3.気候変動と人々の暮らし ―歴史に学ぶ―
著者:近藤純正
    3.1 年貢米の変遷から見た江戸時代後半
    3.2 天保大飢饉をもたらした天候の推移
    3.3 夏の平均気温と米の収量の関係
    3.4 火山噴火と冷夏

    3.5 気温に及ぼす噴煙の影響
    3.6 海洋変動との関連
    3.7 冷害のまとめ
    3.8 災害克服の歴史ー発展途上国から先進国へー
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現在、石油など化石燃料の大量消費によって大気中の二酸化炭素が 増加している。これが地球の温暖化をもたらし、異常気象と気象 災害を増加させるかもしれないと考えられている。気候の変動に ともなう冷害、干ばつ、集中豪雨は人々の暮らしに影響する。

東北地方の青森県~福島県までの6県は、日本国土の約18%の面積 をもち、人口は約8%であるが、コメの生産量は全国の約28%を 占めている。これが、東北は日本の穀倉地帯といわれるゆえんである。 そのため、気候異常による災害にしばしば見舞われ、悲惨な歴史的 記録も残されている。

昔の日本は、主に干ばつと洪水によって飢饉に見舞われ、 現代のアフリカなど発展途上国の姿に似ていた。われわれの先祖は どのようにして飢饉を克服してきたのだろうか。

まず、約170年前に起きた天保飢饉当時の状況を調べ、小田原藩領 における状況と比較する。次いで、過去数百年間をみると、40~50 年ごとに冷害による凶作・飢饉の頻発時代があり、これらは世界的な 火山噴火と関連している。さらに、江戸幕府が開かれて以来、森林 保護・河川改修・灌漑により大規模な干ばつと洪水はなくなってきた。

過去の歴史記録から、気候変動と人々の暮らしのかかわりを学び、 人間の英知について、さらに地球環境問題についても考えてみよう。

この章は近藤純正著「身近な気象の科学」8~9、13、17~18章のまとめである。


3.1 年貢米の変遷から見た江戸時代後半

小田原藩年貢米の変遷
図3.1 小田原藩の本領地(相模、伊豆、駿河)と関西領地(河内・美作、 または河内・摂津)における年貢米の変化(二宮尊徳全集、第14巻; 神奈川県史資料編5 近世(5)に基づく)。

図3.1は江戸時代の小田原藩における年貢米の年々変化である。 この図において、2点に注目したい。

○富士山1707年(宝永4年)大噴火の影響

1707年10月20日の大噴火で関東一円に火山灰が降った。この噴火によって できたのが宝永山である。

火山灰により武蔵・相模・駿河の三国は大きな被害を受けた。 元に復するのに1790年ころまで、約80年間の年月がかかっている。

○天明飢饉と天保飢饉における減収

図に黄色の縦帯は、天明飢饉(ききん)1783~1786年と 天保飢饉1833~1838年の期間を示している。

年貢米は米の収穫高ではないが、その一定の割合が年貢米と されていたので、年貢米の変動は収穫高の変動と見なしてよいだろう。 関西領地(緑色の折れ線)ではたいした減収はみられない。

本領地(赤色の折れ線)では、飢饉年の減収は20~30%である。 この減収でなぜ何十万人という人々が餓死したのか?
当時の日本の人口は現在の1/4程度であったことを考えると、 すざましい飢饉である。それには、一つには社会・政治に問題があり、 もう一つは東北地方がさらにひどい減収となっていたことである。

高等学校日本史の教科書を参照すると、天明の大飢饉における惨状は 言語に絶するものがあり、多くの人々が乞食(こじき)にでた・・・。 賄賂(わいろ)がしきりにおこなわれ、役人の地位も金で売買されるように なったから、幕府の統制力も衰えた。飢饉で数十万人におよぶ餓死者 (がししゃ)をだした。このため百姓一揆(ひゃくしょういっき)や 打ちこわしが各地でおこった。・・・と書かれている。

1783(天明3)年には浅間山の大噴火による被害があった。 浅間山の周辺では溶岩流と火山灰がひどく死者2万人余がでて、 51ケ村が荒廃した。150km離れた江戸にも火山灰が3cmほど降り積もった。
ちょうどこの年には、アイスランドでラキ火山が噴火し、溶岩と ガスが噴出した。アイスランドでも大飢饉があった。火山ガスは 1,500km離れたイギリスにも広がり、異常な霞となって現われ、さらに 世界中に広がった。

つぎに、天保の大飢饉時代の社会・政治を高等学校日本史の教科書からみると、 将軍家斉(いえなり)は華美な生活をこのみ、政治の綱紀(こうき)も ゆるんで、いわゆる文化文政時代の退廃した空気をうむこととなった。 凶作が連年のようにおこり、農村はもちろん、都市にも困窮した人々が 満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが各地で続発した。しかし、幕府や 諸藩はなんら適切な処置をとることができなかった。
1836(天保7)年の飢饉ははげしく、大坂でも餓死者があいついだが、 豪商は米を買い占めて暴利をえた。幕府は大坂の米を江戸へ廻送させようと した。大坂町奉行所の元与力(よりき)であった大塩平八郎は、1837年、 民衆を動員して富豪をおそい、金穀をうばおうとしてたちあがった。 これは「大塩平八郎の乱」である。
これは明治維新1868年の30年前の出来事であった。

3.2 天保大飢饉をもたらした天候の推移

現在ではコメは北海道でも生産されるようになったが、 当時の東北地方はコメ生産の北限的な位置にあった。そのため、 関東以西にくらべて、冷たい夏の影響を受けやすく、極端な場合には 生産量皆無のところもでてくる。

仙台・伊達藩の一門、2万3千石の涌谷城主・伊達安芸の家臣であった 花井安列による日記には1833(天保4)年から1847(弘化4)年までの 14年間にわたり、毎日の天候記事が書かれている。

その書き方は、たとえば暑さについては「暑く御座候」「大暑」「暑甚敷」 「難渋暑」「近年覚無之暑気」など、寒さについては夏でも「冷気」 「寒い日」「寒くて袷や綿入れを着る」など、雨については「雨少々」 「雨しめる程」「大雨」、風については風向のほか「風」「大風」 「しけ」「大嵐」などである。

仙台周辺の地図
図3.2 宮城県涌谷付近の地図。

このように気温、風速、雨量などが量的な言葉で表現されているので、 これら気象要素の時間変化を総合的に見ていると、台風が来た日などが ありありと想像できる。この日記には稲の作柄や桜の開花などのことも 書かれている。この日記を「天候日記」と呼ぶことにした。

この日記を分析し、天保大飢饉年の天候がどのように推移したかを 明らかにしたいと考えた。

まず、夏の米作期間中に「冷気」「寒い日」「寒くて袷や綿入れを着る」 の記述がある日を「冷涼日」とし、「大暑」「暑甚敷」など大変暑いの 記述がある日を「大暑日」とする。

大暑日と冷涼日
図3.3 天保7(1836)年の夏の天候。比較のために天保5年(豊作年)と 天保10年も示した。(「身近な気象の科学」 (東京大学出版会)、図8.4 より転載)

図3.3は天保7(1836)年の夏の天候を再現したもので、6月14日ー 9月20日を表わしている。この季節は当時の平均的な稲の田植えから、 稔るまでに相当する。なお、日付は旧暦から現代の新暦に換算してある。

図によると、天保7年は6-7月は雨の冷涼日が多い。8月も雨が多く、 大暑日は2日間で終り、9月に入るなり寒くて綿入れを着ている。 このように寒冷多雨で日照が少なく稲の育ちは大幅に遅れた。

翌春に入ると米が不足し、飢えて死ぬものが出はじめた。涌谷にある 4寺の過去帳によれば、この飢饉による死者はこの地方の人口の 15~20%である。

天保7(1836)年はコメが平年のわずか10%しか収穫できなかった。 社会的混乱と悲惨な記録を当時の別の資料から見ることができる。 その一部を抜粋し、以下に示す。ただし、当時の文章は難解であったが、 「どんな文章も百回読めば解る」ということわざに習い、30回 ほど読めば解ってきた。そこで原文の形はできるだけ残し、 多少現代の字・語に書き直して記載した。

悲惨な記録
こうした社会状況において、仙台藩伊達の殿さまはどうしていたか?
資料を探すと、郁右衛門という者が記録した日記には、 次の内容が書かれていた。

(現代文に書き直した内容):
参勤交代で江戸にご滞在中の屋形様=12代 藩主・伊達斉邦(なりくに、学問に優れた藩主)=は国元の凶作は いかがかとご心痛で、夜な夜なご快寝できず、 八月十三夜の月に題して、

 『故郷の秋を思えば 長月の、照るかけ さへも 見る空そ なき』

と詠まれましたところ、あとで、これは江戸中に広まりました。

次に、夏の期間について花井安列は気温が何度以下のときを「冷涼」、 また何度以上のときを「大暑」と感じたのかを現代の気象資料をも 参照して検討した。(詳細は省略)

ひと夏の「大暑日数」と「冷涼日数」の差から、その夏の3ヶ月間の平均 気温を±0.3℃の誤差で推定できた。その結果、天保7年の夏は気候平均値 より2.8℃も低温であった。気象観測時代に入ってからの冷たい夏のうち、 1905(明治38)年や1913(大正2)年は気候平均値より2.2℃の低温であり、 1993(平成5)年は2.0℃の低温であったが、天保7年は、これら大冷夏を しのぐ大冷夏であった。

3.3 夏の平均気温と米の収量の関係

コメの単位面積当りの生産量(単収)は農業技術や時代によって変化 してきた。それゆえ、ここでは作況指数(その時代の平均収量を 100として表わす)と夏の気温偏差との関係を調べることにする。

作況指数と気温偏差
図3.4 米作期の夏の気温偏差と米の作況指数との関係。これは宮城県 についての関係であるが、東北6県平均についてもほとんど同じ。 +印は天保年間、□印は1975年以後、○印はそれ以前。 (「地表面に近い大気の科学」 (東京大学出版会)、図9.1 より転載)

図3.4は夏の気温偏差(または6~8月の平均気温の近似値)と作況指数の 関係を示している。この関係は昔も現代も変わらないことがわかる。 注目すべきは、気温偏差が-1℃以内なら、収量は約10%以内の減収であるが、 それより低温の冷夏年には、気温偏差0.5℃ごとに20%の減収となる。

このわずかな気候異常が社会に大きな影響を与えることになる。3ヶ月間 の平均気温で±1℃以上の偏差があったとき「異常」と呼ぶのは、 このことからも理解できるであろう。

3.4 火山噴火と冷夏

花井安列の「天候日記」に注目すべき記述があった。 それは大飢饉年の前年1835(天保6)年4月1日付けに、 「此節毎朝、日出赤く・・・・」と、あることである。その前後の天候 状況から、この朝焼けは普段見られるようなものではないと判断できる。 火山噴火の資料によれば、その2ヶ月前の1月20日に中米ニカラグアの コセグイナ火山が噴火している。

花井安列はこの噴火の事実を知らなかったはずだが、噴煙でできた 連日の朝焼けを異常と感じて記録に残したことは驚きである。

そこで今度は、過去数百年間の火山の大噴火(噴煙が成層圏まで吹き上げられ 数年間大気中に浮遊するような大噴火)と日本の大飢饉・大凶作 との対応関係を調べた(図3.5)。

大噴火地図

図3.5 東北地方の大飢饉・大凶作の直前に起こった火山の大噴火。 (「地表面に近い大気の科学」 (東京大学出版会)、図9.2 より転載)

1902~1906年に中米グアテラマのサンタマリア火山が噴火し、1905・1906 (明治38・39)年には東北地方で大凶作が発生した。この大凶作で 北海道へ多数の人々が移住している。宮城県志田郡地方の記録によれば、 郡民人口の約44,000人の中で約30%が窮民となり、18%が労働に 耐えられないほどの身体状態となった。1905(明治38)年の宮城県の 作況指数は12で、1836(天保7)年のそれに匹敵している。 ただ不幸中の幸いは、それ以前に比べれば運輸交通の便がよくなり、 また外米の輸入が可能であった。

1991年6月15日、フィリッピンのピナツボ火山が噴火し、その2年後の 大冷夏により平成の大凶作が生じた。

世界的な大噴火によって、日本の、特に東北地方で夏の気温が実際に いくら下がったかを調べてみた。

金華山の気温偏差
図3.6 近年165年間の6~8月の気温偏差の年々変動。ただし、天保年間 は「天候日記」の資料に基づき推定、1882~1991年は金華山灯台の資料、 1992年以降は石巻測候所の資料に基づく。 (「地表面に近い大気の科学」 (東京大学出版会)、図9.3 より転載)

図3.6よりわかることは、火山の大噴火があると、その直後の3年間のうち 少なくとも1回は東北地方で大冷夏となる確率が90%以上と高い。

3.5 気温に及ぼす噴煙の影響

火山の噴煙によって、太陽光は遮られ、地球表面に到達する日射量が減り、 その結果、気温が低下するように思われがちだが、この過程はそう 簡単ではない。

大噴火による噴煙が地球の成層圏(高度約10km以上の上空)を覆うと 地球に注ぐ太陽エネルギーは約0.8%減少する。

地球が受け取るエネルギーがこれだけ減少したとして計算すると、 地球の温度(大気と地表面を含めた温度、地球の放射平衡の温度、 第1章を参照)は約0.5℃低下する。しかし、図3.6に示したように、 金華山の夏の平均気温は1~3℃も低下している。

さらに注目すべきは、大噴火後の気温低下は世界中で同じように 生じているわけではない。(1)世界の中緯度で平均してみると 地上気温は約0.2℃の低下であるが、(2)逆に気温が上がる地域もある。 つまり、日本で冷夏なのに、アメリカ南部や、シベリア で異常高温が生じることがある。

この現象はどのように考えればよいか?
火山の大噴火が地球の気温を変える過程として、次のことが 考えられる。すなわち、噴煙ガスが成層圏に吹き上げられ、 20日間程度で世界を一周し、地球上に注ぐ日射が妨げられ、 地球の熱収支関係がわずか変化する。この新しい熱収支関係を 保つために、それまでの平均的な大気大循環パターンが特に 中緯度で変化し、地球上のある地域では平年に比して北よりの 冷たい風が、また別の地域では南よりの暖かい風が吹きやすくなる。

これを日本付近に当てはめると、大気大循環パターンの変化により、 オホーツク高気圧が北海道東方に停滞することが多くなる。 その結果、北海道や東北地方では冷たい偏東風「やませ」が 吹く日数が多くなる。その模式図を図3.7の右に示した。

夏の気圧配置
図3.7 夏の典型的な気圧配置。左:暑い夏、右:冷たい夏

3.6 海洋変動との関連

次に示す図3.8は水田面積10アール当たりの米の収量(単収)の時代 変遷である。黒丸印は冷夏大凶作年である。破線は大凶作の限界を示し、 その増加直線の中に折れ目、すなわち成長率が急に大きくなった時代が 2ヶ所見える。その1は1887年の頃、その2は太平洋戦争終結(1945年)から 約10年後である。前者はわが国における産業革命の時代といわれている。 両者とも工業化と農業生産とが連動している。

図でもう一つ注目すべきは、1980年代になって、それまで100年間も 続いてきた単収の増加傾向が止まったことである。コメ余りからやむなく、 いわゆる「減反政策」により稲の作付面積は減少しはじめ、 外国からの圧力や農業支援の軽減化に伴ない、生産意欲がしだいに 減退していく状況がこのグラフに現われたのであろう。

米の収穫高の変遷
図3.8 米の単収の時代変遷、1833年から1998年まで、ただし東北6県の 平均値。(「地表面に近い大気の科学」 (東京大学出版会)、図9.8 より転載)

凶作はある時代に集中して頻発する傾向が見られる。図に示したのは 近年の165年間であるが、過去330年間にさかのぼって調べてみても、 40~50年ごとに凶作の頻発時代があることがわかった。

大凶作のうち約60%は、世界的な火山大噴火の直後に起こっている。 しかし、例えば、昭和初期に頻発した大凶作群(1931、1934、1935、 1941、1945年)は火山大噴火と対応していない。

これを探るために、いろいろ調べていると、昭和初期は三陸沖の 海水温度の異常低温であったことがわかった。つまり、1923~1945年 の23年間の海水温度の平均値はそれ以後よりも1.4℃も低温 であった。特に宮城県から福島県の沖が低温であり、北方の北海道沖 や南方の房総半島沖から八丈島にかけては、この傾向を見ることは できない。

宮城県から福島県沖は親潮(寒流)と黒潮(暖流)のぶつかる海域 である。その境界は数十年間の周期でシーソーのように、 北に偏ったり南に偏ることを繰り返している。

漁獲高も数十年の時間スケールで変動していることがわかった。

ニシンとサンマの漁獲量
図3.9 日本全国におけるニシンとサンマの漁獲量の年々変動。 (「身近な気象の科学」 (東京大学出版会)、図13.5 より転載)

図3.9はニシンとサンマの漁獲量変化である。北海道でニシンが大漁の 時代、漁で儲けた網元の家は御殿とよばれるほどの豪壮であった。 しかし、明治時代まで大漁が続いていたニシンは、しだいに不漁と なり1955(昭和30)年ごろから、ほとんど獲れなくなった。

一方、サンマは1950年ごろから急に獲れるようになり、1955(昭和30)年 ごろサンマの歌が流行した。タレントの明石屋サンマさんが子供のころ、 「サンマをいやというほど食べさせられた」という話を聞いたことがある。

次の図3.10は世界的にみたマイワシとニシンの豊凶の時代の繰り返しを 示したものである。

世界の漁獲の豊凶の波
図3.10 マイワシとニシンの大漁期間(横線)。参考のために最上段には 東北地方における1670年以降の大冷害凶作頻発時代を示した。 (「身近な気象の科学」 (東京大学出版会)、図13.5 より転載)

図から次の傾向が見られる。
(1)北海道のニシンは50~100年ごとに豊凶があった。
(2)スウェーデン沿岸と隣国ノルウェー沿岸でのニシンは、約100年ごと 交互に、一方が大漁なら他方は不漁となっている。
(3)マイワシは、日本近海・米国西岸・アドリア海(地中海のイタリア 東方)ではほぼ同じ4つの時代に豊漁が見られる。

3.7 冷害のまとめ

この数百年間、東北地方で起きた冷夏・凶作は次のように要約できる。
(1)世界的な火山大噴火が起きると、その直後には冷夏となる。
そして大凶作となる確率が高い。しかし、稲作にとって 出穂期や開花期など重要な時期と、冷夏中の低温期がずれれば、 大凶作にはならない。
夏3ヶ月間の平均気温が気候平均値より1℃以上低温であれば 大凶作となる。
(2)冷夏大凶作の約40%は大噴火と無関係に起きている。
例えば、昭和初期の凶作頻発時代がそれにあたる。

3.8 災害克服の歴史ー発展途上国から先進国へー

これまでは冷夏による凶作を見てきた。干ばつや洪水による飢饉・凶作は どうか?

凶作原因の変遷
図3.11 1300年以後におこった凶作の気象原因比率の変遷。 (「地表面に近い大気の科学」 (東京大学出版会)、図9.7 より転載)

図3.11は1300年以後におこった凶作の気象原因比率の変遷 である。凶作全体に対する各原因の比率で示した。 江戸時代半ば以前には干ばつと洪水が繰り返されており、これは 現代の発展途上国の姿に似ている。

日本では1600年以後の天下太平となった幕藩体制下においては、 各藩は自国の安定と発展のために河川の改修、灌漑、森林保護策によって、 干ばつと洪水は時代とともに克服されていった。干ばつと洪水を 克服するのに、300年間にわたる先達の努力があったのである。

河川の改修と灌漑の代表的なものをあげると、
(1)北上川の第一期改修事業:1911~1934年
(2)信濃川の分水工事:1870、1909~1913年
(3)木曽川改修の命:1753年、薩摩藩の集団自殺事件
そのほか日本各地、いたるところにその跡が見られる。

図の1700年代には虫害が示されている。1732年の享保大飢饉は全国的な もので、とくに西日本ではひどく、約97万人が餓死したと歴史書に書かれて いる。

近年の研究によれば、虫害をもたらすウンカは中国南部で発生し、 上空の風にのって日本に運ばれてくるらしい。虫の異常発生も気象 異変と関係していると思われる。なお、図3.11は宮城県についての 統計であるが、東北6県についても、関係はほぼ同じである。

まとめ=暮らし方の選択

これまで、おもに冷夏による凶作の歴史を中心としてみてきた。
いま、地球環境問題が深刻な方向に向かっている。二酸化炭素などは 温室効果ガスと呼ばれており、これら人為的に放出される気体の増加に よって地球の温暖化が進む。前述のように、 平均気温がわずか1℃も変化すれば異常である。

フロンガスが大気中に放出され、いろいろな化学反応を経て、上空の オゾン層が破壊されオゾンホールが 生じている。空気の大部分は窒素と酸素からなり、二酸化炭素は0.03% 程度の微量だが、それよりもっと少ないオゾンは上空の成層圏を薄い ベールのように包んでいて、生物に有害な太陽からの紫外線をカット している。オゾン層が破壊されると、地上には有害な紫外線が注がれる ことになる。

森林が伐採されたり、手入れが不十分になると、山に降った雨水の貯留 状況や河川への水の出かたが変わる。わが国の森林木材は商売に ならないので、大部分の木材は輸入に頼っている。森林が無秩序に 伐採されると、土地が荒廃し水資源の不足と なり、さらに二酸化炭素の吸収が少なくなる。また、食糧の生産 のために森林の破壊が進むと砂漠化し、いろいろな影響がでてくる。

その他、環境問題はいろいろある。これからは狭い意味の経済、すなわち 儲け第一主義では成り立たなくなる。それを改めるには、私たち 一人ひとりの思い、意見が生かされた環境重視の社会にならなければ ならない。

環境問題は、結局は、私たち一人ひとりの暮らし方にかかっている。

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