137. 金沢

著者=近藤 純正
2014年11月27日、金沢市内を見学した。(完成:2015年6月28日)

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空気調和・衛生工学会北信越支部の四五周年記念事業として金沢工業大学で開かれる 記念講演の講師として2014年11月27日に招かれた。

北陸新幹線が開通する2015年3月14日を控えて、JR金沢駅には「新幹線が 春を連れてやってくる」と大きな垂れ幕がかかっている(写真137.1)。 まだ工事中であるが、駅舎はユニークな造りである。

金沢駅
写真137.1 北陸新幹線開通間近のJR金沢駅。

金沢市は、私の大学の恩師・山本義一先生の出身地、お墓が大乗禅寺にあり、 27日の講演が終わったあと、墓参りした。山本先生は気象学、特に大気放射学の 世界的権威者である。地球温暖化問題が政治的社会的に大きな話題となる前の時代、 昭和30年のころから注目し、炭酸ガスによる地球温暖化の計算を開始していた。 1957(昭和32)年の朝日新聞にも論説が掲載されている。

先生は1980(昭和55)年に仙台で亡くなられて、お墓は金沢市の大乗禅寺に あり、一周忌のときに墓参りしたことがある。あれから30年余も経ち、金沢市も 大きく変化していた。

11月27日の講演会が終わってから大乗禅寺まで車で送ってもらう。 広大な丘稜一帯が大乗禅寺であり、その入口で下車(写真137.2)。ずいぶん奥にある 事務所で墓の場所を教えていただき、墓参できた。

大乗禅寺入口
写真137.2 大乗禅寺の参道への入口。

金沢は百万石の加賀の国、観光の街を感じさせる。翌28日の午前中は観光バスに 乗車、金沢駅東口――ひがし茶屋街――天徳院――長町武家屋敷――兼六園 ――金沢駅のコースを観光した。

ひがし茶屋街(写真137.3)では入口までガイドさんが案内、あとは自由散策。ここは 文政3(1820)年加賀藩の政策により整備され、天保2(1831)年に一度廃止された が慶応3(1867)年に再び茶屋街として公認された、と立札に説明されている。

ひがし茶屋街
写真137.3 ひがし茶屋街。

天徳院
写真137.4 天徳院。

天徳院は元和9(1623)年加賀藩三代藩主前田利常が、24歳の若さで亡く なられた正室・珠姫さま菩提のために創建した寺院である(写真137.4)。

珠姫は徳川二代将軍秀忠の次女として生まれ、3歳のとき加賀の国へ輿入れ、 14歳で利常と結婚、夏姫を出産後亡くなる。天徳院内ではからくり人形 「珠姫・天徳院物語」が上演された。院内には珍しい品々が展示されているが 撮影禁止であった。

長町は、かつての藩士が住んでいた屋敷跡、昔の情緒と風情を残しつつ現代の 市民生活が営まれている(写真137.5)。

武家屋敷
写真137.5 長町武家屋敷。

兼六園は日本三大名園の一つ、江戸時代の林泉回遊式庭園の特徴を残している (写真137.6)。総面積は11ヘクタール余、さすがに観光客も多い。管理する作業人に 訊ねると年間の管理費が3億円だという。観光客が多いのでそれが充てられている ようだ。

霞ヶ池
写真137.6 兼六園霞ケ池。

唐崎松
写真137.7 兼六園唐崎松。

冬の雪に折れないように張りめぐらした縄の雪吊りが美しい(写真137.7)。 案内書によれば、この松は「唐崎松」で、十三代藩主・斉泰(なりやす)が 琵琶湖畔の松の名所唐崎から種子を取り寄せ育てた黒松である。もともと兼六園は 金沢城の外郭として城に属した庭であった。

兼六園からお堀通りを挟んで北西側に金沢城公園が見える。白屋根に見えるのが 重要文化財・石川門である(写真137.8)。石川門は旧金沢城の数少ない遺構の一つ、 天明8(1788)年の建立。白い屋根は雪が積もったかのように見えるので、 ガイドさんに訊くと、普通の瓦ではなく、鉛の薄板で葺いてあるという。 鉛には少量の銅が添加されており、強くて酸化し難く、江戸時代の名城の姿を 美しくしている。

石川門
写真137.8 金沢城公園石川門。

金沢城は明治2年まで加賀藩前田家の居城とされてきたが、明治以後、終戦まで 陸軍の拠点、それ以後平成七年まで金沢大学キャンパスとして利用されてきたが、 現在は歴史的文化遺産としての価値が高いとして平成18年策定の「金沢城復元整備 計画」に基づいて復元整備が進められているという。

兼六園と並んで金沢城公園は加賀百万石の城下・金沢のシンボルとして復元されると、 新幹線も開通するし、ますます観光客も増えるであろう。

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