公の八重の夫・新島襄である。案内板には次の説明がある。

京都同志社の創立者・新島襄は1843年(天保14年)上州安中藩主板倉伊予守の江戸 藩邸に誕生。21歳のとき函館より密かに脱国、米国に渡航し新英州キリスト教文化の根本 を体得せられた(中略)。留学十年帰郷、京都に同志社を建てキリスト教をもって徳育の 基本とした教育のためにその生涯を捧げられた。この碑は新島襄生誕百年を記念して 建てられた(昭和40年)。

新島襄記念碑
写真⑤ 新島襄生誕地之碑。

神田と大手町の間にある日本橋川の大手町側、つまり気象庁の北側には昨年(2014年) から大手町川端緑道が整備中である(写真⑥)。

緑道
写真⑥ 大手町川端緑道、正面のビルは竹橋会館。

緑道案内板
写真⑦ 大手町川端緑道案内図。

案内図(写真⑦)には江戸時代の地図が示されてあり、錦橋と神田橋の間に一橋徳川家 (御三卿)一〇万石、その南隣は越前福井藩松平越前守三十二万石とある。錦橋から神田橋 までの距離は約千メートルあり、当時の江戸屋敷は広大な敷地であったことがわかる。

トップページへ 小さな旅の目次