35.彦根と木之本ほかの観測所

近藤 純正

地球温暖化を示す気温は都市化の影響の少ないとみなされる 気象台・測候所の値が用いられているが、それらの多くは都市に 設置されており、そこで観測される気温データには、人工熱の影響や コンクリート建築物・舗装道路の増加と、植生地の減少によって起きる 都市特有の気温上昇が少なからず含まれている。

2004年11月22~25日、彦根地方気象台と周辺のアメダス観測所、農業試験場の 気象観測所を訪ね、それらの周辺環境を観察した。その結果、琵琶湖東岸北部 の内陸に位置する木之本(当初の郡役所、農業試験場湖北分場など)は気象 観測所として最適だと判断できた。

一方、現在アメダスが設置されている今津と虎姫は、明治時代に郡役所が 設置され、そこで気象観測が行なわれていたが、小都市ながら都市化の影響 による気温上昇があり、長期の気象観測所としては不適と判断できる。また、 琵琶湖北部の竹生島でも明治時代から気象観測が行なわれてきたが、 小さい島で傾斜が大きいため、観測露場が狭い場所にあり、これも長期の 気象観測所としては不適と判断できる。

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琵琶湖周辺の鳥瞰図
これから訪れる琵琶湖周辺を鳥瞰図によって眺めておこう。この鳥瞰図は 琵琶湖北部の西にある百里ケ岳(標高931m)の上空40kmから東南東方向 に眺めたものである。琵琶湖の大きさは南北(図の左右)約60km、 東西(上下)10~20kmであるが、上空の斜め方向から眺めているので、 この図の東西(上下)方向は縮小して見える。
長野盆地の鳥瞰図
この鳥瞰図は国土地理院発行の数値地図、および DAN杉本氏作成の「カシミール」を使用して作成した。

長浜は戦国時代、豊臣秀吉がはじめて一国一城の主として築いたところである。 彦根は江戸時代の城下町として栄えた町である。彦根城の天守は1606年 (彦根城は1622年)に完成し、1952年に国宝に指定され、姫路城・松本城・ 犬山城とともに国宝四城の一つである。

琵琶湖の面積は670平方km、深さは最深部で104m、平均水深は41m、水面の 標高は86mである。竹生島は琵琶湖北部に浮かぶ小さな島であり、周囲2km、 頂上の海抜は198m(湖面からの高さ112m)である。この島は古くから 信仰の島として崇められてきた。西国三十番の竹生島宝厳寺、国宝・竹生島 神社がある。

滋賀県の地方気象台は彦根市にあるが、滋賀県庁は大津市にある。虎姫町、 木之本町、今津町には明治時代に郡役所が設置されたところである。

彦根地方気象台
彦根地方気象台の前身は1893年に創設され、同年10月1日から観測が開始 された。場所は現在地・彦根城の南西方向にある。鉄筋コンクリート建て の現庁舎は1932年に建てられたものである。

台長・田沢秀隆さんに案内されて風力塔に登って見ると、周辺は住宅地である。 琵琶湖や彦根城を望むことができる。

彦根地方気象台

気象台屋上から琵琶湖を望む

気象台屋上から彦根城の遠望

彦根城の天守

彦根城天守から見た気象台(望遠使用)

彦根城から眺めた琵琶湖(望遠使用)


私が必要とする古い気象資料の項目は気象台長に前もって連絡してあった ところ、防災業務課長・山下政司さんが資料整理をしてくれてあった。 また、アメダス地点の詳細などもすぐ入手することができた。 いただいたアメダス周辺環境の地図を頼りに、木之本、虎姫、今津、 竹生島を訪ねることとした。

木之本の現在と観測所跡
木之本町役場で、昔の気象観測の場所を知りたいと聞くと、中央公民館長の 山路浩成さんを紹介していただいた。山路さんは私と生年月日が まったく同じで71歳であることがわかり、偶然のことに驚いた。

木之本は北国街道の宿場として古くから栄えていたところである。館長から、 富田八右衛門編纂「近江伊香郡誌」を見せていただいた。この本は個人 によってつくられた大作であり、上・中・下巻、全部で1781ページ、 1983年刊行である。 これによると、宿場のある街並みから離れ、人家の稀なところに現在の 北陸本線の木之本駅が明治初期に開設されている。この駅のすぐ東寄りの 場所に伊香西浅井郡役所(のちに伊香郡役所に改称)が設置された。

郡役所では1893(明治26)年から気象観測が開始された。観測所は 1916(大正5)年には伊香農学校(現在の伊香高校の前身)へ、さらに 1937(昭和12)年には現在の滋賀県立農業試験場湖北分場へ移転している。

親切にも、山路館長さんには、これらの観測所跡と現観測所を車で案内して いただいた。私は直感的に、木之本の気象データは良質で価値の高いものに なる、と思った。なぜなら、他の気象観測所と比べると、木之本ではいずれも 町外れで気象観測が継続されてきたからである。


木之本の農業試験場湖北分場の庁舎

木之本の気象観測露場(後方に分場庁舎)

木之本の気象観測露場の北方からの遠望

木之本の街並み(旧北国街道の宿場)

郡役所の建物(現在は図書館)

郡役所の前庭跡

JR木之本駅から眺めた郡役所

伊香高校(旧伊香農学校)

気象庁のアメダス(自動気象観測システム)の開始と同時に、木之本の 区内観測所は廃止となったが、同じ農業試験場湖北分場では観測は継続され ている。

農業試験場の分場長・保積隆夫さん、主査・鋒山和幸さん、ほかのご支援に より、古い気象資料の書き写しができ、さらに、パソコンに入っている 最近の気象資料の打ち出しなどをしてくださった。ここでは1992年4月から 自動観測システムが導入され、連続記録が行なわれるようになった。この 記録資料は今後の気候変動の研究に貴重なものとなる。

今津の現在と観測所跡
彦根地方気象台で教えていただいた地図を頼りに、現在のアメダスの周辺 環境を観察した。郊外にある今津中学校脇にアメダスがあった。周辺には 田んぼがあるが、最近建てられた住宅団地がしだいに増えているように 思った。

気象台の資料によれば、今津で気象観測が始まったのは1893(明治26)年に 高島郡役所である。のちに、1926(大正15)年に今津中学校(旧制、現在の 高島高校)に移転、1978年から現在のアメダス地点に移転している。

今津町役場を訪ねると、昔のことならばと、役場分館の生涯学習課の 門野晃子さんを紹介していただいた。門野さんによると、高島郡役所は 曹澤寺に置かれていて昔の写真も見せてくれた。この建物は現在も残っている。 曹澤寺は湖岸道路沿いの東側にあり、この道路沿いには古くから住宅が 立ち並んでいた地域である。

後日、湖岸沿い道路周辺の家並みの状況について、門野さんに 問合せたところ、道路(街道)の琵琶湖側に並んだ家と湖の間は距離が なく、松林などはなかったらしい。江戸時代後期の絵図や、古くからの住民 の話から推測するかぎり、琵琶湖側の家の裏は、すぐ湖岸線だったようだ。
町並みの山側(西側)、曹澤寺の西側には明治時代ころには、北沼と呼ばれる 沼が広がっていた。そのため、町並みは琵琶湖と内沼にはさまれた形の細長い ものだったといわれている。内沼の更に西側には、田地が多く、 人家は少なかったと考えられる、と教えていただいた。

次に昔の観測所跡を観察するために、まず、町役場に近いところにある高島 高校に行き、窓口で事情を話すと、教頭の川那邊 彰先生が出てこられた。 気象観測のことならばと、伴 禎先生(琵琶湖蜃気楼研究会代表)を呼び 出していただき、古いアルバムなどを探していただくと、1970年度の卒業生 記念アルバムに気象観測露場が背後に写っていた。

現状と写真を見比べると、観測露場の百葉箱跡は正門を入り玄関へ向かって 左手のところであった (下に掲げる屋上から見た校庭の写真 の中に赤の□印で示す)。下記に掲げる今回撮影した写真では正門の両側に 樹木があるが、当時の写真では樹木の背丈は観測露場・百葉箱に日陰を つくるほど高くはなかった。

現在の鉄筋3階建ての校舎は昭和38(1963)年の建築である。 それ以前は大正14(1925)年に建てられた木造2階建てであったが、 火災で焼失したため、1年以内の短期間に現在の校舎が出来上がった そうである。校舎の場所は、旧校舎のあった場所とほとんど変わっていないが、 校舎の東西方向の長さは、現在のものが若干長くなっている。

屋上に上がって周辺の写真撮影をさせて いただいた。屋上からは東に琵琶湖が見えた。


今津アメダス

中学校運動場からアメダス方向の眺め

今津アメダスの北東方からの遠望

今津の郡役所跡(曹澤寺食堂、江戸末期建造)

曹澤寺(左方に本堂、右方に食堂)

高島高校(旧制今津中学校)正門前の通り

高島高校屋上から見た校庭(赤四角は百葉箱跡)

高島高校屋上から東(琵琶湖)の眺め

これから曹澤寺へ向かおうとすると、教頭先生はさっと車を出して寺まで 案内してくださり、「詳しいことは寺で訊いてくださいと・・・」言われた ので、そこでお別れした。

曹澤寺の住職の話によれば、明治維新の排仏棄釈により寺の食堂(じきどう、 修行僧たちの食堂)であった建物が郡役所として使われていた。 これは現在も残って使われているもので、江戸末期の建造である。 寺の本堂は、当時災害でなくなっていたが、1927(昭和2)年に再建された ものという。

なお、今津町は2005年1月1日に、周辺5町村と合併し、高島町となる。

虎姫の現在と観測所跡
気象台で教えていただいた地図を頼りに行くと、姉川に架かる綿織橋が見えて、 近くにアメダスが小さな神社の脇に設置されていた。

周辺は比較的開けている。すぐそばは整地されてあり、宅地あるいは 大きな作業所が作られるのかな、と想像した。風向によっては、 風速計が近くの樹木のかげになることが気掛かりである。

風速の観測に不適当なアメダスは全国に多数あると思う。例えば、 東北地方南部3県にあるアメダス67箇所中の29箇所(約43%)は、 すぐ近くに障壁となる建物などがあり、風速の観測値に代表性がない (近藤・桑形、1990:天気、37、197-201)。環境調査や災害 予測の観点から、このまま現状を放置しておくのはよくないことだ。 いまや環境・防災問題は国民の関心が高く莫大な予算が使われているのだが、 こうしたことにも住民の理解を得て、予算を使って改善する必要があろう。

続いて虎姫町役場に行き、昔の気象観測のことを尋ねて、問答していると、 助役の沢田章さんが通りかかり、助役室に案内していただいた。

虎姫町の歴史書の第三章によると、虎姫町は北陸線虎姫駅の設置以降、郡の 中心的地位を占めたので、1898(明治31)年に東浅井郡役所が設けられた。 その建物や当時の町役場の建物などの写真が掲載されている。 沢田助役さんの案内で役場屋上に登り、郡役所跡、旧役場跡などを指差して 説明していただいた。この町は大きくはないが、古くからの街並み沿いに 寺や郡役所、役場、中学校があった。

気象観測は郡役所で1911(明治44)年に開始され、1926年に旧制の虎姫中学校 (現在の虎姫高校の前身)へ移転。さらに虎姫役場、虎姫幼稚園へと移転し、 1978年11月17日から現在地のアメダスへ移転している。


虎姫アメダス

虎姫アメダスの遠望

アメダス西の堤防から眺めた綿織橋

虎姫町役場屋上から寺方向の眺め

役場屋上から虎姫高校と背後の風景(東方向)

寺の左方向(虎姫幼稚園の方向)

昔の役場跡の眺め(写真中央)

虎姫の旧街道筋、西から東の眺め

竹生島
竹生島は信仰の島である。彦根地方気象台の資料によれば、1898(明治31) 年から気象観測が始まったとなっている。しかし、「滋賀県気象累年報」 (彦根測候所、昭和12年刊行)によると、1893(明治26)から38年間の気温に ついての統計資料が他の観測所とともに記載されている。また、前記の 木之本で見せてもらった「近江伊香郡誌」によれば木之本では1894(明治27) 年から32年間にわたる気温の統計資料が掲載されている。 これらを総合すると、滋賀県ではかなり古くから気象観測が開始されていたと 思う。

彦根港発の観光船で竹生島に渡り、納経所で事情を話すと、1934年生まれの 岡崎さんを紹介していただいた。1978年まで行なわれていた観測露場跡に 案内していただいた。月定院から観音堂に通じる通路の脇(左手)、 己月館から見下ろす石垣の下のあたる場所で気象観測がされていた。 そこは芝生が生えていたのかと聞くと、畑のようになっていたという。 現在はその場所に昨年(2003年)から発電機室が建てられている。

観音堂に数メートル進み2~3段の石段を上がると右手の植栽の中に雨量計 あった。この雨量計は記念品としてこの場所に置いてあるという。


船着場から竹生島観測露場跡を見上げる

竹生島観測露場跡(現在、発電機室)

観測露場跡の脇から見下ろす

竹生島の立枯れ樹木

立ち枯れ樹木(望遠使用)

竹生島全景

竹生島からの帰りは、こんどは観光船で長浜港に向かった。 竹生島を振り返ると、島の北側半分の大部分は立ち枯れ樹木で覆われている。 立ち枯れについて尋ねると、琵琶湖周辺で生活する多くのカワウの棲みかと なり、多量の糞によって樹木が枯れているという。人間による開発によって、 鳥たちの住む場所が少なくなり、この島に密集することになったのか!

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