自覚症状そして診断

寝坊したおかげで発覚

 1992年7月のことだ。その年の12月に予定していた結婚式を延期せざるを得なくなった。
なんとなく診てもらった医者から、晴天の霹靂のごとく「入院・手術」を勧告されたのだ。
自覚症状は、あった。ちょっとやばいぞ、と思っていた。半年前までは、「なんか胃がシクシクする」「キューッと鳴っているような感覚がする」ぐらいだったのが、最近は食事が胸につかえるようになってきた。ものが胃に入って行かないのだ。
それでも僕は病院の診察を受けようとせず、昼食時に四苦八苦する僕を目撃する同僚から、「おめぇ、早く病院行けって言ってんだろ!」と怒鳴られていた。
婚約者(すでに準同棲状態)と一緒に過ごす夜間などにはこの症状はあまり出ず、多分彼女は知らなかったと思う。
 さて、私たち二人は当時同じ職場で働いていた。大体一緒に通勤していたのだが、ある日、目覚まし時計が故障した。僕が目覚めた時には、会社に遅刻せずに家を出るのには一人だけが準備する余裕しかない時刻になっていた。
僕が犠牲になることにした。「病院に行くいい機会としよう」と考えたのだ。
 近所の個人病院で相談した。I先生は僕の話を聞き、即その場でレントゲン撮影をした。早い。大病院とは大違い。おまけにフィルムまでできてしまう。
じっとフィルムを見ていたI先生は、怪訝そうに「血便が出ていないですか」と訊ねた。「血便?」
このとき僕は初めて、「血便」と「下血」の違いを知った。というより混同していたのだ。「分かりません」 そう、僕には自分の便の色を見るという習慣がなかったのだ。
 数日後に内視鏡検査ということになった。I先生は若くて、非常にホスピタリティーのある医師だ。僕は任せることにした。

初めて胃カメラを飲む

 さて、内視鏡検査当日。「胃カメラ」である。もちろんその苦しさの経験談は何人かから聞いていた。今でこそ非常に慣れてしまい、検査途中で必ず眠ってしまう(ホントだよ。「内視鏡ののみ方」参照)僕だが、さすがに「初体験」は痛かった、いや、苦しんだ。涙と涎で顔のまわりはぐしょぐしょ。
 やっと喉を通り過ぎ、そろそろ胃に入るのかなと感じたとき、I先生が小さく「ああ」と呟いた。そして内視鏡をそろそろと抜いた。「どうしたんだろう」という気持ちと、「ああ終わったあ」という安堵感。結局落ち着いてから僕が聞いた話は、ショッキングなものだった。
 「内視鏡で胃の中を見ようとしたのですが、胃に入る前、食道の下のほうで、もう既にかなり出血しています。私としては入院を勧めます」という内容だった。
「これじゃあ食べ物も入って行かないですよ。よくここまで放っておきましたね」
「ひどいですか」
「かなりの出血です」
 実は前回の「血便」だが、久しぶりに自分の便をまじまじと見てみたのだ。僕の便は真っ黒だった。それが「血便」だった。
つまり、胃や、腸の初めの方で出血すると、血液は消化されて変化し、結局便が黒くなるのだ。出血がが肛門に近いほど、血液がそのままの形で出てくるので便は赤くなる。血がそのまま出てくるのが「下血」だ。
 この病院には入院施設がなく、いくつかの大きな病院を紹介され、家族などと相談して入院する場所を決めて下さい、と言われた。「紹介状を書きます」
さらに気になる言葉、「ご両親を呼ばれた方がいいです」
「えっ」
「大変ですから」
「もう婚約者といっしよに住んでいるのですが」
「肉親のほうがいいですね」
 一瞬「癌かな」と思った。結局は潰瘍だったが、「肉親でなければいけない」理由は今でも分からない。

みんなにおんぶにだっこ

 その日はその後すぐに会社に行った。社長、上司、同僚(婚約者含む)と相談した。
 食道と胃に潰瘍ができていること、かなり出血していること、入院しなければいけないこと、手術の可能性があること。つまり会社を休まなければいけないこと。その場で対応策がほぼ決まった。
 つまりは僕の仕事を上司、同僚、部下に分散するのである。申し訳なかった。当時の会社は依然右肩上がりだったし、僕もいわば二部門掛け持ち(実はもう一部門もやってほしいと言われてもいた)のようなことをしていたので、みんなにかなりの負担がかかったはずである。
とはいえ、多分僕自身、ストレスがたまっていたのだろう。会社でいちばんストレスから縁遠い奴、と面と向かって言われるほどだったし、自分でもかなり好き勝手にやっていると思っていた。が、じつは僕の仕事は各人、各部署、各業者の調整という、大変精神的にすり減るものだったのだろうと思う。
 と言うのは真っ赤な嘘で、苦労したのは周りのみんなだ。会社の方たちはもちろん、かなり高齢になっている両親、婚約者のご両親、友人・知人。
 そして、いちばん苦労したのはやっぱり婚約者、今の連れ合い君であろう。

キーちゃんは大変

 僕の婚約者、キーちゃんはきっと内心パニックだったと思う。僕のからだの心配はもちろん、 両親を呼ばなければいけないこと、仕事の引き継ぎ(そう、当時の僕の部下だったのです)、いろいろな段取り、その他もろもろ。
あとから聞いたことだが、いちばん「悔しかった」のは、僕の両親を呼ぶ理由を医者に訊ねた際、「あなたは肉親ではないから」というような意味のことを言われた時らしい。家に帰ってから泣いたそうだ。「籍だけ入れたろか! って考えたよ〜」と後々聞いた。
 僕は家庭でも職場でも、金銭的な管理、事務的な手続きが苦手である。苦手というより、その能力に欠けている。多分、経済観念と書類提出に関する脳細胞がないのだと思う。それは誰がやるかと言えば当然キーちゃんなのである。僕は何をするかというと、洗濯、アイロンがけ、炊事、電器修理、エンターテインメント、その他雑事。
 入院の手続き、その後の保険関連一切、すべてキーちゃん任せだ。こりゃ大変。彼女は精神的、肉体的、業務的、事務的に多忙な日々を送らなければいけないはめに陥った。僕のせいで。それも、まだ配偶者でもないのに、だ。でもやり通した。これをできる女性(敢えて「女性」と言おう)は今じゃ少ないと思う。
 いちばん感謝していること、それはキーちゃんがほとんど毎日、仕事が終わってから1時間以上掛けて病室に来てくれたことだ。仕事が遅くなり、消灯時間後にこっそり来たこともある。台風で交通機能がメチヤクチャになった時も、どうやってか病院までやって来た。涙が出た。
 僕ならできるだろうか。
 できないと思う。

 1992年の夏、僕はM医科大学病院に入院することになる。