ボルガ遡航記 (1995)


 

(11) ボルガ川へ

 

 5日(土)朝5時半くらいに、今度は昨日の逆で冷房の止め忘れで寒くて目が覚めまし

た。洗面を済ませて甲板に上がってみると太陽は雲で隠されていますが、それほど悪

い天候ではありません。風は冷たく感じます。ただ、この頃は日中の陽射しが相当強

く、私自身この旅が終わってみると「ほんとうにロシアへ行ってたの?」と言われか

ねないほど焼けていて腕には時計のアトがくっきりなんですが、これはほとんどこの

船旅のはじめの2,3日で焼けたものです。 もっともツアーにはじめから参加していた

人達は私が合流する前のリストビャンカで相当焼けたようで、もともと色白の森田さ

んなんかこの時期にはもう一皮剥けてました。中田さんや飯田さんが船の甲板で甲羅

干しをしたりしていたのも船旅のはじめの頃でした。

 

 両岸が低地になっていてそこを樹林が覆っている相変わらずの風景です。鉄道の旅

でも船旅でもロシアの広大さを印象づけるのは半日行っても一日行っても風景が変わ

らないことです。「今は山中、今は浜、..♪」とか「国境の長いトンネルをぬけると

雪国であった。」などというどこかの国とはえらい違いです。朝起きたときに、じつ

は事情があって昨日と同じところを走っているのですと言われたらきっと信じてしま

うでしょう。

 川岸にはロシア人のテントがあって、夏の休暇をキャンプで楽しんでいる様子です。

川にボートを出してじっと釣り糸を垂れているのもたくさん見ました。

 川は鉄道と同じで所々に駅(船着き場)があります。この“駅”というのが、船と

同じくどうも同一の設計図でつくって全国に配ったものらしい。ハンで押したように

シンメトリックな緑色の2階建てで中央に小さな尖塔があったりします。もちろん

“ガソリンスタンド”同様浮き舟式の構造で川の水量の増減に対応できるようになっ

ています。

 建物の中央に駅名を書いた看板があれば双眼鏡でのぞいて今どのあたりを通ってい

るかわかります。7時頃ベルスート沖を通過。 この頃から太陽が顔をのぞかせてきま

した。

 

 7時半、朝食。 オレンジジュース、丸いパン、バター、チーズ、ブリヌィ、紅茶。

 

 食後しばらくの間、キャビンで同室の大田君、桜田君、それに金田先生と雑談をし

ていました。今度の旅行は金田先生が立案して旅行社に持ち込んだものですが、先生

や大田君はもう次の企画をあれこれと考えています。学生が参加しやすいように8月

はじめの出発にして、キエフやヤルタにも寄ってペテルブルクではホームステイをし

て、ボルガではアストラハンまで行くかとかなかなか欲張りです。日数は30日を越え

るかもしれなくて、費用は40万円は超えられないなどと条件が難しい。後日、船の人

に話を聞いてさすがにアストラハン行きは諦めたようです。夏のアストラハンはすご

く暑いらしいですから。あ、その前にこの冬の旅行がある、厳寒のヤクーツクを経験

して、ベルホヤンスクかオイミャコンに足を伸ばすのはどうかとか....ま、言うだけ

ならタダですからね。(^_^)

 その間にメイドのナターシャさんが部屋のお掃除に。鉄道で着たままにしてすっか

り汚れた綿の上着とズボンの洗濯をお願いしました。引き受けてくれたのは良かった

のですが、それらの衣類は袋に入れるでもなく各船室から回収したタオル類とならべ

て廊下にじかに置きっぱなし。たしかに、どうせあとで洗うんですからいいですけど。

 

 髪がだいぶ伸びていましたので、9時頃船内の理容室に散髪に行きました。中年の女

性の理容師さんです。はじめにシャンプーで洗髪してくれて、ついで毛を短く刈り、

もみあげと襟を剃って、あと私は髪が多いものですからすいてくれました。毛を剃る

ときにシャボンみたいなものは全く使わずにいきなり剃刀をあてるところが日本の床

屋さんと違いましたっけ。洗髪や整髪料を含めて30,000R。

 

 散髪のあとはボートデッキ前部の甲板にいました。このあたりの川幅の広さと言っ

たら、昨日のチャイコフスキーの人造湖の比ではありません。向こう岸が見えないく

らいです。地図を見てもカマ川のこのあたりは青い線では描いてなくて湖のようにな

っていますよね。実際には海を航行しているような感じです。

 12時過ぎにボルガ川との合流点に達しました。船は船首を大きく右にまわしてボル

ガ川にはいります。アンガラ川がエニセイ川に注ぐ場所はいかにも2つの川が一緒に

なるという風景でとてもわかりやすかったのですが、ここはあまりに水面が広いため

に合流点という実感がなく、この方向転換がなかったらまったくわからなかったと思

います。

 

 12時半に昼食。トマトと胡瓜のサラダ、ヌードル入りのスープ、くりぬいた瓜に米

粒のまざった牛肉のハンバーク風の塊を入れて輪切りにしたものにとろみのあるソー

スをかけた料理(何言ってるかわかります?)、紅茶、林檎。

 

 食事のあと3時くらいまで、金田先生と一緒に後部甲板にいました。

 ボルガの岸の小高くなっているところは、ちょうどケーキの切り口を見るとスポン

ジの台の上にクリームの層があるように、むき出しの土の急な斜面の上に樹層が連な

っています。反対側は水面からの高さがいくらもない低地です。金田さんの話だとこ

の低い側には住宅などはないと。増水期に水没する可能性があるからだそうです。

 

 水運の要衝のようで、少なくない貨物船が行き交っています。列車のように動力車

(船)と貨車(船)が別になっているものも少なくありません。ただ、列車とちがう

のは“機関車”が引くのではなく、後ろから押していることです。中には“貨車”を

2両(艘)連結しているのもあります。

 小さい船は家族経営で一家が乗り込んでいるのか、ビキニ姿の女性が操舵室の屋根

に寝そべって日光浴をしている小型の船を追い抜いて行ったこともありました。

 

 4時、我々の船はペルミを出て以来初めての大都会カザンに着きました。

 

 

 

 

(12) カザン

 

 着岸すると船から降りて、市内観光です。河港のターミナルのむこう側、バスの待

っている広場には大きな看板が出ていて「タタールスタンの首都へようこそ」とあり

ます。タタールは、すっかり有名になったチェチェンほどではないにしても、独立指

向の強いところだと聞いていました。通りの標識や記念碑までロシア語とタタール語

の二重標記になっています。

 

 ここでは他のグループと違って我々には10人乗りほどの小さなワゴン車が割り当て

られました。ローカル・ガイドはなんとミハイル・ゴルバチョフさんというかたでし

たが、かつての大統領とは何の関係もないとご自分で断っていました。父称がセルゲ

イビチかどうかは聞き損ねました。

 はじめはメーンストリートを通って市の中心部にあるカバン湖という名のちょっと

した池に面した広場で車を止めます。何やら由緒ある池らしいゴルバチョフさんの説

明でしたけど、これはノートに何もメモがなく、今ではすっかり忘れてしまいました。

ごめんなさい。でも、池と反対側、つまり通りのほうを向いても噴水のむこうに通り

ときれいな建物があり、落ち着いたいい町だなという印象を受けたのを覚えています。

 

 そのあとがまた回教の寺院。ペルミで見た回教寺院よりも規模が大きい。タタール

では回教徒が多いのでしょう。

 

 次が正教の寺院。これじゃまるで巡礼の旅ですな。実際、このあとの町や村では回

教はともかく、ロシア正教の教会に行く機会がじつに多かったのです。この船に何十

人かのロシア人の観光団がいました(アーラさんやカーチャさんもそのメンバーです)

から、私はスプートニク社が国内で観光団を募るにあたって「正教の聖地めぐり」な

んていうテーマだったんじゃないかと疑ったくらいです。日本の「お伊勢詣り」か

「**札所めぐり」ツアーみたいな。

 さきほどの回教の寺院が内外とも質素だったのにくらべ(回教は偶像崇拝をしない

と言って礼拝堂にイコンのないことも自慢のようです)、正教の教会は外からみても

中に入ってみても立派でした。ただ、教会の外側の装飾には唐草模様もあったりで、

地理的・歴史的にイスラムの影響を受けていたことがわかります。ゴルバチョフ氏は、

でもこの町では住民の間で宗教的な対立のような問題は全くないということを幾度も

強調していました。それじゃ聞きますが、教会の塔の上で十字架で踏みつけられてい

る三日月、あれは何なのですか。(^_^)

 教会は1階と2階の入口がそれぞれまったく別のところにあり、2階はロシア語で、

1階はタタール語で礼拝が行われるそうです。2階のほうは観光客が入ったせいばか

りでなく信者がたくさんお祈りに来ていたのでしょう、ひどく混んでいました。聖歌

隊なのかそれともお祈りの信者なのかわかりませんがきれいなコーラスが堂内を満た

し、いやが上にも敬虔な気分にさせられます。ロシアがキリスト教を受け入れるに先

だって当時のウラジミル公から各地へ遣わされた使者が、グレキでは「私たちは天上

にいたのか地上にいたのかわかりませんでした」と報告した(「ロシア原初年代記」

名古屋大学出版会・1987)という言い伝えは有名ですが、イコンを何層にも重ねたイ

コノスタスや文字通りア・カペラの荘厳な宗教曲に触れているとそういうこともあっ

たであろうと思えてきます。

 1階のほうは参会者も少なくずっと静かな感じでしたが、それだけに信者一人ずつ

に祝福を与えることができるようにも見えました。

 

 そのあとはカザンのクレムリンへ。モスクワ・クレムリンとは違って白い塀で囲ま

れていて中の建物も白色が基調です。1552年のイワン雷帝のカザン攻略のときにこの

城壁の下に深い地下道を掘り火薬を詰め込んで爆破したことが本(スクルィンニコフ「イ

ヴァン雷帝」成文社・1994)にありますが、ガイド氏はそのトンネルは正門の前を流

れるカザンカ川の川底の下を掘り進んだことや(当時そんなことができたんですかね)

火薬に点火したけれども爆発しないんで気の短い雷帝は技師を処刑してしまったのだ

がその直後に爆発が起きたなどという話をしてくれました。城壁の内部には遺跡とあ

わせてタタール政府の建物などもあり、それらを見ながら正門と反対側の5月1日広場

のほうへ抜けました。

 

 ついでレーニン名称カザン大学へ。レーニンが放校になった大学なんて今では観光

スポットにはならないのでしょうが、バスを止めてもらってレーニンの銅像の前で記

念撮影。ここのレーニン像は学生時代の若いレーニンのですから全国に散在する銅像

とはひとあじ違います。

 このレーニンの銅像などが残されていることについて、ガイド氏は「この町では銅

像などはひとつも壊してない。歴史は歴史であって変えられない。」と言っていまし

た。

 

 そのあと通りにバスを止めて買い物の時間。お店で買ったアイスクリームが八百何

十Rかだったんですが「こまかいのは?」と聞かれて「ありません」というと、お釣

りのかわりに小さなキャンデーを一つよこしました。コペイカ玉が市中で用をなさな

くなってからはもう久しいのですが、今ではルーブルのコインも出番がありません。

次回のロシア行きからはコインは持っていかないつもりです。(ほんとうは紙幣こそ

持ちこんじゃいけない筈でしたね(^_^;))

 

 港に戻ってみると「マヤコフスキー」の向こう側にさらに同型の客船2艘が繋がれ

ていて、乗船口はたいへんな混雑。しばらく岸壁のところで雑談したり写真を撮った

りしていました。

 

 19時15分、夕食。トマト,胡瓜,カッテージチーズ,サイの目に切ったハムとソー

セージのサラダ、鶏ももにジャガイモ,キャベツ,人参などの温野菜を添えたの、梨

か何かのパイ、紅茶。じつは旅の疲れからでしょうか、先月24日からフル参加の人達

のうち桜田君と飯田さんが体調を崩して、桜田君は昼に、飯田さんは夕食のときに食

事にあらわれなかったのです。2度とも私の隣席が空席。そこで金田先生と私でいな

い人の分まで食べてしまい、終わると使った皿やフォークをその空席のところへ。は

じめは、空席のところのザクースカがなくなっているのを変に思っていた給仕のヘレ

ンさん、ようやくからくりがのみこめてニヤリとしています。こちらも臆することな

く、彼女の「チャイ?コーフィ?」の問いに「フタロエ」と答えてメインディッシュ

もしっかりいただきました。

 

 船に乗っているロシア人観光客の娘さんで小学校低学年くらいの女の子が人の顔を

見るとニコッと愛想よくするのに船旅のはじめから気づいていました。食後、甲板に

出るとその子が両親と一緒に椅子にすわっていて、やはりニコニコしている。こうい

うときは必ず折り鶴の出番です。「実演即売」が原則ですから、隣の椅子に行ってそ

こで1羽折ってあげました。そしたら、学校で友達に見せるから翼のところに日本語

で署名をするようにと言うのです。と書けば簡単なようですが、このロシア語をこち

らが理解できず、キャビンまで戻って名刺なんか持ってくる始末。でも、一緒にカメ

ラも持ってきましたからご両親と一緒の写真も撮って、送り先も聞きました。女の子

はニーナという名前でやはりエカテリンブルクに住んでいます。小学3年生。ニーナ

はお父さん似ですが、お父さんは船中であって会釈しても「ロシアの男は愛想笑いな

んかしないぞ」という雰囲気。お母さんはデッキの日陰のところでじっと読書してた

りする知的な感じのかたです。

 

 21時、船はカザンの河港を出航。上弦の月が川面よりやや高めのところにあって、

北西の空は日没後の赤い色に染まっています。岸辺の建物には灯がつき、それが水面

に映えてきれい。航路標識の赤と白の光がかすかに点滅するなかを「マヤコフスキー」

は静かに進んで行きます。

 

 

 

 

(13) コズモデミャンスク

 

 旅行用の時計を1個持って行っていたのですが、なにしろ近所のディスカウント店

で1個980円で買ったものですので、アラームが鳴る時刻の微調整ができないのです。

6時にあわせたつもりが5時40分頃には鳴ってしまって、部屋の全員を起こしてしまい

ました。大田君は「なんだ!この音は」と言って起きあがったとたんに机の角に頭を

ゴツン。ごめんなさい。

 この日(6日)も朝6時半になるとラジオに音楽がはいり、そのあとロシア語や他の

国のことばで(ただし、日本語放送は無し)その日のスケジュールが伝えられます。

夜寝る前にも翌日のスケジュールの放送があるのですが。不思議なのは食事が2段シ

フトになっているのに食事の時間を1通りしか言わないことです。この部屋の住人は

後半だからとか言ってスイッチを切り換えているのだとするとずいぶん細やかですね。

 

 6時45分、朝食。林檎のジュース、丸いパン、バター、チーズ、厚い卵焼き、紅茶。

起きたときは曇っていましたけれど、この頃には晴れてきました。

 

 8時に船を降りて、コズモデミャンスクという小さな村の市内(村内)観光に出ます。

船着き場で待っていたバスは観光バスではなくてかなり古い型の路線バス。ふだん村

の定期バスなのを借りたんですね。ここではロシア人と混乗で、アーラさん達も同じ

バスです。

 前のほうの席を見ると日本人らしいのに見たことのない人達が座っています。じつ

はうちのグループの女性3人でした。昨日のカザンの観光で聖堂に入るときにスカー

フを用意してなかったのにこりて、今日はスカーフどころかすっかり「お色直し」し

て別人のようです。中田さんは髪を結うのが上手らしく、森田さんの髪をきれいに整

えて、森田さんは「戦争と平和」のナターシャのような雰囲気。(オードリーヘップ

バーンのナターシャもいいですが、私はリュドミラ・サヴェリエワが好きで、ナウカ

に頼んで5巻もののビデオを買ってしまいました。でも、画質がよくない。「ひまわ

り」の彼女もいいですね。)

 でも、ほんとうのことを言うと(ここだけですよ)、ふだんのままの森田さんのほ

うがもっといい。だいたい、二十歳ぐらいまでの女性は手を加えない素顔のほうが素

敵に決まっています。うちの高校生なんかそれが全然わかってないから、すぐ爪にペ

ンキを塗ったり、耳に穴をあけたり..。マッタク。(すみません、つい職業柄で。)

 

 あ、話がとんでもなく横道に行ってしまいました。

 はじめに案内されたのは古い教会の建物に置かれた博物館。教会の建物はきちんと

修復したら立派な教会になりそうでした。博物館は各地に置かれている博物館と同様

に地域の自然、それに古代史からソビエト時代までの歴史的な資料が陳列されていま

す。このあたりはマリ人という人達が多く住んでいるという話も聞きました。一昨日

のボトキンスクのあたりはウドムルト人、昨日のカザンはタタール人、今日のここは

マリ人とボルガの中流域は人種のるつぼのようです。ここでも博物館のガイドのかた

は丁寧に説明をしてくださり、マリ人がステパン・ラージンの乱に参加したことなど

も話してくれましたが、1ヶ所素通りしてしまった場所があるのに大田君が気づきま

した。その一角は対日戦勝のコーナーだったのです。

 2階は美術館になっています。移動派の絵画も多くあるということで、かなりご自

慢の様子です。ガイド氏が「モスクワのトレチャコフ、ペテルブルクのロシア美術館、

それにここ」と言ったような言わなかったような。しかも、美術館は1階とちがって

ガイド氏が引率するのでなく、時間を決めて自由にご覧くださいという粋なはからい

です。でも、言われていたシーシキンなどの絵がどこにあったのかとうとうわかりま

せんでした。

 ここを出る頃には雨がポツポツと降ってきました。

 

 次に博物館からそれほど遠くない小高い丘の上にあるいわゆる「青空の下の博物館」

に行きました。ノブゴロドやスズダリにもありますし、モスクワのコロメンスコエも

そんな感じですからおわかりだと思いますが、そのあたりの特徴的な建築物を移築し

て展示しているものです。風車、鍛冶小屋、風呂場、それにイズバというのですか農

民の住居など、どれもみな木造建築です。この頃から雨の降り方が本格的になってき

ます。朝晴れたものだから傘とヤッケはキャビンに置いてきてしまって、買い物用の

ポリ袋で雨をしのぐしかありません。

 ここでの圧巻は、イズバの前で民族衣装姿のマリ人の女性3人がグースリを奏でた

り、それを伴奏に歌ってくれたことです。たしか祝婚歌か何かでした。グースリはモ

スクワのお土産屋さんで売っているものとはもう全然違います。オペラ「サトコ」の

グースリ弾きは首からかけていますが、ああいうイメージでもありません。もっとず

っと大きく、しっかりした造りで、演奏家は座ってそれを膝の上に斜めに置いて弾き

ます。

 この音楽は我々のグループ全員がとても気にいって、飯田さんなんかモスクワでわ

ざわざこれのテープをさがしにメロディアだのノーティだののお店に足を運んだぐら

いです。でも、こういうローカルなものは今のモスクワでは難しいですね。なぜ、こ

この博物館でテープを売らないのかと我々は言いあったものですが、素朴な田舎の人

のことですからそういうテープを作れば外国人に高値で売れるというのをご存じない

のかもしれません。

 

 ガイドさんの説明が丁寧、ということは長いということで、その間に雨はどんどん

本降りになる。各国のお客さんはバスに戻ってそのバスも行ってしまったというのに

です。我々、と言ってもグループ全員ではなく金田さんと大田君と桜田君とそれにア

ーラさん達ロシア人の女性3人だったような記憶(あまり確かでない)ですが、一旦

は敷地の出口近くに展示されているバーニャで雨宿りしてバスを待ちました。こっち

はどうやって帰るか気が気じゃないというのに、ガイド氏はこのときも白樺の枝を手

のもって風呂の入り方を解説する熱心さ。でも、バスはもともと路線バスですから、

結局来ないことがわかり、雨の中を歩いて帰ることにしました。金田さんは傘を持っ

ていたのです。そういう時、添乗員ってお客に「どうぞ」って言うのが普通ですよね。

なのにアーラさんと2人で相合い傘なんかしちゃって。(`_´)

 

 さっきの博物館のところでバスは待ってくれていて、無事船に戻ることができまし

た。皮肉なことに、その頃雨はあがりましたけど。

 

 12時、昼食。船はその頃コズモデミャンスクの船着き場を離れたはずです。カッテ

ージチーズ,トマト,胡瓜,赤蕪,人参のサラダ、ボルシチ風のスープ、ハンバーグ

のようなカツレツにスパゲティを添えたの、ママレードを添えたアイスクリーム、紅

茶でした。

 

 14時と15時45分の2度、ボートデッキ前部のサロン(バー)でバイオリンとピアノ

の演奏会があり、中田さんと私は“はしご”して2度とも聞いてしまいました。はじ

めのは外国人む向けで曲名の紹介のときに何語かわかりませんが、2ヶ国語ぐらいで

話してくれます。あとのは演奏家自身がロシア語で曲名を言っていたので、これはロ

シア人向けでしょうか。前後2度の全部が同じ曲目ではなかったような気がしますが、

ポッケリーニ、クライスラー、シューマン、ファリャなどの曲を次々に。ピアノの若

い男の人は力がはいっているのか伴奏でも独奏でも1曲ごとに汗を拭いてました。サ

ロンの窓にはレースのカーテンがあって、そのカーテン越しに外の風景が見えます。

左右の景色がゆっくりと後ろへ流れていく中、こんな音楽に浸るの、ずいぶん贅沢だ

と思ったものです。

 2度目にはニーナもお母さんと一緒にやってきて、最後まで身動きしたりせずに聞

いていました。こういう時のロシアの子どもの行儀の良さにはいつも感心します。

 

 17時に船はマカリエフの船着き場に接岸と言いたいところですけど、実際は「A・

プーシキン」と「R・ゾルゲ」という2艘の先客がいて、「ゾルゲ」の隣に我々の船

はつながれました。この2艘はボルガフロートという船会社のもので、このあたりで

はこの会社の船を多く見ましたから、レチフロート直系の会社なんでしょうか。

 この船着き場からすぐのところにとても大きな女子修道院があって、ここではそれ

がお目当てです。修道院の敷地にはいるといつものように国別のグループに別れてそ

れぞれに修道女の服装をした年輩の女の人がガイドについてくれます。私たちはロシ

ア人のグループに入れられていたのですが、ここのガイドさんの話はえらく長い。金

田さんによると話の中身の大半は説教だったとか。やはりカザンで思った通り、これ

は巡礼ツアーなんですよ。(^_^)

 この頃からまた雨が降りだし、雷鳴も聞こえるようになりました。

 敷地の中の殆どの建物は修復中で、グループがいちばん長くいた(そこでの説明が

いちばん長かった)建物の床にはなんとバスケットコートのラインが引いてありまし

た。ソ連時代にはピオネールキャンプか何かの施設にされていたものが返還されたん

でしょうか。片隅の部屋の跡にはレーニンの顔を描いた板が打ち捨てられていました

し。

 この修道院は日本でいえば「本山」にあたるのか、何か重要な修道院らしく、明日

がその祝祭日になっていて、州内の各地から地位の高い聖職者が集まってミサをする

んだと聞かされました。で、礼拝堂ではその前夜祭のようなミサが行われていました。

正面のイコノスタスはきれいに修復されており、その前で厳かな儀式が執り行われて

います。正教の聖歌はいつ聞いてもきれいですが、ここの合唱はそのままコンサート

だと言っても通用しそうな気がしました。礼拝堂が人でいっぱいなので、信者でない

人間がいつまでもいてもと思って短時間で退出しましたけど、金田さん達はだいぶ長

いことここから出てきませんでした。それほど魅了されたのでしょう。

 

 船にもどった頃、雨がやみます。どうも、今日はお天気にはツイていません。

 キャビンに帰ると大田君がクリーニングに出したものができてきたと言ってくれま

した。私が綿の上着とズボンを出して、大田君も何か2枚、合わせて$5でした。

 

 19時、夕食。胡瓜,トマト,卵のサラダ、ビーフストロガノフ,紅茶,ロールケー

キ,バナナ。

 

 21時にボートデッキのバーに我々のグループのほかアーラさんやカーチャさんも集

まって、ゲームをしたり雑談をしたりして過ごしました。#510でホンチャレンコさん

が紹介してくださったように、エカテリンブルクではこの春に日本文化フェスティバ

ルがあり、彼女達の日本への関心も高いようで、金田さんにいろいろ聞いてきます。

また、今日がヒロシマの日なのも彼女達はよく承知している様子でした。

 やすんだのは24時半ぐらいだったと思います。

 

 

 

 

(14) ニジニ・ノブゴロド

 

 7日(月)。朝5時に起きたときには船は既にニジニ・ノブゴロドの河港に着いていま

した。天気は曇。朝の船内放送では気温20℃と言ってましたけど、町の温度計は16℃

を表示してました。半袖ではちょっと寒く感じます。

 

 6時に市内観光に出ました。 岸壁で待っていたバスに近づいたとき、スプートニク

の係員が現地のガイドにとんでもないことを言っているのを聞いてしまいました。

「日本人のグループは全員ロシア語を話すわよ」というのです!日本側の旅行社から

現地側にとんでもないニセ情報が流されていたわけ。ペルミのフォークロア・ショー

での歓迎の辞や船長の挨拶が日本人向けには全部ロシア語だったのはこのせいだった

ということがのみ込めました。それを承知で訂正しない金田さんも金田さんです。

 市内観光といっても停泊時間が短いため、町のクレムリンと旧市街をさっとまわる

短いものでした。ニジニ・ノブゴロド(旧ゴーリキー)はボルガ川とオカ川の合流点

に発達した町で、旧市街はその右岸の小高くなったところにあります。このあたりの

ボルガの川幅はそれほどは広くありません。もっともこれは今までとくらべての話で、

日本の河川とくらべたらやはり広いでしょうが。

 クレムリンの城壁はここでは赤い煉瓦色で、丘の下から上にかけて階段状に築かれ

ています。バスは急な坂道を登って丘の上に進むのですけれど、驚いたことにその坂

道の傍らに市電の線路が敷設されています。市電てこんな勾配を登れるんですか。丘

の上からは川の方面の眺めがすごくいい。私たちは城壁の外、クレムリンの中、それ

に旧市街の一角で町を展望させてもらいました。この高台から見るとオカ側とボルガ

川にはさまれたところが新市街と工場地帯、そしてボルガの左岸は広々とした低地で、

農地や草地がはてしなくひろがっています。ガイド氏の話では、レーピンだか誰かが

ここからの眺めはロシアでいちばん美しいと言ったとか。

 クレムリンの中はみんなでゆっくり歩いて見学です。中には、上から見ると飛行機

の形をしているとかいう元の市ソビエトの建物などもありますが、大祖国戦争の戦没

者追悼の永遠の火や戦勝記念の兵器の展示場などもあり、花壇もよく手入れがされて

いて、観光スポットだけでなく市民の憩いの場になっていることがわかります。木々

の向こうに木造りの教会の塔が見えたりしています。ニーナは花壇のところで、お父

さんに写真を撮ってもらっている。

 

 バスが港まで戻ったあと、徒歩で港のすぐ近くにある教会のところまで足を伸ばし

て、もう乗船です。

 同じ船に乗っていた若いロシア人女性の1人と我々のグループの若い人達が船中で

知り合いになっていたのですが、彼女はここで下船するということで、桟橋のところ

でお別れの挨拶。彼女が1人1人に何か記念の品物をくれたりして、別れを惜しんで

いました。

 

 8時、ニジニ・ノブゴロドを出港。港から離れると丘の頂きにいかにも要衝という感

じのクレムリンと麓から築かれた城壁がよくわかります。まもなく、鉄道と自動車道

が二重になった大きな橋をくぐり、両岸はまた元通り緑色の田園風景にもどりました。

 

 8時半、朝食。丸パン、バター、チーズ(これまでは日本でもよく見かける1個ずつ

包装した三角チーズでしたけど、この日のはロシア風の例のスライスしたやつ)、ソ

ーセージ、蜂蜜を添えたパンケーキ風の食べ物、紅茶。

 

 午前中はボートデッキ前部のバーへ行って大田君や中田さんとゲームをしてました。

その後キャビンに戻ったのですけど、そこでも前夜アーラさん達に教わったロシアの

「モルスコイ・ボイ」というゲームに熱中して、船が水門を通過したのにも気づかな

い有り様。このゲーム、飯田さんがやけに強いのです。こちらは何度やってもダメで、

「石川さんはムキになるわね」と飯田さんにからかわれる始末。ま、ふだんゲームは

やりつけてないからムキにもなりますね。クラブ合宿などで生徒がUNOなんかして

いてもこちらはルールも知らないもんだから、横目で眺めていただけですから。でも、

今度の旅でUNOも覚えましたから、来夏の合宿では連中と互角に戦えます。

 

 14時昼食。ここから食事のシフトは後半へと交代です。水門の上に上がって川幅は

一気に広がりました。同型の客船がずっとあとを追ってくるのを見ながら食事をいた

だきました。赤蕪などのサラダ、ジャガイモか何かのクリームスープ、ビーフステー

キにマッシュルームのソースとライスを添えたの、紅茶、林檎。

 

 昼食後も甲板に出たのですが、風が冷たく1時間ほどいるのがやっとでした。出て

いる人の数もこれまでにくらべるとずっと少なく、風のあたらない陰にいる人や、キ

ャビンから備え付けの毛布を持ち出して蓑虫のようにそれにくるまって本を読んでい

る男性もいます。やがて同室の人らしい男性が甲板に現れるとその人に毛布を預けて

下へ降りて行き、あとからきたほうが今度は蓑虫になっていました。

 

 船首部のバーでは我がグループの女性3人が折り紙をしています。この折り紙は外

国のかたの関心をひくようで、先日もレストランのテーブルで彼女達が折り紙をして

いたら食事を終えた年輩のかたが話しかけてきました。ここでも、中年のとても綺麗

なロシア人の女性が彼女達に話しかけてきます。エカテリンブルクで病院に勤めてい

るマルガリータさんというかたで、高校生ぐらいの息子さんと一緒の船旅です。

 金田さんもその場にいましたので、折り紙の話のあとはおもに金田さんとロシアの

現状についての様々な話になりました。以下のなかみは金田さんが部分的に通訳して

くれたものです。

 たとえばロシアの経済状態については、ロシア人の高い教育水準と低賃金を求めて

ドイツなどの資本が進出してきているのを憂えている様子です。でも、そういった合

弁なんかが実現しない工場の中には操業を止めて閉まっているところが少なくないそ

うです。

 これはリータさんから聞いたのかどうか忘れましたが、税金の高さも障害になって

いるそうです。利益を上げても税金で持っていかれるので、ものを生産する工業とか

農業とかが立ち行かず、結局人はものを転がすほうをやるようになると。そのへんの

話になると、状況はまったく違うにしても、減反だとかリストラだとかで国内でもの

は作らなくなってマルチメディアで何百万人の雇用創出とか言ってうかれてるどこか

の国も似たような道をたどっているのではないかと、内心思ったものでした。

 リータさんによれば、住宅だってかつては、何年待たされるかはともかく、待って

いれば国から無償で与えられたのに、今は「住宅債券」のようなものを買い貯めて、

それが希望するフラットの面積になれば住宅が買えるんだそうです。ところがその

「債券」、1m^2あたり130万Rもする。ちなみに教師の給料は月30万-40万Rだそうです。

 バレエやオペラのチケットは高くはないが、幕間にいくビュッフェでの飲食の値段

はずいぶん高くなったと嘆いていました。

 映画館の入場料は高くなっているそうです。一時期アメリカのアクションものがロ

シアで大流行したが、それはすぐに飽きられてしまったと言っていました。これは、

イルクーツクでも聞いた覚えがあります。映画館ではそんなものばかりやっているの

で、ほんとに映画を見たい人はTVで見ていると。リータさんの話は続きがあって、

ところが文芸的な映画でもアメリカのものは内容に深みがなくて、結局みんなは少し

古いフランス映画なんかを見ているということです。

 私などはアメリカ映画にも感銘をよぶものが決して少なくないと思うのですが、で

もこの話を聞いていて、彼女のような人達が物心ついた頃から親しんできたロシアの

文学・演劇・美術・音楽・思想などのその深さをあらためて想像しないわけにはいき

ませんでした。

 

 17時からボートデッキ後部のホールで、ブリヌィのパーティーがあるというので、

$5払って行ったのです。今日から夕食は遅い時間ですし。ところが、テーブルにブリ

ヌィとバター、それに僅かな量のイクラとグラス1杯のシャンペンが用意してあり、

あと民族舞踊団のメンバーが2〜3曲演じてそれで終わりです。これにはひどくがっ

かりでした。

 ただ、この民族歌舞団のメンバーがペルミで見た“プリカーミエ”の人達によく似

ている、と思っていたらやはりそうでした。船旅前半の声楽家やピアニスト,バイオ

リニストは下船して、かわりに“プリカーミエ”の人達が乗船してきていたのです。

ロワーデッキの我々のキャビンの並び、以前バイオリンの練習をしていたあたりには

今度は“プリカーミエ”のメンバーが入っています。

 

 18時30分、ブリッジの見学。ロシア人の観光団と一緒で、ちょうど桜田君が医務室

に行って金田先生はそちらに付き添っていたため日本語通訳はなし。それにエニセイ

川の「A・チェーホフ」号と違ってレーダーなんかのぞいても何も映ってなくてサー

ビスが悪いですな。「チェーホフ」は別に機関室の見学もあったし、さらに別の機会

に厨房の見学もあったんですが、こちらはこれきりでした。

 

 19時半、さきほどのホールで“プリカーミエ”によるフォークロア・コンサート。

こちらのほうがさっきの$5よりずっと内容が充実していて、みんなから盛んな拍手が

ありました。こちらはブリヌィがないから無料です。ただ、ペルミの劇場と違って天

井が低く、広さも十分ではありませんからずいぶん踊りにくそうで、気の毒でした。

 

 船室に戻ってシャワーを浴びたあと、21時から夕食。緯度がそれほどは高くないこ

ともあるのでしょうが、さすがにこの時間になると太陽は殆ど沈みかかっています。

トマト,スイートコーン,チーズのサラダ、ロールキャベツ(かなり大きいのが2つ。

挽き肉にライスが混ぜてある。)、レーズン入りのアイスクリーム、紅茶。医務室に

行っていた桜田君はこの夕食もパスで、彼の分は金田さんと私の胃袋におさまってし

まいました。

 

 食後は船首部のバーへみんなで行ってオセロをしたり、例のモルスコイ・ボイをし

たりで時間をつぶして、寝たのは24時半ぐらいだったでしょうか。

 


 

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