K214. 過ごした時代、大自然に遊ぶ


これは「日野幹雄先生米寿記念文集」への寄稿文である。
本文の内容は、筆者・近藤純正の過ごしてきた時代と研究の概要である。
戦争による物資不足・飢餓の時代、そして戦後復興にともなう電力不足となる。 当時の主な発電は水力発電であり、ダムの建造、人工降雨の実験が開始される。 貯水池の蒸発による水損失量の評価のために十和田湖の蒸発の研究を1956年に 始めた。
台風による死者は数百人から数千人の時代であった。1959年9月の伊勢湾台風による 死者5千人を出した大災害により防災意識が高まる。数値天気予報の精度向上の 目的から国際共同実験「気団変質実験AMTEX」(1975年、1976年)が行われる。
水資源が課題となり、各分野をまとめた水文・水資源学会が設立された(1988年)。
気候変動・地球温暖化が社会問題となってきた。気象庁による日本の地球温暖化量 の評価に疑問を持ったことから、正しく評価するための活動を行うことになる。 (2020年12月22日作成)

キーワード: 戦中戦後、氷山運搬計画、80日間砂時計、砂漠気候、 十和田湖の蒸発、極小低温層、KEYPSの式、気団変質実験 AMTEX、バルク法、 間欠乱流、カルマン定数、河川改修と魚の大量死事件、地球温暖化、 伝導・乱流と放射


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2020年12月28日:掲載
    目次
        1 私の略歴  
        2  日野幹雄さんとの関係
        3  私の専門
        4 米寿おめでとう
        5 私たちの少年時代、戦争と革命

        6 学生時代~若い時代
        7 カルマン定数のこと
        8 野外観測は桁違いに難しい
        9 日野さんは日本有数の勉強家
       10 日野さんからの約15年ぶりに便り

       11 水文・水資源学会の発足
       12 河川改修と魚の大量死事件
       13 現役引退後
       14 むすび        
       文献     



(日野幹雄先生米寿記念文集)

過ごした時代、大自然に遊ぶ
近藤 純正


1 私の略歴

1933年(昭和8年)9月30日高知県伊野町(江戸時代以前からの和紙の産地)、 仁淀川のほとりに生れる.1957年東北大学理学部地球物理学科卒業、1962年 同大学院理学研究科地球物理学専攻修了、同理学部技官・助手・講師、1967年 科学技術庁国立防災科学技術センター(現国立研究開発法人防災科学技術研究所) 研究室長、1973年東北大学理学部助教授、1979年同教授、1997年定年退官、 東北大学名誉教授


2 日野幹雄さんとの関係

日野さんより私は1歳若く、専門が重なる部分が多い。日野さんは日本海に 面した雪の多い北国のコメ産地の秋田県、私は太平洋に面した雨が多く平野 の少ない南国土佐・高知県の出身。両県は大きく違うようでありながら似ている。 昔、私がはじめて聞いた秋田県の人の話に関西言葉のなまりがあり、北前船 の航路にあったからだと思った。言葉は面白い。初対面の人に「近藤さんは 高知県出身ですね?」と訊かれたことがある。「水」は「みず」と発音する が私は「みづ」と発音する。高知県には古語の発音が残っている。 「借りてくる」は「かってくる」、「買ってくる」は「こうてくる」という。 脇道に逸れたが、そのほか、現在の秋田県と高知県はよく似たところがある。 現在は、お互いに相模湾に面した気候のよい湘南地方に住んでいる。日野さんは、 小説なども含めた読者家で、「これは面白いので近藤さんも読んでごらん」 と何度か薦められたことがある。

二人が歩いてきたのは同じ大きな道、互いに見える位置で時には会うことの できる距離にあった。土木工学と気象学、ともに基本的な問題に取り組んできた。 戦中戦後の食糧不足でコメのご飯もたまにしか食べられない飢餓の時代、 思想・言論の自由が許されなかった軍国主義の時代、アメリカのB29爆撃機から いつ爆弾が落ちてくるのか、高度30mほどの低空に突如現れる空軍機からいつ 機銃掃射されるか分からない時代を生き抜いてきた。そして終戦という大革命、 大地主の田畑は耕作している小作人の所有となる。貧しくとも自由で夢の持てる 時代へと変わった。共通する時代を生きたことを示すために、以下では私の ことを主に書くことになる。思いつくまま書くゆえ、時代は前後することがある。


3 私の専門

気象学、大気境界層物理学とくに熱収支・水収支論。
54歳頃までは研究一筋、その後は市民活動を応援し1987年夏の仙台港で開催 された「未来の東北博覧会」では市民の発案による「氷山を北極海から運ぶ プロジェクト」があり学問的指導を行う。発案者は当初、雪氷の専門家を訪ねた そうだが相手にされず、最後に非専門の私のところへ相談にきて実現。 経費の問題でグリーンランドから20トンの氷山のかけらを貨物船で運び 「氷の館」に展示した(近藤、1987a)(註1)。

1989年夏の80日間にわたる「グリーンフェア仙台=花と緑の博覧会」では、 市民の発案による80日間砂時計の指導を行う。「大砂時計館」に展示された 砂時計は、誤差0.04%(50分間)の精度で80日間の時の流れを表わした (近藤、1989)。 時の流れを終えた大砂時計は、現在、泉図書館の北側に展示されている(註2)。

こうした活動の過程で私は大自然を学んだ。大砂時計の製作前に8時間計、 24時間計、1週間計で試験すると砂時計の中に大自然があることを知った。 温度と気圧と風の関係がオリフィスを落ちる砂の速さとなって現れる。 その原理は海陸風、季節風などと同じだ。上部砂だめで崩れ落ちる砂流と 下部砂だめの造形は粉体工学・土石流などと似ており、砂と空気間の水分交換 など物理過程が単純化されて見えた。

この時期、私は同時に森林水収支の研究も始めていた。降雨で濡れた樹木の 幹の乾燥速度を測る実験中に、厚い物体や地面が湿っているときの蒸発速度は 風速に比例するが、しだいに表面から乾燥してくると、蒸発速度は風速に依存 しなくなることがわかった。砂漠における水循環、お菓子・干物・厚物衣類の 乾燥、さらに電気回路の電流、人体のエネルギー・水循環の過程が同じである ことに気づいた。24時間砂時計の中の自然は面白く、気象学の講義で、教授 たちの集まりで、学会のシンポジウムで、あるときは小学生たちの集まりで 見せた。砂が狭いオリフィスを落ちる速さの変化をクイズにしたが、専門家も 小学生も同じように答えられない。専門家に「単純な砂時計の中の現象がわから なくて、複雑な大気現象を理解できるはずがない」と話しかけながら実演 した(註3)。

土壌粒子間の熱・水分輸送過程をモデル化した(Kondo and Saigusa, 1994: JMSJ, 72, 413-421)。さらに、中国の気象資料を集めて、砂漠から湿潤地帯までの 30地点の水収支の日々・季節変化を計算した(Kondo and Xu, 1997: JAM, 36, 1676-1695)。市民活動の遊びから生まれた研究である。現在の科学は多分野 に分かれているが、みな同じ自然を上下左右からその一部を見ているに過ぎない。 あれもこれも広く勉強・研究するのではなく、一つのことを徹底的に追求する ことが大切である。

(註1)氷山運搬プロジェクト
「身近な気象」の「6.氷山運搬計画」に掲載。
仙台市民の思いつきから始まったプロジェクトであり、1万5千トンの氷山を真夏の 仙台港に運び観客に北極を体験してもらうというものであった。総経費3億8,600万円 の資金集めが困難となり、規模を縮小して20トンの氷塊をパにリオン「氷山の館」に 展示した。

(註2)大砂時計の現在
「小さな旅」の「163.仙台の夜桜と大砂時計」 に掲載。
大砂時計は高さが5.5m、重さが10トン、砂だけで1.2トンもある。

(註3)砂時計
「身近な気象」の「M58.砂時計で学ぶみんなの科学 (砂漠気候)」に掲載。
小学生たちと遊びながら砂時計の中の自然を学んだ。オリフィスを流れ落ちる砂に 向かって「砂の流れ、止まっておくれ!」と心をこめてお願いすると砂の流れは 止まった。遊んだのち、小学生たち各々はペットボトルで砂時計を作った。



4 米寿おめでとう

そうして米寿までよくぞ生きてきた。日野さん、おめでとう。私たちの子供時代には 江戸時代から使われてきた水車、足踏みテコの原理で杵(きね)を上げてから自然 落下させて臼(うす)の中の玄米を精米する装置、暗い夜道を歩くのに提灯(ちょう ちん)、田舎では夜の照明は吊りオイルランプやろうそくが使われていた。電気が ひかれた町の家には真空管式ラジオがあった。田舎では病気になれば祈祷に頼り、 あるいは薬草で治していた。「病は気から」と言われるように、祈祷で直る場合も あり得たのである。大病人があれば手製の担架、あるいはリヤカーに乗せ村人たちが 協力して山道を町の医者まで運んだ。町に近い田舎では人力車が現在の救急車の役割 を果たした。結核は不治の病とされ、あっというまに死んだ知人もいた。

そして終戦という大革命、政治・社会制度が現代様式へと変化、医学も科学・技術 も大きく発展してきた。その意味で88年の間に数百年の歴史を体験してきたとも 言える。


5 私たちの少年時代、戦争と革命

私の親は小学校教師だったので、育ったのは高知市以西の各地田舎である。 土佐には南学があり、その系統には土佐藩奉行であった土木技術者・野中兼山が 造ったとされる河川施設、灌漑・水運用水路、港湾施設が残っており、目にしてきた。 里山では木登りをし、台風発生時は海岸に打ち寄せる「うねり」の下に潜り渦巻く 大波に巻き込まれない練習が遊びであった。広い仁淀川では洪水のしばらく経過後の 水流が適当になった日を見計らって川の流れを堰で2つに分けて浅瀬の魚を捕った。 別の田舎の小川では竹で造った仕掛けでウナギを捕り、罠をつくって小鳥を捕まえ 本物の焼き鳥にして食べた。戦争終結前後のコメ不足の食料難の時代を生き延びてきた。

現在と違って、川や海にはたくさんの魚介類が、野山には多くの小鳥や昆虫・蛇などがいた。戦後は農薬が使われるようになり、また河川改修が行われるようになって、川の魚はしだいに減少したように思う。 戦時中の青年は軍隊に徴用され労働力不足となる。開戦の1941(昭和16)年と終戦の 1945(昭和20)年の冷夏では大凶作となる。今の中学1年生以上は学徒動員され工場 などで働いた。沖縄の女子中学生が負傷兵の看護に動員された「ひめゆり学徒隊」 で知られている。終戦の年に日野さんは中学1年生で学徒動員されたはず。私は小学 6年生であり生徒は集団で稲刈りの手伝いに出かけた。小学校は山の上にあり、 山腹につるはしで防空壕を掘った。各地では落盤事故もあり死者もあったであろう。 運動場は走るコースのみ残し、その他は畑にしてサツマイモを作った。竹藪開墾では 根を取り除くのが大変だった。諸物は配給制で、何かを搾り取ったトウモロコシの粕 を食べざるを得なかった。

いま2020年12月10日の新聞報道によれば、新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中 に蔓延、世界の感染者=6825万人余、死者=155万7千人余、日本ではそれぞれ15万9千 人余と2488人、さらに急激に拡大中。政府は経済も重視し、補助金を出して旅行へ、 食堂へ行こうと推奨している。「二兎を追う者は一兎をも得ず」にならぬことを祈る。 勉強が十分にできない青少年たちがいる。私たちの少年時代はもっとひどく、 戦争による日本人の死者は約300万人、勉強できる状況下ではなかった。いまの青少年 たちよ、困難な時をたくましく生き抜いて欲しい。苦しい時の経験が役立つときが くるはずだ。

アメリカ軍が土佐湾に上陸する可能性があり、日本海軍の軍艦が構えていた時期も あったが、沖縄に上陸した。風船爆弾を偏西風にのせて流しアメリカの上空に着く 予定時刻に時限装置で落とす作戦、高知からも飛ばしているらしい話を聞いた。 後で調べたところ、Jacobs(1947)が風船爆弾の想定航路を求めていた (近藤、1987b:身近な気象の科学、図4.7)。現在の教育委員長に相当する視学官が 歩いて私たちの小学校に訪問する途中、道のりが長いので一休みして海岸景色を 眺めていたところ、警察官に見つかり「スパイ」容疑で逮捕されたらしいと聞いた 覚えがある。反戦行為と見なされる者は投獄された。戦時中は海岸近くにあった 私の小学校に日本軍が駐留、戦後は進駐軍に接収された学校も全国にあった。 私は思うに、現在の社会は戦前戦中の不自由で格差社会の時代に戻りつつあり、 とても心配している。戦前戦後を過ごしてきたから感じるのである。

終戦が明治維新と同等の大革命、戦後は自由な時代となった。私は翌年の1946年春 に旧制中学校の最後の入学生となる。中学校の大先輩には寺田寅彦がいる。中学校は 途中で新制度となり中学・高校と6年間を同じ校舎で過ごした。現在の管理体制下の 社会では信じられないほどの自由な時代、何をしても良い時代であった。中学校の 国語文法の先生は数分間の文法を教えたのちは「三国志」を読み聞かせ生徒は熱心に 聴いていた。読書の面白さを伝える授業であった。現在ならクビになるかも知れない。

高校には口径20cmの反射式天体望遠鏡があり、屋上で徹夜観測し、電気コンロと 飯ごうでコメを炊いた。これを先生方は知っていたが、生徒は責任をもって自主的 活動した。現在なら退学になりそうである。台風が接近すると風向・風速計を持って 上がり屋上の危険な場所で風を測った。最初は鉱石ラジオを作り、手製の真空管短波 受信機でモールス信号の気象通報を受信し天気図を描き、独自の天気予報を発表した。 多くの生徒は、同様な文化・理科活動を盛んに行っていた。そして進むべき道に 進んだ。各種スポーツは、スポーツ選手になることが目的ではなく、私も楽しみで 行った。


6 学生時代~若い時代

日野さんは工学に進み乱流を専門とするようになった。私の専門は大気境界層、 大気乱流の場でもあり、日野さんと共通する部分が多い。

私は中学生のころ、医者になって病人を救う医学研究をしたいと思っていた。 ある日のこと、親戚の者が「純正は医者になればよい、儲かるから」と言われた。 「儲かるから」の付け足しが医者になる夢を純粋な少年は捨て、別の道を歩むことに なる。親から一度も「勉強せよ」など、指示されたことはない。

高校生時代は教科書のみでノートは持たなかった。それゆえ、中間・学期末試験の 準備時間はゼロに等しかった。つまり学校の勉強はあまりせずに、大学生や院生が 勉強する天文学や気象学の専門書を読み、好きこそ理解できる部分が多く面白かった。 荒川秀俊(1907~1984)の「気象力学」と「気象熱力学」を、東北大学教授・山本 義一(1909~1980)の「気象学概論」を読んだ。山本義一は、今日の地球温暖化問題 に関わる二酸化炭素を含む温室効果ガスの放射伝達の数値解法を確立した世界的権威者 である。山本義一のもとで、私は放射学を、その後は放射学を含めた大気境界層物理学 を研究することになる。

1956年のイギリスの気象学会誌に「夜間の裸地面上の気温は地表面が最も 低温ではなくて高度0.1m付近に地表面より2~3℃低温となる極小低温層があり (いわゆるraised minimum; elevated minimum)、これは伝導や乱流熱交換では 説明できない、大気放射の特殊な作用によるものか?」という疑問を投げかけた ような論文が発表された(Lake, 1956: QJRMS,82, 187-197)。

1957年、山本教授は大学院1年生であった私に「この問題を解決してみなさい!」 という課題を与えた。私は、ガルバノメータと極細の 熱電対を持って各地の運動場などで気温鉛直分布を観測し、同時に放射伝達を 取り入れた数値計算を続けた。放射伝達は解析的には解けないという難しさがある。 解析的に解けるのは、放射の働きを理解させるための特殊な場合や定性的な場合に 限られる。ところが放射伝達にも、熱伝導と似た近接作用の性質もあり、極小低温層 はできるはずがなかった。手回しのタイガー計算機と計算尺による計算を続けて 数か月後のこと、地表面が黒体でなければ極小低温層ができることに気づき、観測も 計算も解決したかに見えた。しかし地表面が黒体でない場合は波長別に計算すべき であることに気づき、計算をやりなおすと、極小低温層は地面から数mの高度、 気温差は観測値より1桁小さい極小低温層しかできないことがわかった。イギリスの 学会誌に掲載されたような極小低温層は草地などからの移流で生じる、ごくあり ふれた現象であった。

私が心臓手術で140日間入院していたとき、ベッドの高さによって暑いという患者 と寒いという患者がいたので、夜の病室内で密かに測っても極小低温層ができており、 各家でも窓で冷えた空気の移流によって床面上にできる現象である。北海道小樽の 南西方にある寿都沖では内陸でできた放射霧が暖かい海面上に流れ出てきて 数kmの距離にわたって霧層=極小低温層が流れるのを見ることができた(註4)。

脇道にそれたが、こうして私は大気放射学を身につけることができた。そして、 Monin-Obukhov 相似則(1954)から予想される普遍関数をつなぐ内挿式「KEYPSの式」 (Y は山本義一)が実際に野外で成り立つのか確認する観測が必要となり、 大気境界層の研究へと進むことになる。それは戦後復興で電力不足の時代、 各地でダムの建設、人工降雨の実験が開始された。貯水池・十和田湖の蒸発による 水損失を評価して欲しいと東北電力から依頼されて、私が「十和田湖の蒸発の研究」 を行うことになる。私は山本教授から次々と難題を与えられたが、難題とは気づいて いなかった。

深い十和田湖の冬は湯気が立つのが見えて蒸発量が多いように直感したが、当時 多用されていた、いわゆる「対数則」を仮定したThornthwaite-Holzman(1939)の式 では僅かしか蒸発しない。この事から大気安定度を考慮すべきとなり、KEYPSの式が 生まれ、応用するには確認の必要があった。この時代、世界中で同じ問題が起き ていた。私は観測からKEYPSの式は非常に安定なときには成立せず、間欠乱流の 静流となり気温分布には放射の影響が大きく効いていることを観測と計算から 確かめた(Kondo et al, 1978: JAS, 35, 1012-1021)。微風晴天夜の平坦地なら、 最下層は乱流だが高度数mより上層でよく見られる現象である。

詳しい経過は省略するため論文発表年の順序は前後するが、結果を水面上へ応用 する場合には水温と1高度の観測値だけでよい大気安定度を考慮したバルク法を 確立した(Kondo, 1975: BLM, 9, 91-112)。それを数値天気予報の精度向上の 目的から生まれた国際協力実験「AMTEX」(1974年2月、1975年2月)で利用し 役目を果たした(Kondo, 1976: JMSJ, 54, 382-398)(註5)。

私が現在、日野さんと同じ湘南地方に住むことになったのは、東シナ海で行われる 「AMTEX」の計画が1960年代に起こったことにある。大気の流れを従来の方法で 予報するだけでは天気予報は当たらず、大気・海面間の熱・水蒸気交換量を正しく 数値予報計算に取り入れなければならないことが世界中で認識されるようになった。 具体的にはバルク法の精度向上のための基礎研究を行わねばならない。1959年9月 の伊勢湾台風で死者・不明5千名余を出した大災害により防災意識が高まった時代、 各地の沿岸沖には観測塔が建造された。平塚沖1km、水深20mに世界有数の海面上 25mの海洋観測塔が1965年9月に建造された。この観測塔で基礎観測を行い海面 摩擦力・熱・水蒸気量を正しく評価できるバルク法を確立すべきと考え、 山本義一教授の反対を押し切って1967年10月34歳のとき転勤してきた。私は新卒 の若い優秀な部下たちと多くの論文を書くことができた。平塚には永住のつもりで 土地を購入してあったが、5年半後に予想外のことで再び東北大学に戻ることに なる(註6a)。

上述の海洋観測塔での観測に際して難しい問題があった。大気安定度が中立に近い ときの陸面上の風速鉛直分布はいわゆる「対数則」に従うが、海面上では波の すぐ上の数m以下では対数則に従わず折れ曲がる「キンク」がある、という論文が 1960年代に世界中で次々に発表されていた。私は「キンク」は風速計の動特性から 生じる誤差ではないか、と疑った。キンクの存在の可否でパラメータ化が根本的に 変わってくる。独特な観測方法でキンクの存在を否定することができた。 同時に大きな副産物として、風向と波の方向が一致するときと反対のときで、 海面波に誘起された風速変動の位相差が180度変わることもわかった (Kondo et al,1972: JFM, 51, 745-771)。

それは、海面上の風速鉛直分布を測るために、風速計が波で壊れてもよい覚悟で 取り付けてあった。台風による「うねり」が強くなり風速計が壊れていないか、 夜になって心配になり陸上で記録していた風速計の電磁カウンターを見に行くと、 カウンターのカチカチ音が約12秒の周期で変動するのが聞こえたのである。 そうして、いろいろな条件について海面波と風速変動の関係を明らかにすることが できたのである。

私の研究の特徴は熱伝導・乱流輸送に放射過程を含む水・熱収支論である。 もう一つの特徴は、論文など多読しないが、世界中の主な雑誌にさっと目を通し、 今後は何が重要となるかを予測し、最低予算で十分準備して取り組む。それなら、 頭が少し悪くても世界の優秀な人たちと競争できる。

(註4)極小低温層
「身近な気象」の「M20.裸地面上の極小低温層 (特別講義)」に掲載。
局小低温層の現象を解明するために行った研究の経過を示してある。気温分布に 及ぼす放射と伝導と乱流の役割、気温センサに及ぼす放射影響の誤差などについて の解説である。

(註5)国際協力実験「AMTEX」
「身近な気象」の「5.十和田湖物語」 に掲載。
戦後の社会的状況、十和田湖の蒸発の研究からAMTEX研究までの解説である。

(註6a)再び東北大学へ
「身近な気象」の「M16.海面バルク法物語」 の16.6節に掲載。
1960年代から1970年代にかけて行った、大気安定度を考慮した海面バルク法の開発の についての解説である。
その研究の途中、1971年11月1日に川崎市生田緑地公園内で行っていた実験で想定外 の斜面崩壊が発生、報道関係者など含む15名の死亡事故が発生し、防災科学技術 センター(現国立研究開発法人防災科学技術研究所)の寺田一彦所長が 責任をとって辞職した。そのため、自由な研究がしづらくなった。



7 カルマン定数のこと

地表面と大気間の運動量、顕熱・潜熱の交換量を求めるのに、超音波風速計などで 測る直接測定法(渦相関法)と、風速などの鉛直分布の観測から求める空気力学的 方法(傾度法、バルク法)がある。後者で必要なカルマン定数としてk=0.4が用い られてきた。kは実験的に決められる値である。

大気境界層の研究が盛んになった時代、1968年にカンザス実験が行われ、k=0.35 が発表された(Businger et al,1971: JAS, 28, 181-189)。k=0.35が世界標準 だという雰囲気の時代があった。私がk=0.4を使った論文をアメリカ誌に投稿すると、 書き直しをすべきと指摘するレフリーがいたほどである。Businger らの観測塔の 写真を見ると、超音波風速計の近くに大きな障害物があること、超音波風速計に 限らず一般に測器は必ずしも正確ではないので、彼らのk=0.35は信用できないとして、 私は論文の書き直しを拒否した。そうして、k=0.35を信じる世界の雰囲気を打ち払う べく、正確なカルマン定数を求める野外観測を4年間にわたり行った。

大気安定度が中立で、高度20m以下の接地境界層内の風速鉛直分布が対数則に従う とき、1ラン30分観測の合計259ランから、さらに条件を厳選した175ランから得た 値として、k=0.39±0.03を発表した(Kondo and Sato, 1982: JMSJ, 60, 461-471)。 なお、カルマン定数は乱流の性質から標準偏差7%のばらつきを持つ。

超音波風速計はプローブ(直径2cmほどの棒状計の音波の発信・受信部)自体が 風の場を変形させ乱流統計量の測定誤差を生じ、その他の誤差もある。プローブは まったく同一形に作ることはできないので、風向によって真の風が歪む。 また、風杯式風速計は動特性から生じる避けがたい誤差がある。通常、多くの者は これらを補正しないが、私たちは補正して結果を得たのであり、世界中でもっとも 正確な値だと思っている。

それ以後、k=0.35 の主張は消え去ってしまった(註6b)。

現在のような測定器もなかった20世紀初頭に求められていたk=0.4の値に私は驚く。 さらに驚くと言うよりは尊敬すべきは、熱の仕事当量J=4.1(J/cal)をジュールは 1843年に求めている。現在は4.18605(J/cal)が使われている(理科年表)。また、 1797~1798年に行われたキャヴェンディシュの実験装置から求められた万有引力定数 や重力加速度など、昔の人は簡単な装置ですごい実験をしている。思い出せば2001年 9月22日のこと、パリのパンテオン(神殿)には1815年にフーコーが行った地球の 自転を証明した実験が再現されており、ゆっくり振れる振子を見たときは先人の 実験に荘厳な気持ちになった。

(註6b)カルマン定数の変遷
「身近な気象」の「M16.海面バルク法物語」 の16.7節(c)図16.13に掲載。
図16.13は、1968年から1995年にかけて発表されたカルマン定数 k に関する 論文16編をGarratt and Taylor(1996)がまとめたものである。この図によれば、 大部分が k=0.37~0.41 の範囲に分布しており、これより外れた値は Businger et al(1971)など論文3編である。
注意:カルマン定数は、接地境界層内の乱流場に用いる係数である。なお、 接地境界層内では大気安定度が中立のとき風速鉛直分布は対数則に従う。



8 野外観測は桁違いに難しい

世界には、野外観測にすぐれた研究者はそれほど多くないと思っている。当時、 その一人としてオーストラリアのE. F. Bradley がいた。彼は、微風時の海面上に おける顕熱輸送量を渦相関法で測っていた(Bradley et al,1991: JGR, 96, 3375-3389)。私は1975年に海面・湖面上に応用する大気安定度を考慮したバルク法 を開発し、世界中の渦相関法による観測と比較して確認してあったが、この微風時 の観測とも比較して再確認した。念のため、さらなる確認のために自由対流時の 顕熱交換速度を求める室内実験(平板面、粗度面)と野外観測を行った。 そうして、大気中のみならず水槽内の実験に関する世界中の論文を集め、対流状態 を表わすときに使うレイリー数Raや熱伝工学でおなじみのヌッセルト数Nu(Nusselt) を使って整理すると、微小空間から台風スケールまで、顕熱輸送量で 0.05~500W/m2、Nu×Ra=10の13乗~19乗の範囲までを1つの図にまとめる ことができた。こうして、多くの分野ごとに行われている乱流・対流現象を位置づけ して理解するようにした(Kondo and Ishida, 1997: JAS, 54, 498-509) (註6c)。

(註6c)自然対流時の顕熱輸送量
「身近な気象」の「M16.海面バルク法物語」 の16.7節(e)図16.18に掲載。



9 日野さんは日本有数の勉強家

それは1989年の私の大失敗からわかったことである。私は1988年10月12日55歳のとき 急性心筋梗塞により救急車で病院に運ばれた。開胸し冠動脈の2か所にバイパス手術 と一本の動脈の付け替え手術を行った。輸血が原因で肝炎となる。当時は薬のない型 の肝炎であり安静の方法しかなく140日間の入院生活を送り1989年2月に退院した。

大学の机の上には郵便物が山となっていた。この整理に1か月を要した。郵便物の中 に井上栄一(1917~1993、享年76歳)からの手紙があった。井上さんは、世界的に 知られた大気乱流の大家である。学会では講演者に向かって、「その風速とは何の ことですか?」と、いじわる(?)質問をしていた。返事として例えば「風速計の 回転速度です」と答えればよいのに、答えられない。そんな井上さんからの手紙には 「同封の原稿は、ある雑誌に投稿したのですがボツになったので、近藤さんに さしあげます」と書かれてあった。原稿の内容はテイラー (Taylor, Sir Geoffrey Ingram)との思い出話などが含まれていた。私は、 この面白い話をボツにするにはいかにも惜しく、多くの者に読ませたい、 気象学会誌「天気」に掲載してもらうことが適当だと思った。井上さんは晩年に なっても、酒をたしなんでおり、原稿の綴りが斜めになりマス目から離れる部分も あった。このまま投稿すると規定の書式でないという理由で、またボツになっては いけないので、3月6日に新しい原稿用紙に書き直してあげた。若者にも理解しやすく するために筆を加えた。その加筆の1か所に私は重大な誤りを犯してしまった。

すなわち、テイラーさんについての記述に「大学生でも知っているはずのTaylor級数 のTaylorさんである」と加筆した。そうして、仕上げた原稿を井上さんが目を通した のちに「天気」の編集委員会へ送ればよいようにして、「これでよろしければ投函 してください」と手紙を同封して井上さんに送った。この原稿は井上栄一著 「L.プラントルさんとG.I.テイラーさんのこと」の表題で天気の「会員の広場」 の欄に印刷された(井上栄一、1989;天気、36(5)、pp.323-324)。 印刷発行後、井上さんはその別刷りを気象学、海洋学、流体力学、建築工学、 土木工学などの学者50~100名(?)に送った。

しばらくして井上さんから手紙がきた。手紙には日野幹雄さん(東京工業大学教授) と気象学の廣田勇さん(京都大学教授)からの手紙コピーが同封されていた。 その内容は「G. I. Taylorはテイラー級数のTaylorと違う」と書かれていた。 井上さんは私の動揺を心配してか「心配するな!平気でいなさい、日野さんと廣田 さんは大の勉強家である」と一文が入れられていた。

G. I. Taylor は物理学者で応用力学、気象学、海洋物理学、流体力学、航空力学、 弾性論など広い分野にわたり貢献した学者、私の手元にはその分厚い論文集第Ⅱ巻 があり、私の「大気境界層の科学」(1982)にもテイラーの大気境界層に関する 研究を紹介してある。一方、テイラー級数のテイラー(1685-1731)は正しくは Brook Taylor であり、私が大学2年生のときに使った近藤基吉・林五郎の「解析学」 の教科書には「Taylor級数の概念に到達したのは1715年」と記されている。

私は日野さんと廣田さんからの指摘を目にしたとき赤面し、大変な恥ずかしい思いを した。しかし井上さんの慰めの文章で、日が経つにつれてしだいに落ち着きを取り 戻した。そうして、「天気」の読者には申し訳ないが「これは井上さんの著作を 利用した大実験だ!日本にいる学者の中から勉強家を探し出す実験だった」と思って 心の乱れをおさめた。皆さんもご存じのように、日野先生と廣田先生は日本では 有数の勉強家で、誠意ある親切な方である。


10 日野さんからの約15年ぶりに便り

この原稿を書くことになった経緯は、約15年ぶりに日野さんから次のメールがきた ことにある。

メールの内容(2020年12月1日): 私は今年で88歳(米寿)を迎えました。 近藤さんも1、2年後でしょう。教え子達(世話人)が昨年から「米寿と出版の記念会」 を計画していましたが、コロナ禍のため中止になりました。代わりに「記念文集」 を刊行することになりましたが、世話人達の作成した執筆依頼者のリストを見せて 貰ったところ何か不足している気がしました。それは世話人達の知らない、 私の古くからの友人、知人達への寄稿依頼でした。

大変恐れ入りますが、そしてまた叱られるかも知れませんが、近藤さんにも何か 御寄稿頂けたらと思います。私との関係に拘らず水文学や流体力学についての事でも 結構です。

近藤さんには、御著書「水環境の気象学」を始め、論文、質問などで大変お世話に なりました。それから、「補完法」についての論争もありました。これについては、 「条件付きで良いだろう」とまだ思っています。丁度、河川の抵抗や流量公式の マニング式がそうであるように、サーモグラフィーの設置位置についても御注意を 受けました。私の勤めていたキャンパスは多摩で、後楽園キャンパスには1学期に 1度講義に行くだけで、こんな危ない、不適当な場所に機器を設置していたとは 思いもしませんでした。でも、その後、東工大の池田駿介さんがサーモグラフィー でホナミを撮り、横波で有ることを実証してくれました。


11 水文・水資源学会の発足

沖大幹さんの師・虫明功臣さんや九州大学の小川滋さんなど各分野の代表者が泊まり 込みで何回か相談した。そうして水文・水資源学会が発足した。本学会は人文・社会 科学まで専門10分野からなり、役員は2年ごとに交代する。

学会誌の初代の編集委員長は日野さん、2代目は私が担当した。初代が学会誌を軌道 に載せて動き出してから、2代目に学会誌投稿論文について「査読者・論文担当委員・ 著者の心得」が作成された。この心得はその後、何度か改正されてきたようだが、 「査読者は、著者と意見が違っても、それは論文等を不採用とする理由にはならない。 新しい概念や事実であると考えたことは、・・・間違いであることが証明される場合 もあるが、現時点ではその適否の判断は難しい。・・・著者の主張は尊重し、過度の 修正を要求しないこと。」など12項目まである。学会の発足以来、現在2020年時点 で第33巻まで続いてきた。


12 河川改修と魚の大量死事件

戦後、農薬使用や河川・用水路の改修により川の魚が減少し、最近は稚魚放流・養殖 が行われる時代となった。1993年の冷夏によるコメ大凶作の翌年の全国的な異常渇水 では、宮城県蔵王町の渓流・秋山沢川の水を利用した養魚場で稚魚が大量死する事件 があった(1994年7月15日、8月7日)。この渓流は1989年8月の台風による豪雨で氾濫 し災害復興のために改修され、川幅は5mから25mに広げられ、河床はコンクリート で平らに固められ、さらに付近の樹木が伐採されたことにより、日あたりと風通しが よくなり、河川水温が異常上昇し、稚魚の大量死をもたらしたのである (近藤、1995;近藤ら、1995a)。

この大量死事件の原因となった水温の異常上昇を熱収支計算から定量的に明らかにし、 河川改修は自然をできるだけ保つような方法であるべきことを指摘した。宮城県庁 の担当者にも伝え、新聞にも報道されたことから、宮城県河川課は、渇水時にも 水深が保てるように、秋山沢の再改修を行うことになった(1994年11月24日)。

再改修がどのように行われたかを確認するために、13年後の2007年10月22日に その後の秋山沢川の状況を視察した。再改修によって造られた2~3m幅の溝(水路) があり、低水時の河川水はこの水路を流下していた。草木も生い茂り、改修以前の 状態に復活する兆しが見え、自然の大きさを知ることができた。

この魚の大量死事件が起きる前年に、土壌水分量と流出量を降水量の関数として 表わす「新バケツモデル」を提案してあった(近藤、1993)。これを標高差のある 秋山沢川流域に応用し、土壌水分量、積雪水当量、流出量の季節変化を計算し、さらに 河川の熱収支式から河川水温を計算した。計算結果は日々の最高水温の観測値を よく再現できた(近藤ら、1995b)(註7)。

(註7)河川改修
「身近な気象」の「M23.河川改修と魚の大量死事件」 に掲載。
秋山沢川の改修と再改修、水温の計算法の原理と計算結果、新バケツモデルを用いた ときの計算結果などの解説である。



13 現役引退後

私は定年後に全国の気象観測所を巡回する前、四国遍路の歩き旅で足摺岬―竜串― 宿毛への途中2002年4月24日、「宿毛歴史館」に入ってはじめて知ったことがある。 土佐藩奉行の土木技術者・野中兼山は晩年失脚させられて、その遺族は宿毛に幽閉 された。兼山の娘・婉(えん)(1660-1725)は絶望的な境遇にありながら学問に励み、 医者として自立していった物語が複合演出シアターにより展示されていた。婉は 大原富枝の小説「婉という女」によって広く知られるようになったことがわかった。 後で分かったことだが、日野さんはこの小説もお読みになっている。

相模湾両端の城ヶ島までと石廊崎まで歩き、四国遍路で愛媛県南部の宇和島まで 歩いたのは、心臓手術した私が長距離歩行に自信を持つためであった。平塚から 三浦半島先端の城ヶ島まで50kmの歩きは13時間かかった。これら長距離を歩かねば ならなかった理由は、気象観測所は僻地にもあり、やむなく長距離を歩かざるを得 ない場合もあると予測したからである。こうした準備の後、日本各地の気象観測所を 巡回した。さらに、北海道寿都、青森県深浦、岩手県宮古、奥日光、静岡、岡山県 内陸の津山、高知県の室戸岬で、続いて各地の公園などで最大3ヶ月間の観測を行い、 観測所周辺の建物・樹木などが気温観測値にどのように影響するか、観測露場の 空間広さと気温上昇・下降の関係を求めた。

特に面白かったのは、観測所の周辺が極端に変化した場合の例として、仙台の アーケード街に人々が密集したとき、通りの気温がどのように変わるかを観測した。 晴天日中のアーケード街の気温は2℃ほど高いが、商店街の冷房機が動きだす真夏 には逆に2~3℃の低温となる。七夕祭りの人出最盛期2017年8月6日の1.1人/m2 (幼児から大人までの平均人体発熱量=110W/m2)となった時点には 通常の人通りの時に比べて1℃の昇温となった。これは熱収支的に納得できる昇温 である。こうした問題は計算できたとしても観測から確認しないかぎり、納得しない のである(註8)。

日野さんが2回訪れたことがあるという高知県西部の四万十川は、私は遍路旅の渡し 船で河口を渡った。その後も数回気象観測に出かけた。それは、2013年8月12日、 四万十川河口から直線距離35kmの上流にある江川崎アメダスにおいて当時の国内 観測史上最高気温の41℃を記録したことにある。気象観測所の観測環境を調べていた 私は、この記録が本物かについて検証することにした。結果として観測環境が悪い ことで記録されたのではなく、河口から吹き上げてくる海風がこの日は気圧配置の 関係によって江川崎まで到達できず高温が記録されたことがわかった。その結論に 至るまでに四万十川の河口から上流まで気温計を配置して6か月間の観測を 行った(註9)。

2016年9月のこと、久しぶりに九州大学名誉教授の小川滋さんにお会いしたとき、 「日野幹雄さんは水文・水資源学会に毎回出席されている」と聞き、私は「日野さん はほんとうに熱心な勉強家だ!」と思った。それに比べて私は引退後どの学会の講演会 にもほとんど出席することはない。そのかわりに、現役時代に疑っていた気象庁に よる「地球温暖化の評価」を正しく評価するために、全国各地の気象観測所を巡回し、 観測環境の管理の方法を見つけ気象庁に提案し、また正しく評価する仕事を続けてきた。 気象観測の方法・器械・統計方法は時代により変更されており、観測値は非均質な ため、地球温暖化量の評価は非常に難しい。例えば各種補正を行った私の評価は 気象庁の評価に比べて60%の値である(近藤、2012)(註10)。

気温データからの評価は難しいので時間変動の小さい湧水温度や、岩手県遠野市に ある横抗の地震観測壕内の温度から地球温暖化量を評価する試験を行っている。 地震観測壕内で気圧日変化・半日変化に伴う空気温度の時間変化に予想外の現象が 見つかり、伝導・乱流・放射の作用を実験装置で実験し、同時に数値計算した結果、 空間の大きさによってそれぞれの役割が違い、狭い0.05m以内では熱伝導、 そして乱流、大規模になると放射の役割で温度・気候が決まってくることが 確認できた(註11)。

私は退官記念で「一仕事二十年」の題で最終講義し、116ページの冊子を配布した (近藤、1997年2月21日)。引退後の20年余、地球温暖化問題に20年間を過ごした。 老人になると、肉体的・知能的に第一線(いま流行)の研究をしようとしても若い 研究者に敵うはずがない。自然は見る位置・方向によって年の功で老人ができる 面白い研究課題がたくさん残っている。それを見つけて私は楽しんできた。 研究的なことばかりをしている訳ではない。老人福祉施設では富士山の写真など 見せながら皆で歌う楽しみをした(註12)。


14 むすび

日野さんとは共有する事柄がたくさんある。二人とも自分のやりたいことを自由に、 他から左右されることなく歩いてきた。ともに心臓手術をしている。これからも 無理しないで気楽に生きていこう。二人とも、それぞれの良き教え子たちに恵まれて 最高に幸せであった。


(註8)アーケード街の気温
「研究の指針」の「K157.日だまり効果、アーケード街と 並木道の気温(まとめ)」に掲載。
「日だまり効果」による日中の昇温量と夜間の冷却量と空間広さの関係、道路幅と 日中の昇温量の関係、アーケード街の気温などの解説である。

(註9)江川崎の気温」
「研究の指針」の「K95. 江川崎周辺の気温観測2014年まとめ」 に掲載。


(註10)地球温暖化量
「研究の指針」の「K48.日本の都市における熱汚染量」「K173.日本の地球温暖化量、再評価2018」「K203.日本の地球温暖化、再評価2020」 に掲載。


(註11)伝導・乱流・放射の役割
「研究の指針」の「K208.観測の誤差から真実を見るー地球 温暖化観測所の設立に向けて」の第2図に掲載。


(註12)福祉施設での合唱
「小さな旅」の「7.富士を見る旅」に掲載。
金時山、足柄峠、城ヶ島、由比ヶ浜、美保の松原、忍野、山中湖などから眺めた 富士山を見ながら、童謡を皆で歌った。



文 献

井上栄一、1989:L.プラントルさんとG.I.テイラーさんのこと.天気、36, 323-324.

近藤純正、1982:大気境界層の科学.東京堂出版、pp.219.

近藤純正、1987a: 夢氷山ー氷山を日本に運ぶプロジェクト.東北大学生活協同組合、  pp.146.

近藤純正、1987b:身近な気象の科学-熱エネルギ-の流れ-.東京大学出版会、 pp.189.

近藤純正、1989:大砂時計-世界初への挑戦の記録ー.東北大学生活協同組合、 pp.154.

近藤純正(編著)、1994:水環境の気象学―地表面の水収支・熱収支―.朝倉書店、  pp.350.

近藤純正、1993:表層土壌水分予測用の簡単な新バケツモデル.水文・水資源学会紙、  6. 344-349.

近藤純正、1995:河川水温の日変化(1)計算モデルー異常昇温と魚の大量死事件.  水文・水資源学会誌、8、184-196.

近藤純正・菅原広史・高橋雅人・谷井迪郎、1995a:河川水温の日変化(2)観測に よる検証ー異常昇温と魚の大量死事件. 水文・水資源学会誌、8、197-209.

近藤純正・本谷 研・松島 大、1995b:新バケツモデルを用いた流域の土壌水分量、 流出量、積雪水当量、及び河川水温の研究.天気、42, 821-831.

近藤純正、1997:一仕事二十年―地表面熱収支・水収支の研究の現状と将来、 感動の思い出―(退官記念 最終講義、1997年2月21日).pp.116.

近藤純正、2012:日本の都市における熱汚染量の経年変化.気象研究ノート、 224号、25-56.

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