ボルガ3200km  (1997)


 

( 6) トリアッチ

 

8月19日(火)

 朝起きてみると向こう岸まで何kmあるのかわかりかねるほどの広い湖面を航行中。

相変わらず低い雲が空をおおっている。 2年前にはこのクイビシェフ貯水池のあた

りでたった一日で真っ黒に日焼けしたのに、今回は日焼けどころではない。困るのは

着るもので、デニムの半袖シャツは数枚持ってきているが長袖は1枚だけ。それを乗

船してからずっと着ている。相席の老婦人達は日に何度かお召し替えをなさるから、

このままでは不潔だという印象になってしまうと思い、たった1枚の長袖を洗濯して

半袖を着る。ニジゴロドから乗ってきたやはり相席の2人の男性のうちヴィクトル氏

という父親のほうが甲板で半袖の私を見つけて「寒くないか」と聞く。寒くてもこれ

しかないのだ。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース、姿だけクロワッサンの形の味つきパン、バター、

ボイルしたソーセージ2本にグリーンピース、チーズ、フルーツヨーグルト、紅茶、

ジャム。

 

 9時頃、前方に幅何kmかの堰堤が見え、その右手に送電線の集中した大きな施設が

見える。ダムの上に発電所はないから変電所か。左手には大きなサイロが見え、左岸

はアパートの立ち並ぶかなり大きな町。今日の停泊地は「ヴィンノフカ」ということ

になっていて、この地名は普通の地図ではなかなか見つからないが、microsoft社のC

D-ROMだとシンビルスク(船のタイムテーブルではウリヤノフスクになっている。ほん

とはどっちだ?)のすぐ南に同名の村があるから、私はまだシンビルスクの着たにい

るとばかり思っていた。ところが河港のビルの駅名を双眼鏡で見ると何とトリアッチ

だ。

 このイタリア風の名前の町、カメラを向けてもクレムリンや由緒ある教会とか修道

院らしきものが視界の中に見あたらず、アパート群と工場とその向こうの丘にはダー

チャが並ぶだけの殺風景なところで、写真の撮りようもない。 そのかわり産業の拠

点らしく、水門の上から堰堤の上へと続く道路は自動車がひっきりなしに行き交い、

この道路に隣接してボルガを渡る鉄道の上も貨車がゆっくり走っていく。

 この水門も一昨日のゴーリキー貯水池のと同様2段になっていて、「踊り場」の水

域には廃船になったのではと疑わせるほど赤錆びた貨物船の荷台(砂利などを運ぶ川

船はトレーラー・トラックのように制御部と荷台部分が分かれていて、動力付きの制

御部が荷台部分を押したり曳いたりして航行するタイプが多い。)が何十艘もびっし

りと係留されている。その舷側にはおびただしい数の鴎が羽を休めていてよこから見

ると白い平面に見えるほどだ。「踊り場」の左手は工場地帯だが、下のゲートを出る

と左手一帯はダーチャ群。それを過ぎるとまた自然の豊かな場所になり、木立ちの間

ににテントを張ってキャンプをしていたりするのが見られる。

 

 12時頃、前方の左岸(川が大きく右に曲がっているので船からは正面)にサマーラ

の町が見える。左手に何本ものアンテナらしき鉄塔群。それより右側はアパート群が

あり、放送用の鉄塔、工場の煙突がいく本か。それに高層アパートの工事に使うクレ

ーンなどが遠くから見える。だいたいロシアの町は外側にアパートの立ち並ぶ団地が

あるからこれで町に近づいたことがわかる。大きな町ほどこのアパート群が重厚なの

だ。昔はクレムリンの壁、今はアパートというわけ。実際、サマーラの町を遠くから

見たとき、高台の上のアパートは城壁に見えたものだ。

 

 水面に近い下のデッキにいたら、あの毛糸の帽子とロングコートのおばさんがご主

人と一緒にやってきて、写真を撮ってくれて、そのおばさんだけが残りいろいろ聞い

てくる。私のロシア語にけっこう忍耐強くつき合ってくれるので、しばらく会話が続

く。もっとも「なぜ奥さんがいないのか」というような本人でも答えられない質問も

あって弱った。日本ではどのくらいの給料をもらうのかとか、日本人は長生きだそう

だけど秘訣は何なのか、酒を飲まないからか、聞いてくる。ロシア人は肉とジャガイ

モばかり食べているのがよくないとか何となく贅沢なことも言っていた。日本の女の

人はきれいだと言うから、ロシアの女性はきれいですよと返したら、いや太っていて

ダメだと。当のご本人もやせた体型ではなかった。

 今度の船旅、モスクワ〜アストラハン〜モスクワで1200万ルーブル払ったと言って

いた。夫妻で来たら2400万ルーブルだ。やっぱりちょっと庶民の船じゃない。それは

ともかくとしても、往復18日間という旅に参加できる休暇の長さがこれまたすごい!

 

 船がちょうどサマーラの町を通りすぎる1時に昼食。色の薄いピーマンに小さく切

ったヌードルと人参を詰めたのにスメタナをかけたのがザクースカ。肉でダシをとっ

た野菜スープ。うらごしのジャガイモで挽き肉をはさんで揚げたの。中までよく火が

通っており、外側の焦げ目も美味しい。薄く切った茄子を煮たの(味噌煮ではけどそ

れに近い味)が添えられている。チョコレートの粉をふりかけたアイスクリーム。

 

 食事をとっている間にサマーラの町は後方に。このあたりは川筋が複雑でいくつも

の中州がある。

 昼食の間に顔を出した太陽はまた雲に隠れてしまった。

 

 船の掲示板に貼られた地図では、サマーラから西にわずかばかり行ったところがヴ

ィンノフカで、3時半にここに接岸してグリーン・ストップのはずだったが、3時前

に放送が入ってこれは中止。グリーン・ストップは明朝だという。そういうわけで今

日は上陸は無し。

 グリーン・ストップ(ゼリョーナヤ・アスタノフカ)というのは、船を接岸させる

けれど、市内観光のようなものはなくて、各自で散歩したり水浴びや日光浴をしたり、

あるいは茸採りに森に入ったりというもの。船によっては、岸でシャシリクを焼いて

くれたりウハーを振る舞ってくれたりというサービスをする場合もある。ロシアの河

川クルーズの場合、たいてい旅程の中にこれが組み込まれているようで、停泊予定地

の中にあまり聞いたことのない地名があったらこれではないかと思ってよい。エニセ

イ川のときはレーベジ、ペルミからペテルブルクへのときはゴリツィ、去年のドニエ

プル川ではカホフカが、このグリーン・ストップだった。

 

 しばらくの間デッキに出てみたが、風が冷たく、また天候も陽が射したと思ったら

小雨が降るというあんばいで、1時間余りいるのがやっと。右岸はなだらかに小高く

なっていく耕地や牧草地。人家も少なくない。左岸は低いままで、その複雑に入りく

んだ岸まで林が進出していて、浮島のような湿地もしばしば見られる。針葉樹や白樺

はすっかり見られなくなって、背の高い木というとポプラの類。あともう少し背の低

い広葉樹も多く、葉が既に少し色づいているのもある。

 

 5時半頃、オクチャブリスクの鉄橋をくぐる。ここからシズラニにかけて右岸は村

や工場が続く。岸をよく見ると、船と平行してひどく長い編成の列車が走っている。

はじめは貨客混載かと思ったが、そうではなくて1両が客車ぐらいの長さのある郵便

車か有蓋車を数両、そのあとに砂利か木材を積んだ無蓋車を50両くらいつないで、そ

れはそれはゆっくり走っている。この船がどのくらいの速さなのか知らないが、船が

追い越してしまったのだから。 以前、自動車のスピードを控えるようによびかける

標語に「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く。」というのがあったが、あれは違

う。せまい日本だから急げば早く着く。広い国では少々急いでもはじまらない。あの

貨車を見ていると「広いロシア、そんなに急いでどこへ行く。」というのが正しいと

いう気になる。

 6時頃、シズラニの町を通過。大きな町で、町の南側の丘には工場の煙突と石油精

製用の塔みたいのが林立している。

 

 デッキにいたら、昨日折り鶴を上げた男の子のお父さんでワロージャさんという人

が声をかけてくる。モスクワの火力発電所に勤めている人だそうだ。ロシア語はでき

るかというので、いや大学ではドイツ語だったと答えたのがいけなかった。先方も中

等学校からドイツ語だったそうで、どうもむこうにしてみれば学校でドイツ語をやっ

たというのにドイツ語がしゃべれないというのは腑に落ちない様子。いや全部忘れた

と言って取り繕ったけど、忘れたわけじゃない。はじめから全然覚えてはいないのが

真相なのだ。

 私のアキノリという名前は覚えられない。昔軍隊にいたときカザフやタジクの仲間

の名まえがやはり言えなくてトーリャだとかサーシャだとかロシア風のニックネーム

をつけて呼んでいたと笑いながら話してくれた。

 話は経済のことに及んで、昔は店に何もなかった、今は何でもあるけどカネがない

と。材木や石油など外国に売れるものを作っている工場は稼働しているけれど、靴や

ルパシカを作る工場は休んでいて給料がもらえないというような話もあった。宇宙開

発の技術なんか高いじゃないかって言ったら、たしかにこれまでそうだったけど民生

用はさっぱりダメで、さっきトリアッチの水門のところで廃船の山を見ただろう、一

事が万事あの調子だと言う。

 

 7時、夕食。この頃からかなりはっきりと陽が射すようになる。細かく切ったジャ

ガイモ、人参、胡瓜、グリーンピース、ハムをマヨネーズであえてパセリをのせたサ

ラダ。ビーフストロガノフにヌードルを添えたのと言いたいところだが、量の関係か

ら見るとヌードル(ヴィクトルさんの15歳の息子君はスパゲティじゃないかと言って

いた。)にストロガノフ風のソースが添えてあると言ったほうが正しい。トウモロコ

シが添えてある。あとはコーヒー味のクリームをのせたケーキと紅茶。以前、ソ連の

ケーキは甘過ぎて食べられたものではなかったが、近頃は尋常な味になってきておい

しい。

 

 食後にデッキに出てみると、サラトフ貯水池の広い湖面の西側に太陽が沈んでいく

ところで、太陽そのものは雲に隠れてしまっているが、その雲の隙間が黄金色に輝い

て、そこからの光で上空の雲の下縁が朱色の綿のように染まっている。対岸(左岸)

の崖は夕陽を受けて赤く見える。

 

 真夜中1時半頃、ドンという衝撃で目を覚ますと、船は水門につけている。おそら

くサラトフ貯水池の南端のバラコボの水門のはず。ここも水門の上を道路と線路が通

っているようで、自動車の往来とあわせて夜行列車の通り過ぎるのが見える。中天に

はほぼ満月の月があり、星もいくつか見える。明日は晴天が期待できるか。

 

 

 

 

( 7) ウソフカ

 

8月20日(水)

 起きてみると船は松林の続く砂浜にある船着き場に既に停泊している。インフォメ

ーションの掲示板を見るとおそらくウソフカ。サラトフ市の北、川幅が極端に広くな

っているところ。テレシュカ川と合流して少しだけ西へ行った中島の北西あたり。船

内放送では「ウソフカ島」と言っていたので、接岸しているのも中島の一つかもしれ

ない。

 そんなことより何より天候が晴れ。それも雲ひとつない快晴だ。シャワーと洗濯を

すませて8時頃デッキに出てみる。空は真っ青で、水面には波一つなく、水が流れて

いるかどうかもさだかでないほどだ。船着き場のあたりに建物はなく、浮き桟橋一つ

だけ。浜に「冷やしたビール(近頃ロシア人はビールを冷やして飲むことを覚えた。)

、薫製の魚、煙草」の看板があって、桟橋上で2,3人がそれらを売っているの以外

には砂浜と松林だけ。気の早い客が何人かもう浜を散歩している。反対側の船べりに

回ると、1kmほどの幅の水面のむこうにやはり林だけの低い岸。おそらくこれも中島

であのむこうにボルガの本流があるのだろう。その林の上に明るい太陽があり、その

陽射しと川面からの照り返しで眩しく、またその暑さが空気の清澄さ(船内放送で気

温17℃と言っていた。)が溶けあって気持ちがいい。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース。チーズ。ハム。バター。紅茶。いつも私には紅

茶を入れてくれるウェイトレス嬢、今朝はコーヒーを注ぐので「紅茶はないの?」と

聞くと「あら!」と言ってコーヒーを下げて紅茶を出してくれたが、そのコーヒーを

どうするかと見ていると隣のテーブルの人に出して行った。出されたのが日本人なら

怒るところだが、考えたらこちらのほうが合理的!?。ほかに、味つきのパン。それに、

マッシュポテトかメリケン粉のようなものを固めて揚げたのにスメタナをかけた料理

が出る。それで隣のお婆さんに「これは何?」って聞いたら何とカツレツだという。

「フレブヌィ・カトゥレトゥ」で肉無しだと教えてくれた。ロシアでは揚げたものは

全部カツレツなのか。カツレツと聞いてすぐトンカツのようなものを想像してはいけ

ないのだ。それにしても考えてみると「パンのカツレツ」ではトンカツの衣だけを食

べているようなものだ。もっとも実際にはおいしかったけれど。

 朝食の時に翌日の昼・夕食のメインディッシュと昼食のスープを選ぶようになって

いるので、朝食時には必ず辞書持参でレストランに行くようにしている。もっともメ

ニューは「モスクワ風魚料理」なんて書き方だから辞書を持って行ってもあまり役に

は立たないけれど。明日の昼のメインのうちの一つが「リンゴを添えたキャベツのカ

ツレツ」というやつで大いに興味があったが、同じテーブルの残り5人が全員牛肉料

理にしていたので無難なそちらにした。

 

 食後はもちろんすぐに島に上陸。乗客の大半は浜で日光浴か水浴だが、私は少し林

の中に入ってみる。島は奥行き2-300mしかない細長い形で、反対側の岸は砂浜ではな

く、芦のような細長い植物が密生している湿地になっている。両岸の間は松やポプラ

の明るい林。木々のまばらなところは草原になっていて咲き遅れた野草が所々で黄色

や紫色の花を急いで咲かせている。草むらには小鳥も潜んでいて人が近づくとパッと

舞い上がる。周囲には誰もいなくて遠くに船のエンジン音が聞こえるだけ。島には住

居はないが、船客相手に魚の薫製などを売っている人達がテントを張って生活してい

る。チョウザメではないと思うが、かなり大きな魚にロープをつけてモーターボート

に縛って、まるでペットの犬のような扱いをしているのには驚いた。

 船に戻ったら、あの日本に北ことがあるという女の人が声をかけてきて、泳がなか

ったのか、水が冷たいからかと聞いてくる。陽が射していて水があるのに泳がないの

は不思議らしい。このあともグリーン・ストップの度にいろいろなロシア人から同じ

質問をされた。まさか金槌だからとも言えず言葉を濁していると、彼女、自分は日本

に行ったのが12月だったけど鹿児島で泳いだと言う。いくら鹿児島でも日本人は12月

には泳ぎませんよね。

 

 1時、昼食。さきほどの船着き場で魚の薫製を売っていて、そのにおいがいいもの

だから気持ちが動いたのだが、この汚い水のボルガで育った魚ではと思ってやめた。

なのに、ザクースカが魚の薫製のスライスにスメタナをかけてトマトを添えたのだ。

リンゴのジュース。香草を刻んで散らしたブイヨン。肉入りのピロシキ2つ。米と人

参の入ったロールキャベツにホワイトソースをかけたの。パイナップルのコンポート。

 

 昼頃から雲が多くなり、しばしば太陽が隠れてしまう。航行中のデッキは風がある

から、そうなると半袖ではちょっと寒いが、せっかくのお天気だから我慢してデッキ

に出ている。

 2時頃、前方にサラトフの町が見えてくる。市の北側にボルガ川をまたぐ自動車道

路の橋があり、そのたもとから市街が始まる。市の北側から遠望するときれいな高層

のビルが重なって見え、ちょっとロシアの町らしくない。橋のそばから丘の中腹にか

けて大きなアパートが4棟あるが、これも遠くから見ると日本の高級マンションの外

観。近寄って見ると普通のロシアのアパートだが。橋を過ぎたところに河港があって

ターミナルビルは改装中。その先が公園風の遊歩道。その後ろの通りの背後には同じ

ように緑色の屋根を持つ細長いアパートが4棟、川に平行に並んでいて、その一方の

端には「スロバキア」という名前の背の高いホテル。反対側の端にも似た形の高い建

物があって、川から見るとこのたりの調和がとてもよくとれていて美しく見える。

 船は河港の沖で向きを変え、既に接岸中の客船の横にすべり込んで行ったから、こ

こで臨時停泊して港のあたりを歩く自由時間をもらえるのかと思ったら、すぐにまた

離れてしまった。まるで「タッチ・アンド・ゴー」だ。この一瞬の間に郵袋の受け渡

しでもしたのだろうか。

 サラトフ市の南側半分は工場地帯で、石油タンクなども並んでいる。工場の河岸側

の操車場には黒いタンク車がびっしり。

 その工場の切れたあたりをたった5両編成の客車の走るのが見える。もちろん昨日

の貨車と違って船より速い。客車はロシアの車両の典型的な塗装ではなく、上半分、

つまり車窓の部分をうすい緑、下半分を濃い緑に塗り分け、1両目の車両の横腹には

遠くからでもはっきりわかる大きな字で「サラトフ」と書いてある。おそらく「サラ

トフ」という名まえの急行列車なのだろう。川と平行して下流に向かって走るのでボ

ルゴグラードへでも行くのかと思っていたら、目の前の大鉄橋を軽快に走り抜けて東

の方へ去って行った。

 

 デッキにいたら、一昨日鶴を折ってあげた子の中の一人の女の子が近づいてきて、

今夜船で寸劇をやるので私の帽子を貸してほしいと言う。もちろん「いいよ」とい言

ったけど、私の帽子がそんなに珍しいのか。あれは日本でなくモルダビアのキシニョ

フで買ったもので、つい先頃までソ連のたくさんの労働者がかぶっていた型のなんだ

が。

 

 このあたりはボルゴグラード貯水池の一部で、川幅は数kmと思われ、左岸は細い紐

のようにしか見えない。川を航行しているという実感はなく、確実に湖の感じだ。5

時くらいになると右岸は乾燥した草地で、樹木の多かったこれまでとはかなり違う。

ところどころ切り立った崖も今まで見てきた赤茶色の土ではなく白い岩が剥きだしに

なっている。

 

 7時、夕食。トウモロコシとお米とどう見ても蟹でなくてカニカマボコのサラダ。

鶏肉をつぶして、小さく切ったパンの衣をつけて揚げたのに、たっぷりのライスと胡

瓜を添えたの。紅茶。ジャム入りのピロシキ。

 

 8時頃デッキに出てみると、右岸の崖は白い層と黒っぽい層がそれぞれ様々な厚さ

に何重にも重なった見事な地層が露出している。素人目にもわかるような断層や褶曲

はなく、川下の側でいくぶん高くなっているとはいえ、ほぼ真横に向かう地層。表面

の形も概ね平らな上、雨水で削り残された部分が等間隔で並ぶなど形状も幾何学的で、

遠くから見ると人工的な構造物にさえ見えるほどだった。所々高台からの雨水で削ら

れた涸れ谷によって切られながらもこれがかなりの長さにわたって続き、夜の空気の

冷たさもかまわずしばらく見とれていた。

 

 9時から最上階のホールで、子ども達のチームと青年達のチームで寸劇や謎かけを

競い合う催しがあった。時間前に会場に行くとさっきの子が帽子を借りにきたときに

そばについてきていた小学校就学前後ぐらいの小さな女の子が私のところへ来て、何

か頼む。自分達が出るときに何かしてほしいと言っているらしいのだが、私に通じな

い。これが大人だといろいろ言い換えてくれるのだが、小さな子なので何度も同じこ

とを繰り返す。結局、会が始まる時間になってその子は目的を果たせないまま自分の

席へ帰っていった。

 もちろん大人達もおおぜい見にきていて、司会のおばさんが客席に向かって何かよ

びかけるとその大の大人達がまるで小学校低学年の子どものように争って手を上げて

答えるなどみんなノリがよく、この船で初めて以前のロシア人の顔を見た気がした。

青年達の寸劇のなかみはもちろん私にはわからないながらも、雰囲気はあの「アント

ン・チェーホフ」の船員達のによく似ていてたいへんよく出来上がっていると思った

けれど、客席は圧倒的に子どもチームびいきで、紙にポスターカラーか何かで書いた

にわかづくりの横断幕も用意されていて、子どもチームの勝ちが宣告されるたびにそ

の横断幕が振られる。当然、子どもチームの勝ちという観客一同をを納得させる総合

成績が発表されて幕となった。

 

 

 

 

( 8) ボルゴグラード

 

8月21日(木)

 今朝も快晴。朝6時過ぎ、やや離れた東の川岸、いや湖岸からゆっくりと陽がのぼ

る。

 

 7時にボルゴグラードの水門に入る。ここの水門もその上を道路と鉄道の両方が通

っていて、鉄道のほうはまだガラガラの通勤電車が通るくらいだが、道路はトラック

やバスなどの往来がしきり。水門には鴎もいるが、それより細身で頭の黒いかわった

水鳥がここには多く、鴎と同じようなつぶれた声を出す。この水門もやはり2段にな

っているのだけれど、途中の「踊り場」がなく、連続していて、はじめのゲートを出

るとそこはもう次のゲートの中にいるようになっている。後続の貨物船と一緒に降り

たので、水門を出たのは8時半近かった。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース、チーズ、ハム、サラミ、バター、味つきパン、

お米のカーシャ、紅茶。

 

 水門を出ると右岸はボルゴグラードの住宅団地などが続き、9時近くなって前方の

右岸の丘の上に大きな「祖国の母」の像が見える。川から見たボルゴグラードの町は

サラトフとは違ってちょっと雑然とした感じ。

 

 9時半頃、河港に着いている客船に横づけ。私は川のクルーズ船というのは、この

「K・フェーヂン」と同じ5層の船が主流だと思っていたのだが、それはコストロマ

の港で見たのが最後で、その後5層のには一度も会ってない。4層の船ばかりで、こ

の頃では3層のさえ多い。ボルゴグラードの河港に着いているのも4層と3層のだけ

であった。5層のクルーズ船は経営が成り立たず、もっぱらモスクワ〜ペテルブルク

方面の短い区間を走っているのだろうか。そういえば、このクラスの船ではレストラ

ンの席が足りず、食事を前後2回のシフト制にするのが常だったが、この船ではそう

いうことがない。

 

 港に着くとすぐにバスに分乗しての市内観光。まずレーニン大通りの中ほどの公園

前で降り、何かの記念碑のあるきれいな公園を徒歩で抜けて平和通りの広場に出る。

右手に中央郵便局、左手に一目でそれとわかる様式の劇場。公園のならびの左右には

ホテル、広場の右奥には高い尖塔を持つ鉄道駅。このあたりの建物には奇抜さがなく、

レーニン通りは中央に幅の広い並木の歩道を持つとか、ボルガ川沿いの公園も大きな

木が繁って色とりどりの花も咲いているなど落ち着いた感じの町で、川から見た時と

は印象が異なった。気温の表示板は25℃を指していて、あちこちの公園や通りの芝生

ではスプリンクラーが回っている。

 

 次に戦争で崩れかけた製粉工場「パブロフの家」へ寄る。広島の原爆ドームと同じ

で戦後50年以上経って傷みが激しいようだった。

 最後が「ママエフの丘」。これは下の通りでバスを降りて徒歩で登っていく。やは

りみんなちょっと静粛な雰囲気で、「永遠の炎」に捧げる花を買っていく人もいる。

いくつかのモニュメントを通り過ぎると「祖国の母」の像の下にある円形の建物に行

き着く。半地下式のこの建物の中央に「永遠の炎」があり、、この炎の正面と出口に

はそれぞれ2人ずつの衛兵が不動の姿勢で立っている。モスクワのレーニン廟の衛兵

はとっくに廃止になったが、こちらは昔のままで、定時になると後継ぎの兵士4人と

先導の1人がおごそかに交代にやってくる。館内には「トロイメライ」の曲が静かに

流れ、ここに来た人は壁にそったスロープを半周すると上の出口に出るようになって

いる。壁には戦没者の名前が小さな字でぎっしりと彫り込まれている。

 この建物を出ると勾配を下げるためにジグザグにした舗道が「祖国の母」の足もと

まで続いている。この像は丘の頂上にあり、ここに立つと全市どころかボルガの向こ

うまではっきりと見通せ、独ソ両軍がこの丘を争ったのがよくわかる。

 船に戻るバスの中から、アパートの壁に「ヒロシマ通り××番」と書かれているの

が読める。ボルゴグラードと広島は姉妹都市なのだ。

 

 1時、出港、昼食。ジュースなのかそうでないのかはっきりしない黄緑っぽい透明

のソフトドリンク。トマトの中をくりぬいて茸や玉葱の煮たのを詰めたザクースカ。

メインはステーキにするような形の肉を煮込んで茄子のソースをかけたもので、たっ

ぷりのジャガイモが添えてある。デザートは緑色のブドウ。

 

 食後に洗濯を済ませてからまたデッキへ。川幅は1km前後か。やはり雲が出ている

が、昨日のようなことはなく、よく陽があたる。右岸はまれに崖になることがあるが、

両岸とも概ね低地で、砂浜も多い。

 午後4時頃、航行可能を示している赤と白のブイが川幅の広い正面にではなく左側

のこれまでのボルガから見たら小川のような水路に置かれているので船の進路はと見

るとそちらへ行くではないか。もうこのあとは川の分岐・合流が複雑でいったいボル

ガの本流を走っているのか側流なのかもわからない。水路の幅も広いところは1km近

くあるが、せまいところは100-200m、うっかりすると100mを切っているのではないか

というところもある。しかも砂州のような中州が顔を出していたりで浅瀬も多いらし

く、赤白のブイはずいぶんジグザグに置かれていて、こうなると大きな船は操船がた

いへんだろうと同情したくなる。

 それにしても、青い空に白い雲がぽっかりと浮かび、川面は油を流したように穏や

か。聞こえるのは船の低いエンジン音、水をかきわけるサラサラという音、それに時

おり水鳥の鳴く声だけ。両岸の景色の後ろへ流れていくのと同じくらいゆっくりと時

が流れていく幸せを思いっきり味わっている。

 

 7時、夕食。賽の目のポテトとグリーンピースとハムをマヨネーズであえてサラダ

菜の上に置きパセリに近い香草をのせたサラダ。すり胡麻とスメタナをかけたビーツ。

蒸した鶏の足にホワイトソースをかけたの。たっぷりのライスとピーマン、胡瓜を細

かく切ったのが添えられている。チョコレートでなく粉砂糖をのせたエクレア。紅茶。

 

 レストランの窓から外を見ると岸の木立ちの向こうに陽が沈むところで、シルエッ

トがきれいだったから、写真を撮ろうと思って食後に下の水際のデッキに出ていた。

すると相席のヴィクトルさんの息子グリーシャがやってくる。15歳のハンサムな青年

なのだがあまり口をきいたことがなく無愛想なヤツだと思っていた。ところが先方か

ら近づいてきて、持っていたヒマワリか何かの種をくれて、剥き方を教えてくれる。

食べてみるとこれがなかなかうまい!あの大ざっぱなロシア人がこんな小さな種を1

つずつ剥いて食べると思うとちょっとおかしいけど。しばらく彼と話しているうちに

陽は沈んでしまい、写真は撮りそこなった。

 

 その後もしばらくデッキにとどまる。西の空の下の方だけがまだ朱色に染まり、そ

れが川面に映える。暗くなった空には星が一つだけ輝いている。周囲には何もなく、

ときどきブイの明かりの点滅するのが見えるだけ。途中で岸のところで焚火をしてい

るが見えると思ったら火事だった。キャンパーの火の不始末だろう。でも、そばにい

たロシア人の家族も「火事だね」と言ったきりだし、船も別段何ごともなかったよう

に通り過ぎていく。そう言えばウソフカ島の林の一角も何百坪かの広さで松の木が焼

け落ちていたけど、こちらではそんなことはしばしばあってどうということはないの

だろうか。

 

 船室に戻ろうとしたら、昨日帽子を借りていった女の子が上で歌っているよと教え

てくれる。最上階に行ってみるとまったくあかりの点いていない真っ暗な甲板に30人

かもっとたくさんの乗客が、バヤンをかかえた白髪の男性のまわりに椅子を半円形に

ならべて歌を歌っている。若い人は少なく年輩の人が多いが、偶然ここに上がってき

てこれに気づいた人が加わっていく。「ウラルのぐみの木」など私の知っている曲も

あったが大半は聞いたこともない曲。でもどれもロシアらしい素朴な感じの曲で、夜

も更けて寒くなっていく甲板なのにいつまでもいつまでも続く。そのうち隣のホール

の明かりがつき、その弱い光に照らされる一人一人の歌う顔がとてもきれいで、映画

ならきっと一人ずつのクローズアップにしていく場面だと思う。バヤンの弾き手が

「次は何の曲にします?」と聞く。前列にいた老夫妻の男の人のほうがこれこれを歌

おうと言う。弾き手のよく知らない曲らしい。伴奏なしで夫が歌い始めると傍らの妻

が一緒に歌う。やがてその曲を知っているまわりの人達が加わっていく。日本ならど

うだろう?あのくらいの年輩の夫婦なら、夫が歌おうとすると「あなた、やめなさい

よ。みっともない。」なんて言われるのがオチでは。それでも夫が強情をはれば、そ

れは数年後の離婚につながる火種として残るのだ。

 真上を見上げるともうたくさんの星が輝いており、やがて船首側のむこう岸から右

側のかなり欠けた赤い月がのぼってくる。この歌の宴、月がのぼってからもかなりの

間続いていた。

 

 この集いが終わるとあのモスクワの発電所勤めのワロージャさんが近づいてきてお

前は酒(これだけ日本語で「sake」と言った。)が飲めるかと聞くのでニェットと言

うと、なぜかとくるので、例によって医者に止められていると言ったら、ロシアの医

者は「少量ならいい」と言うと。そんなこと言うから皆少量だけ飲んで、アルコール

死する男が多いのだ。それはともかく、バーへ行こうというお誘いでオレンジジュー

スを2杯もご馳走してくれた。やがてワロージャ氏の息子ワーニャ君と友達のセリョ

ージャがやってきて、さらにしばらくしたらセリョージャのお母さんとワロージャ氏

の兄嫁(弟の嫁かもしれない。)とその人の女の子もバーにやってくる。この2人の

女性がロシアの主婦に典型的な堂々たる体格なのだが2人ともとてもきれいなのだ。

こういうことを言うとセクハラ発言になりかねないので小声にするけど、女性の美醜

は太さとは全く関係がない。うちの高校生なんかそこのところを勘違いして一生懸命

痩せたがっているけどちっともきれいでないもの。

 ワロージャ氏の話はやはり経済がらみで、お前は給料を毎月いくらもらっているな

どと聞いてくる。だいたいいくらいくらというとそれは月給か年俸かという。自分は

年に5000万ルーブルだけだと。でもそれじゃ1人1200万ルーブルの船旅には来れない

でしょうに。日本からここまで来るのにいくらかかるのかという話も出て、東京〜モ

スクワ〜東京で700万ルーブルほどだと言ったら 頷いて自分がペテルブルクからウラ

ジオストクに行った(一昨年も去年も家族でウクライナに行った話もしていたから年

収5000万ルーブルにしてはよく旅行する人だ。)ときの飛行機代が300万ルーブルだっ

たと言っていた。これが片道か往復かわからないのだが、もし片道分のロシア人料金

なら東京〜モスクワの国際線の格安チケットと変わらないことになってしまう。

 もっとも私の会話能力は相当にいい加減で、ワロージャ氏やセリョージャ君達はア

ストラハンで降りて飛行機でモスクワへ帰ると聞いたつもりでいたが、翌日レストラ

ンで「さようなら」を言ったら「えっ、あなたはアストラハンで降りるの?」と逆に

聞かれ、モスクワへ向かう帰り船にもちゃんとワロージャ氏以下全員乗っているでは

ないか。この程度だから上の話もどの程度に確かか??(^_^;)。

 

 

 

 

( 9) アストラハン

 

8月22日(金)

 船室のレースではなく厚手のカーテンを閉じたままでも外が快晴であることがわか

るほどのお天気。カーテンを開けると東の空の太陽から光と熱の束がじかに船室に飛

び込んでくる。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース。チーズ。サラミ。バター。味つきパン。カッテ

ージチーズをかためて中に干しブドウをたっぷり入れて揚げたか焼いたものにスメタ

ナをかけたの。紅茶。ジャム。

 

 朝食をとっている間に船はアストラハンの河港にはいる。モスクワから3200kmの旅

の終点。

 9時から徒歩で市内観光。我々のグループのガイドは年輩の女性で、かなりゆっく

り話すので時々はわかる。「どちらからいらっしゃいました?」との問いに皆一斉に

「モスクワから」と小学生のように答えるなどいつもの通り大人達は行儀がよい。あ

とで聞いたのだがふだんは英語の先生だそうだ。

 港からしばらくカシタンの木などが覆っている並木道を歩くが、そのあたりの風景

はこれといったものがまるでなく、写真の撮りようのない街だなと内心思ったものだ。

ところがこれが大違いで、その並木を抜けると「白鳥の湖」とかいう池(これもどう

ということのない池だが、実際に3羽の白鳥がいた!)があり、その池の向こうに教

会の黄金のキューポラがある。「白鳥の湖」を過ぎて少しだけ歩くと、白いクレムリ

ンの壁が続くのが目に入り、隅など要所には屋根を板で葺いた白い塔がある。その手

前には噴水と花壇がいくつも続く広場で、右手(広場の中心)にはレーニン像がある。

 レーニンの父親ウリヤーノフ氏はこの町に住んでいて、その家はすぐこの近くにあ

るというようなことを言っていた。クレムリンの壁沿いに広場の反対側にまわる途中、

チェルヌィシェフスキーの博物館を見つける。

 クレムリンの入り口は中央広場とは逆側にあり、そこには高い鐘楼とすぐ内側にこ

れもかなりの高さがあるウスペンスキー寺院がある。さきほどの「白鳥の湖」から見

えたのがこの寺院。修復中だが、かなり工事が進んでいて、外装もきれいな寺院だ。

 クレムリンの中を歩いているとき、ガイド氏がこれが日本の桜の木だと説明した木

はどう見ても桜ではない。

 このガイド氏、とても丁寧で、よそのグループはとっくに解散になっているのに、

クレムリンのあとも通りを丁寧に説明して歩き、最後はロビーが温室になっている変

わった映画館まで連れて行ってくれた。7月には気温45℃にもなるというこの町のこ

と、蒸しはしないが暑くて途中でグループから離脱する年寄りもいる。

 

 V・フレブニコフという詩人を私はまったく知らなかったが、今度の旅に出る直前

にそのフレブニコフの家がアストラハンにあると聞いていたので、市内観光の解散後、

もう帰ろうとするガイド氏にちょっと待ってもらって、レーニンの父親の家へはどう

行くのかというのと、フレブニコフの家がこの町にあるのかというのを聞いた。する

と、ある、それも近いという返事。それではどう行くのか教えてほしいと言ったら意

外な返事が返ってきて、一緒に連れて行ってあげるというのだ。昔、ソ連時代に、街

で道を聞くと、出勤の慌ただしい時間なのにこの見ず知らずの外国人の行きたがって

いる所まで連れて行ってあげるという思いもかけない親切にしばしば出会ったが、あ

れだ。

 フレブニコフの家はクレムリンから歩いて15分程度の近さのところにあった。表に

博物館の看板といついつここに住んでいたという銘板があるが、ドアをあけると中は

普通の民家風。ペテルブルク大学のD・I・メンデレーエフ博物館と同じで、屋内の

廊下にある扉の脇のボタンを押して係員を呼び出す。出てきたのは初老の男性で、写

真を撮るのはダメと言ったようだったが、それこそメンデレーエフ博物館の時と同じ

にひと部屋ひと部屋あけては電灯を点けてそれから英語で説明をしてくれた。

 はじめに案内された書斎にはフレブニコフについての日本語の本もあって見せてく

れた。カメヤマイクオとかいう学者がフレブニコフについて研究しているらしい。

 館内にはフレブニコフの家系から生い立ち、そして若くしての死、モスクワのノボ

ヂビチ墓地にある彼の墓の写真までが展示されている。また、エセーニンやマヤコフ

スキーとの交友のことも説明してくれた。

 フレブニコフの妹のヴェーラという人は、夫妻で画家で、その作品も二、三の部屋

にたくさん展示されている。

 船での昼食の時間が心配になるほど丁寧に説明をしてくれて、お礼に折り鶴を1羽

あげたら、もう一度さっきの書斎へ案内して新聞紙で大事に包んだものを広げて見せ

てくれる。その中にはかつてここを訪れた日本人が贈ったのであろう折り紙ではない

ありあわせの紙で折った何羽かの大きな折り鶴が大事に保存されていた。

 

 そのあとウリヤーノフ家の博物館へ。昼食の時間がまもなくだったので、写真だけ

撮って中には入らず河港に戻る。なんとガイドのアフレチーナさん、この港までおく

ってくれた。

 

 1時、昼食。昨日と同じジュースがでて、3人姉妹の長老格がウェイトレスに何か

と尋ねたら、レモンのジュースだそうな。相当うすめないとこの味にはならない。ポ

テトとトウモロコシとトマトにオイルをかけただけのサラダがサラダ菜の上にのって

いる。ボルシチ。メニューでは「モスクワ風」ということだが、どこがモスクワ風な

のか私にはわからない。「ワレンキ」という料理。辞書を見たら「フェルト製の長靴」

とあって、これでは話にならないが、餃子の皮の中にチーズがはいっていて、おそら

くゆでたもの。何となく草履の形に見えなくもない。デザートはオレンジ。

 

 アストラハンの近くに大きな蓮田があって有名らしく(予算がないとかで建築が途

中で止まったままになっている河港のターミナルビルに隣接するホテルは「ロータス」

という名前だ。)、午後オプショナルでそこへバスを出すという船内放送があったが、

これはパスして1人で市内を歩く。

 はじめに午前中に見つけたN・G・チェルヌィシェフスキーの博物館。ここは呼び

鈴を押さなくても入ることができたが、客がほとんどいないのはフレブニコフの所と

同じ。2000ルーブル払って2階へ上がると、係のおばあさんがつきっきりで説明して

くれる。私はロシア語はわからないと言ったのだが、あなたはおもに見るだけでいい、

私は少しだけ話すからと言って、それでもずいぶん丁寧に説明してくれた。日本では

博物館というと入館料を払って入ったらあとは自分で勝手に見て回るものだが、こち

らではきっとガイドが説明するものなのだ。せっかくの説明も半分もわかってないの

だけれど、チェルヌィシェフスキーはべつだんここの生まれではなく、サラトフあた

りの人らしい。ペテルブルク大学では優秀な学生だったがツァーリ政府に疎んじられ

てペトロパブロフスク監獄に入れられ、その間に「何をなすべきか」を書いた。その

後、シベリア、それも後にはレナ川の下流のほうに流刑になって十数年もシベリアに

いたらしい。皇帝がアレクサンドル3世になってからシベリアより帰ることを許され

たが、北のアルハンゲリスクか南のアストラハンのどちらかだと言われてサラトフに

近いアストラハンを選んだとか。

 

 博物館を出た後、この町の地図と絵はがきを買おうと思ったが、これが手にはいら

ない。露店の本屋ややはらとたくさんあるのだが、どこでも判で押したようにきっと

流行りなのにちがいないアクションものだか恋愛ものらしい拍子の本とあとは9月1

日を前にして教科書の類ばかり。「社会主義」の時代は国が配給しているものしか手

に入らなかったが、今度は流行っているものとか売れるものでないと手に入らない。

この流行というのが曲者で、いかにも自分の判断で選んでいるように思わせながら誰

かさんの掌の上だ。どこかの国の女子高校生のルーズな靴下など見たらよくわかる。

 中央郵便局でもバラ売り2,3種類の絵はがきしかなく、さきほどの温室付き映画

館の隣に「ドム・クニーギ」があったのを思い出して行ってみた。ここ数年のロシア

では、急に商売が自由になったせいだろうが、店の看板と中で売っているものが一致

しているとは限らない。外国人向けお土産屋さんの意味だった「ベリョースカ」に入

ってみたらタイヤなど自動車部品を売っていたなんていうのは珍しくない。ここでも

オーディオ機器か何かが幅をきかしていて肝心の本棚はガラガラ。本のほうの店員は

てんでに持ち場を離れていて客のほうで用事があると渋々持ち場に戻るというあんば

い。それでも幸運なことにアストラハン市のガイドマップと絵はがきのセットを見つ

けることができた。

 

 陽射しが強く暑かったので、公園のベンチや港のベンチで休んだりして、出港20分

前ぐらいに船に戻ったら、船のレセプションで午前中のガイドのアフレチーナさんが

私を待っているではないか!記念のお土産にと言ってフレブニコフの詩集やアストラ

ハン州の地図、それに蓮の花の終わったあとに残る種をもつ花ガラ、せそれに水面の

下で取れるという星のような形をした不思議なものをくれた。振るとコロコロと軽い

音がする。中にタネがはいっているのか。日本の折り鶴と同じように、これは幸せを

もたらすものだと当地では信じられているという。そして、我々の船が横づけしてい

た4層の船のデッキに移って、双眼鏡でも見えるか見えないかというほど小さくなる

まで手を振っておくってくれた。

 

 7時、夕食。ジャガイモの小片をゆでたのにマヨネーズをからめたサラダ。ハンバ

ーグの下にケチャップ味のライスを置いた料理。細切りのピーマンと胡瓜添え。2枚

の間にジャムをはさんだ大きなビスケット様の菓子。上にはチョコレートを塗ってあ

る。紅茶。

 

 食後はずっと甲板に出ている。8時くらいには陽は落ちてしまうから、モスクワを

出た頃と比べるとかなり早い。もうこの頃には市街をすっかり離れて両岸に建物らし

いものは何も見えなくなる。川幅は1km前後か。西の空の朱色が川もにも映える。

 午後9時頃、それまで人気のなかった船首部のデッキにスルーガイドのおばさんを

はじめ20人を越える船客がやってくる。前方の暗がりの中に門のようなものが見えて

これがお目当てらしい。ガイド氏のロシア語が通じない私にはいまだに何だかわから

ずじまいなのだが、右側(船は上流を向いているから左岸)からごく低い橋のような

ものが伸びている。が、人や車が通れるようになっているとは思えない造り。これが

堰堤でないことは、脚と脚の間の隙間からそのむこうの明かりが見えることからも言

える。左手(右岸側)に船が通れる大きな門があり、近づいてみるとこれまでの水門

同様上部にコントロール室のようなガラス窓が見える。防潮堤なのだろうか。

 

 風は強いが、日中の暑さが残っているのか昨晩のような寒さはない。頭上に川と平

行に近い向きに天の川。月の出が遅く、昨晩以上にたくさんの星が見え、銀の砂を散

らしたと言うより敷き詰めたようなところもあるほどだ。

 


 

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