ボルガ遡航記 (1995)


 

(20) 船上の一日

 

 8月10日(木)。7時過ぎに目が覚めると船室の丸窓の外はコンクリートの壁。「あれ、

今日はどこにも寄らないはずだけど」と思ったのですが、これは岸壁ではなくて閘門

でした。ちょうど昨夜のと殆ど同じ型の水門で、高低差もやはり16mほどです。昨晩

の水門の次がこれなのか、それとも間にいくつかあったのかはわかりません。

 食事前にシャワーを浴びました。

 

 8時45分、朝食。 オレンジジュース、ブリヌィ、ゆで玉子、ジャムパン、バター、

チーズ、リンゴジャム、紅茶。

 

 9時頃、船はボルガ・バルト運河の狭い水路から開放されて、突然広大なオネガ湖に

出ました。ヨーロッパ第二の広さの湖だそうです。冷たい風がある程度強く吹いてい

て、湖面には波が立ち、船は昨日のいっときと同じ程度に揺れて、船室の丸窓はしじ

ゅう波の下になります。

 

 オネガ湖といえば必ずキジ島ということになるのですが、残念ながら我々の船は湖

の南岸をかすめるだけで、キジ島へは行きません。メインデッキにある航路図にはキ

ジ島をまわるように線が引いてあるんですが、これはペルミへの帰りの便が寄るので

しょうか。そのかわり(?)、ペルミ発の我々の便は次のラドガ湖で湖の北のほうにあ

るヴァラーム島に寄る計画です。

 11時半頃、船はオネガ湖からスヴィリ川にはいります。オネガ,ラドガの2つの湖

を結ぶスヴィリ川には2ヶ所の水門がありましたが、もうこのあたりになると始めの

頃と違って水門にさしかかっても見に行かない人が多くなりました。

 スヴィリ川の両岸は深い針葉樹林で、前の運河同様に水面ぎりぎりのところまで林

が進出しており、その奥は林がそのまま小高くなっているところが多かったように思

います。

 

 船がスヴィリ川に入ってから昼食の時間までは、私たちのキャビンで、住人3人の

他に飯田さんと森田さんも加わってUNOをしていました。天候も回復して、揺れも

小さくなってきています。

 

 13時、昼食。野菜のサラダ、肉とジャガイモの料理(どんな料理だったか忘れてし

まいました)、紅茶。他にデザートがあったんだと思いますが、これもノートに記録

がありません。

 

 食事のときでしたか、カーチャさんが卓球をやろうと誘いに来て、食後に最上階の

映写室に行き、卓球台をしつらえたのですが、部屋をフランス人の観光団のミーティ

ングに使うとかでほどなく中断。

 その後、ボートデッキのロビーにあるソファーに陣取って、「折り紙教室」を開き

ました。「生徒」はアーラさん、カーチャさんの2人に加え、桜田、大田の両名。私

のレパートリーは鶴ただ一つですから、これを伝授しました。ところが1ステップず

つゆっくり進んだのにとうとう鶴が出来上がらなかった「生徒」が1名。これがなん

とロシア人女性ではなく、我が大田君なのです。もう、日本人としては失格ですね。

タタールスタンかどこかに移り住んでもらいたいくらいです。ロシアにも折り紙があ

るんですね、アーラさんがお返しにお尻を押すとちゃんととびあがる蛙とかを教えて

くれました。(今では忘れてしまいましたので、オフのときに折ってみてと言わない

でくださいね。)

 そのあとカーチャさんがどこで手に入れたのか大きな西瓜を持ってきてくれてみん

なでご馳走になりました。甘い西瓜でした。このときは偶然我々のグループの女性3

人も通りかかって一緒にご馳走になったのですが、そのうち中田さんは船内で知り合

いになった別のロシア人女性から教わったというレース編みに夢中で、食べている時

以外は手が動きっぱなし。下船するまでに編み上げるんだそうです。

 このあとで、もう一度映写室に戻って卓球台を用意したところ、見知らぬロシア人

男性も加わって、卓球の「日露対抗戦」となりました。私はスポーツと名のつくもの

は全種目にわたってからきしダメですから、審判に徹し(これでもバドミントンでは

第2種Aの公認審判員です。エッヘン。ところが、バドミントン流にやったためにサ

ーブのネット・インを有効にするなどのミスもしてしまいました(^_^;))、若い人

達と金田先生がナショナル・チームを結成してたたかいました。しかし、金田さんが

わずかに1勝しただけで、あとは全部負け。すっかりロシア側に花をもたせる結果に

なりました。

 

 17時、ボートデッキ後部のホールで、ピロシキのお茶会。先日のブリヌィパーティ

ーのことがあるので、正直あまり期待せずに行きました。ピロシキはジャガイモのと

リンゴのと2つ、どちらもボリュームがあっておなかにたまります。でも味は上々で

したよ。

 

 夕食までの間は、同じ階の船首側のバーに移って、今度はプリカーミエのメンバー

も加わってやはりUNO。プリカーミエの人達のうち一緒にゲームをしたのはいずれ

も女性で、1人がマーシャ(マリーナ)さん、あとの2人がスヴェータ(スヴェトラ

ーナ)さんといい、スヴェータさんは大きいスヴェータさん・小さいスヴェータさん

などとよんで我々は区別していました。彼女達、UNOは昨日かそこいらに教わった

のでしょうに、もうすっかりルールをのみ込んで、かなり強い。こうなるとこちらも

容赦しないようになり、教えたばかりの頃は「ウノ」と言い忘れても許してあげてた

のに、今ではしっかりペナルティを課しています(^_^)。 いじわるなカードをぶつ

けたりするとマーシャさんでもスヴェータさんでも「やったわね」と言わんばかりの

表情を見せるのですが、これがまたその場の雰囲気をとてもいいものにします。

 表情と言えば、旅から帰って写真を現像してみてびっくりしたことがあります。彼

女達はフォークロアの踊り手や歌い手という第一線の芸術家ですから当然といえばそ

うなのですけど、1枚1枚の写真ごとにみな違うそれぞれユニークな表情を見せてい

るのです。ことにマーシャさんがいい。彼女は他の人よりかなり太った体型で、ペル

ミの公演でもそれを活かしたキャラクターを巧みに演じて見せてくれたのですが、舞

台の外でもそうなんですね。すっかり感心しました。なにしろ、こちらは、写真を撮

るというとVサインをして「チーズ」というワンパターンの高校生とばかり日頃つき

合っているものですから。

 

 20時45分、夕食。カテージチーズ,ビート,胡瓜,グリンピース,トマトのサラダ、

肉団子の入ったスープ、カツレツ(ハンバーグのようなもの)にフライドポテトと人

参,キャベツの酢漬けを添えたの、紅茶、蜜柑の輪切り。

 

 食事のあとは甲板に出てみました。風は冷たいのですが、空は晴れていて、波もあ

りません。緯度が高くなっているのでこの時間でもかなりの明るさです。太陽は右舷

の側の岸の向こうに低く落ちて、川面に金色の影を映し出しています。逆の左舷側の

岸の低地にある村の家々はこの夕日で赤く映え、その屋根の上には満月が浮かんでい

ました。

 

 22時、船はスヴィリ川からラドガ湖に入りました。オネガをしのいでヨーロッパ最

大という湖で、それこそ海のような景観です。左側が半島なのでしょうかそちらの岸

は間近に見えるのですが、前方や右手には岸は全く見えません。

 空にはそれほど多くの雲があるわけではないのですが、遮るものがないせいでしょ

う、風が強く、波が高くなりました。ボートデッキ前部の甲板にいると波しぶきをか

ぶることがあるくらいです。この冬に厳寒のヤクーツクに行くはずの大田君は寒さに

耐えかねて下へ降りてしまい、映写室の後ろの風のあたらないところに中田さんと森

田さんとの3人で残りました。

 日が沈んでから時間がたっているのであたりはかなり暗くなり、やや遠くなった湖

岸の灯台で赤い光の点滅しているのがわかります。湖面のところどころにも航行して

いる船の灯が見えます。空の黒さが増すのにあわせるようにして月が高くなり、湖面

に幅の広い明るい影を落としています。ただ、西北側の空の端だけはいつまでもうっ

すらと明るいのは、やはり北方に来ているからでしょうね。

 船旅もまもなく終わりという感傷にはこの湖面を照らす月明かりがまたとない舞台

装置だったようで、この寒さの中、我々3人は24時までそこにいました。

 

 1階下へ降りてみると、みんなは船首側のバーでプリカーミエのメンバーと談笑中。

「閉店」で追い出される1時頃まで、そこでまたUNO。 寝たのは2時頃でしたが、や

はり波がいく度も大きな音をたてて船腹にあたり、丸窓を激しく洗っていました。

 

 

 

 

(21) ヴァラアム島

 

 一昨日と昨日のA新聞の真ん中あたりのページに「ボルガの波」という記事が大き

なスペース(広告以外全部)で出ていて、あまりに絶妙なタイミングに(べつだん私

向けの記事ではないのに「すごいタイミング」なんて思うのが自己中心的ですね(^_

^;))びっくりしました。ことに一昨日の記事と一緒に出ていたニジニ・ノブゴロド

の写真は私達が立ったのと同じところからのパノラマでしたし。

 じつは7月下旬、私が新潟から出る直前に、別の全国紙にも記者がモスクワからボ

ルガへ運河伝いに客船で小旅行した記事(こちらはごく小さなコラム風)がやはり前

後2回にわたって掲載されました。今モスクワ駐在記者の間ではボルガへの船旅が流

行っているのでしょうか。

 

 ま、それはいいとして話を続けます。8月11日(金)、ラジオに起こされて6時半頃目

がさめました。ラジオは朝のインフォメーションの前に軽い音楽を流してキャビンの

住人を起こします。

 このとき、船は既に船着き場に着いていました。船着き場はヴァラアム島の一角に

ある小さな入り江にあって、入り江の出口は3つほどの小島でふさがれています。そ

のせいか、それとも天候が回復したのか水面に波はなく、静かです。島の樹木には松

の木も多く見られます。船着き場のあたりの水面にはたくさんの鴎がちょうどデゴイ

を並べたように浮かんでいました。

 

 8時15分、朝食。 オレンジジュース、チーズ、丸パン、バター、パンケーキ、リン

ゴジャム、紅茶。

 

 9時に島の観光に出ます。と言っても迎えのバスが来るわけではなく、ここは徒歩で

近くの修道院の建物まで行くわけです。林の中の舗装されてない少々急な坂道を登っ

ていくと、途中に木造りの展望台があり、さきほどの入り江(ニコノフ湾というそう

です)が見渡せます。ガイド氏の説明では、このあたりはスカンジナビア・プレート

が沈み込む所だとかで、ニコノフ湾の中では水深がたいしたことないのに、あの防波

堤みたいな役目をしている小島の外側では200m以上の深さがあるそうです。

 そこを登りきると「復活のスキット」という一群の建造物群です。「スキット」と

いうのを辞書でひくと、修道院の本屋から離れたところにある隠遁所とあります。そ

の中の一つ、礼拝堂になっている建物で宗教音楽の男性四重唱を聞かせてもらいまし

た。歌っているのはいずれもコンセルヴァトーリアの卒業生だそうです。日本で言え

ば芸大卒ということですが、そういう人達がこんな離れ島で歌っているのはもっぱら

信仰上の理由だけからでしょうか。それとも急激な資本主義化で芸術家の生活がすっ

かり成り立ちにくくなっているといった要因もあるのでしょうか。

 音楽を聞いたフロアーの下の階は薄暗い感じの礼拝室になっています。1枚のイコ

ンもなく、前部の中央には小さな洞窟のような祭壇があり、これはエルサレムの何か

に似せたのだとか。なにしろ10世紀にはこの土地に初めてのキリスト教の修道院が建

てられたというのを誇る土地柄ですが、10世紀といえばロシアそのものがキリスト教

を受け入れる前にあたるのかもしれません。

 

 敷地の中には小さな売店もあって絵はがきだの地図だのあと宗教的な書物とか売っ

ていて、そこで買った絵はがきに青と白の綺麗な教会が写っているのをみんなが見つ

けてしまいました。聖プリオブラジェンスキー修道院の建物です。

 もともとの予定ではこのスキットのあたりを散策して船に戻るということになって

いたらしいのですが、みんながその修道院へ行きたいと言い出しました。ガイド氏、

ちょっと困った様子でしたけど「そこまで6kmあるけど1時間で歩けるのなら」という

返事。みんなのほうは行きたい一心ですから、「歩ける歩ける」ということになって

行くことになりました。スポーツが全然ダメな私も歩くことだけは自信があったので

すが(オリエンテーリングにも時々行きますしね)、でも若さにはかなわない。みん

ながどんどん進んでいくのを私は時々走ったりしてやっと追いつく有り様でした。

 

 島はほとんど岩で出来ていて表層の土壌は薄く、樹木は根を深くおろせないために

倒れ易いんだそうです。電柱なんか立てるのにも倒れない工夫がしてあります。樹種

は朝気づいたように松が多い。空気の清浄なところにしか生育できないというコケの

一種が松の枝にまつわりついていて、どんなにすばらしい自然かとガイド氏はご自慢

のようですけど、このコケにとりつかれた松は枯れはじめています。

 6kmの道は松林の中の一本道で、所々に沼や小川や入り江(修道院に近いこちらの

入り江には大型の船は入れないんだそうです)が現れ、他方では原っぱには野草の群

れとか、道端には色とりどりの花が咲いていたりします。しかし、白樺の葉などは早

くも黄色くなりはじめていました。ガイド氏によると、ここ二、三日は雨だったそう

です(船が波にもまれていた時期ですね)が、この日は天気はよく、気温そのものは

そう高くなかったのですけれど、早足で歩くと長袖を脱がなければならないほど暑く

感じました。

 

 聖プリオブラジェンスキー修道院の建物は、コの字形にならぶ白い建物に囲まれて、

青屋根に金の十字架をつけた聖堂があり、これが遠くからでもわかります。ただ、こ

の聖堂の下半分と内部は修復中というか、ことに内部は修復に手をつけたばかりで完

成までにはこのあと相当の年月がかかる感じでした。もっとも修復が完全に終わると

観光客は閉め出して、祈りと修行の場にすると言っていました。いま観光客を入れて

いるのは修復の資金を得るという目的があるのかもしれません。

 イコンのない枠だけのイコノスタスや壁画の痕跡を見ると、ここがかなり格式のあ

る立派な教会だったことが想像できます。実際1900年代前半までは相当数の修道僧が

いて巡礼者も多数だったそうですが、1940年のソ連・フィンランド戦争のおりに修道

僧たちがフィンランドへ(ロシアへではなく!)逃げてしまって、そのあと荒廃して

しまったのだそうです。

 話はかわりますが、こういう修復中の建物を写真にとるとき、私なんかつい画面に

足場が入るのを避けて、たとえば教会の上部だけを撮るというふうにしてしまいます。

ところが買った絵はがきには、足場をまるまる入れて全体をかなり焦点距離の短い広

角レンズで撮り、きれいな絵にしているのがあって、なるほどこういう撮り方もある

のかと感心したものです。

 

 このヴァラアム島は島全体が修道院領のような感じで、島内に農場も果樹園もある

ばかりか、修道院附属のホテルも置かれていて、ここに泊まる巡礼の人には食事(た

だし1日2食)も無料で提供されると聞きました。

 

 船に戻ったのは出航10分前の13時50分。往復10km以上を歩いて、さすがの“若者”

たちも少々くたびれた様子でした。

 

 

 

 

(22) 最後の晩餐

 

 14時、ゴリツィ以来伴走してきてここでも横付けになっていた「ツィオルコフスキ

ー」号とともに出航。入り江を出ても昨日とは違って波は小さく、揺れません。甲板

の椅子に座っていたらついウトウトしてしまって14時45分からの昼食に少々遅刻。

 昼食は、トマトなどのサラダ、ジャガイモ,人参,ピクルスのスープ、名前のわか

らない魚の料理にライスとビーツを添えたもの、レーズンの入ったスポンジケーキ、

紅茶でした。

 

 食後はまた甲板に出て過ごします。薄日がさしていて、暑くもなく、また寒くもな

い気温です。船は湖に西岸に沿って南下。湖岸が西の水平線上にかすかに見える以外

には360度どの方角にも何も見えず、「ツィオルコフスキー」だけが右後方を遅れなが

らついてきます。

 私がこのラドガ湖の名前を初めて知ったのは、第二次世界大戦中のレニングラード

包囲の際に市の唯一の命綱としてこの湖で食糧等の氷上輸送が行われたというのを読

んだときでした。市北部のピスカリョフ墓地には何度か行ったことがありますが、墓

標といってもただ「1942」とか年が書いてあるだけのあの墓地に、世界大戦で亡くな

った全米兵の数よりも多いと言われる市民が眠っていると思うと、やはり言いようも

なく厳粛な気持ちになります。その包囲のおり、このラドガ湖の輸送路は文字通り

「命の道」だったのですが、それはいま船がわたっているこのあたりを横切っていた

のでしょうか。

 

 18時、最上階の映写室で、この船旅を撮影したビデオの上映会がありました。ペル

ミあたりでビデオカメラを持った人が旅行団を撮っているのに気づいて地元のTV局

かと思っていたのですが、スプートニク社の係員だったんですね。ペルミで船に乗り

遅れて小舟で送ってもらた人の場面もあってフランスの人達は喜んでいましたけど、

全体として一つ一つのカットが長すぎる冗長な編集で(他人のことは言えません。こ

の旅行記もどうもそういうフシがありますので。)ちょっと退屈してしまいました。

一つだけ良かったのはコズモデミャンスクのグースリをもう一度聞けたことでしょう

か。

 

 21時15分からキャプテン・ディナーということになっているのは知っていたのです

が、我々より前のシフトの人達がレストランから出てくるのを見て大変なことに気づ

いてしまいました。そうなんです、お客さん達、みんな正装なのです。ところが私と

きたらスーツはおろかネクタイも持ってきてない。ほんとにうっかりしていました。

そう言えばエニセイ川のときにも最後のディナーは正装でした(もっとも、あの時も

スーツは持っていたもののYシャツを持ってくるのを忘れていて結局用をなさなかっ

たのですが(^_^;))から、出発前に気づくべきでした。

 この話はすぐに我々のグループ全体に伝わってミニ恐慌状態に。でも、ま、女の人

は決まった形がないだけに髪を整えてプラトークでもかければちゃんと形になります

ものね。(「そういうもんじゃないわよ」という声が聞こえてきそうですが、私は実

状をよく知らない(^_^)。) 自分のことだけでなく、桜田君の服装まで心配してく

れる余裕があります。大田君は第一ボタンが閉じられる長袖のシャツを持っていたた

めに、ネクタイさえあればなんとかなるということでクリアー。桜田君には中田さん

だか飯島さんのシャツやベストを貸してくれたまではよかったのですが、蝶ネクタイ

ならぬ大きなリボンまでつけてくれて、さすがに彼「これつけなきゃいけないんです

かねぇ」と。結局大田君と桜田君は同じ階のプリカーミエの男の人からネクタイ2本

を借りてしのぎました。彼が大きなリボンをつけなかったことに飯田さんはちょっと

不満そうでしたが。(^_^)

 あとでネクタイを返しに行くとき、桜田君は船の中で大活躍してきたUNOを1セ

ット彼らにお礼に上げてきました。

 残ったのは私と金田さん。私もどうしようもないのですが、でも着替えたという形

跡を示す必要があると思って、先日クリーニングから上がってきた白系のズボンとシ

ャツにしました。でも、ズボンは去年オリホン島からのフェリーでつけた機械油のシ

ミがあってほんとは人前に出られるものではないのです。金田先生ときたら、サンダ

ルを靴にはきかえた以外は打つ手なし。「我々(先生と私のこと)は窓側の席に行っ

て、通路側には女性陣にならんでもらおう」なんて姑息なアイデアが出るだけです。

 

 21時頃、船はラドガ湖からネヴァ川にはいりました。

 21時15分からキャプテン・ディナー。「西側からの客はともかくロシア人はそれほ

ど着飾ってこないのでは」というのが金田先生と私の一縷の望みでしたけど、とんで

もない。ニーナは頭に大きなリボンをのせてこれまで見たこともないかわいい服装で

テーブルの前にかしこまっているし、小さいほうのスヴェータさんもとても洗練され

た服装です。それぞれに「プリヤートナボ・アピチータ」のご挨拶をして自席に来る

と、当方の女性陣もすっかりきれいになっている。森田さんはまた“ナターシャ”に

変身しています。

 はじめに船長の挨拶があり、これがドイツ語、デンマーク語に訳されていきますが、

例によって日本語訳はなし。露和の通訳は我々のテーブルの隅にいるにはいるのです

が、そういう事情で出るにもでられませんものね。

 トマト,胡瓜,ハム,ソーセージ,カッテージチーズのサラダ、レモン,キャビア,

イクラ,蝶鮫,オリーブの実のザクースカ、ほかにトマトと胡瓜を大きく切ったのと

何かの魚の水煮の缶詰を開けたのもあります。大小のグラスにはシャンペンとウォト

カ。メインディッシュはビーフステーキにポテトを添えたもの。パンは白と黒の両方

が用意され、デザートにはオレンジ、あと紅茶が出ました。

 食事のはじめには民族衣装のプリカーミエの人達が歌を歌いながら各テーブルの間

をまわってくださいます。もっともさっきのスヴェータさんは「非番」なのか、自席

についたままでした。

 前夜よりも日没の時間が早い感じで、ネヴァ川の右岸の空の一角とその手前の水面

は紅に染まっています。

 

 食事が終わって金田先生や飯田さんが席を立ったあともドイツの人達やデンマーク

の人達はながいこと席に残っていました。そして、はじめは「カチューシャ」とか

「モスクワ郊外の夕べ」などのロシア民謡をみんなで歌っていたのですが、そのうち

自国の歌を歌いはじめました。ドイツ人達がこういう場面でみんなで歌い出すの、2

年前のエニセイの船旅でも、ずっと以前の冬のスズダリでも経験しましたけど、今回

もすごくきれいです。歌っている人はかなり年輩の人が多いのにです。いま覚えてい

る曲は「旅は水車屋の喜び(Das Wandern ist des Mullers Lust)」。これはこうい

う時の定番なのでしょうか、こうした場面でいつも聞くような気がします。あとでキ

ャビンに戻ってからも私は後半のリフレインをしばらく口ずさんでいました。ほかに

「古城(まことの愛 /Ach, wie ist's moglich dann)」も聞いたような気もするの

ですが、今回なのか前回のエニセイのときなのか今となっては判然としません。

 そのうち私達が聞き入っているのに気づいて、日本の歌を歌うように言われました。

中田さんなどと「どうしよう?」「何にしよう?」という問答の末に「荒城の月」と

「花」でしのいだのですけれど、こんな曲でも私は歌詞がおぼつかない。誰でも必ず

知っていて歌えるという歌を持ち合わせている彼らを今度もつくづく羨ましく思った

ものでした。

 

 窓の外にはこれまで見ることのなかった集合住宅が見えるようになり、ペテルブル

クが近いことを感じさせていましたが、23時30分ついに河港に接岸。いつものような

横付け式ではなく、それぞれの船が岸壁に係留する形で、「マヤコフスキー」の前後

にも同型の客船が停泊しており、さすがに大都会の港です。船の灯りの中を小雨が降

っていました。

 

 みんなはといえば、ボートデッキ船尾側のホールでダンスをしています。我々と同

じ階のアーラさんやカーチャさんも、プリカーミエのメンバーも、マルガリータさん

も。

 みんなには「おやすみ」の挨拶を言わないまま1時頃就寝しました。

 

 

 

 

(23) ボルコボ墓地へ

 

 8月12日(土)、朝6時半頃、船内のラジオで目が覚めました。シャワーを浴びてから

甲板に出てみます。天候は晴れで、涼しいのですけどこの時の感じは半袖だけで平気

な程度。

 停泊している桟橋のところには河港のターミナルビルはなくて、桟橋のすぐ上を通

っているバス通りの向こうにあるホテル「レーチナヤ」と連結しているビルがそれの

ようです。ビルにはいまだに「ペテルブルグ」ではなく「レニングラード」の大きな

文字がついたままです。通りを、がらがらにすいた路面電車がゆっくり通り過ぎて行

きます。

 

 8時15分、朝食。 オレンジジュース、チーズ、オムレツ、丸パン、バター、紅茶、

リンゴジャム。船での食事もこれが最後です。汚れていないパン皿の上に折り鶴を1

羽置いて席を立ちました。

 

 9時、下船。 我々以外のグループは船にもう1泊する予定になっていて、この日は

プーシキンへの観光のプログラムが組まれており、桟橋の上の道路には大型のバスが

何台も並んでいます。我々が1日早く下船することになったのは、列車、船と乗り継

いできたので、1日でも早く揺れないところで寝かせたいという旅行会社の好意だっ

たのですが、みんなは船で知り合った人達と別れ難くなっていましたから、結果的に

はちょっと不評でした。

 

 しかも我々の車だけが来ない。あとで聞いたところではバウチャーにあったトラン

スファーの車をインツーリストが回してよこさず、急遽スプートニク社側が車を手配

したとか。きたのはカザンで乗ったような小さな車でした。でも、河港からホテル

「モスクワ」までは地下鉄で2駅ぐらいの距離で、多少回り道したような印象を受け

ましたが、それでもほどなくホテルへ着きました。ご存じの通りアレクサンドル・ネ

フスキー修道院の正面にあるあのホテルです。

 以前にも何度か泊まったことのあるホテルですが、変わったことと言えばキーがカ

ード式になっていたことぐらいです。この冬に泊まった「プリバルチースカヤ」もこ

れに変わっていましたが、あちこちのホテルがどこもこんなところに投資をするとい

うのはやはり治安が悪くなって盗難などが頻発しているのでしょうか。

 部屋は金田先生に無理にお願いして先生と同室にしていただきました。ふつう添乗

員のかたは個室ですのにね。

 部屋に落ち着くと先生はすぐにこの日の観光の手配。サービスビューローでガイド

付きのマイクロバスをチャーターしてプーシキンまで行くことにしました。同じプー

シキンへ行くのならなおさら船にそのまま居ればよかったというみんなの声も納得で

きますね。

 

 プーシキン観光は12時発というので、それまでの時間、とりあえずお向かいの墓地

へ行って、そのあと繁華街へ出ることにしました。ネフスキー修道院の墓地では、ド

ストエフスキー、チャイコフスキーなどの芸術家のお墓を見てまわります。入場料6,

000R。

 

 ホテルの脇(下)の地下鉄駅から2つ先のゴスチヌィ・ドヴォールまで行き、そこ

でみんなと一旦別れました。午後のプーシキンへのエクスカーションは私は申し込ん

でいませんし、1人で歩くとなるととりあえず地図が要ります。キオスクで都市交通

の路線図(16,800R)と都市交通に共通の10枚綴りの回数券(4,000R)を買いました。

ちなみに地下鉄はここでは600Rでした。

 ネフスキー通りの歩道に劇場のチケットなどを扱っている露店があり、今日か明日

サーカスでもやってないかなとのぞいてみると、なんとバレエのチケットがあるので

す。聞いてみると1枚20,000Rとか。今日が「眠りの森の美女」、明日が「くるみ割り」

で、もし次の日までこの街にいればその日は「白鳥」でした。もちろんマリインスキ

ーとかそういうところは今お休みで、どこのバレエ団かと思って見ると「ヴィクトル

・コロリコフ教授のクラシック・バレエ劇場」とあるので、おそらくどこかの私立の

バレエ学校かなんかでしょう。バレエもできる“文化会館”クラスの建物はこの街に

は山ほどありますから、「どこでやるの?」と聞いたら「すぐそこだよ」という返事。

シチェドリン図書館の向こう側、エカテリーナII世像の後ろのプーシキン・ドラマ劇

場です。これならホテルから遠くありませんから、今日と明日のを2枚ずつ買いまし

た。1枚ずつと言ってもどうせ売ってくれないはず。2枚買って1枚は誰かを誘うと

いう習慣の国ですから。でも、チケットを見ると5,000Rのゴム印が押してある。たぶ

ん外国人とみてふっかけたのでしょう。でも「おかしいじゃないか」というほどの交

渉能力は無いし、仕方ありません。

 

 ホテルに戻って、12時にみんながプーシキンへ行くのを見送ったあと、市内のボル

コボ墓地に行くことにしました。この冬に私の同僚とそれにこのNIFTY-SERVEのFCHEM

にある【教育】会議室のスタッフを一緒にやっている東大附属高校の教師と、ですか

ら化学の教師ばかり3人でやはりボルコボ墓地を訪れたのですが、あいにく閉園だっ

たのです。お目当ては化学者D・I・メンデレーエフのお墓。どこか柵に穴でもあい

てないかと周辺をうろついたのですが、その時は結局入れないまま帰ってきました。

 その時ははじめからツイてなくて、モスクワ大通りからリゴフスキー大通りに向か

うバスに適当に乗ったらそいつが途中でとんでもない方向に行っちゃうとか(^_^;)。

 

 それで、今回はさっき買った地図をたんねんに見て、ホテルから44番の市電に乗れ

ばそのまま墓地の前まで行けるということで、ホテル裏手の市電乗り場に行ってみま

した。

 すると44番はすぐにやってきて「これはラッキー!」と思って乗り込んだんですが、

たった1停留所進んだところで、突然運転手のおばちゃんが客席に向かって何か大声

で叫ぶのです。もちろんこちらには何のことだかさっぱりわからないのですが、乗客

の大半はそこで降りてしまいました。残っているのは「いつになってもいいけど、回

数券をもう1枚使うのだけはイヤですよ」という感じのお婆さんなどほんの数人です。

電車が止まったのはちょうど十字路で、そのうちの3方向に線路が走っているのです

が、見るとどちら向きの電車も全部止まっています。運転手のおばちゃんは運転台か

ら降りて電車の外へ出ちゃうし、対向車の男の運転手なんか運転台の脇から何やら瓶

を取り出して飲み始める始末。まさかウォトカじゃないでしょうね。

 パトカーや救急車も行き来していたので事故かとも思ったのですが、突然電車のモ

ーター音がするとおばちゃんがあわてて運転台に戻り電車が動き始めたものですから、

もしかしたら停電だったのかもしれない。

 これで安心するのはまだ早かったのです。もう1停留所進んだところで電車はまた

ストップ。時々モーターの回転音がするのですけど、すぐに止まってしまって、あと

はなんだか悲鳴のような機械音が続くだけです。よく見ると電車の前方の線路上に工

事車がきていて架線の修理をしています。これじゃ動き始める見通しはたたないです

ね。後ろを見ると44番の市電が数珠つなぎ。でも、感心するのは(別段ほめているわ

けではありません)、お客が誰一人として「いつ動くの?」なんておばちゃんのとこ

ろに聞きに行く様子がないことです。みんな自席にじっとしている。日本じゃ考えら

れませんね。

 

 というようなハプニングはありましたけど、そのあと電車はモスクワ駅の脇を通っ

てリゴフスキー大通りを南下し、私は今回は無事にボルコボ墓地に入れました。墓地

は入場無料。なら、お正月だって開けておいてくれればいいのに。

 広い園内には何組かの二人連れ(といっても若いカップルではない)が歩いている

程度で、緑深い墓地はたいへん静かです。入り口近くの博物館(改修中で閉館)の壁

にある案内図を頭に入れて敷地の中を歩き、メンデレーエフ、レーニンのお母さんと

姉妹、バレエのワガノワ、歴史家プレハーノフ、作家ツルゲーネフのお墓の写真を撮

りました。条件反射のパブロフとか、作家ガルシンのお墓もここです。

 


 

次のページへ    目次へ戻る