ボルガ遡航記 (1995)


 

(15) 港の朝

 

 8月8日、火曜日です。前夜は何だか寝つけなくて朝5時半には目が覚めてしまいまし

た。船室の丸窓からのぞくと、水面にはもやがたっていて、その向こうには朝日で赤

く染まった空を背景に岸の木々が黒い影になっています。とりあえず洗面をしてから、

その風景を写真に撮るつもりで6時頃デッキに上がると、船はもうヤロスラブリ河港に

接岸しています。

 ヤロスラブリはニジニ・ノブゴロドと同じで市街はボルガの右岸にあり、左岸はや

はり耕地や草地になってますから右舷の窓からだけ見ていると町に近づいていること

がわからないのです。

 

 昨日から我々の船に追走してきた同型の客船「ニジニ・ノブゴロド(人名でなく町

の名前の船もあるんですね)」が我々の脇につきます。

 どちらの船も若い船員がデッキを磨き上げています。朝早起きすると、いつも彼ら

が黙々と仕事をしているのに出会いました。乗客があっちこっちへ持ってっちゃうデ

ッキチェアーを元の位置に整列させるのも朝の彼らの仕事です。また彼らは、途中で

雨があがるとすぐに各デッキの手すりを拭いてお客の袖が濡れないようにする細やか

な仕事もしてくれていました。

 

 港はひどく静かで、ほとんど人影ながく、母親に連れられた女の子が階段脇の塀の

上を平均台を渡るように両手でバランスをとりながら歩いているのが目につく程度で

す。河港のターミナルのうしろはちょっとした高さの台地になっていてそこには教会

だの何か大きな建物だのがあり、それらの上を烏や黒い色をした鴎のような形の鳥が

乱舞しています。

 ただ船首方向、つまり河港よりちょっと上流に見えるボルガ川にかかる大きな橋の

上は、往復両方向ともトラックやバス、その他の車がもう大量に行き来して、静寂を

保っている河港とは対照的です。さらにその向こうにはシベリア鉄道の鉄橋があり、

そこでは上りの貨物列車と下りの旅客列車がゆっくりすれちがっていました。

 

 天気は晴れ。船内放送では気温は15℃と言っていました。

 

 朝の船内放送は早い順番の人達の朝食の前にありますから、我々の朝食にはまだ時

間があり、同室の若い2人はまだ寝たまま。で、彼らをそーっとしたまま、船外に出

てみることにしました。乗船口で警備に当たっているミリツァニェルの制服を着た男

の人とももう顔なじみですから、「いい?」と聞くと「いいよ」と言って出してくれ

ました。

 

 港に降りてみると、さっき気づいたように烏、鳩、雀など鳥がとても多い。もう一

生飛び上がることができないんじゃないかと思うほどふとったロシアのおばさんみた

いな鳩が1羽、アスファルトのくぼみにできた水たまりの中で水浴びをしていました。

 はじめ、何の考えもなく、市の中心部のほうへ向かってぶらぶら歩いてみました。

大きな街路樹が広いスペースをとって植えられていて河港からの短い通りは公園のよ

うな感じです。ここだけではないのですが、この朝はあちこちで通りをお掃除する男

女を見かけました。ソ連時代の地方都市はどこでも朝この光景が見られて、早起きし

て町を散歩するといつもすがすがしい気分になったものですが、ここではその伝統が

まだ続いている様子です。途中で、そうしたお掃除のおばさんによびとめられて時間

を聞かれ、教えてあげたのですけど、あとになって船内の時間はすべてモスクワ時間

だったことに気づき、ここヤロスラブリははたしてモスクワ時間で良かったのか、そ

れとも+1時間だったのかちょっと不安になりました。

 

 レーニン像のある「赤の広場」という名前の交差点近くまで来たとき、遠くに見覚

えのある教会の姿が見えましたから、市の中心部はどうせ昼間の市内観光のときに来

ることに気づいて方向転換。LENIさんが#735で書いてらしたボルガ川にかかる橋を歩

いてみることにしました。赤の広場からちょっと港のほうにもどってテレシコワ通り

という川に平行に走る住宅街の間の道を橋のほうに向かいます。ここでも通りをお掃

除している人がいます。通りの食料品屋さんはもう開いていてケフィールを2本買いま

した。1本1,188R。

 

 橋はさっき見たようにすごい交通量ですが、ちゃんと歩道があって安心して歩けま

す。ここでもお掃除のおばさんが仕事をしている。この橋の上に立つと港を含む町の

川岸側の様子が全部見渡せます。しかも、太陽は左岸の上にありますから、写真を撮

るには順光だしちょうどいい。港には「V・マヤコフスキー」と「ニジニ・ノブゴロ

ド」が兄弟のように仲良く桟橋につながっています。あの船内で我々の仲間はもう起

きてきているのでしょうか。それともまだ夢の中?

 コンパスを持って野山を歩く(走る?)オリエンテーリングというスポーツがあり

ますが、あれの歩測の要領で橋の長さを測ってみました。私の場合足が短いので約70

歩(OLでは複歩で数えます)で100m、これで橋の長さはおよそ800mでした。つまり

このあたりでボルガの川幅はおよそ800mということです。

 

 橋からの帰り道の一部が工事中でしたので、少し大回りをせざるを得ず、船に戻っ

たときにはみんなは朝食のテーブルについていました。

 

 

 

 

(16) ヤロスラブリ

 

 朝食にはチーズ、カーシャ、丸パン、リンゴジャム、リンゴジュース、バター、紅

茶が出ました。あと、買ってきたケフィールが1卓(船では4人ずつ2卓になってい

ました)に1本ずつというわけです。

 

 9時、バスで市内観光に出ます。 はじめは、ボルガ川というよりむしろコトロスリ

川の岸にあるスパソ・プリオブラジェンスキー修道院へ。

 修道院の庭では小さな鐘をいくつも紐で操っていろいろな音を出してみせてくれて

いましたが、いかにも観光用という感じがしてしまってなんだかあまり感動しません。

歳をとって鈍感になってしまったのでしょうか。ロシアの教会の鐘は、その音だけを

集めたレコードが売り出されるくらいですのに。

 鐘の音といえば、5年前の夏にキジ島を訪ねたとき、あの有名な鐘楼から少し離れ

たところにある鐘小屋で、復活祭を迎えるときの鐘をを地元の青年がそれこそ巧みに

奏でてくれたことを今でも覚えています。それを聞くために我々は小屋から少し離れ

て、緩やかな傾斜のある草地の上に思い思いの姿勢で腰をおろしたものでした。そし

て、今回と違って青年の前には現金入れの箱なんかなくて、それだけ純粋に感動でき

た気がします。

 ここはやはり鐘楼へ上がるのが目玉ですよね。有料ですよと言われましたが、みん

なに「登って後悔はしないから」と勧めました。 買ったチケットには10Kという値段

が印刷されていて、そこに現在の5,000Rの値段がゴム印で押してあります。急な階段

を登って少々息がきれましたけど、この眺めにはかえられません。

 

 つぎがイリヤ・プロロク教会。5年前にここヤロスラブリを訪れた時は、この教会

の内部がととても綺麗だと聞かされながら休館日だったのか中に入れずに帰ったので

すが、今回は中を案内してもらえました。大きな夏用の礼拝堂は正面に5層の大きな

イコノススがあって、天井から壁は聖人を主題にしたフレスコ画でおおわれています。

 他に冬用の小さな礼拝堂などいくつかの部屋があるのですが、そんな中の一つを通

るときに3人ばかりの若い男性がカセットテープを売っていました。私ははじめ単な

る物売りのお兄ちゃんたちと思っていたのですが、その3人の男性、私たちに男性三

重唱の宗教曲を披露してくれました。教会の中で音が響くということを差し引いても

とても感銘深いもので、こんなところで物売りしている人がこれほどの歌い手という

のに私はすっかりびっくりしてしまいました。カセットテープを買い求めたのは言う

までもありません。

 

 州内ではボルガ第一の支流だというコトロスリ川とボルガ川の合流点あたりの公園

をちょっと散策し、そのあと町の繁華街へバスを回して、買い物のための自由時間を

少しとってくれました。こういうときになると金田先生は必ず本屋さんです。私はと

いえば文房具店でノートを1冊買っただけ。何のためだと思われます?例の「モルス

コイ・ボイ」というゲーム、縦横10マスずつの方眼を描いた枠が1回の勝負に2つず

つ必要なのです。これが面倒で、そういえば縦横に罫線のはいっているロシアのノー

トがちょうどいいと飯田さんが気づいたからです。ロシアからもらう手紙もよくこの

方眼状の罫線が入った用紙が使われますよね。ノートをやぶってるんでしょうか。

 

 最後にもう一度さきほどの修道院の近くまでもどり、そばの古い教会で宗教音楽の

合唱を聞きました。20人ほどの編成の混成合唱でもちろんア・カペラです。団員はあ

る程度若い人からちょと年輩の男女までいましたが、荘厳さと繊細さをあわせもった

美しい合唱でした。ここではテープでなくてCDを頒けてくれていて、これも買って

しまいました。

 日本ではさきごろグレゴリオ聖歌のCDが馬鹿売れに売れたことがあり、私も輸入

盤を1枚買いましたけど、ロシアの宗教音楽もきちんと紹介されればきっとたくさん

のファンが生まれると思っています。ボルトニャンスキーなんか、少年少女の合唱団

が歌ってもきれいですよね。宗教音楽とは別ですが、ついでに言えばロシア・ロマン

スなどももっと紹介されてもいいのではないかと。

 

 港に戻ったのは12時過ぎだったでしょうか。しばらくそのあたりにいて写真撮った

り、乗船口に近いところで軍用時計だの軍人の帽子なんかならべて商売している人を

ひやかしたりして時間をつぶします。

 船は13時に港を離れ、まもなくシベリア鉄道の鉄橋をくぐってさらに上流に向かい

ました。

 

 

 

 

(17) リビンスク

 

 昼食後もまた前部の甲板に出ておりました。食後しばらくのあいだ小雨模様の天候

でした。

 17時頃に船はリビンスク付近に達しました。リビンスクは割りに大きな町のようで、

左舷の側に例の浮き船型の船着き場があり、その背後に町が広がっている様子で、遠

景には教会の細長い尖塔も見ることができます。ちょうど前線にぶつかったのか、非

常に強い風が吹いて寒い。

 それで甲板にはあまり人がいなかったのですけど、急にそのあたりにフランス人が

大勢出てきました。リビンスクの水門が近いんですね。リビンスクの閘門を通ったの

は17時40分頃。チャイコフスキーのそれと違って今度は上りですけど、それでもわず

か10分ほどで登りきってしまいました。どういうわけかこの水門のあたりには鴎の数

が非常に多く、閘門の両側の壁といわず水面といわずむやみにいます。理由がよくわ

かりませんが、ちょうど船のあとを鴎がついてくるのと同じで、水門の扉の動きで水

がかき回されて魚が水面近くにくることがあるのでしょうか。扉が水中に没する直前

まで扉の上にとまって粘る鴎もいました。

 

 水門を過ぎると広大なリビンスク貯水池です。これも貯水池と言っても湖というか

海のようなものです。ほぼ四方に水平線を見ることができますから。海ということに

なると時化れば船は揺れるということになり、実際グループの女性陣は船が揺れて気

持ちが悪いと言っていました。いえ、航海の水準では凪の範囲にはいるのではと思う

程度だったんですけれど、それほど川船はふだん揺れがないということですね。

 

 ボルガ川はカリーニン州(今もそう呼ばれているかどうかは知りません)に水源が

あり、州都トヴェリを通ってこの貯水池のリビンスクからそう遠くないところへ流れ

込みますから、じつは我々はボルガの本流からは離れたことになります。

 

 20時45分、夕食。レストランへの行きがけにメインデッキのキオスクで英語版のチ

ェスの入門書1冊とこの「マヤコフスキー」のバッジを1個買いました。バッジは売り

子の男性にも値段がわからず、隣の男に「いくらだっけ?」と聞いていましたがそち

らの男もわからなかった様子で、結局「プレゼント」と言ってタダでくれました。い

い加減なもんです。

 

 レモンを添えたアンチョビとオリーブの実のザクースカ。このオリーブの実だけは

さすがの私もダメです。ジャガイモなどのはいった塩味の強い野菜スープ、挽き肉を

つぶしたジャガイモでロール状にして焼いたものに温野菜が添えられた料理、紅茶、

バナナ。

 

 貯水池の中ほどにかかって波も大きくなっているのか我々ロワーデッキの船室の丸

窓はたえず波で洗われています。でも、揺れはそれほどでもありません。

 

 24時頃、もう一度船首部の甲板に出てみると、かなり複雑そうな水路を船は進んで

いるらしく赤と白の光を点滅させる航路標識がこれまでになく多い。船の速度もゆっ

くりで、やがて右方向に大きく舵をきりました。左舷側の岸にはあかりが煌々として

いるし、港の沖に停泊中の船も見えます。どう見てもかなり大きな工業都市の様子で

す。その時はそれがどこなのかわからなかったのですが、帰ってから地図を見るとど

うもチェレポヴェツのあたりだったらしい。

 月はほぼ満月なんですけれど、ほとんど雲にかくされていて、そこから漏れる光で

空が多少明るくなっています。キャビンへ戻って寝たのは1時頃でした。

 

 

 

 

(18) ゴリツィ

 

 9日、水曜日。目が覚めたのは7時頃でした。船室の丸窓は夜のあいださんざん波に

洗われて冷たくなったのか、全面曇ってしまっています。シャワーを浴びてから甲板

に出てみました。ベタ曇の天候で、夜間に雨が降った形跡が残っています。風はかな

り冷たい。

 川なのか湖なのか、かなりの幅のある水面を船は航行しています。両岸に建物らし

いものはまったく見えず、樹相も白樺ではなく針葉樹が主体で、その林が岸辺にずっ

と続いていました。

 地図を見るとリビンスク貯水池とオネガ湖の間の水路はボルガ・バルト運河となっ

ています。平凡社の「ロシア・ソ連を知る事典」(1989)には「ボルガ・バルト水路」

の項があり、「水路」という場合にはリビンスク貯水池を出てからフィンランド湾に

いたる全部をいうらしい。一部は掘削もされたようですが、もともとあった自然の河

川を浚渫したりして運河として使えるようにし、1960年代前半に大がかりな改修工事

がされたとあります。

 

 8時45分、朝食。 チーズ、丸いパン、バター、オムレツ、オレンジジュース、リン

ゴジャム、紅茶。

 

 10時前にゴリツィ着。このゴリツィというのが運河のどのあたりなのかいまだにわ

からないのです。地図帳の索引を見ると同名の町の名は出てきますが、これはリビン

スク貯水池の南西、むしろボルガの本流に近いところにあって全然違います。地図に

出てこないくらいの寒村ということでしょうか。それとも地名が変わった?

 プログラムでは11時下船となっていましたけど、ヤロスラブリの経験で定刻以前で

も勝手に降りられるのがわかってましたから、森田さん、飯田さんと一緒に降りてみ

ました。船着き場の脇のごく小さな入り江の向こうの木立の上から教会の丸屋根がの

ぞいています。畑の中の小径を通って入り江沿いに教会のほうに向かって歩いてみま

した。あとから来たロシア人の夫婦らしい2人組が教会まで行こうと言ってくれたの

ですが、朝食を早いほうで済ませている西ヨーロッパの人達が村のメインストリート

を三々五々そちらに向かって歩いていますので、教会見学はプログラムに組まれてい

るのだと思ってやんわりとお断りして船着き場のほうへ戻ってきてしまいました。と

ころがこれは外れで、この日は観光は用意されておらず、さっき見た人達も勝手に散

策をしていたらしいことにあとになって気づきました。

 

 ここでは観光ではなく、いくつかのイベントが用意されていたのでした。そう言え

ばエニセイ川のクルーズのとき、レーベヂの村で船員たち手作りのウハーを振る舞っ

てくれて、あとはそのあたりの原っぱを散策したり、熊が出るかも知れないよという

その先の森で茸とりをした、あれみたいなものですね。

 11時から船着き場のすぐそばの小学校のグランドを借りて、サッカーの“国際試合”

。フランスの乗客チーム対ロシアの乗組員チーム。フランスの観光団にはこういう予

定があると予め知らされていたらしく短パンに運動靴などそれらしい服装の人が少な

くありません。まちがいなく50代と思われるおじさんもかなり本気です。対するロシ

ア側は作業衣の上を脱ぎ捨てて上半身裸になってやっています。主催者側はサイドラ

インの中央付近の電柱に赤十字の旗をくくりつけて救護所にするという道具立ても忘

れていません。

 このフランス人達というのがじつに芝居っ気たっぷりで、試合開始時や危うくピン

チを逃れたときなどには地にひざまずいて大げさな動作で神に祈りを捧げたり、突然

ボールを手でもってラグビーにしてしまったり(結局ロシア側にトライを許してしま

いましたが)、人にぶつかって倒れた選手は仲間が抱き寄せてキスをしてあげた途端

にムクッと起きあがって戦列に復帰したり、....。おかげで見ているほうは大喜びで

すが、そうは言っても1812年以来の宿敵ですから、フランス側がゴールをあげるとフ

ランスの観光団が大歓声、船員側がゴールを決めると今度はロシアの観光客達が遠慮

せずに喜びを表わしています。

 我々のグループの飯田さんとか大田君など若い人達もフランス側に加担して出場。

飯田さんなんかコマネズミのようによく動いてなかなかの活躍でした。

 

 12時から船着き場の前の原っぱで、いつも通り民族衣装をまとったプリカーミエの

人達が歌と踊りを披露してくれてます。それにしてもこの人達、船内では今度はフラ

ンス人向け、次はロシア人向けと日に幾度もショーがあり、船がとまっているときも

これではほんとに重労働ですね。

 こういう催しの習いで、まわりで見ているお客さんも一緒にというのもやはり用意

されていて、これも楽しめました。ただ、残念だったのはお天気がはっきりせず、雨

が降ったりやんだりが繰り返されたことです。私はプリカーミエの人達が持っている

楽器が大丈夫なのかと気が気ではありませんでした。

 

 13時からはそのまま同じ原っぱで昼食。ここではウハーではなく、シャシリクを用

意してくれています。そのために我々がサッカーの試合に興じている頃から船の人達

は道具や材料を船から運び出すなどたいへんな準備をしてくれていました。

 各自にシャシリクを1串ずつ、それに薄い樹脂製の白い皿にフランスパン1切れと

ドレッシングをかけたオニオンスライス、それに生のトマトと胡瓜がのったのを渡し

てくれた上、赤ワインが1杯ずつ出ました。やはり時々雨が降るお天気でしたが、私

はグループの若い人達と一緒に水際の石の上に腰掛けていただきました。屋外でこう

やってみんなでワイワイと食べるのって、ひときわ美味しいのはいつもそうですね。

 

 食事のあとそのあたりにしばらくたたずんでいたら、ニーナが近づいてきて、私に

木彫りの熊のお土産をくれるのです。ありがとうと言って、それから少し離れたとこ

ろにいらしたご両親にもお礼を申し上げたのですが、これはほんとうは私でなく金田

先生がもらうべきものです。というのはバッグの中にチョロQみたいのをいつも用意

しておいて、可愛い子ども(とくに女の子!)を見つけるやすぐに手を出す、あっ違

った、そういう玩具を出す金田先生がじつは先日ニーナにごく小さなぬいぐるみ風の

かわいい熊のお人形をあげたのです。ニーナはそれがとても気に入って、寝るときも

放さないとお母さんが言っていました。金田先生、ごめんなさい。

 

 

 

 

(19) 荒天の中を

 

 14時、例の出征兵士を送る曲みたいのを流しながら離岸。といっても実際は桟橋か

ら離れたのではなくて、隣に繋がれていた客船「ツィオルコフスキー」から離れたの

ですが、そちらも我々が出航したすぐあとで岸を離れて追走してきます。

このときは今回の旅で初めての本格的な雨降りになっていました。

 

 このあたりの海岸線、いや川岸の地形はかなり複雑で、さながら河川版松島といっ

た感じの中を船は静かに進んでいたのです。

 ところがその後しだいに天候が悪化。風が強くなり、雨もまとまって降るようにな

り、ロワーデッキ(1階)にある私たちのキャビンの丸窓はしばしば波の下になる始

末。波が船腹にぶつかる音がドーンと響いてきます。かといって甲板で出るわけにも

いかず、ボートデッキ(4階)船首部のバーに行って、そこでプリカーミエのメンバ

ーと一緒に(彼らといちばん最初に仲良しになったのは我々のグループの女性陣で、

この頃になると私なども仲間に入れてもらうようになりました。)ドラチョークをし

ていたりしたのですけれど、この4階の窓にもしばしば波がかかるくらいなのです。

ただ、それでも船体の揺れは小さく、誰にも船酔いの症状は出ませんでした。

 この悪天候の中、フランス人の観光客が甲板へ出る扉を強風に逆らって必至に半開

きにし、ビデオカメラを外へ向けるので、何だろうと思って見ると、土台部分が完全

に水面下に没している壊れた教会が川の中にありました。この廃虚のような教会はい

つも水中にあるのか、それともいまが特別の増水期なのかはわかりかねます。

 

 17時頃、船はベロエ湖にはいりました。リビンスク貯水池同様に水平線が見える広

さです。

 

 この17時から最上階の映写室で、変わったプログラムが組まれていました。フラン

ス人のお客とロシア人・日本人のグループとのミーティングというのです。椅子はい

つもの映画館式(教室式)の並べ方ではなく、中央にむかって両側から対面するよう

に並べられ、一方にはフランス人、他方にはロシア人と日本人が並びました。なぜ、

日本人がロシア人と一緒になってフランス人と向き合わねばならなかったのか未だに

よくわかりませんが、「グループ全員がロシア語を話す(!?)」日本人はロシア人の一

部とみなされたのでしょうか。

 それで何をしたかというと、仏露双方から質問を出し、互いにそれに答えていくと

いうのです。もちろん、間に通訳がはいっています。こういうときって、フランス人

とかロシア人は積極的ですね。それにひきかえ、当方は「何か話せ」という伝言が密

かに回ったにもかかわらず、少なくとも私がいる間は沈黙を押し通しました。もっと

も、ロシア人の一部として発言するわけにもいきませんものね。

 通訳を介してですから、かかった時間のわりに話の展開は速くはなかったのですが、

ひとつだけ記憶に残っているやりとりをご紹介しましょう。ロシア側の質問;「なぜ、

フランスのみなさんは年金生活者のような高齢の人ばかりなのか。」フランス側の質

問;「なぜロシアのかた達は若い人が多いのか。」--- たしかにフランスの観光団は

高齢者が多かったし、ロシア側は若いと言ってもニーナのご両親くらいですが、少な

くともフランスの観光団よりずっと若い世代でした。フランス側の答;「旅行費用が

高くて若い人では来れない。(他の理由も言ってましたがここでは略)」ロシア側の

答;「旅行費用が高くて年金生活者では来ることができない。」

 この話題、ここで止まってくれてホッとしました。日本人なんか若いどころじゃな

い、ここに来ているのは20歳になるかならないくらいの学生が中心なんですから。

「なぜ、日本人はそんな若いのにはるばるこんなところまで来れるのか」なんて聞か

れたらなんてひとたまりもない。いちばん安い船底の部屋に寝泊まりしてるじゃない

かなんて言っても納得してくれないでしょうし。

 ..と書けば私がこのやりとりを理解してたみたいですが、もちろん隣席にいてくれ

た金田先生の同時通訳によるものです。この金田先生の声も活発な議論でかき消され

がち。となると、あとは異国の言葉がバンバン飛び交うだけですから、堪え性のない

私はとうとう途中で退出してしまいました。私のあとで森田さん、飯田さんも出てし

まったとか。対して、桜田君、大田君、中田さんの3人は金田さんと一緒に最後まで

残ったのですが、あとで中田さんが言うには「ニーナだってちゃんと最後まで残って

いたわよ。」

 

 私のあとから退室した森田さんをさきほどの船首側のバーに誘ってしばらく雑談を

したあと、またプリカーミエのメンバー(この時期にはまだ私はそれぞれのかたの名

前を覚えてなかったのです)とトランプをしたりして時間を過ごしました。

 

 20時45分、夕食。トマトと胡瓜のサラダ、ボルシチ、挽き肉とライスをピーマンに

詰めて焼いたもの(焼き立てで熱い)、紅茶、クッキーのような菓子、バナナ。

 この頃には船はベロエ湖を出て、再びボルガ・バルト運河の細い水路を進んでいま

した。川岸は水面ぎりぎりのところまで樹林が迫り、しかも岸の線には変化があって

良い景色です。天候も回復してきています。

 

 22時半ぐらいから24時くらいまでだったでしょうか、さきほどのバーに我々7人と

プリカーミエの女性3人、あわせて10人も集まってUNOをしたりして過ごしました。

あちらの人にとってはUNOなんか初めてでしたでしょうに、短時間でたちまち強く

なっていきます。

 

 午前1時頃、大田君と船首側の甲板に出てみました。まだ雲が多く、星は見えません。

前方の闇の中にちょっとまとまった灯が見えて、2人であれは船だろうか、それにし

ては動いてないようにも見えるし、などと話していたのですが、近づくにつれ、それ

は閘門だということがわかりました。ボルガ川で通ってきた水門とちがって幅がせま

く、船がぎりぎり入れるくらいです。というより、この水門に合わせて船が設計され

ているのかもしれません。水門だよと大田君がみんなを呼びに行って、物好きな日本

人だけこの真夜中に甲板に出てきたのですけれど、水門に入ったあと船は側面の壁に

係留してしまって降りていく気配がないのです。それで私も含めてみんな船室に戻っ

てしまいました。船が動き出したのはそれからしばらくたってで、どうも後続の船を

待っていたらしい。今度は声をかけても誰もキャビンから出てこない。私だけ甲板に

出て、船が降りていくのを見ていました。 それが終わって寝たのは2時半くらいだっ

たでしょうか。

 


 

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