ボルガ3200km  (1997)


 

(10) アフトゥバ

 

8月23日(土)

日程表で午後2時アフトゥバということになっていのに、午前7時半に突然着岸、

停船。いつもより30分早く船内放送があってニコリスコエという船着き場、バザール

があるから買い物にどうぞ、船は8時半に出るとのこと。この船と先着していた「イ

リイッチ」から大勢浜に上がる。桟橋から約50mぐらいの道の両側に地元の人が品物

を広げている。いちばん大きいのは西瓜。とにかくモスクワよりあっと安いらしく、

あんな大きなやつを2つ、3つと買う人がいる。ほかにもザリガニに似た川海老、リ

ンゴ、ブドウ、茄子、干し魚、燻製の魚など様々。キャビアに似た黒い粒を大瓶に入

れて売っている人も何人かいたけど、500gはゆうにはいるあんな大きな瓶がキャビア

ということはないだろう。

そんな中で何だかわからなかったのは、赤色の薄い板状のものを昆布巻きのように

巻たもの。ちょうど3人姉妹と1人が買うところで、そのお婆さんが私に言うにはこ

れリンゴをベースにして、あと何かの果物を加えて作ったものだそうだ。干し柿のよ

うに果物の保存法として受け継がれたものか。試食してみたら適当に酸味があってお

いしい。2つ買ったら珍しく紙に包んで渡してくれたけど、例の灰色のトイレットペ

ーパーだった。

 

アストラハンではモンゴル人の末裔なのか、わりに日本人に近い顔だちの人がおお

く、私が街を歩いていても通行人からごく普通に時間を聞かれたりするほどだったが、

ここでもとても東洋的な顔をした人がいて、そこへ瓜を買いにいったら、私に「朝鮮

人か」と聞く。いや日本人だと答えると自分たちは朝鮮人だと言う。親近感を感じる

顔をしているわけだ。それにしてもこんなところまで朝鮮の人が移り住んでいるのだ。

一人旅だから西瓜を買うわけにもいかず、黄色い瓜の中でいちばん小さい長さ20cm余、

太さ10cm余のを買うと言ったら、「同胞」のよしみか、持っていけ、小さいからカネ

は要らないと言ってプレゼントしてくれた。ロシアから見たら、朝鮮人と日本人なん

てロシア人と白ロシア人みたいなものだ。「同胞」にちがいあるまい。

 

8時半、朝食。オレンジジュース、チーズ、バター、クロワッサンの形をした味つ

きパン、肉入りのブリヌィ、ジャム、紅茶。

 

天気は非常にいいけれど、今度は上流に向かっているので左舷にある私のキャビン

には午前中は日がはいらない。

10時半頃、チョールヌィ・ヤールを通過。右岸の崖の上に教会が見える。グリーシ

ャ君がやってきて、またヒマワリのらしい種をくれる。私はこれの皮を剥くのがいつ

までも上手にできないが、皮ごと食べてしまってもおかしくない味。ロシア人が几帳

面に皮を除くのは、皮を食べるとお腹によくないのだろうか。

そのあとワーニャ君たちと一緒に私のキャビンでトランプをしたり折り紙をしたり

していたが、12時にアフトゥバに着いてグリーン・ストップの船内放送がはいると泳

ぐんだと言ってあっという間に飛び出して行ってしまった。

 

アフトゥバは先日のウソフカとよく似た岸で松林と浜があるだけ。アストラハン〜

ボルゴグラードを2日かけて上るのは変だと思っていたけれど、モスクワあたりの人

にとってこの南の地域でのグリーン・ストップで泳いだりするというのは川旅の中の

大事なイベントなんだろうと思う。それにしても陽射しが強く、泳ぐのでなければ外

には長くはいられない。

こちらの船はただご自由にどうぞというグリーン・ストップだが、横付けになって

いる「イリイッチ」のほうからネプチューンやその他の仮装をした大人や子供が出て

きて、浜で円形になって何か楽しげな儀式をやっている。

 

 1時、昼食。リンゴの薄片がいくつか浮いているうすいジュース。マヨネーズであ

えたジャガイモとグリーンピースをサラダ菜の上にのせたの。実だくさんのシー。ジ

ャガイモを味付け用のトマトと玉葱と一緒に煮たのがメイン。ピーマンの細切りが添

えられている。アイスクリーム。

 

 午後3時をすぎてからもう一度船を降りて岸に上がってみる。浜辺は水浴や日光浴

をする人達でにぎわっているけれど、一歩奥へ入ると全く人気がなく静か。岸辺の林

の先は草原になっていて、もう花は殆ど終わってしまっている。原っぱの先は雑木林。

林の中に入ろうとすると小さな虫たちがまつわりついてくる。

 浜で商いをする人が見えないと思っていたが、シャシリク屋が1つ。全体をネット

で覆ってそれに木の葉をさして日除けにしているものだから気がつかなかった。まる

で砲兵隊の陣地だ。ほかに船着き場の上の木立ちのところに古いトレーラー・トラッ

ックが1台、荷台に西瓜と瓜を山盛りに積んでいる。べつだん看板を出しているわけ

ではないが、船側から見えるところに大きな西瓜を1個だけ置いてあって、それで船

客が気がつく仕掛け。

 古いと言えば、ここは桟橋も古い廃船をそのまま使っていて、操舵室も形をとどめ

ているし、一方の錨は水中に落としてある。

 午後5時でも陽射しは強いし、ことに浜は水面と白い砂浜の両方からの照り返しで

暑く、泳いでもいないのにキャビンに帰ってからシャワーを浴びたほどだ。

 

 午後6時、離岸。ボルガの岸は同じような風景が続く。ごく低い1-2mの崖か、その

崖の手前に砂浜が広がる。所々でテントを張ってキャンプをしているのが見える。は

るか上流を下ってくる時も、ボルガ川の岸はわりに最近削られた感じの崖が多いと思

っていたが、このあたりは砂地でやわらかいせいか、侵食が激しい様子。岸辺の崖の

木々は根元を洗われて根がむき出しになっていたり、横倒しになっていたり、そのま

ま水中に落ちて枯れ果てていたりしている。

 

 7時、夕食。カッテージチーズをハムでくるんで爪楊枝で止め、その上にオリーブ

の実を刺したしゃれたザクースカ。脂身のない草履のように平べったい肉を焼いたの

とたっぷりのヌードル(スパゲティ?)。ピーマンの細切り添え。オイルをまぶした

キャベツの繊切り、人参の繊切り、パイナップルとリンゴの細片のサラダ。パイ皮に

林檎1個をまるごと包んで焼いたそれこそ“本物の”アップル・パイ。あまり甘くな

い。菓子としてはやや大きすぎてナイフとフォークを使って格闘する。紅茶。

 

 食後は、最上階のホールで、子ども達がまた何かの出し物の練習をしているのにつ

き合った後、一度下のデッキへ降り、もう一度上へ上がってみたら、先日と同じよう

に白髪のバヤン弾きのまわりに半円形に椅子を並べて歌を歌っている。ただ、2度目

となると残っている歌も少ないだろうし、先日より人の数も少なく、また少しずつ減

っていく。

 一旦、「これでお開き」と言ってからも残ったのはバヤン弾きの男性のほかに、ち

ょっとこわそうな顔つきのお婆さんとそのお婆さんの娘さんぐらいの年輩のやはり若

くはない女性が2人だけ(翌日わかったのだが、このうちの1人はその白髪の男の人

の奥さんだった。)だった。ところが、このこわそうな顔のお婆さん、べつだん声を

張り上げるわけでもなく小声で歌うのだが、それがとてもきれいで心にしみる。風に

あたる冷たい甲板に最後まで残るのはやはり歌がほんとうに好きなのだ。

 

 このあいだワロージャ氏にごちそうになった船尾のバーはバンドがはいっていてう

るさいけれど、私のキャビンのすぐそばの船首側のバーは男の人がピアノを弾いてく

れていて落ち着ける。上のデッキを降りてからはここで閉店の12時までピアノを聞き

ながらコーヒーをすすったりしていた。カーテンを閉じてないので、時折り岸辺の灯

やすれちがう船のあかりが窓の外をスーッと通り過ぎる。せんだって帽子を借りに来

た女の子もお母さんとバーへやってきて、カクテルを飲む母親の傍らでつまみに手を

出したりしている。

 

 12時を過ぎてから外へ出てみたけれど、それほどは寒くない。よく見ると船から意

外に近いところに岸辺の崖があったり、川の中にあかりが見えると思ったらそこは砂

浜でキャンパーが焚火をしているのだったりしてギョッとさせられる。観光船は夜間

航行が多いので船を動かすほうは大変だろう。川幅はせまくないけれど、川筋は複雑

でブイの数が多い。航路の両側にはそれぞれ赤・白のブイがあって、夜になると同じ

色の明かりが点滅するけれどもそう強い光ではない。川が湾曲するとカーブの内側が

どうしても浅い水深になるようで、このブイの置かれた航路は川筋の曲がり方よりも

もっときつくなる。前方を見ると進行方向の直線上に白と赤のあかりが見えるので、

それじゃこのあと船は真横を向かなければならないじゃないかと思っていたら実際に

そうして行った。まるでスキーの回転競技だ。しばしば岸に白い三角形の標識が2つ

並んでいて、昼間だとその中央に縦にひかれた黒い線が2つ重なって見える方向に進

むといいらしいのだが、夜間はその標識の上に明かりがついて2つの標識のうち後方

ののそれは点滅するしかけになっている。

 下弦の月が川面のわずかに上にあり、頭上には天の川。

 

 

 

 

(11) スターリングラード

 

8月24日(日)

 朝6時半にカーテンを開けてみると、船は見覚えのあるボルゴグラード河港の沖に

停泊している。港には大型の客船はまったく接岸していなくて、アストラハンで一緒

だった「アレクサンドル・プーシキン」や「イリイッチ」もすぐそばで投錨している。

天気は快晴。

 7時を過ぎるとどこから現れたのか別の大型客船2艘が先に接岸。

 

 7時半に船内放送。担当しているのはスルーガイドのおばさんで、時間、日付を言

ってから今日が旅の何日目でモスクワから何kmの何という町にいて、気温は何℃、今

日のスケジュールはこれこれとそのあたりまでは型通りだが、さらに今日は誰々の名

の日にあたっていてこの名前の人とこの名前の人はみんなおめでとうだとか、千何百

何十何年の今日はこういうことがあったというのを2つ3つ話すなどかなり丁寧なの

だ。昨日の夕食の前に、アレクサンドル・デュマがこのアストラハン地方に来たこと

があるとかないとかいう話を30分も放送で続けたくらいだ。

 その船内放送で昨晩も今朝もボルゴグラードで花を買うようにとしきりに言ってい

るのだが、何のためなのかがわからない。

 

 8時、先着していた「セミョーン・ブヂョーヌィ」という久しぶりに見る5層の客

船に横づけ。

 同じく8時、朝食。オレンジジュース。チーズ。ハム2切れ。バター。厚焼きの玉

子。味つきパンがなぜか今日は2つも。ジャム。紅茶。

 

 今日のボルゴグラードは1時まで自由行動。花を買えと船内放送が繰り返している。

 

 港の階段を登ると「芸術の噴水」。その後ろにレーニン勲章をつけたビルと金星勲

章をつけたビルが左右対称に建ち、そのビルにはさまれた通りが「英雄の並木道」。

そのまままっすぐ進んで、中央郵便局とドラマ劇場にはさまれた広場を右斜めに進む

と鉄道駅。駅の建物の正面の高いところにある彫刻がかわいく、入り口の両側に置か

れた大きな戦士のブロンズ像と対照的。

 駅にはちょうどモスクワからの急行「ボルゴグラード」が着く時間で、花束を持っ

た迎えの人が大勢待っている。やがてボロネジからの2両を加えて18両編成の緑色の

列車がゆっくりと入線してくる。列車が止まると、どの車両のとびらからも一斉にま

ず車掌が出てデッキの手すりを拭く。そのあとから乗客達が降りてきて出迎えの人達

と再会を喜び合ういつもながらの風景。

 

 駅の裏手は市の中心街がすぐ近くとは思わせないほど殺風景なアパート街で、その

中で1ヶ所だけ露店がいくつかもならんでいるところがあり、そこが郊外へのバスタ

ーミナル。何台もとまっているバスはどれも「老骨に鞭打って」の感じの国産車ばか

り。

 そこを抜けて鉄道に沿って北へ歩くとやがてT字路になる。そこから左1区画が

「ヒロシマ通り」。ママエフの丘をバックに「ヒロシマ通り」の写真を撮ってから川

の方向へ向かって歩く。

 レーニン通りへ出たところで駅のほうへ向きを変えて歩くと、地下鉄の駅に似た表

示のある地下道の入り口がある。降りてみると地下鉄ではなく地下を走る市電だった。

市電なので改札なしでホームまで行けるが、前の電車が出てから何分何秒たったかの

電光掲示板があったりするのは地下鉄に似ている。2両編成のまったく市電型の電車

が数分間隔でやってくる。

 

 そのあと「パブロフの家」とそこにあるスターリングラード戦の記念館へ。1階が

博物館でスターリングラード戦関係の資料がびっしりと展示されている。日本から贈

られた原爆の子の像のミニチュアや吉田茂の筆による銘のある釣り鐘なども世界の各

国からの贈り物とともにここにある。その上の階はホールで、このホールでも下の展

示でもここではスターリンがいまなお健在。さらに螺旋階段を上がると円形の建物の

壁にスターリングラード戦のもようを描いたいわゆるパノラマ。壁画の手前の床には

散らばる資材や塹壕のミニチュアなどを置いてリアルさを出している。セバストーポ

リで見たクリミヤ戦争のと同じスタイル。ただ、クリミヤ戦争とは違ってつい最近の

戦争なのでよけい真に迫るものがある。

 これを見ている時「もう時間がないよ」と突然声をかけられた。昨夜のバヤン弾き

のおじさんで、出港時刻までもう時間がないので帰ろうと促される。この男性と一緒

にいたたぶん奥さんらしい女性の父親がスターリングラード戦を闘ったそうで、この

女の人、船がボルゴグラードを離れるとき、涙を止められない様子だった。

 

 1時に出港。このときになってあの「花を買え」の意味がようやくわかる。船内放

送で、花を持ってデッキに出ろというのだ。2階から4階まで、市街に向いた側のデ

ッキは、それぞれ花を手にした女の人、男の人、老人、子どもでいっぱいになる。そ

してママエフの丘の手前までくると、船が汽笛を鳴らし、皆一斉に花を川に投げ、死

者の鎮魂と平和を祈る。花を持っていない私がそのかわりに投げた2羽の折り鶴はく

るくるとまわりながらボルガの水面に落ちていった。

 ソ連がどうのこうのというのとはもう全く別の次元でボルゴグラードはロシア人に

とって現代の聖地なのかもしれない。

 

 1時40分、昼食。 純粋なリンゴジュース。細かく刻んだハム、ジャガイモ、キャベ

ツのサラダ。衣をつけて揚げた肉にライス、繊切りの胡瓜が添えてある。洋梨とリン

ゴのうす切り(切ってから時間が色が悪くなっている。塩水につけるのを知らないの

か。)にオレンジの切ったのをのせ生クリームをかけたのがデザート。

 昼食の時と夕食の時はいつもヒヤヒヤだ。前の日の朝食のときにチョイスしている

のだが、わけのわからないロシア語のを適当にチェックしていて何を注文したのか忘

れているから。

 

 2時半近くに水門。例のスルーガイドのおばさんがデッキにやってきて、水門の設

計図までもってきて説明してくれる。こうした水門は原理的には動力が要らない計算

だが、驚いたことにここではそれどころか発電機を埋め込んであって、並びの大発電

所とは別に小電力を生み出しているというのだ。

 3時近くに上のゲートを出ると目の前には「海」がひらけている。

 

 その後も2時間あまりデッキに留まる。来たときと同じく右岸側を航行していて左

岸は遠くにかすんで見える。右岸は土や岩がむき出しの崖が続き、その崖の上はゆる

やかな起伏のある草地であることが多い。快晴だが日の直接あたる側にいてもそれほ

ど暑くはない。

 最上階のホールでは子ども達がまた何かの練習をしている。例のバヤン弾きの男性

などが指導をしているのだが隠し芸にしてはチェックが厳しい。

 

 7時、夕食。チーズと切り刻んだゆで玉子ハムのサラダ。温かいうらごしジャガイ

モの上にストロガノフみたいな味に肉を煮込んだのをかけてある。細切りのピーマン

添え。カステラをもう少し固くしたようなのに干しブドウがはいっていて粉砂糖をふ

りかけてある日本にもありそうな菓子。紅茶。

 

 以前より日没が早くなったのか位置のせいなのか、このごろでは8時くらいには日

没になる。

 最上階のホールで「ベテランの話を聞く会」がある。聞いてもわかるわけはないの

で中に入らないつもりだったが、ワロージャ氏が私を見つけ、見ているだけでいいか

ら入れと言う。司会(スルーガイド氏)の開会の挨拶では「今晩は、淑女、紳士のみ

なさん。」の後にあえて「今晩は、タワーリシチ。」がつく。紹介された「ベテラン」

とよばれる老人は男女1人ずつで、女性は2年ほど看護兵として前線にいて、男の人

はレニングラード封鎖のときラドガ湖上の「生命の道」を行き来するトラックの運転

をしていたそうだ。当時17歳とか18歳だったという。

 この2人の話のあと、今度はこの2人へということで、子ども達が歌を歌ったり、

プーシキンか誰かの詩を暗唱したり、昨日練習していた例の寸劇を披露した。

 

 集いが終わってからもワロージャ氏と最上階のデッキの手すりにもたれて11時くら

いまで話していた。といっても、実際にはなかなか言葉が通じず彼が何度も何度も言

い換えてくれるのだ。1960年生まれの37歳というから私の最初の教え子よりもずっと

若いが、こうやって繰り返してもらいながら話していると先方のほうが年上のように

思える。教え子のほうはいまだに子どものような気がするのに不思議だ。

 なぜ結婚しないのか、60歳,70歳になったときに1人だぞなどとまるで日本の親戚

や同僚が言うのと同じようなことも言う。話は戦争のこと、気候のことなどと脈絡も

なく広がる。近ごろモスクワあたりでは夏に温度が上がらず冬温かいので農業にも深

刻な影響が出ているし、ボルガなどの大河川の水位にも無関係ではないそうだ。領土

問題ではまったく意見が一致しない。クリール諸島は自分達のものだと思っているだ

ろうと言うから、勿論だと言ったらあれはロシアのものだと。仮にエリツィンがクリ

ール諸島を返すと言ったら、中国はアムール川流域を、ドイツはカリーニングラード

を、エストニアはプスコフのあたりを、ウクライナは....と言い出すに決まっている

から、それはできないとも。そんなにスネに傷があるのか。

 ちょっと奇妙な話だと思ったのは、ナホトカ号の重油流出事故のあと、今年の夏に

日本でもっと大きな船により油の流出事故があったけどそれはどこの国船だと聞かれ

たことだ。その時は思い当たらなくて、そういうのは聞いたことがないと言うと、ナ

ホトカ号より大きい事故なのに日本では小さく報じられているとロシアの新聞やテレ

ビでは言っているというのだ。今にして思うと、きっと東京湾での事故ことだろうが、

あれは流出量が当初報じられたのの1/10ということだったが、ほんとうのところどう

いう事故だったのだろうか。

 

 岸には時折り小さなあかりが見える程度だが、一度だけたくさんの明かりの連なる

大きな町を左舷に見ながら通り過ぎた。カムィシンの町か。

 キャビンに戻った11時までには月はのぼらず、黒い空にたくさんの星。

 

 

 

 

(12) サラトフ

 

8月25日(月)

 8時に船内放送がはいった時には船はサラトフの港に着くところだった。天気は快

晴。暑く、朝の気温は20℃と船内放送が伝えている。昨日のボルゴグラードが日中で

25℃ぐらいだったからやはり今日も暑いのだろう。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース。ハム2切れ。バター。オムレツかと思ったらそ

うでなくてカッテージチーズを固めて厚焼き玉子風に焼いたの。スメタナが添えてあ

る。クロワッサン形のパン。フルーツヨーグルト。ジャム。紅茶。翌日の昼食のメニ

ューを選ぶのも今日が最後だが、もう辞書をひくのも面倒で同じテーブルでおおぜい

が選んでいるほうについた。

 

 9時からバスで市内観光。今日のバスはばかに混んでいるなと思っていたら、スル

ーガイドのおばさんが乗ってきて「1号車以外の人は降りて下さい。バスは小さいん

だから。」と言う。すると結構な数の人が降りた。それぞれ何号車と割り当てられて

いるいるのに、ロシア人てずいぶんいい加減なものだ。

 古い国産バスの車内は暑い。席の上の読書灯に並んでいる送風口みたいのをいじる

人がいるけどエアコンなんかあるわけない。天井の蓋がしっかり開いていてそこから

空が見えるんだから。

 

 他のグループはバスから降りて説明を受けている港のすぐ上のトロイツキー教会は

バスでそのまわりを1周しただけでとばして、チェルヌィシェフスキーの大きな銅像

のある広場へ。広場のすぐそばにはロシア風でない尖った建築様式の大きな茶色の建

物があって目を引く。今は高等音楽院だそうだ。それと対角線の方向に妙にけばけば

しい采色の正教の教会。チェルヌィシェフスキー像の後ろには広場の縁に沿って掲示

板風の構築物。その中には大きな模型が入れてあって、まず1600年代か石の建物と言

えば教会ぐらいで木造建築ばかりのサラトフの様子を見せ、その隣には今のサラトフ

を展示。ただ、こちらの模型は少しばかり壊れている。さらにその右には未来のサラ

トフということで、現代的な高層建築の並ぶ国籍不明の都市の予想図が描いてあった。

ロシアの地方都市がこんなふうになるのももしかすると思ったよりも近い将来のこと

かもしれないという気がしてきた。

 

 そこからバスでどの向きに行ったのかがわからないが、もう一つ別の広場。400mの

正規のトラックがとれると思うほど何もないただの広場。レーニン像が立っている。

広場のまわりにはバレエ・オペラ劇場や美術館がある。

 そのあと、港からも見える町の背後の高台へ。ここは大戦の戦没者の慰霊の公園に

なっている。飛んでいく鶴をモチーフにしたモニュメントの見える入り口のところに

は銘板があり、サラトフ(市ではなく州だろうが)から出征した人のうち18万人近く

が帰らなかったとある。昨日の夕飯のときに同席のお婆さんたちがスターリングラー

ド戦では100万人を超えおそらく200万人に近い人が死んだと説明してくれたが、占領

されたわけでもないサラトフであの戦死者数だから、ソ連は戦争に勝ったとはいえ、

いかに大きな犠牲を払ったかが想像できる。

 慰霊塔のあるところからは全市を見渡すことができ、すばらしい眺めだ。

 

 このサラトフのガイドは珍しく帰りのバスの中で歌を歌ってくれたりした。それも

あまり上手とは言えないのに。でも、いつも通り行儀のより客のほうは歌の都度の拍

手はもちろんのこと、そのうち「ブラボー」だの果ては「ウラー」だのの声援だか野

次だかをとばしたりする。民謡「ステンカラージン」になったら「合唱にしよう、合

唱に。」という声がかかるあたりはやはりロシアだ。

 

 11時半過ぎに市内のにぎやかな通りでバスを止め、買い物など自由にどうぞ 1時15

分前にチェルヌィシェフスキーの銅像のところで待っていますということで一旦解散。

本屋にはいって地図を買ったり立ち売りのアイスクリームを買ったりしてぶらぶら歩

く。

 あの高等音楽院の前につながる通りは、モスクワのアルバート通りのようなちょっ

としゃれた街灯が並んでいて、歩行者天国になっているらしく通りの中央も人が歩け

る。それにしてもウィークデーの日中だというのにむやみに人が多い。

 バスに戻る直前に、やはり立ち売りのパン屋で、薄いパイ皮のようなのを重ね焼き

したパンを2つ買う。チョコレートもクリームも使ってないけれどきっと美味しいと

見えて蝿がとまっており、おばさん、それを手で追い払って渡してくれた。噛むと甘

味のあるうまいパンだった。2つで1600ルーブル(約30円)。

 

 1時に船に戻り、1時半に昼食。例の薄くておいしくないレモンジュース。オイル

と酢で味付けをしたらしいキャベツのサラダ。キャベツをザックリと櫛形に切ってカ

ッテージチーズをまぶして揚げたの。スメタナ添え。肉っ気が全くないが美味しい。

黒い葡萄がデザート。

 

 食後は甲板でなく船室にしばらくいる。キャビンのラジオは連絡やガイドの船内放

送以外はモスクワの第一放送を流しっぱなしにしているのだけれど、この局はクラシ

ック音楽やロシア音楽がけっこうふんだんなので休まる。

 

 4時半近くになって船はまたウソフカ島でのグリーン・ストップ。7時まで2時間

以上もあって、またみんな浜に泳ぎに行く。水浴びの用意のない私は30分ほどで船に

戻って来てしまったけれど、こちらも停船時間を使って若い水夫達が船体の錆落とし

なんかしていて居場所がない。

 陽が傾いて暑くなくなった6時頃もう一度浜へ。泳いでいたみんなは次々と船に戻

る頃。桟橋の魚売りの男女が船へ戻る客に、買っていけ、美味しいよとしきりに勧め

ている。

 スルーガイドのおばさんが船に帰っていくところに出会ったので、明日の市内観光

のあとで船を降りることを言って礼を述べた。おばさんはとても残念だと言ってくれ

て(はじめ、私はこれを「とても暑い」と受け取って「日本はもっと暑い」と言って

しまった(^_^;)。)、その後、明日の午前中船に乗っている子ども(お子さんでは

なくてお孫さんでしょう。)に鶴の折り方を教えてほしいというからこれはもちろん

快諾。

 鶴と言えば、2,3日前、船客の一人の若い女性から折り方を教えてほしいと言わ

れていた。夕食前に船首部のデッキを歩いていたら本を読んでいるのを見かけたもの

だから、日のあたらない右舷側のデッキに置いてあるテーブルに誘って折り紙のにわ

か家庭教師。

 

 7時、夕食。2つ割りのゆで卵にマヨネーズをかけたザクースカ。ゆでジャガイモ

にレバーと茄子を煮たのがメイン。中にカッテージチーズを包んで焼いたピローグ風

の菓子。なんとこれに1粒ずつ紙で包んだキャンデーが1人2個ずつ添えられている。

見たことないデザートだ。紅茶。

 これが船での「最後の晩餐」なので、いつもワゴンに酒類をのせて売りにくる係の

女性に頼んで同じテーブル6人分のワインを出してもらった。はじめは5人分しか頼

まなかったがヴィクトルさん(グリーシャのお父さんではなくて伯父さんだった。)

に聞いたらグリーシャもべつに飲んでいけないということはないということだったの

で1人分追加。15歳のグリーシャもきれいに飲み干してしまった。あとは「三人姉妹」

のお婆さん。じつはアメリカ帰りと思っていた隣席のお婆さんはアメリカから移り住

んできたのではなくて今もアメリカに住所があるのだ。それどころか3人の中で長老

格でテキパキ仕切る感じのナターシャというお婆さんもフロリダ在住で、残りの一人

がモスクワに住んでいる。隣席のお婆さんの境遇は複雑なようで、生まれたのがカザ

ン、小さい時はサラトフで育ち、結婚したのがユーゴスラビア人の夫で、ユーゴスラ

ビアに住み、そして今アメリカ。ロシア語より先に英語が口に出るという人だ。

 いつもより長くテーブルにいて、6人で少し会話が進んだのだが、私がロシアを気

に入っていると話したら、その隣席のお婆さんが、でもロシアはあなたが住むにはい

いところではないよ、東洋の人をよくは思わないからと言ってから雲行きがおかしく

なった。モスクワに住んでいるもう一人のお婆さんが猛然と反論してロシアの人達は

いい人達よと言うが、片方も譲らない。それにヴィクトル氏も加わってという展開に

なり、グリーシャと私はただただ事態の行方を見守るばかり。せっかくのワインが妙

な幕切れになった。

 

 夕食を終えてデッキに出ると、夕陽はもう右岸の崖のむこうに沈んだところ。西の

雲は朱色をしていたが、時間が経つにつれて深い赤色に変わっていきそのまま川面を

染めている。まれに岸辺に見える集落の家々のうちいくつかの窓が明るい点になって

いる。10時くらいまでデッキにいて、そのあと1時間ほど船首部のバーで過ごす。

(トマトジュースのグラスを傾けながらというのがちょっとサマにならないところだ

が。)

 

 もうすっかり仲良しになった例の「子どもチーム」の子達は夜更けまで船内を動き

回っていて、ことに小さい子は私を見つけるとまつわりついてくる。先日の子ども・

青年チームの対抗戦で司会をしていた女性に「あなたほど子どもに好かれる客はいな

いわ。」と言われてしまう。11時過ぎに船室にはいろうとしたところをいちばん小さ

いナースチャ(あの時私に何かを頼んだけれど結局私が理解できなくて何もしてあげ

られなかった女の子)たちに見つかって「おやすみなさい」のキスの嵐。こんなとび

ぬけて若い女性からキスしてもらえるなんて光栄の至りだ。

 

 

 

 

(13) サマーラ

 

8月26日(火)

 「コンスタンチン・フェーヂン」で最後の日。少し霞んではいるが天候は良い。ま

るで浮島のように見える中島がいくつもある広い水域をぬけ、やがて左岸は小高い地

形になる。その上は草原だが何ヶ所も広範囲に焼いた跡がある。船内放送がはいった

8時頃、船は見覚えのあるシズラニの町のあたり。

 

 朝の放送で今日のスケジュールを聞いていたら「午前9時から日本人乗客による折

り紙教室」と言われてびっくり。ガイドのおばさんの子どもか孫に教えるのではなか

ったのだ!

 

 8時半、朝食。オレンジジュース、牛タン3切れ、胡瓜、ビーツ、粒状のトウモロ

コシ、バター、チーズ2枚、味つきパン、紅茶。

 

 毎朝9時過ぎにメイドさんがキャビンの掃除に来るので、その時は部屋をあけるよ

うにしていたのだけれど、今日はお礼を言わなくてはいけないのでキャビンで待って

いるつもりだった。ところが、朝食を終えて部屋に戻ると「子どもチーム」の男の子

の中でいちばん小さなヤロスラフ君が私の部屋で待っていて「9時から折り紙だから

早く上のホールへ行こう」と私をひっぱる。で、まだ廊下を掃除していたメイドさん

に「いつも私の部屋をやってくれているのは貴女ですか」と聞いたら、先方は何か盗

難のような事故でもあったのかと思ったらしく「そうですけど、とにかく部屋に行き

ましょう。」とちょっと険しい表情になる。折り鶴に3ドルほどのお札を添えて差し

出したらようやく表情が緩んだ。

 

 9時からの「教室」には、はじめはヤロスラフ君を含めて3,4人しかいなかった

ので、そんなものだろうと思っていたら、やがて下から次々と人が上がってきてかれ

これ30人は越える生徒を相手にしたと思う。それも子どもよりむしろ大人の数が多い。

 はじめに「折り紙と行っても私は鶴しか折れません。けれど、日本では折り鶴は幸

せと平和のシンボルです。ササキサダコという女の子のことを知っていますか。」と

言ったら、子ども達は殆ど知らない様子だった(日本の子ども達でも知らない子のほ

うが多いかもしれない。)が、年輩の人達はよく知っているふう。

 このあいだ私の部屋でグリーシャ達とトランプをしたとき 予備に持ってきた300枚

入りの色紙の束をワーニャにあげようとしたら「要らない」って断られたけど、あの

ときあげてしまっていたら今日の「教室」はできなかった。そう思うほどたくさんの

色紙がはけた。

 鶴を折る過程のの中には一旦折ったところを開いて押し込むような折り方をすると

ころがあって、ふだんやりつけていない人にはこれが難しいらしい。そういうところ

はその人のところへ行って1ヶ所だけやって見せて、あとは自分でおやりなさいと言

う。ちょうど化学実験室で授業をしているとあちこちの実験台から「先生」「先生」

と呼ばれて室内を走り回っているのに似ている。ヴィクトル氏も熱心で何度となく私

に聞きながら繰り返し練習していた。そういうわけだから、一度作り上げてしまった

らおしまいではなく、まだ覚えてないからもう一度という人や、遅れて上がってきて

加わった人のためにまた繰り返すということで、「教室」を店じまいしたのは予定を

大幅に越えて10時半頃だった。

 

 その後は昼食まで船首部のデッキで過ごす。よく晴れわたっているが、すこし霞ん

でいるようで遠景ははっきりしない。双眼鏡で遠く前方をのぞくと記しに立つ何本か

の木が遠近感のない影を水面に落とす。その背後遠くにある林から手前の水面までほ

とんど同系色で、淡い水彩画のような感じ。左右に幅のあるサラトフ貯水池を進んで

いるけれども、船はボルガの右岸側に航路をとっているから、こちらの岸はま近に見

える。森の木々はもうはっきりと色づきはじめていて、黄色はむろんのこと、もう赤

くなっている木もある。時々、何十頭もの牛の集団が水辺にかたまっているのが見え

る。からだにあたる風はもう秋の風だ。

 

 1時、昼食。林檎のかけらの沈んだ薄いジュース。アンチョビとトマト、それにレ

モンのスライス。この輪切りレモンは外側の皮を歯車のような形に残してあって、向

かいのヴィクトル氏を見ていたら絞るのでなく、アンチョビやトマトと同じようにナ

イフで切って全部食べてしまっていたので、自分もそれにならった。カッテージチー

ズと人参のつぶしたのを固めて揚げたのがメイン。スメタナが添えてある。ナッツの

粉をふりかけたアイスクリーム。

 まだザクースカのとき、レストランの入り口で突然バヤンの大きな音がする。何だ

とと思って見ると、スルーガイドのおばさんが例のバヤン弾きの白髪の男性を従えて

こちらへ進んでくる。そして私の席のところで止まると、このおばさん、よく通る大

きな声で、この素敵な日本人のお客さんは今日ここで船を降りますと言って、記念の

証明書と船長のサインのある本を1冊贈ってくれた。レストランで食事中のみんなも

拍手をしてくれる。はじめはキョトンとしていた私も、もちろん席から立ち上がって、

おばさんへはもちろん、あちこちを向いて何度も頭を下げたのは言うまでもない。

 

 2時過ぎにサマーラの河港に接岸。すぐにバスでの観光のはずだったが、時差の関

係での手違いとかで、バスが来るまでに30分、バスに乗ってからもローカルガイドが

来ないというのでさらに30分待たされ、はじめからすっかり印象を悪くした。

 アストラハンとは違ってそれこそ見どころのな町のようで、17世紀の要塞のだだと

いう木組みの残っているところ、真新しい白い壁と金色の十字架という安っぽい外見

なのに中に入ると煤けているとはいえ柱ごとの聖壇も正面のイコノスタスも天井は壁

の聖画のどれもが豪華なポクロフスキー教会、レーニンが1890年代に3年ほど住んだ

という西部劇に出てきそうな書体の看板がかかっている家、河畔の高台に立つ煉瓦造

りの劇場などを回って、あとは通りでバスから降ろされて自由行動。バスの車内がと

にかく暑く、子ども達はもうすっかり飽きて疲れはてた様子。

 しかもこの自由行動にはおまけがついていて、港までバスで帰りたい人は1時間後

の6時(現地時間7時)に降りたところで待っていればバスが来るという約束だった

がこれが来ない。こういう時、ロシア人はどのくらいまで許容するのか興味があって

見ていたら予想外に短く10分ほどであきらめて河港まで歩こうということになった。

一緒にバスを待っていた今ではすっかり顔なじみのおばあさんがサマーラのことを

「悪い町だ」と言っていたけど私も同感。何を食べても「美味しい」、どこの町を見

ても「きれい」、それもすぐに「オーチン(very)」をつけて言うロシア人が「悪い」

というのは初めて聞いた。

 

 船に戻ったらすぐに船室からスーツケースを出して下船。遅れて歩いてきたロシア

贔屓とロシア嫌いの3人姉妹のお婆さんに乗船口で会って別れの挨拶をし、河港のタ

ーミナルビルに隣接するホテル「ロシア」に入る。

 

 船はモスクワ時間で8時(現地時間9時)にサマーラを出港予定なので、7時半頃

桟橋のほうへ歩いていくと、「子どもチーム」のマーシャとレーニャが遠くから私を

見つけて走り寄ってくる。船のところまで行くとヤロスラフ、ユーリャ、スクーシャ、

ワーニャ、セリョージャなど子どもチームの面々とそのお母さんやワロージャ氏も集

まってきて船名をバックに写真を撮る。

 もうまもなく出港だからとみんなを船に乗せると、今度は3階のデッキに出てきて

並んでしまう。ここにはナースチャも来てくれて子どもチームは全員せいぞろいだ。

あの帽子を借りにきた女の子スクーシャがデッキの手すりごしに小さくて素朴な焼き

物の鳩をくれる。ウグリチの船着き場で彼女が買っているとき私はそこに居合わせた

ので見覚えのある品物だ。それを思いっきり吹いてみろというのでその通りにすると

あたりにはばかられるような大きな音が出る。鳩笛なのだ。

 出港時間が近くなるとデッキにはしだいに人が増える。子どもチームとそのお母さ

ん達、保母さんのように子どもチームの相手をしていたお姉さん達、グリーシャとヴ

ィクトル氏夫妻、スルーガイドのおばさん、バヤン弾きの男性とその奥さん、いつも

は愛想がないのに折り紙教室ではとても熱心だった女の子とそのお母さん、同じグル

ープで市内観光したおじさんやおばさん達、それに船の内外ですれちがいざまに会釈

しただけの若い男性も上のデッキから手を振ってくれる。出港間際にセリョージャの

お母さんが私の知らないロシアの歌を歌ってくれる。「幸せに」というような内容の

歌らしい。ほかの大人達が歌に加わる。

 船が岸壁を離れ始めたらみんなで大きな声で「ア・キ・ノ・リ」と繰り返してくれ

る。私も負けないように大声で「さようなら」と日本語で返す。バヤン弾きが手を大

きく交差させながら振る。子ども達は後部の甲板へ走る。声が届かなくなってからは

私は鳩笛を吹いた。思いっきり大きな音で何度も何度も何度も。

 後部甲板の人影は船が見えなくなるまでそこを動かなかった。

 

 客船「コンスタンチン・フェーヂン」の見えなくなったボルガは、日没後のあいま

いな空の色をただ映しているだけのうつろな水面に見えた。

                                 (終わり)

 

 

[あとがき] 翌27日の午後、私はサマーラ始発の急行(フィルメンヌィ)列車「ジ

グリ」の車内にいた。サマーラの出身だといういかにも優しそうな感じの同室の男

性がまだ昼間だというのに毛布をかぶって寝てしまったので、私は彼の邪魔になら

ないようにクペーのカーテンの隅をちょっと上げて外の景色を眺めていた。

 いくら走っても林、草地、耕地、林、森、草地、村、耕地、..という変化のない

風景が続いていた。ところがそのうち、ボルガの岸辺にあったような湿地が目には

いるようになり、次第にその数が増え、湿地と湿地がつながるようになったと思っ

たら突然大きな川が視界に入り、列車の進行方向に鉄橋があるのが見えた。ボルガ

だっ!と気づいた私がクペーを飛び出して廊下側の窓に行った時には列車はオクチ

ャブリスクの鉄橋を渡っていた。鉄橋を渡りきったところには哨所があって銃を持

った兵士が直立の姿勢をとっている。シズラニの旅客駅の手前でボルガが大きく南

に流路を変えるまで列車はボルガに平行に走ったが、こうして岸から見るボルガは

空の色そのままにどこまでも青く澄んでいた。

 

 

 


 

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