ソロフキへ  (2009)


11)ソーセンキ (8月23日)
 起床は午前7時半。すぐにデッキに出てみる。船は既にリビンスク貯水池を抜けていてボルガを航行中。昨日のボルガ・バルト水路よりもこちらのほうが川幅が狭く見える。天候は全天曇りどころか霧雨のような微妙な雨が降っている。寒い。両岸には村落だけでなく、テントを張ったりしてキャンプをしている様子も見られ、そういう人たちなのだろうか、多数のゴムボートや一、二の木製のボートが川面に浮かんで釣りをしている。
 8時過ぎ、ウグリチに接近。8時半、朝食。白パン、バター、ソーセージ、挽き肉のフライ・パスタ添え、カーシャ、コーヒー。
 朝食後、1階のデッキに出てみる。この船で1階のデッキは初めて。ただでさえ小さな船なのに、船央の機関室を吹き抜けにしてあるので、1階中央部のキャビンは船縁まで突出していて、そのためデッキが船を全周できるようになっていない。そういうわけで、1階のデッキは乗員が作業具を置く程度のごく狭い区画になっている。でも、1階だから水面がすぐそばにあり、上のデッキとはまた違った感じ。ちょうどこの頃、船はウグリチの水門を抜けた後で、左舷後方に水力発電所の建物が見えた。私がそうしていると、もう一人男性が現れ、煙草に火を点けた。そして、おまえのいるほうが風下だから場所をかわれと副流煙のことを気遣ってくれる。ここは喫煙所でもあったのだ。この男、擦ったマッチや煙草の灰を川に平気で捨てる。ボルガは巨大な灰皿か。これだけ世界中でエコが言われているのに、ロシアの人は川や運河に平気でゴミを捨てる。船のマネージャだって、豆を食べるのに剥いて残った鞘を平気で船外へポイだ。不法投棄禁止条例なんてものはこの国にはないのか。
 食後もデッキへ。ただ、風が冷たいので屋上にあがる気は起きない。2階の船首部に。10時半頃、前方にカリャージンの基部が水に浸されている教会が見える。私は、これまで間違った思いこみをしていて、ドゥブナとウグリチは比較的近く、カリャージンはウグリチより下流、もしかするとムィシュキンよりも下流だと思っていたから、今回の船旅ではカリャージンは往きも帰りも夜にぶつかって見ることができなかったと考えていた。でも、カリャージンはウグリチよりも上流なのだ。もちろん船内放送で案内があって乗客がキャビンから出てくる。写真を撮っていたら、上流側からのアングルがいいのだと教えてくれた人がいた。ところが、教会よりも上流側に船が進んだところで連写しようとしたら電池切れ。このカメラの電池にはほんとうに泣かされる。長く使いすぎているのかもしれない。
 11時を過ぎると雲の切れ目からほんの少し青空がのぞくようになり、陽もあたりはじめて暖かくなる。屋上にあがっても寒くないので、屋上の椅子にすわって過ごす。途中で4層の客船1艘とすれ違う。その船名を見て驚いた。「オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィア」というのだ。こんな名前のが今でも堂々と航行しているのかと。往路のゴリツィで、「ユーリー・アンドロポフ」という船がいるのを見て驚いたがその比ではない。Y・アンドロポフなんて言われても今のロシアの子どもは誰のことだか知らないだろうし、極東船舶会社が日本海航路に使っていた「K・チェルネンコ」はソ連崩壊後早々と「ルーシ」という船名に変えられたのに、いったいどういう基準になっているのかと思う。ま、モスクワを発つ時には河港の沖合に「レーニン」という船がいたから驚くに当たらないと言えるかもしれないが、それにしても October Revolution とは...。
 12時半頃船内放送があり、第一スメーナは昼食だからレストランに来いと言っている。昼食は13時だと思っていたから掲示を確かめに行こうとしたらマネージャ氏とちょうどすれ違い、食事だと言われた。食事後に掲示を見たら、13時40分から15時までソーセンキという所に臨時停泊することになっていて、そのために昼食が繰り上がったらしい。昼食は、薄い色の飲み物(久しぶりに色付き)、ビーツのサラダ、香草のスープ(具がなくてブイヨンみたいな感じ)、厚切りレバーのステーキ・ポテト添え、オレンジ。何というのか忘れたが、食パンの焼いたのを小さく賽子状に切ったのがテーブルにあるのが目に入らなかった。同席のご婦人がそれをスープに入れるのだと教えてくれた。ご本人はかなり大量にスープに入れたばかりか、スープを飲み終わった後でもさらに手を出してそれだけをポリポリと召し上がっていた。そういうものなのか。
 13時40分からドゥブナの手前、ソーセンキでのゼリョーナヤ・アフタノフカ。考えたら、今、日本は総選挙のまっただ中か(関係ないですね)。河畔に赤松と思われる樹の林が続く場所。ただ、ひどく混んだ林ではないので、木漏れ日がちょうど良い加減で地面にまで届く。シーシキンの森の絵よりももう少し明るい雰囲気。林の先には野原もある。地面には夥しい数の松ポックリが落ちていて、実生の若い松が様々な大きさでいたるところに生えている。川べりの松の木の向こうはもちろんボルガ。いい所だ。キャンプ地でもあるようで、テントがいく張りかある。ただ、問題なのはゴミが始末されてないことで、所々にゴミの山がある。ロシアは国土が大きいから人々はどこにでも何でも捨てられると思っているらしいが、今や地球にとってそれが問題なのだ。残り時間あと20分という時刻に船着き場までもどったのだが、ある女性の船客が私が歩いたのと反対側に景色の良いところがあるから行ってみるようにと言う。時間を気にしながら行こうとしたけれど、途中ですれ違った男性の船客がもう時間だと腕時計を指しながら言ってくれたので、結局そちらはあきらめた。はじめからそっち側へ行っていればよかったのだが、まぁそれは仕方ないというものだ。
 15時に船が出てまもなく、私が船首部のデッキにいたところ、そこへあの4人家族の男の子と女の子、それに父親と2人で来ているらしい男の子が私のところに来て、かわいい贈り物をくれた。ごく小さなブリキのバケツにいっぱいの造花、それに白樺にマグネットを付けたゴリツィとキリーロフの記念品。その前に私があげたものへのお返しなのだが、あげたのは絵はがきを2枚ずつと折り鶴3羽、それに小さな折り紙用の紙束だから、これでは完全に海老鯛だ。でも、もちろんありがたくいただく。女の子は13歳でマーシャ、弟はボーリャ、別家族の男の子はニキータというそうだ。男の子2人は小学生ぐらい、それもボーリャは低学年に見えるのに3人とも英語を話す。私は英語もロシア語もダメだと言ったら、ニキータがそれじゃドイツ語を話すかと聞いてきた。もしかすると彼は独語も話せるのかもしれない。(翌日本人に直接聞いたら話すと答えた。)
 ゼリョーナヤ・アフタノカの頃から天候は完全に回復し、気温も高くなって、もう上着が要らない。昨日までにかなり日焼けしてしまったが、今日の午後でさらに進んだはず。16時頃、不思議な場所に停泊。何だと思ったらゴミ置き場。でもじつは風景に見覚えがあって、おそらく2年前のクルーズの際にもトヴェリに着く前に寄ったのが同じここではないかと思う。ゴミを捨てにいくのは船員で、それをみているゴミ置き場の係員は何も手伝わない。こういう点が日本とは違うなぁと思う。ゴミ袋は日本にもある黒いビニール袋で大きさも日本の市販のものと同じくらい。それで運んだゴミが10袋ぐらいだったから、ずいぶん少ないと思ったものだ。もしかして、これ以前にどこかで処理してきたのか。給水もする様子がなく、排水の処理も行わず...と思っているうちにハッとした。毎日生じるはずの汚水はいったいどうしているのか。まさか....ではないでしょうね。そこで釣った魚を食べている人がいるんですから。そんなことを考えているうちに妄想が広がって、飛行機はどうしているのだろうかと。よもや空中散布ではないと思うけれど。
 このあたりは集落も小規模ながら頻繁に通過するが、そのうちのかなりがダーチャ群。瀟洒なのも少なくない。他方、川面にはかなり値段の高そうな個人所有らしいクルーザーややはり小ぎれいなヨットなども時々見る。ソ連崩壊から20年足らずで、リッチな人たちは無茶苦茶お金持ちになったというわけだ。ソ連が崩壊して市場経済化した1990年代と言えば西側では新自由主義全盛期で、弱肉強食で勝ち組・負け組が峻別されていくのは当然という風潮だったとのが考えようによってはロシアにとって余計に不幸だった気がする。市場経済(=資本主義)というのはそういうものだと人々に思わせた可能性があるから。
 16時半頃、キムリーの町を通過。17時半頃、ドゥブナの町の前を通り、モスクワ運河に入る水門に。白海・バルト運河の水門は船1艘がやっとという大きさだったが、ボルガ・バルト運河のそれは幅は広くないものの、長さがあって船を2艘縦列にして一度に上げ下げしてしまうことができた。ここのようなボルガ河の水門になると、幅も十分にあって小型の船なら2艘横並びにもできる。実際、この時、我々のマーミン・シビリャークの他にそれよりひとまわり大きいコスモナーフト・ガガーリンとそれと同じ大きさのボロジノという2艘も一度に水門に入って一緒に上げてもらった。3艘一緒というのがおもしろかったのか、船客の老婦人が私のところに近づいてきて3艘一緒の写真を撮れという。試しに撮ってみて、モニター画面を見せてこれでいいかというと、いやもっとこっちへ行って3艘だということがわかるようにしなさいと。ロシアのバーブシカは今も健在だ。水門を出てレーニン像の前で左に転回したのが18時半くらいだったか。
 ドゥブナあたりのモスクワ運河は周囲よりも高いところを走っていることに気づいた。もし、運河を形成している堤防が1ヶ所でも壊れたらそこから水は周囲に抜けていくことになる。鉄道なら盛り土の上にレールを敷くというのは珍しくないが、運河がそうなっているのは知らなかった。往路では気づかなかったが、堤防の木々の中には葉の色がすっかり変わっているのがいくらでもあり、よく耳をすますと秋の虫の声が両岸から聞こえてくる。
 19時、夕食。2部制だからカピタンスキー・ウージンというわけにはいかないが、やはりちょっと特別。布製のナフキンが用意され、初日にあったあのポットを暖める蝋燭も。林檎ジュースのような色の葡萄のジュース、イクラのカナッペ・アンチョビ・鮭の薫製のザクースカ、おそらく蝶鮫と思われる魚の煮こごり、甘い果物系のソースのかかった豚のソテー・ポテト添え、パイ皮のパン・ブルーベリージャム入り、紅茶。
 20時半頃、デッキに行くつもりでカメラを持ってキャビンを出たらバヤン引きの男性に遭って、21時からの歌の会に出ようと強引に誘われ、後部のバーへ。なぜこんな強引なのかは集まりが始まってからわかった。会のはじめに、マネージャの女性が、このクルーズで最もアクティブだったツーリストを表彰すると言って、私の名前を言ったのだ。たしかに、真夜中に星見をしていたり、寄港地ではいつも出港ギリギリの時刻に最後になって帰って来ていたりしたから、アクティブと言われればそうかもしれないと思って、ありがたく頂戴した。ガラスの付いた木製の立派な額に入っていて、壊さないように日本に持ち帰るのが大変なくらいのものだ。
 会が歌からダンスに変わる頃抜け出した。22時を少し過ぎていたように思う。23時頃、また星を見に屋上へ。昨夜よりも見える星数が少なかったので、今度は北斗七星がはっきりわかり、北極星も見当がついた。一度、ものすごく大きな流れ星がほぼ天頂に現れてすぐに消えた。運河に平行して鉄道があるようで、郊外電車が予想以上の頻度で走っている様子が音でわかる。一方、船はナトリウム灯が並ぶ橋の下を通過。その後、前方に水門が見え、船はしずしずと進んでいく。

12)ゴールキ・レニンスキエ (8月24日)
 6時半、いつも通り起床を促す船内放送。船は、ずっとエンジン音が止まっていたのでモスクワ河港に着いているのかと思ったがさにあらず、窓の外を見るとコンクリートの擁壁だった。水門の中でずっと停泊していたのだ。港につけると接岸料を取られるけど、水門だと水門の使用料だけで済むとか、そういういことだろうか。それともここの水門は夜間営業をしてないとか。放送では気温13℃。想像していたのより低い。7時に船は再び動き出した。
 朝食前にデッキに出てみると、すごい朝靄で幻想的な風景が広がる。下船準備のためにしまってあったカメラをまた持ち出して何枚も撮る。朝日を浴びて靄が切れたりまた深くなったりしている。昨日の午後は上着が要らないぐらいだったが、今は上着なしではいられないほどなので、水温と気温の差が大きいためかなどと暢気なことを考えていたら、とんでもない事態。7時に朝食のはずなのに、レストランは開いてなくて、7時半頃また行ってみても同じ。予定表を確かめに掲示板を見に行ったら顔なじみのお掃除のおばさんがいて、霧のために延着するのだという。ずっと水門に停泊していたのは着岸料の節約のためではなくて、霧で航行不能だったということだ。朝食は第一スメーナが9時、モスクワ着は13時。この13時というのが微妙な時刻だ。さらに遅ければ昼食も提供されたかもしれないのに13時では無理。でも、こちらはそんな話でいいだろうが、船は14時半に次のクルーズに出る予定だから、おそらく各部署は戦場のようなことになっているのだろう。ここまでずっと順調に来ていたのに、最後にこういうことがあるとは、人生、一寸先は闇ということだ。2年前のボルガ・クルーズでもクルーズそのものは延着どころか予定より4時間も早く着いたのに、翌日の東京行きの飛行機が12時間近いディレイだったし、どうも旅の終わりが鬼門だ。
 8時前に次の水門に入り、それを出るとすぐに次があった。これに入ったのが8時半頃。備え付けの浮き輪にNo.6とあったのでこれが最後の水門かもしれない。几帳面なことに、8時半に目覚ましの放送があらためて入る。
 9時、朝食。白パン、バター、チーズ、メンチカツ・パスタ添え、カーシャ、果実入りヨーグルト、コーヒー。同席のご婦人方にお別れの挨拶をして席を立つ。
 部屋を片づけていたらお掃除のおばさんが現れて結構険しい表情でリネン類を出せと言う。延着のせいでやはり現場は戦場みたいになっているのだ。枕カバー、シーツ、毛布カバーを自分で外してたたみ、廊下へ。中学生の修学旅行か運動部の合宿に行ったみたいな気分だ。
 10時頃からまたデッキへ。霧は完全に晴れたが、全天が雲におおわれ、風がひどく冷たい。一旦スーツケースに入れてしまった上着をまた取り出す。運河の岸の樹種は、針葉樹もあるけれど、白樺もかなり多い。白樺は葉が垂れ下がるようについているのが特徴だ。傍らに鉄道があるようで、郊外電車がしきりに通る。乗客の中でモスクワ在住の人はあちらに乗り換えたほうが早く我が家に着くのにと思っているはずだ。このあたりになると、昨日以上に小ぎれいな邸宅が目立つ。敷地をフェンスで囲み、専用の船着き場まで持っている。罪滅ぼしにか教会を新しく建てている所まであった。豊かな自然の一画を勝手に切り取って、まったくシャクにさわる。10時20分頃、林の向こうに初めてオスタンキノのテレビ塔を認める。同45分頃、前方にこれも初めて高層のアパートが見える。シェレーメーチェヴォが近いので、上空を頻繁に飛行機が通る。双眼鏡で見ると脚の出し入れの様子がよく見える。
 まもなく到着という頃、元KGBではと疑った男性がデッキに現れたのでお別れの挨拶をする。エフゲーニーさんというのだそうだ。名詞を渡すとそこに書かれていたURLの中のasahiという文字列に気づいて、日本にはアサヒというガゼータがあったはずだがといやに詳しい。やはり元KGBか。予定より早く12時半にモスクワ北河港に到着。いつものように接岸から下船までがとても短時間で、乗客のほうもそれを承知しているから下船口にはもう列ができていた。2階のデッキにいたマネージャ氏に挨拶をした後、その列になっている人たちもお別れの挨拶をして、下船。迎えの車も既に来ていて(9時から待っていたのだろうか)、すぐに車のほうに行こうとすると、マーシャとボーリャのお母さんが寄って来られてやはりお別れを言う。
 河港からモスクワ郊外のゴールキ・レニンスキエに向かう。モスクワは前回のクルーズ以来2年ぶりだが、たった2年でも雰囲気がまた変わったように感じた。首都高みたいな道路が整備されて、それには日本ののような防音壁もついていたりして、もう東京とほんとうに差がない。道路からは建築中(経済危機で建築放棄のもあるかもしれないが)の高層ビルがいくつも見えて、その点でも2年前とはまた様相が違う。3号環状線というのをとばして雀が丘のほうに進み、その後南のドモジェードボ空港の方向に向かう。渋滞してないところではかなりのスピードで進むが、その間に2度も携帯電話が鳴って2度とも運転しながら話をするものだからほんとうに冷や冷やした。ロシアには運転中の電話を禁止する決まりはないのか。
 午後2時に現地着。運転手が自分は昼食を取りに行くけど、お前はここでどのくらい散歩しているのかと、1時間、2時間、3時間の選択肢を示して聞いてくる。バウチャーでは3時間になっていたはずだけれど、船も延着したことだし2時間と答える。でも、みなさんこれからここにいらっしゃることがあったら3時間はとってください。フェンスに設けられた入り口らしき隙間を通り抜けると(抜けなくてもわかるけど)右手はよく手入れのされた草地でその先には林があり、草地では数頭の馬がのんびり草をはんでいる。左手には現代風の白い大きな建築物があり、これがレーニン博物館。レーニン博物館と言えば、ソ連時代はモスクワでもレニングラードでも市の中心部にあったけれど、今はこういうところに追いやられているのか。入り口を入っても人の気配が殆どなく、照明も落とされていて暗い。入ってすぐ右手のオフィスらしい所へ行くと、別棟の博物館で入場券を買って来いと言う。しかし、この別棟なるものがそこからは見えないくらい遠くにあるのだ。しかし、ここで切符を買えなかったのが良かった。その別棟こそレーニンが最晩年を過ごした館なのだ。車で走っていた頃から雨がポツリポツリ降り始めていたが、私が切符を買いに別棟に向かって歩き始めてまもなく雷鳴付きの本降りの雨に。博物館と馬のいる原っぱの間の小径をまっすぐ歩くと松林にぶつかる。そこに何か碑があるのだけれど、碑文が磨耗していて読めない。その碑のところを左折して並木道をひたすら歩くともう一度今度は頑丈なフェンスがあり、そこをくぐった先がレーニンの過ごした家だ。入るとカッサへ行って切符を買って来いと言われる。カッサはどこかと聞くとこれがまた別棟なのだ。今度は目と鼻の先だから良かったけど、雨の中を往復する。入場料が150ルーブル、写真撮影代が100ルーブル。そこに無造作に置かれたパンフレット類があり、一つは晩年のレーニンをテーマにした写真集。絵はがきよりはサイズが大きいけど、絵はがきセットのように10枚前後をケースに入れてある。これが何と10ルーブル。まるでレーニンのたたき売りだ。私もついうっかりしていたけれど、ここもロシアの博物館だからガイドがついて案内するシステム。ちょうど私が行ったときに、ドイツ人らしい青年と通訳、それにロシア人らし男女2人の4人が客だった。電信室、応接間、食堂、書斎などを説明を受けながら見せてもらった。レーニンがそこで亡くなったというベッドもあり、私はロシア語の説明がわかっていなかったから同行の客が英語でそういうベッドだと私に教えてくれた。館内を見て回った後、同行の人たちは広い園内を車で回るけどと言われたが、私は運転手との約束の時間が近かったので遠慮して戻ってきた。もし、レーニン博物館で時間を取っていたりしたら、ここで時間が取れなかった(ガイドは30分おきだったか1時間おきだったのかの定時制なので)はずなので、ここへ来ない限りレーニン博物館に入れないというのはなかなかよく考えられたシステムだと思ったものだ。そのかわりレーニン博物館のほうが時間がなくて全く見ることができなかったけれど、ソ連時代に元の博物館を見ているから、ま、いいか。
 16時にゴールキの駐車場を出発。空は多少は明るくなっているが、雨はやまず。その中をどの車も猛スピードでとばす。途中、事故渋滞に遭遇したが、事故車は既に処理中とは言え、事故のすごさを想像させるものだった。凄さと言えば、翌朝部屋のテレビを見ていたら、未明にモスクワで乗用車とバスがぶつかった事故の映像を流していたけれど、乗用車の前半部がなくなっていて、後部座席と後ろのトランクだけが見えた。あのスピードで走るのだから、ぶかったら形をとどめなくなるのも納得。
 17時、前回と同じイズマイロボのホテル・ヴェガ着。じつは往路の機中で読んだ本で、ルビヤンカの旧KGBビルの前にソロフキ・ラーゲリの犠牲者を追悼する碑があることを知ったので、モスクワに戻ったらそれを撮りに行きたいと思っていた。天候が回復したのと、17時と言ってもサマータイムのせいもあるし、十月革命以後ロシアの時間は太陽が南中した時には12時をはるかに過ぎているように設定されている(ソルジェニツィンが小説の中の登場人物にそう言わせている)ので、出発日の明日よりも今日のうちに行ってしまうのが良いと思って出かけた。もちろん、モスクワの一人歩きは怖いので、よけいな荷は全部鞄から出して、カメラも鞄にしまってできるだけ外国人旅行者に見えないようにしたつもりだったのだが、あとで落とし穴にはまることに。
 イズマイロボ・ホテルの良い所は、地下鉄駅がすぐそばにあることだ。駅名は以前(何年前のことか覚えていない。使ったのはヴェガでなくアルファだっと思う。)のイズマイロフスキー・パルクではなく、パルチザンスカヤに変わっていた。地下鉄に乗るにはカッサでプリペイド・カードを買って、そのカードで改札機を通る方式。自販機ではなくカッサ方式なのは、ロシアの紙幣はよれよれのがかなりあるからそれに対応できる自販機の設計が大変だからかもしれない。片道22ルーブル。44ルーブルを払って2回分をカードに入れてもらう。カードは紙製のように見えるが日本のICカードのように改札機にペタッと押しつければ通れる。驚いたのは、地下鉄の車両が一新されていて、それこそ東京で見るような軽車両になっていたことだ。車両の形も塗りもすっかり変わっている。行き先表示など昔の地下鉄にはなかったけれど、LEDを使って正面に行き先を書いた電車が入場してくる。車内も明るく、連結部上部には停車中の駅名や次の停車駅を示すLED表示板があり、ドアの上の路線図でもLEDを使って現在どこを進行中かがひと目でわかるようにしてあって、それこそ東京の地下鉄と同じ。昔は、聞き取りにくい車内放送を注意してないと自分がどこにいるかわからなくなることがあったが、今のようになると外国人旅行者にとって地下鉄はほんとうに使いやすくなったと思う。その車内放送での乗客への呼びかけは懐かしい「ウバジャエミエ・パッサジーリ!」だ。ソ連時代はアエロフロートでも何でもみなこのよびかけだった。さらに東京の地下鉄よりもよい点が一つある。それは、市場経済化した後、突然車内に氾濫した広告が姿を消していたことだ。モスクワの車内広告は、中吊りではなく、壁にペタペタと貼る方式だったが、それがすっかりなくなったので、ほんとうにすっきりした。
 ルビヤンカ広場に近いプロシャチ・レヴォリュウツィーはパルチザンスカヤからの線にあって乗り換えなしで来られるので便利。降りると正面にボリショイ劇場。カール・マルクス像も健在で、その背後には可愛い彫像をそなえた噴水があり、その周囲を囲む屋外カフェは箱植えの白い花を壁代わりにするなどとてもお洒落。思わずカメラを取り出して写真を撮ったが、これが命取り。カメラで風景を撮ったりすれば旅行者だということを自分から言っているようなものだから。だって、毎日丸の内のオフィスに勤めている人は、いくら建築史上の価値が高いとわかっていても、東京駅や東京中郵の写真なんか殆ど撮らないでしょ。
 ここで5000ルーブルもの大金を取られた怖い話を書かなくてはならない。しかも、手口は別段新しいものではなく、そういうのがあるのは読んで知っていたのにだ。振り込め詐欺への注意があれだけ喚起されながら被害が後を絶たないわけがわかったような気がした。手口はこうだ。私が写真を撮っていたら電池切れの表示が出て、それを交換するために注意がそちら向かっていた時のことだ。前を歩いていた男(もちろん犯行グループの一人だけど私がそんなことを知るわけがない)のズボンの後ろのポケットからビニール袋に入って輪ゴムを回した札束に見えるものが落ちる。あっと思っていると私の右前を歩いていた男(これも仲間)が声をかけて札が落ちたことを知らせる。そうすると落とした男は知らせた男にだけでなくなぜか私にも大仰に礼を言う。その場へ後方から主役の男が現れ、警察手帳のようなものを見せミリッツァだと名乗る。そして私を含めた3人にパスポートを見せろという。パスポートを取られたら終わりだからここでひどく迷うのだが、他の2人が出すのでしかたなく出す。そうすると次に持っている現金を見せろと言う。これも2人が見せる。だいたい、警官が現金を見せろというのがおかしいと思わなければいけないのだが、ロシアは何でもありの国なので、詐欺師はそういうロシアの歴史的伝統ないし環境を存分に活用している。そして、クライマックス。私がしぶしぶ財布を出すと、中の紙幣を調べ、問題ないと言ってすぐに返してよこすのだが、これが手品みたいで、私はその瞬間に5000ルーブルが抜き取られたのに全く気づかなかった。さらにドルは持ってないかと言われたが、実際に持っていなかったし、それはないと言って断った。以上が全顛末。5000ルーブルと言えば、成田で両替した金額の半分にもなる。ルビヤンカ広場の後、赤の広場にも足を伸ばしてみようかとはじめは思っていたが、すっかり気が滅入ってルビヤンカの写真だけですぐホテルに戻ってきた。ただ、どういうわけか、その主役の男、別れ際に抜き取った5000ルーブルを私の財布にねじこんできた。だから、最終的には被害額はない。1000ルーブル札に注意を向けておいて10000ルーブル近く持っていた500ルーブル札をやられたのかとも思ったが、あとで数えたらそれもなかった。ねじ込んできた5000ルーブルがもしかして贋札かとも思って、翌日までにこの1000ルーブル札5枚は全部使いきってしまった。贋札所持の罪でナドヴォイツィの監獄行きなんて嬉しくないし。彼らが金を返した理由は今もって不明。私があまりにも情けない様子だったので同情したのかもしれないが、犯罪者が被害者に同情していたら、ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺すこともなかった。私の想像は、現場は人通りもものすごく多い繁華な場所で、しかも白昼だから、本物のミリッツァに見られていることに気づいて、金を返して急いで解散したというものだ。それはともかく、モスクワに着いていきなりモスクワの怖さを思い知らされた。のんびりしたボルガ沿いやカレリアの村々とはわけが違うのだ。そもそも、警察手帳の真贋なんて私なんかにわかりっこないから防ぎようがない。それで、被害に遭わないためにどうするかを考えてみたけれど、まず第一にはモスクワを一人歩きしない。第二に外国人旅行者と見られないようにする。カメラはほんとうに必要なところでしか鞄から出さない。第三に、徹底的にロシア語が通じないというので通す。ロシア語がよくできれば、それじゃ本物の警察官を呼ぶぞぐらいのことを言えるだろうが、私のように酷いカタコトというのが最悪。
 今日は昼食を取ってない。ホテル内の店は高いので、外で食事をしたり食糧を買い求めたりする人が多いのは当然だから、そういう泊まり客をアテにしている店が周囲にいくらでもある。寿司バーもあったけれど、外の看板に値段を書かないのは安くないぞと言っているようなものなので敬遠。結局24時間営業の食品店で、キャベツのピロシキ1個、胡瓜の浅漬け2個、それに豚肉のシャシリク1本分。ピロシキとシャシリクは電子レンジで温めてくれて、さらにシャシリクには香草,玉葱をタレと一緒に添えてくれた。182ルーブル。でも、このタレの辛味がいつまでも口に残って、夜10時頃もう一度ホテルを出て、別の店で400mLのミネラル・ウォーターと小さなコーンカップ入りのアイスクリームを買った。32ルーブル。
 やはり疲れているのか、ベッドに横になったらいつのまにかそのまま寝てしまった。

13)東京へ (8月25日)
 真夜中に目がさめて、きちんとパジャマに着替え、寝直す。朝起きたのは6時半。私は、ふだんでもそういうことが少なくないが、特に旅に出ると夕方でなく朝シャワーを浴びる習性がある。それで、今朝も。それにしても、このホテル、3つ星だそうだが、非常に快適で、私にはこれ以上の★は要らないと十分思える。幅がじゅうぶんにあってどっちに寝返っても落ちないベッド(船で落ちたことがあるわけではないけど)に11日ぶりで横になったのもよかったと思うが、何よりもベッドがエンジン付きでないのが最高に幸せ。洗面所に純白・ふかふかのタオルが用意されているのも、トイレはボタン一つで一切が流し去られるのも、シャワーの湯量が十分なだけでなく自分の意思通りに加減できるのも、マーミン・シビリャークに11日間いた身には幸せ過ぎるほどだ。
 朝食のレストランは7時半に開くので、その直後に食べに行った。何を食べたかはここには書かない。カフェテリア方式で、しかもたっぷりの種類が用意されていたから、少量ずつたくさん食べたので、書ききれないのだ。
 部屋に戻ってしばらくしてテレビをつけたら、いつ作られたものかも筋書きも私にはわからないが映画を放送していて、ヒロインのレーナという少女役の女優(もちろん女優も少女だと思う)がすごく綺麗というか可愛い人だったので、たったそれだけの理由で最後まで見てしまった。ただし、レーナのアップ画面はそれほど頻繁に登場しなかった。場面は、ソ連時代のピオネール・キャンプ。どの地方かは勿論まったくわからないけれど、景色は今回の旅で見てきたあちこちの風景と完全に重なる。森・野原・川・池などがあるロシアではごくありきたりの眺めだけれど、カメラはそれをほんとうにきれいな絵にして撮っている。今回の船旅で、デッキに居るとロシア人の船客がやってきて、どうだロシアの自然は素晴らしいだろうと言うことが度々あった。でも、言われた場所はただ川の両側に林が続いたりする何でもない所なのだ。ロシアのような変化の少ない(ほんとうは変化があるのだが、変化を見届けるためには何百キロも移動する必要がある)土地に根付いている人々は、その中に美を見いだしているという気がしてきた。往路でゼリョーナヤ・アスタノフカを取ったナドヴォイツィでは確かに滝があることはあったが、あとはやっぱり単なる林、帰りのソーセンキでも川べりの林に過ぎないのに、きれいでしょ、気に入った?とよく言われたものだ。何でもなさそうな自然の中にそういう美を見つける見方がシーシキンをはじめとする絵画や今みているような映画を生み出すのだと思う。さらに音響もよく計算されていて、ラーゲリのそばを通っているらしい鉄道を列車が走る音とか夏の終わりに森の中で鳴く虫の声などが主人公の心理状況に合わせて巧みに使われていて感心した。この映画が思いのほか長く、終わったのが10時半。途中のコマーシャルでは、ショーロホフの長編「静かなドン」を水曜日に放送すると予告編付きで何度も言っていたけど、そんなのに付き合ったら一日中テレビの前に釘付けだろう。
 映画が終わってから、ホテル近くのヤルマルカにみやげのマトリョーシカを買いに出た。天候は曇り。ホテルの外に取り付けてある大きな寒暖計を見ると気温15℃。マトリョーシカは小ぶりのものが50個ほどほしいということがあり、適当な値段のものがないか旅のはじめから注意していた。船に乗るとき、船着き場の売店で110ルーブルというのを見つけたが、地方へ行けば安いだろうと考えてそこでは何もしなかった。キジで100ルーブルというのを見つけたが、50個は用意できないと言われてあきらめた。それでずっと頭にあったのはイズマイロボのヤルマルカだ。マトリョーシカのコーナーにはマトリョーシカを専ら商う店がいくつも並ぶからモスクワにしては安いのではないかと。どういうわけか今日は5ルーブルの入場料を払えという掲示もなく係員も不在でタダで入れる。今日は定期市の立つ日ではないのかとちょっと不安になる。でも、盛況というほどではないが、全部閉まってはいなくて、いくつかのマトリョーシカ屋が開いていた。はじめの店は、店員のお姉さんと私の目があった時にいかにもロシアの店員らしく「何しに来たのよ」という目つきだったのでパス。二つ目の店も同じ感じだったが、三つ目のちょっと規模の大きそうな露店のおばさんがロシアの店員らしくない愛想の良さだったので、いくつかの商品について尋ねると5ピースで80ルーブルというのがあるのがわかった。それを50個用意できるかと言ったつもりだったが、50ルーブルにまけろと誤解したらしくとんでもないという返事。その50個とわかってからもはじめはそんなには無いという返事だったのだが、ちょっとロシアの売り子離れした感じのそのおばさんは売れるものは売ったほうがいいと考えたらしく、同規格のものなら50個揃えられると言って、まだ店に並べてない袋入りのも出してくれた。それで取引成立。
 ホテルに戻って退出準備。長袖は全部スーツケースに入れて東京仕様の服装に。テレビの天気予報では、東京は28℃、雨とのこと。この時期の東京としては低温だが、それでも10度以上の温度差。船で行っていたセーヴェルとなら20度近い差だ。日本円の入った財布やSuika定期券もポケットにつっこんで、11時半にチェックアウト。
 そのままロビーでこの日記を書いて、12時半にホテルのバーで昼食。夕食にあたる機内食が出るのが22時頃なのでほんとうは昼はもっと遅いほうがいいのだが、ここのバーはランチ・タイムが13時までとケチなのだ。トマト・胡瓜・キャベツのサラダ、胡麻のついた丸いパン、壷入りのスープ、魚のムニエル・マッシュポテト添え、赤い実がたくさん入っているコンポート(実の種は一つずつ取り除いてある。さきほど見た映画ではラーゲリの子たちが種を一つずつ吐き出していたけど。)。コーヒーか紅茶が最後に出ると思って待っていたが何の気配もないので、あきらめて勘定。190ルーブル。
 このままではどうにも落ち着かないので、ロビーに連なっている喫茶コーナーでエスプレッソを頼んだら120ルーブル。サービス・ランチの値段と比べると、昨日のレーニン博物館の入場料とパンフレットみたいな価格のアンバランスだ。でも、ロビーでこの日記を書くのは暗いし、しかも机の位置が低いので大変だったが、ここはテーブルを占有できるので、迎えの車が来る15時30分までそこで粘るつもりで日記を書いていた。
 タクシー・ドライバーは昨日と同じ人で、約束の時刻よりも30分以上早くホテルに現れた。それで、15時にホテルを出発。あちこちで渋滞にぶつかったけれど、二年前のドライバーと同じで裏道をよく知っているらしく、渋滞をできるだけかわしながら走る。ちょっとでもすくと、うんとスピードを上げる。しかも、また携帯電話で話しながら片手運転でとばす。
 空港に着いたのは16時半くらいだったか。定刻19時20分の2時間前にならなければ税関のゲートも通してくれないので、そこにも行列が出来ている。その中に、背中にRUSSIAと大きく書かれた朱色のウィンドブレーカーだかパーカーだかを揃いで着ている女性の集団がいる。人数は10人を超えている。年齢の若いほうは中学生くらいだが、20代と思われる人もいて、さらに監督・コーチとか役員らしい年輩の人もいる。その朱色の上着の左袖には双頭の鷲の国章、右袖には英語でロシアのオリンピック・チームと書かれたエンブレムが付いている。税関を通ると次はチェックイン・カウンターだが、東京便のところに並んでいる。こういうのが前にいたから私自身のチェックインは遅れに遅れ、手続きをした時には窓側か通路側かさえ聞かれなかった。
 ボーディングの時に彼女たちの持ち物に大きな金属製の輪が見えた。新体操のチームだ。東京で近々のうちに新体操の国際大会があるのだろうか。この集団の中にロシア人というよりも日本人に顔立ちの似ている年齢不明の女性がいることにチェックイン・カウンターに並んでいる時に気づいていたが、自分の席35-Gに行き着くと隣の36-Hがその女性だった。ところが私はショルダーの他にマトリョーシカ50個が入った袋も持っているので、それをしまわなければならないが、彼女たちの荷物がキャビネットを占領していて隙間が見つからない。どこか空きはないかと周囲を見回すと最後列の38-GHがキャビネットどころか席そのものが空いているのに気づき勝手に移動した。彼女があの日本人は自分のことを気に入らなくて他へ行ったと思ったとしたら申し訳なかったけれど、言葉ができないので言い訳のしようもない。新しい席の前の37列もその集団だったけれど、ことに斜め前の37-EF席にいる高校生ぐらいのの行儀が悪い。離陸前に何をしていたかというと、足先を前席の背もたれの上まであげて(新体操の人だからそんなの造作もないことだろう)「きれいな足よね」なんて言い合っている。食後も肘掛けを踏み台にして席から席へ移動したりして「早く寝てくれ」と思ったものだ。
 飛行機はほぼ定刻に離陸。機内のモニターに飛行コースや飛行情報が表示されるが、それを見ると離陸後すぐにモスクワ運河の上を北東方向に進んでいる。その時の高度が1000mとか2000mだから、船から双眼鏡で見たらよく見えるわけだ。このまま順調に飛行が続けば、明日10時前には成田だ。


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