131. 埼玉県の熊谷

著者=近藤 純正
埼玉県の熊谷駅舎壁に展示されている鳥瞰図と駅舎前のモニュメント、蚕業試験場跡、 気象台の紹介である(完成:2014年10月24日)

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今年(2014年)は4月から月に1回の頻度で熊谷市へ行くことになった。熊谷駅の 階段を下りると駅舎の壁に大きな鳥瞰図が掲げられ、次の説明がある。

この壁画は上越新幹線開業による熊谷駅改装を記念して制作されたものです。熊谷市は 昭和8年に市になりましたが、この鳥瞰図の原画は昭和11年に描かれています。
その後の戦災と復興事業などにより市街地の様子は一変していますが、当時をしのぶ 貴重な絵です。(原画・吉田初三郎、制作・ 熊谷市)


鳥瞰図中央の右下には、「測候所」「蚕業試験場」が、その右には商業学校、農学校、 中学校、少し離れて伝染病院がある(写真131.1)。

鳥瞰図
写真131.1 熊谷市鳥瞰図。

モニュメント
写真131.2 熊谷駅前に設置されている「ラグビータウン熊谷」のモニュメント。

駅舎の前には大きなモニュメントがあり、台座には「ラグビータウン熊谷」と刻印され ている(写真131.2)。熊谷は、もともとラグビーが盛んな土地、以前に国体のラグビー 会場になったことや、ラグビーの強豪高校があることから、熊谷のイメージアップの ために設置されたようである。

熊谷は「日本一暑い街」も宣伝にしている。それは2007年8月16日に40.9℃ の日本最高気温を記録したからである。それ以前の日本一は、山形で74年間も保持 していた1933(昭和8)年の40.8℃であった。

しかし、2013年8月12日の四万十市内陸の江川崎における41.0℃の観測に より記録は更新された。

私が熊谷に行くことになったのは次の理由による。40.9℃が記録された時間帯には、 めったに吹かない北風が吹き、偶然的な最高気温ではないか、という疑問を持ったこと である。つまり、熊谷では、春から夏の晴天日中はほとんど南東から吹く風であるが、 もし北風が吹けば気温計を設置してある芝地の露場は2階建て庁舎の風下となり、 「日だまり」ができて露場だけが0.5℃程度気温が高めになったのではないかという 疑問である。

その原因を明らかにすることは、観測所環境の維持管理にとって重要なことになる。 露場の気温が風向きによってどのような分布になるかを知る目的で、気象庁の協力を 得て、4月から9月まで露場内の3か所で気温を測ることになった。気温データを毎月 パソコンに取り込むために熊谷に行くのである。

気象台(昔の測候所)の北側には埼玉県蚕業試験場があったが、現在は廃止されて跡地 は公園となり、門柱にその面影を残している(写真131.3)。

蚕業試験場跡
写真131.3 埼玉県蚕業試験場の跡地。

明治時代から昭和初期にかけて、日本の輸出品のうち金額の最大を占めたのは生糸に よるものであった。蚕業の最盛期には、日本の農家の40%が養蚕をしていた。 私のこども時代には多くの畑地には桑が植えられ、農家はカイコに桑の葉を与える ために昼夜一生懸命に働いていた。

養蚕業で思い出すことがある。明治時代に福島県二本松と宮城県金山(現在の丸森町) で製糸工場を営んでいた佐野理八は、養蚕と気象の関係が密接なことを痛感し、 金山に私設の測候所を明治31年に開設した。また、東北大学でも気象学を研究して もらうために大正7年に気象学研究室を寄贈している。この研究室は測候所風の建物であり、 私が学生時代には、この建物の一室で数年間過ごした。

東北本線が計画された明治初期のこと、丸森・角田は養蚕が盛んな地域、蒸気機関車の 煙が桑畑を汚染する心配から反対があり、東北本線は勾配の急な現在の経路になったと いう。大戦後しばらく経ってから、勾配の緩い阿武隈川沿いに福島―丸森―槻木が逐次 開通し、現在の阿武隈急行線となった。

話をもどして、私は熊谷の気象台からの帰途、気象台から熊谷駅までは歩いたりバスに 乗ったりするのだが、タクシーを呼ぶこともある。タクシーが気象台に入ってきて 私が乗車すると、運転手は、「気象台に来たのは初めてですが、暑い熊谷の気温は ここで測っているのですね?」と訊くので、私は露場の方を指さして、「あの支柱に 取り付けてある円筒形の装置の中に気温センサーが入っていて、モータで空気を吸引 して気温を測っています」と説明した(写真131.4、131.5)。

熊谷地方気象台
写真131.4 熊谷地方気象台、露場の南東方向から撮影。

気温計
写真131.5 気温計(左のポールに取り付けられた円筒形)と雨量計 (右方にあり、円筒形の風除けが付いている)。 

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