ソロフキへ  (2009)


7)ソロヴェツキー島 (8月19日)
 いつもと違って今日は7時朝食なので、目覚ましのための船内放送が6時半に入ってそれで起きた。船はもちろん白海を航行中。天候は曇り。波はオネガ湖のときと同じくらい。船内放送で気温が「プリュス・アヂン」と言っているように聞こえて耳を疑った。でも11℃なら「アヂン」はないからやっぱり1℃か。しかし、8時の朝食前の放送では違う数字を言っていたようにも思え、ほんとうのことはわからない。
 朝食は、白パン、バター、サラミ、肉団子・ライス添え、レーズン入りのカーシャ、コーヒー。
 朝食から戻っても、船内放送はずっとB・オクジャワのような雰囲気の歌手の歌を流している。「オホットヌィ・リャト」なんて地下鉄の駅名みたいなのを歌ってたけれど、それが彼の持ち歌ならやはりオクジャワだ。彼は今ロシアと交戦状態ではないにしても絶交状態のグルジアの人だと思うけど、ロシア人は彼はロシア人だと思っているのかもしれない。
 8時前にデッキに出てみる。当然船首方向に島影。左舷方向にも島らしいものが見えるが正面のがソロフキなのだろう。風は冷たいけれど、それにしても1℃という体感ではない。昨日までと比べてもそんなにひどく寒いという感じではなかった。島が次第に大きく見えて、双眼鏡だと修道院の建物がわかる。何人ものロシア人乗客があれが修道院だと私に教えてくれる。
 予定通り9時に着岸。今回の船で感心するのは、着岸してから下船までの時間が非常に短いこと。だから、着岸を確かめてキャビンに戻って外出用の身なりや持ち物をもって下船するとたいてい最後になる。船をもやったりするのをどうやっているのかと思う。
 船着き場のあたりを見たり島に降りたりしての第一印象は、ソロヴェツキー島について自分が持っていたとイメージと違うといういことだった。自分は勝手にヴァラアム島のような孤高の島というイメージを描いていたが、船着き場から少し離れたところに修道院の建物が見えるとはいえ、それを別にすればボルガ河畔のごく普通の村の風景がそこにあった。古びた民家もたくさん点在するし、役所か何かのような俗的な大きな建物もいくつも見える。そういう点ではヴァラアムよりもキリーロ・ベロゼルスキーに近いかもしれない。ただ、さすがに遠隔地だけあって、キリーロフのように観光客で混んでいるという感じはないし、土産物店にしても桟橋脇に小さい小屋が1軒あるだけで、あとは修道院まで10分ほど歩いていけば2軒見つかるだけだった。ただ、あとでバスで移動して見て思ったのだが、船着き場あたりだけに村があり、あとは全島樹林なのかもしれない。逆にヴァラアムは、船着き場は急斜面だからそこに村はなく、我々観光客の見えないところに村の生活がある可能性も大いにある。
 午前中は修道院の見学。教会の建物を案内され、その後は建物の内部を。その中に立派なイコノスタスのある礼拝堂があり、実際にミサが行われている様子で、ロシア正教らしい歌声も聞こえた。観光船や観光バスも我々の以外には見なかったので観光客は少ないと思っていたのに、ここだけは人々で立錐の余地もないほどだった。マーミン・シビリャークの船客の中にもここで祝福を受けたいと思った人がいたのかもいれないが、時間に制限のある観光では到底無理だと感じた。その後も院内を見学。修道院は要塞としての役目も果たしたから、銃眼のある壁とかそこに置かれた大砲とかも。ここはクリミア戦争も戦ったという掲示があった。クリミアは黒海につきだした半島だが、遠く離れた白海でも戦争していたとは知らなかった。さらに、島内の運河についての展示、僧が修行のために使ったのかそれとも監獄として使われたのか知らないが、煉瓦作りの暗い小部屋なども見、最後に城壁の中に設けられた博物館を見学。ここには古くからのこの地での生活の様子を示す品々などの他に、1920ー30年代に強制収容所として使われたことに関するコーナーもあった。
 13時昼食だったが、修道院からの帰りが13時に間に合わず遅参。2交代制だから第1スメーナの客に遅刻されるとウェイトレスは大変だろう。心なしか機嫌が悪いようにも思える。普段私がいる第1テーブルは先客が占領していて、私は第3テーブルに案内された。もしかして、相席のご婦人方があの何もしゃべらない日本人は目障りだから他の席へ移せと要求したのかも。夕食にどこに座れと言われるかでわかるというものだ。もっと色の薄い飲み物、サラダ、ボルシチ味のスープ(色が赤くない)、蕎麦のビーフストロガノフ・生野菜添え、チョコレート菓子。あと、珍しく紅茶が出た。隣席の男性が親切な人で、ケチャップを勧めてくれたが、ビーフストロガノフにケチャップでもないから手をつけないでいたら、今度は洋辛子の瓶をよこした。しようがないから、黒パンをもう一切れ取ってそれに辛子を塗ったら「モロヂェッツ!」、ロシア風だと言ってほめてくれた。
 船室は毎日朝食を取っている間にお掃除をしてくれるが、今日は朝が早かったし、9時には全員が船外に出ることがわかっていたから、修道院見学中に部屋の手入れをしてくれた。部屋に帰ってみると、普通のお掃除の他に、バスタオルとフェースタオル(と言っても、私たちが想像する純白や薄いクリーム色のではなく、旧ソ連国鉄型の、日本で言えば雑巾に近い感じのもの)を交換してくれていて、さらにシーツ,枕カバー,毛布カバーも新しくなっていた。乗船した時はシーツやカバー類はベッドの上に無造作に置かれていて自分でセットしろということだったが、私はこの種のものを丁寧にしつらえるのが苦手で、いい加減にかぶって寝ていたので、お掃除のおばさん、見かねたのか、あるいは「日本人て、こういうカバーも使ったことがないのかしら」と思ってか、今度はもうちゃんとセットしてあった。
 午後は2時半からバスでのエクスカーションだったが、2時には下船した。じつはソロヴェツキーの絵はがきを買いたかった。桟橋脇の売店にはもう客がいて、小さな小屋は満員だったから修道院のほうの売店に向かって歩いた。途中、アパートらしい建物の入り口から可愛い子ども3人が出てきて遊んでいるので、写真を撮ろうかと思ったが、レンズを向けると怖がるかもしれないと思ってやめた。で、しばらく修道院のほうに向かって歩いたものの、やはりさっきの子たちを撮ろうと思い直してアパートのほうに戻った。けれど、もう子らの姿はない。「シャッターチャンスは一度しかない。」というのが今日の教訓。また、修道院のほうへ歩いたが、このままだと2時半の出発に間に合わなくなるし、そもそもさきほどの店(小屋)ももう人がいなくなっているだろうと思って桟橋に戻ることに。ところがお店は何と昼食休憩で、入り口に錠がおりている。「チャンスは一度しかない」のだ。
 20人乗りくらいのマイクロバスにほぼ満員の客が乗ってのエクスカーション。実は午後のはオプショナルで、もう一つ内火艇のような小舟で遠出をするというのもあったらしいが、船のマネージャをしているおばさんが、私の意向を尋ねることもなくバスのほうの代金650ルーブルを請求してきて、こちらに決まったという経緯がある。じつは昨晩、その内火艇のほうを選んだあの4人家族が一緒に来ないかと誘ってくれたことがあった。父親が私に明日の午後はどうする予定かと何度も尋ねた。対する私の答えが、これも繰り返し「I don't know.」だったから、先方にしてみたら、こいつ、自分が何をするかも知らないのかと随分不思議だったと思う。でも、偶然そこをマネージャおばさんが通りかかって、たぶん「この人はバスで行くのよ。絶対そのほうがいいから。」とか父親に言った様子で、お父さんは納得した感じだった。その時、まだ私は既に払った650ルーブルのなかみがそういうことだと知らなかったのだけれど。でも、このエクスカーションで正解だったと思う(もう一つには行ってないから、ほんとうはわからないが。)。
 島内の道が舗装されている筈もなく、バスも柔らかいスプリングなど絶対に備えていないアンティークな型のものだったので、このオプショナル・ツアーが終わった時には肩のこりが完全にほぐれているほどよく揺れた。私の前のほうの客の中には座席に座っているのに握り棒をしっかりつかまえている人がいたくらいだ。
 バスはまず植物園へ。これはマカリーという修道院長の時代に造られたものだそうだが、今でも植物園としての営みがあるようで、樹木や草本の前にはその種類を記した比較的新しいプレートが多く置かれていた。ちょっと小高い所からは修道院が遠望できる。じつは植物園に入るとき、正門の写真を撮ろうと思ったのだが、人だかりがあって、帰るときでいいやと思って撮らなかった。ところが、植物園から木道づたいに降りてきれいな湖のそばまで来るとバスがそこで待っていてくれて、正門には戻らずじまい。「シャッターチャンスは一度しかない」のだ。その後、またしばらくバスに揺られて今度は島でいちばん高いという丘へ。頂に教会があり、その屋根は灯台も兼ねる構造になっていた。この丘から麓の樹海や湖、遠く白海の眺めがすばらしい。丘から下るのはさきほどの坂道とは違って、木製の急な階段。収容所時代、ここから囚人を落として殺したという話もあるほどの急斜面を降りたのですぐに麓に着いた。
 島内をバスで移動している間、修道士たちが造ったという湖と湖を結ぶ運河らしいものは一度も見ることができなかった。もしかするともう埋まってしまったのかもしれない。
 17時40分、港に帰着。修道院のほうまで歩く時間の余裕はないので、桟橋脇の小屋を覗いてみるがどの棚にも絵はがきのセットらしいものが見あたらない。可愛い顔をしているけど愛想の無さそうな店番の娘さんに(ロシア全土にわたってどの店でも売り子には愛想がない。その点が日本のモスバーガーとは決定的に違う。)絵はがきのセットはないですよねと遠慮がちに聞くと、ありますよと目立たない所から取り出してくれた。80ルーブル。「チャンスは一度しかないとあきらめてはならない。」が新しい教訓。
 18時に離岸。その後ずっと屋上の甲板にいたが、双眼鏡でなら1時間経って19時になっても修道院の建物がはっきりと見て取れた。もうそんな頃には、それ以外のものはまったく区別がつかなくなっていたから、修道院の建物がいかに際だって大きいかを再認識したものだ。
 19時、夕食。席は元に戻った。ご婦人方、疑ってごめんなさい。ビーツ・ジャガイモ・酢漬けの魚のサラダ、鶏モモ・ポテト添え、パブリカの肉詰め、ケフィール、ウエハース、紅茶。
 21時頃、太陽が水平線近くまで落ちてきたので、夕陽の写真を撮るつもりでデッキに出たら舳先側にもう陸地が近づいている。ベロモルスクだ。白海から運河に入ってしまうのと日没とどちらが早いかという感じだったが日没前に白海を抜ける。ところが運河に入ったらすぐに水門だ。私が元KGBではないかと疑った男性も夕陽の写真を撮っていたけれど、水門を目にしたらそそくさと船室に戻っていった。
 その後、バーに移動してソロフキのビデオの第4部を見る。これはスターリン時代の弾圧を描いたものだったが、聖職者だけが取り上げられ、他の人々についてはまったく触れられていなかった。「正教シリーズ」のビデオなのでしかたないか。見ている間に眠くなって、うとうとしていたら観客がみな一斉に立ってビデオが終わったのを知った。
 上映中もその後も頻繁に水門を通過。

8)白海・バルト水路 (8月20日)
 旅も折り返し点を過ぎて後半だ。夜中に何度も船が止まっているようだったので、おそらく幾度も水門を通過したのだろう。目が覚めた6時前も船は水門の中にいた。まだ下りではなく上っている。その後も7時、8時と1時間おきくらいに水門にはいる。1時間おきというと次の水門まで1時間もあった印象だがそうではない。2連の水門ならそれを通過するのに20分や30分はかかるから、結局水門をでたらほどなく次の水門という印象になるのだ。両岸は相変わらず樹林。天候は晴れ。空気がすがすがしい。
 8時半、朝食。白パン、バター、チーズ、挽き肉のカツレツ・温野菜添え、ちょっと甘めのカーシャ、コーヒー。
 今日はどこにも寄港しない移動日で、しかも通る運河は撮影禁止。いったい何をしたらいいのかという感じ。しかも、こういう日に限ってほぼ快晴の上天気だ。まったく !
 午前10時頃、例の木製の擁壁のある水門へ。HYUNDAIのトラックこそいなかったが、ショベルカーはあの時のままの位置と向きだった。お盆休みでも取っていたのかもしれない。この木製の擁壁、写真に取りたいけれど、撮影禁止だ。そこで一計を案じて、船室に引っ込み、そこでカメラをファインダーで覗く撮り方でなく、ライブビューにしてモニター画面を上向きにして(カメラの位置を高くしてモニターを下向きにするという撮り方は時々見るけれど、二眼レフのように下を見ながら撮影するというのはあまり見ないだろう。)キャビンの窓から2枚ほど撮った。外のデッキは人が歩くから2枚が限度だったけれど、うまく撮れているだろうか。
 11時頃、このあいだゼリョーナヤ・アスタノフカで立ち寄ったナドヴォイツィの町が見える。これは船客の中で、この町で育って今はペトロザボーツクにいるという女性が教えてくれた。このあいだはほんとうに寒村というイメージだったが、あの船着き場より下流のところで見るとムルマンスクに向かう北方鉄道の駅もあり、それなりのたたずまいの村だ。同じ女性が教えてくれたのだが、アルミの精錬工場もあり、実際川上の船着き場ではアルミの地金らしい荷を船に載せる作業をしていた。ここの水門は、グリーン・ストップの時にバスで通過しながら見たものだが、そういうわけで自動車の走る道路が横切っていて、やはり船が通過するときは運河上の道路を遮断して船を通すしくみだった。日中だったので、数台の車が列になって船が通過し終わるのを待っていた。もう一つ、この水門(やはり2連)の下段は、木造どころか鋼鉄製だった。コンクリートだと濡れが残るので、どの高さまで水面が上がるのかすぐに見当がつくけれど、鋼鉄製だとそれがまったくわからない。ただ、鋼鉄製だと船体がぶつかってもダメージが多少は小さいだろうし、これからはそうなっていくのかもしれない。
 ナドヴォイツィを通り過ぎると、地図を見てもわかる通り広い湖面に出て、その中を船はひたすら南下する。晴れは晴れのままだが、雲の量はずっと増えてきて快晴とは言いがたくなってきている。風は冷たいが、デッキで浴びる日光はもちろん暑い。
 13時、昼食。色の殆どない飲み物、キャベツの千切りとオリーブの実にマヨネーズというシンプルなサラダ、ボルシチ、小さな円錐形のパン(やや甘い)、牛肉とジャガイモの壺焼き、マリーナの実入りジャムを添えたアイスクリーム。やはり同席のご婦人は壺焼きのなかみをスープの受け皿だった大皿に広げているので、スプーンで移す仕草をしながら「これはこうやって食べるものですか。」と聞いた(もちろん日本語で)ところ、ダー、熱いからという返事だったので、今回は私もそうやって食べた。たしかに、さらに移して広げるだけでずいぶん食べやすい温度になる。
 キャビンで一息入れて午後3時頃、屋上のデッキに出る。作業員2人が煙突の塗装をしていた。白い煙突に描かれた赤い線が真新しく映える。しかし、こういう緊急とも思えない作業を「営業」中にするのかという気も。赤いペンキ入りのバケツが床に置かれていて、客が躓いたりしないのかなどとよけいな心配もする。面白かったのは作業が終わった後。煙突というのは煙の通り道とばかり思っていたが、ほんとうの煙突(排気管)は白く太い煙突の中に細いのが2本。あとの空間はべつだん煙突ではなく、今まで気づかなかったが、側面に扉があって、その中は物置になっているらしく、作業で使った脚立のような梯子などをそこにしまっていた。煙突の中に物置があるとは初めて知った。
 天気が良いので日焼けをするかと思うほど暑いが、風はやはり冷たい。でも、デッキチェアーに身を沈めて何も考えずにいるという幸せ。これのために河船の旅に来たようなものだ。ずっと水門はなく、広い湖面を船は走る。ただ、湖の形は相当複雑なようで、岸が複雑に入り組んでいるだけでなく、中島もかなりの数がある。ただ、そういう島も含めて陸地の景色は単調で、もっぱら樹林だけだ。行けども行けども同じような風景で、同じ場所を循環しているような気さえしてくる。
 16時、ほぼ4時間ぶりの水門。依然としてここも上り。びっくりしたのは、ここの水門の壁の上には地元の人たちが物売りに来ていたこと。鉄道駅や船着き場での物売りはもちろん見たことがあるけれど、水門で物売りを見たのは今回が初めてだ。売っているのは、薫製の魚、木の実、野の花、キノコなど。どれも、周囲の自然から取ってきたものだ。いくら水門の昇降機に船をもやっていると言っても舷側と擁壁の上ではちょっと距離があるので、品物や現金の受け渡しも容易ではない。どうするのかと見ていると、直接届くときは普通にしているけれど、そうでないときは竿の先にポリバケツを吊したのでやり取りしたり、木製のスコップ状の道具を使ったりしている。この平たいスコップ状のものにルーブル札を載せたりしたら風で飛ばされてしまわないのかと心配になる。珍しい光景だからもちろん写真を撮りたかったが、商売をしている人の背後に、ここでも小銃を持った警備兵が見張っているのでどうにもならない。ほんとうはその警備兵も撮影対象にしたいのだが、そんなことをしたらナドヴォイツィの刑務所ぐらいでは済まないかもしれないし。駅や船着き場での商売では列車や船が出発するときが商いの終わり時だが、ここではそうはいかない。営業中に船の高さがどんどん変わるから、手が届くなったときが閉店時刻ということになる。商売をしていた人たちが引き上げる時、なんと小銃を背負った警備兵の手に紙で包んだ薫製の魚があった。あれは賄賂か。
 午後5時前に次の水門。ここは2連で、まだ上り。下段に物売りの人がいたが、さきほどよりずっと数が少ない。おもしろかったのは、犬が1匹、売り手と同じように前足を擁壁のコンクリートの手すり状の台に置いていたことだ。まさか犬が商売をしているわけではなく、乗客が投げてよこすパンのかけらを期待しているらしい。これも写真に撮ったら面白い図だと思うのだが、なにしろ警備兵が2人もいる。職務に忠実で、船が上段に移ったらちゃんと上段に移動してきた。
 その後は、狭い水路も通ったけれど、やはり湖のような広い水面も通って、午後6時半頃次の水門。さきほどの水門の救命用浮き輪にシュリュースNo.8の文字があったので、モスクワ側から数えているのならここは7番ということになるが、どこにもそんなことは書いてない。だいたいこの白海・バルト運河は秘密主義で、水門に地名の表記もないし、番号さえも欠いていたり、挙げ句は警備兵まで配置して何だというのだ。ここで初めて下りになる。もしかすると、このあいだの夜〜未明に見た水門群の最終のかもしれない。いずれにしても8番と7番(?)の間が分水嶺ということになるが、分水嶺というとごく僅かの水が控えめにかろうじて流れている印象なのに、さきほどの湖面は何なのだ。あの水はいったいどこから流れ込んでいるのかと思う。
 7番(?)は2連ではないが、それを出るとすぐに前方に6番(?)が見え、19時頃入る。ここも2連。
 19時、夕食。この船はいつまでも第1スメーナの食事が先で、途中での交代がない。第2スメーナの夕食はたいてい夜8時だし、朝食だってこちらが9時の時は10時になるわけだから大変だと思うのに、どうして半ばで入れ替えないのだろうか。もっとも、明日は8時にペトロザボーツクの観光のため、第1スメーナは6時45分朝食ということだから、明朝だけは第2のほうがよかったかもしれない。柄付きの小さな金属製容器に入ったタマネギと牛肉のザクースカ(グラタンのような味付け)、パン粉ではなく細く切ったパンが衣になっている挽き肉のフライ・ライス添え、茄子と肉の炒め物、ケフィール、パイ皮のピロシキ、コーヒー。
 20時頃、5番(?)の水門。ここも2連。ところが、ちょっとしたアクシデント発生。下段の水門に入ったところで、上の門扉が完全には閉まらなかったのだ。閉まらないと言っても私の実家の雨戸ならその程度は全然問題にしないという程度の隙間が開いているのが船からもたしかに見えたのだが、相手が水だからその程度の隙間でも大問題なのだろう。これが解決するまでに時間を要し、その間に下の4番水門を上がってくる我々と同型の客船の上がり方がやけに遅い。おそらくあちら側でも何かトラブルがあったのではないか。そういうわけで、4番に入ったのは殆ど日没時刻の9時40分だった。この4番上段からの下方の眺めが素晴らしく、ほんとうに写真にしたかった。4番の下にはごく短い水路の向こうに3番の水門があり、その水門のための水色の建家が4つくらい重なって見え、その向こうにはちょっとした林、さらにその先に木造の教会の尖塔があり、そしてその先には広い湖水が広がっているのだ。もしかするとあの湖水はオネガの北端かもしれない。

9)ペトロザボーツク (8月21日)
 5時半頃目が覚める。船は相当の高速で航行しているらしく、エンジンからの振動がいつもとは違う。窓の外を見るともちろんオネガ湖上をとばしている。そんなに大きな波があるようには見えないが、白海よりは船が揺れる感じ。船が速いせいかもしれない。天候は快晴。船内放送によると気温は10℃。
 起きた時から軽い腹痛を覚える。いつもは食後なのを起床後にトイレにいったが改善せず、正露丸(かつては征露丸だったそうだ。戦後になってロシアが正しくなったわけだ。)3粒を服用。朝食をパスすることも考えたが、同席のご婦人や食堂の係員が心配するだろうしと思って食べにいく。6時45分、朝食。白パン、バター、サラミ、野菜のはさみ揚げ・パスタ添え、カッテージチーズのオムレツ風、コーヒー。
 食後にもトイレに行ったが、症状が改善するどころかますますひどく、8時からの市内観光をどうするか真剣に考えた。船が着岸して下船の指示があってもまだ迷って、受付で事情を話そうかとも考えたが「腹が痛いので休む」なんて当然ロシア語で言えるわけなく、そうこうしているうちに受付にいたジェジュールナヤが部屋の鍵をよこせと手を出すものだから、しかたなく鍵を預けて船外へ。桟橋の入り口に見つけたベンチでちょっと休んだが、すぐにガイドが案内を始め、ピョオートル1世像のほうへ。しかし、そこまで行くにもみんなから遅れるし、これはもうとてもダメだと思って引き返す。船までたどりつけそうになく、着いてもキャビンは掃除中だから、さきほどのベンチで休む。寒いけど朝日が直接当たるので、その分ラク。小1時間ほどそこで休んだら、幾分よくなったので一人で町を歩くことに。ガイドについていけばちゃんと見所を押さえられたはずだが、一人ではどうしようもない。それで、湖岸のプロムナードをずっと歩いた。20年前後前に来たときにも見た観覧車がそのまま今でもあるのが嬉しい。この公園で興味をひいたものが二つある。一つは、ここかしこにいろいろなオブジェが置かれているのだが、これがロシアでは珍しく抽象的なものが多く、それをずっと河岸公園の端まで見て歩くだけでも面白かった。もう一つは、このプロムナードとちょっと坂上の通りとの間の帯状の場所が森林公園のようになっているのだが、上手な設計でとてもそんな狭い地帯ではなく深い森に見えるのだ。船に戻ったのが11時10分前。ところが、予定表が赤字で書き換えられていて11時発の予定が11時30分発。そうと知っていたら繁華街にも足を伸ばしたのにと思ったが後の祭り。でも、船は11時20分に出航した。一貫して老眼鏡を外して行動しているものだから、20分というのを30分に読み違えていたのだ。恐ろしいことだ。
 船着き場の土産店でペトロザヴォーツクの絵はがきを買う。60ルーブル。その絵はがきにある場所には、今日私は殆ど行ってない。ガイドについていかなかった報いだ。そもそもこれだけの大都会に教会がないわけないが、私は一つも見なかった。でも、港から離れて行く船上からカメラの望遠レンズで覗いたら青色や金色のキューポラが見えたので、違った向きに歩けば教会にも行き着けたことがわかた。
 キャビンでちょっと横になっていたら腹の調子も気にならないくらいになってきた。13時の昼食時には、食べるかやめるか迷うことはなかった。無色に近い飲み物、人参のサラダ、サリャンカ、ちょっと厚切りの茹で肉・ポテト添え、リンゴ。この頃になると船の揺れが大きくなってきた。天候は快晴のまま。念のため食後に征露丸を3粒。
 午後2時くらいからずっとデッキに出ていた。屋上が立ち入り禁止になっていたのは波が荒いからだと最初は思ったのだが、オネガ湖を抜けても禁止は解除にならず、屋上への階段を登ろうとしたらペンキの匂いがしたので、本当の理由がわかった。そう言えば、ペトロザボーツクで船に戻った時、作業員が上の甲板でペンキ塗りの作業をしていた。そのペイントが乾かないから立ち入らせないのだ。客よりも自分たちの作業を優先させているのだ。それで、2階のデッキの船首側に夕食時までずっといた。快晴は変わらず、日焼けしそうな感じ。最初は波が高く、船はちょっと揺れたけれど、湖の南半分ではそうでもなくなった。右舷側はカレリアの土地がずっと見えていたけれど、それ以外の方角には陸らしいものは見え。午後3時になって、双眼鏡を使えば南方に陸地が認められ、3時半には肉眼でも見えるようになった。キジに行くときは僚船が少し前を走っていたが、今回は湖上にまったく船を見ない。オネガの出口で2,3艘の船とすれ違ったのを別にすれば、湖上では1艘とすれ違っただけ。客船となると、キジで分かれてからは、昨夕4番水門ですれ違った1艘を見たのみ。ここまで来ればペテルブルク航路の船と出会いそうなものだが、不思議。オネガを抜けてボルガ・バルト水路に入ったのは午後5時頃。波はなくなるし、どういうわけか(速度制限があるのかもしれない)船は速度を極端に落としてしずしず進む感じになる。
 デッキにいたとき、クルーの一人が係留用のロープを巻き取りに来た(きっと乾かしていたのだ)ので、作業中の写真を撮っていいかと聞いたら断られた。でも、それで悪いと思ったのか作業を終えてから近づいてきて、少し話しをしていった。夏にこの仕事をして、冬はどうするのかと聞いたら、船の修理や手入れの仕事があって、春になったらまた航行するための準備をするのだと言う。エニセイの河船の船員のような季節労働者ではないのだ。
 午後6時頃、最初の水門があるヴィテグラを通過。この水門を抜けた上の広い水面に油送船などが5,6層も投錨して、自動車で言えばモータープールのような感じだったが、あの場所は何なのだろう。
 19時、夕食。生の胡瓜と胡瓜のピクルスとグリーンピースとレバーのサラダ、茹でた魚の切り身に香草を添えた料理・マッシュポテト添え、ブリヌィ・ブルーベリージャム載せ、紅茶。食後に征露丸3粒。食事が終わった頃、次の水門に入る。ここの水門も前のヴィテグラの水門も、船の進入口の脇に手入れの行き届いた花壇の花が色とりどりに咲そろっていて、小銃を持った警備兵なんかがいる白海・バルト運河の水門とはえらい違いだと思った。
 21時過ぎ、隣室のサロンでバヤンの音がするので、行ってみた。数人が集まって1時間ほど歌っていたのをそばでずっと聞く。歌われている歌の中にはソ連時代のものという雰囲気のものがいくつもあったが、あの年代の人たちは人生のかなりの部分それを歌って生きてきたわけだから、特に違和感はないのだと思う。あれがいい、これがいいと議論しながら歌を選んでいくのだから、日本で言うとカラオケ(実際、これがおひらきになった後、船首側のバーに移ってカラオケに興じた男性もいた。)なのだろうが、機械でなくバヤンの生演奏があるのと、一人や二人でなくみんなで歌うという点が大きく違う。ちなみにロシア語のカラオケはオのところにアクセントがあるらしい。しかもちゃんと対格だか前置格だかに変化していた。
 サロンから出て船尾側のデッキに行ってみたら、日没からしばらく後で、西の空に明るさがわずかに残り、水面に投錨している4艘ほどの船のあちこちについている灯が薄明るい湖面上に点灯していて幻想的できれいな風景があった。ただ、この時刻でも星は見えなかった。まだ、星が見えるには空が明るすぎるのだ。

10)ベロゼルスク (8月22日)
 船がソロフキに着いた日だったかその前日だったか覚えてないが、キャビン内で何かが焦げているのではと思ったことがあった。電気関係では電池の充電器を使っているだけで、そこには異変がなく何だろうと思ったら、室内の暖房機に蒸気が送られて暖房がされていた。その後は、毎日暖房が効いている。今朝も未明にスチーム管が膨張する音がして一度目が覚めた。この船はボロ船だから、エンジンが今どういう振動をしているかも上階のこの船室にダイレクトに伝わるし、それも半端な振動ではないし、サロンのバヤンの音も直接届くし、スチーム管の変形音もその一つだ。いちばんの問題はトイレの便器への給水が鉄管でなく、蛇口と便器の間を細いビニール・パイプを通してされていることだ。太さがないので、ベルヌィの定理によって、流水圧が出ず、あとはご想像の通りのことになって、毎朝オブジェクトの処理に特殊な努力を要求される。ただ、いいところもあって、インテリアがアンティークなのだ。サロンの内装もすごく古風ですてきだし、キャビンの主照明も蛍光灯なんかではなく、昔(50年も前の話だが)国鉄の急行列車の室内照明に使われたような器具が使われいて、それはそれで雰囲気を出している。キャビンの壁にはホテルのそれのように絵が飾ってあって、うちの部屋のはウグリチの風景だ。廊下の照明もステンドグラス風の飾りがしてあってちょっと生意気。
 7時15分、目覚ましの船内放送。すでにベロゼルスルに接岸している。昔はこういうことが珍しくなかったが、近頃では入港予定時刻よりかなり前に予め接岸しているというのは見なくなった。天候は晴れだが、雲がかなり多い。気温は13℃とのこと。
 7時45分、朝食。白パン、バター、チーズ、小さなメンチカツ(乱切りの人参とパブリカを溶けるチーズに載せた飾り付き)・ライス添え、カーシャ、コーヒー。
 市内観光は9時からだと思っていたのに、8時半頃、もうガイドが来ているから第一スメーナの乗客は船外に出るようにという船内放送。ロシアではガイドに客が都合を合わせるのか。日本ではガイドが客に合わせるのだけれど。
 でも、ここの女性のガイドさん、話し方が少しゆっくりで聞きやすかった。(もちろん話されている内容は100%わかってませんけど。)最初はクレムリンへ。モスクワやノブゴロドのような城壁があるわけではないが、コストロマで見たような土塁がコストロマよりははっきりした形でちゃんと残っている。その中にもちろん教会がある。このクレムリンの正面入り口にベロゼルスク千百何十年という飾り付けがあった。町ができたのが西暦その年というのではなく、町ができてからそれだけ経っているという意味だ。そうすると、この町ができたのは9世紀半ば、キエフ・ルーシの成立より前ということになる。それだけ誇り高いわけで、ガイド氏との別れ際に、この村は以前は何という名前で呼ばれていたのか尋ねたら、答えてくれる前に「村ではありません。町です。」と言われてしまった。
 この市内観光が始まった時に気づいたのだが、私だけでなく他の船客の幾人もが村(失礼、町でした。)のごく何でもない風景をたくさん写真に撮っている。ということは、モスクワあたりに住んでいるロシア人にとって、ついこの間まで何でもなかった風景が珍しいものになっているということではないのか。ちょうど、東京に住んでいる人が初めて武石村に来たら見るもの聞くもの全部が新鮮なのと同じように。でも、あなたのお爺さんやお婆さんはその武石村の人たちがしているのと同じ生活をしていたんですけどね。
 クレムリンの見学が終わったら解散・自由行動となり、12時までに船に帰ればいいことに。教会を2ヶ所、子ども用の遊具のたくさんある公園、人がいなくてさびしげなルィノック、戦没者慰霊碑、それに港に通じる細い水路などを見て12時5分前に船に戻った。慰霊碑には戦没した人の名前が多数並んでいる点は他の町で見るのと同じだが、ここのはいくつもの名前のところに花が飾ってあること。小さな町だから縁者がそうしているのだろうが、花が挿せるような設計をしてあるというのにも感心した。船に帰る途中、水路にかかる橋があって、それを渡って水路の向こう岸伝いに港に戻るかどうか迷うことがあった。結局渡らずに湖から遠い側の道を歩いたのだが、途中に何かの碑があって湖側を歩けばそれが何のモニュメントかわかったかもしれず、ちょっと悔やんだりもした。ところが、あとでわかったのだが、湖側の通路は途中で切れていて船着き場までは来られないようになっていた。あちらを選んだら遅刻も遅刻、大遅刻になるところであった。船が停泊している場所のすぐそばにも湖側の岸に渡るための橋があるが、この橋が架かったままでは船は湖に出ることができない。ペテルブルクのネヴァ川の橋みたいに跳ね上がることはないだろうから、このあいだ見た水門を横切っている道路みたいに回転するかと考えたのだが、実際はそれも外れだった。実は橋と思っていたものに橋脚はなく、船だった。だから我々の船が出入港するときにはその橋船が横に移動して水路をあけるやり方だった。
 船が出航してまもなく第一スメーナはブリッジ見学。これもまぁ全部ロシア語なので、説明は一切わからず。液晶モニターに船の位置だかが表示される新鋭の機械も使われているらしかったが、机の上に置かれた電卓はえらく古いもので、緑色の蛍光管で表示させるように見えた。あと、前の窓枠に木製の聖教の十字架が取り付けられているのと、後ろの壁に印刷されたイコンが1枚貼られているところが日本の船と違うと思ったが、もしかして日本の船のブリッジにも神棚なんかあるのかもしれない。そうなると彼我を問わず船の無事は神頼みということか。ブリッジ見学を終える頃、船はベーロエ湖を抜け、リビンスク貯水池へ向かう水路に入った。あの壊れた教会がベーロエ湖の出入り口の目印だからすぐにわかる。
 ブリッジ見学があるくらいだから、屋上への立ち入り禁止は解かれていて、屋上に行ってみたら、床の鉄板が青ペンキできれいに塗り直されていた。ただ、人は立ち入り禁止にできても、カモメには通用しないようで、早くもカモメの糞のあとがついていたけど。
 13時、昼食。いつもの飲み物(もう色がついたのは幾日も出されてない。色素が在庫切れか。)、千切りキャベツと人参のサラダ(オイルと酢の味付けだと思うが甘みがあって美味)、肉団子の入ったスープ、豚肉のステーキ・ポテト添え、キュウイフルーツ(私が取ったのは一部腐っていたけど、果物はそのくらいのほうが美味しい。もちろん腐っていたところも含めて全部食べた。)
 食後もデッキへ。全天が雲で覆われ、風が冷たい。15時より少し前、あの4番水門以来初めて客船とすれ違う。最も大きい5層の船だった。そのほとんど直後にゴリツィを通過。やはり5層の客船1艘が停泊していた。
 16時頃、雲が切れて陽があたるようになり、暖かくなったので、屋上のデッキチェアに身を沈めて時を過ごす。川と言うにはちょっと広い水面を船は進む。両岸は、やはり樹林が多く、その合間に原っぱが見えるけれど、これまでと違うのは人家の集まりも時々見られること。ただ、これが古くからあった村落かというとそうでもないようで、どうも別荘のようだ。伝統的なロシアの村落と違うのは建物がカラフルなこと、それから集落に教会が見つからないことだ。中には何百坪もあると思われる敷地をフェンスで囲んだり、館と呼べるのではないかと思えるほど立派なのまであり、「ダーチャ」という言葉から我々が連想する掘っ立て小屋とはかなり違う。はじめはそういう集落の写真を撮っていたが、だんだん興が冷めてきた。あんなのがどんどん増殖すれば、やがては階級的憎悪を生み出して、再び社会主義へということになるのではないかとさえ思う。
 18時半頃、久しぶりの水門。シェクスナの町らしい。ペトロザヴォーツクを離れてからは最大の都市に見える。
 19時、夕食。胡瓜とコーンと蟹蒲鉾のサラダ・マヨネーズ味、魚のフライ・マッシュポテト添え、じゃがいものピロシキ、紅茶。デッキにいたとき、パンを焼く甘い匂いがしていたが、このピロシキを焼いていたのだ。
 その後天候は回復して夕陽がまぶしい。21時頃、日没。緯度が下がってきたので日没が早くなったかもしれない。それで船室にひっこんでいたら、例の歌のグループの女性がドアをノックしてサロンに来るように言うので、その後しばらくサロンに。その間にチェレポヴェツの町を通りすぎた様子。ここは先ほどのシェクスナどころではなく、はるかに大都会の感じで、岸に沿って水銀灯なナトリウム灯がずっと連なり、この時間にクレーンが動いているところもあったほどだ。
 歌は22時過ぎにおひらきになった。その頃になってようやく星がポツポツ見え始めたけれど、西の空がまだ薄明るく、漆黒の夜というわけにはいかない。23時半頃にもう一度屋上に行ってみたところ、今度は星見ができそうなほど星が出ていた。デッキチェアーを水平近くにして、そこに仰向けになって空を見る。天頂を横切るように天の川。都会の子どもたちに見せたいような空だ。星の数がとても多いので、どれが大熊座でどれが北極星なのかわからない。真夜中にこんなことをするのは私だけだと思ったがさにあらず。若いカップル1組が現れて、甲板に横になっている物体は何だという様子だったが、しばらく星を見て下へ降りて行った。私も長居をすると冷えてきそうなので、キャビンに戻る。就寝がいつになく遅く24時。


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