モスクワからペテルブルクへ  (2005)




(1)モスクワ  8月18日(木)

 「レオニード・クラーシン」の出港はあっけないものであった。出港予定時刻の午後5時半近くになっても船側でも桟橋側でも目立った動きはなく、船員の家族かロシア人乗客の家族らしい見送りの人たちが十数人ほど桟橋にまばらに立っているだけ。出港の直前になって救命胴衣をつけた水夫4人ほどが舫を解くために船から桟橋に現れ、型どおりの作業を済ませると、ちょうど定刻に船は水流を桟橋に吹き付けるようにして離岸した。「蛍の光」も汽笛も船と桟橋の人たちをつなぐテープもなかったが、離岸してから例の壮行歌のようなのをかなり悪い音質でラウドスピーカーから流した。天候は晴。しかし、日中に比べると浮き雲の数がかなり多くなっていた。

 前日、早朝4時半に家を出て9時半発のソウル行きに乗り、仁川空港を午後4時半に出るモスクワ行きに乗り継いだ我々がモスクワ河港(北港)に停泊中の「レオニード・クラーシン」に乗船したののは、現地時間でおそらく10時を過ぎていたはずだ。
 なのに、今朝は目覚まし時計の世話にもならず起きることができた。朝食をとった後、25ユーロのオプショナル・ツアーに乗っかってトレチャコフ画廊と赤の広場へ行ってきた。
 船に戻って2時からの昼食を済ませ、3時に2階の理容室に。なにしろ携帯プレーヤーのヘッドホンが知らないうちにずり上がってしまうほどの「ボサノバ」(ボサボサに伸びきった)状態で、床屋に行かなければと思いながら行けずにいたので。理容師は、大学生と小学6年生の娘さんがいるという女性。この人がえらく話し好きで、お互いよく通じない英語とロシア語で話すものだから、カットと洗髪だけに1時間半近くもかかった。彼女の妹さんは日本に来たことがあるとか、自分は潜水艦の技師をしていたけれど、あれは人間を攻撃する仕事で人のためにならないから転職してこの仕事に就き、この船が5艘目だとか、そんなことを話してくれた。あなたはどのくらいの頻度で頭を刈るかと聞くので2〜3ヶ月に一度だと答えると、それは良くない、生徒のためにも先生はちゃんとした身だしなみでいるべきで、3週間に一度はカットすべきだと業界人としてのPRも忘れない。カットと洗髪で20ユーロ。
 散髪を終えたら急いで船を降り、レニングラード街道を渡った向こう側にあるスーパーに行ってミネラルウォーターを買う。2リットル入り2本で36ルーブル。大きなペットボトル2本を抱えて帰るつもりだったら驚いたことにレジ袋をくれた。ロシアも変わったものだと思う。もっとも、こう変わったのが良いことなのかどうかは疑問だが。いずれにしても必ず帰船するようにと言われていた5時までには戻ることができた。

 6時、最上階のホールで船長の挨拶とクルーの紹介。さきほどの理容師さんも紹介されて、ファンションショーのモデルのように颯爽とホールを通り過ぎて行った。いつも通りシャンペンがふるまわれたが、モスコフスコエやソビエツコエではないらしく、甘みがなかった。

 7時半、夕食。サラダ,ジャガイモか何かのトロリとしたスープ,キエフ風カツに焼き野菜の付け合わせ,アイスクリーム,紅茶。テーブルの上にメニューのような紙片があって、はじめは気にもしていなかったけれど、よく見ると日付が明日。つまりメインディッシュやスープのチョイスを記入するカードだった。いちおうこれと決めて書いておいたけれど、料理は名前ではわからないから、実際にはどんなものが出てくるやら。

 夜9時に最初の水門(第6閘門)を通ることは予め知らされていたので、その時刻が近づくとデッキに多数の客が出てくる。自分も3階前方デッキに出たが思いの外風が冷たい。長袖はトレーナーよりちょっと厚めのを1枚もってきているだけだが、それでも寒く、その下にウィンドヤッケを1枚着込んだけれど、なおデッキにいるのが辛い。初日からこうではこの後どうなるのかと暗い気分になる。しかし、それでもキャビンに戻らなかったのにはワケがある。前夜、乗船のためにタラップを上がった時から顔を合わせるとニッコリしてくれる可愛い少女がいた。その彼女が偶然隣に居合わせて、やはり目が合うと笑顔を返してくれるからだ。はじめはクルーの一人ではないかと思っていたが、そうではなくて船客らしく、ニジェゴロド州に住むスヴェータという名の学生で、船旅は今度が初めてだと言っていた。モスクワの河港でもこうした水門でもクルーズ船は数珠繋ぎなのに、リバー・クルーズは地元のロシア人にとって縁遠いものになりつつある。落差のたいして大きくない水門なのに後続の船を待ってから降ろしたりするものだから通過に1時間半もかかったような気がするが、スヴェータの笑顔にひかれてその時間ずっと寒さに耐えてデッキにいた。


(2)ウグリチ  8月19日(金)

 モスクワ運河の航行に12時間を要すると聞いていたので、朝6時、船のエンジン音が静かになったときに船はボルガとの合流点に達したのかと思ってデッキに出た。しかし、合流点ではなく水門の一つに入ろうとしているところであった。何人かの甲板員がデッキやそこに置かれたデッキチェアーを丁寧に拭いてまわっている。テーブルを拭いていた女性にこの水門は何番目のかと尋ねたがわからないという答。しかし、この問題は簡単に解決することがわかった。船のデッキには船名と船籍地を書いた救命用の赤い浮き輪が常備されているが、あれと同じものが閘門の手すりにも備えられている。双眼鏡で読むと「第二閘門」とある。第一がボルガとの合流点にあるドゥブナの水門だ。
 風が冷たいので長いことデッキには居られず、3階船首側の読書室にいる。8時近くになって、ふと前方を見るとロシアではこれまで一度も見たことがなかった発電用の風車が目に入った。写真をと思ってデッキに出ると目の前に大きなレーニン像が。つまりドゥブナにたどり着いたのだ。レーニン像から左手、風車の方向の水路はそのままボルガにつながっているが、我々は大きく右へ舵を切るとすぐに第一閘門で、その十数m下にゆったりとしたボルガの流れが広がっている。

 9時朝食。オレンジジュース,ハム,カマンベールチーズ,それに昨晩選んでおいたカッテージチーズの揚げ物 - 詰め物にレーズンなど果物が入っていてスメタナが添えられていた。でも「オートミール」と書かれたのを選んだ人にはカーシャが運ばれてきた。オートミールなどと書かずにカーシャと書いてほしかったと思う。それにコーヒーとママレードのようなジャム。食事のあとコーヒーか紅茶か聞かれるのが普通だが、この船は朝と昼がコーヒー、夕食が紅茶と決まっていて、しかもテーブルに置いてあるポットから自分で注げというやり方だ。ならばジャムはお茶の出る夕食に出せと言いたいけど、黒パンに塗っても美味しいジャムなので文句は言うまい。
 10時、4階のラウンジでロシア語教室と歌の練習。Здравстбуйтеというのは1日1回、つまりその日に最初に会ったときにしか使ってはならないというのは初めて知った。

 朝起きたときにはよく晴れていたが、その後は全天を雲が覆い、こうなると風は非常に冷たくて、デッキにはほとんど人がいない状態になる。
 午後1時前に船内放送があって、1時15分頃カリャジンの水没した教会の塔が右舷側に見えるという。寒い中、このときだけはおおぜいの人たちがデッキに出てきた。
 1時半昼食。リンゴのはいったサラダ,肉入りの大きなピロシキ,ブイヨン,ややゆですぎのスパゲッティ,ソースのかかったバナナのデザート,コーヒー。

 午後4時頃、前方にウグリチのダムとその先に水門のアーチが見える。ウグリチの水門には石造りのアーチがあって、自分ではこれまで見たどの水門よりもここのが綺麗だと思っているのだが、ウグリチの絵葉書にもこの水門のが1枚入っているくらいだから現地のロシア人もきっとそう思っているのだろう。
 4時半に着岸、上陸。桟橋の上では民族衣装を身につけたおそろしくきれいな娘さんがほんとうに上品な笑顔を振りまきながらパンと塩の歓迎。ウグリチは2度目だが、前回と違うのは船着き場からクレムリンまでの道筋の両側にぎっしりと土産物屋の屋台が並んでいたことだ。ま、船が着く日はこの町にとっては縁日ということか。もう一つ、前回は日本人船客が私一人だったので日本語によるガイドなど望むべくもなく、いったい皇子ドミトリーとこの教会と何の関係があるのかとかわからないことだらけで帰ってきてしまったが、今回はそういうことがない。プレオブラジェンスキー教会では男声のカルテットで宗教曲を2曲聴かせてもらった。建物の音響が良いことを差し引いても重厚で美しいハーモニーだった。

 7時前に帰船してすぐ夕食。船は7時定刻にウグリチを出航。皮肉なことにこの頃になると空はすっかり晴れ、西日が暑い。
 サラダ,野菜を卵で焼き固めてチーズを載せたのがメインディッシュ。カスタードクリームを使ったシュークリーム,紅茶。昼食と夕食には小さなペットボトル入りのミネラルウォーターが出る。おかげでモスクワを発つときに買った4リットルものガス入りミネラルウォーターには全くてをつけてない。
 8時から最上階のホールでロシア民謡の夕べ。女声のソロと男性が弾くバラライカが交互にあった。でも教会でのカルテットのほうがずっと良かった。

 9時頃になって船内放送があり、左手にムィシキノの町が見え、写真のモチーフに良いと言ったので、室内用の軽装のまま飛び出して寒さに耐えながら待ったがそれらしいものが見つからず、しかも日没になってしまったから写真は無理とあきらめて床に就く。


(3)コストロマ  8月20日(土)

 朝6時前に目が覚める。陽が沈んだら寝て、日の出とともに起きるというすこぶる健康的な生活だ。自分のキャビンは左舷側にあり、昨晩太陽はこちら側に没した。なのに今日、朝日はやはりこちら側から昇ってくる。寝ている間に船はリビンスクに達してそこから南転したためにこういう不思議なことが起こるわけだ。天候は快晴。
 8時半朝食。オレンジジュース,サラミ,チーズ,リンゴ入りのブリヌィ,ジャムとコーヒー。

 午前中はずっとデッキに。風は冷たいが、天気が良いので陽がじかにあたると暖かい。それで船客たちは風のあたる船首・船尾のデッキを避けてみんな舷側のデッキに集まっている。今回は携帯プレーヤーを持ってきているので、それでロシアの声楽曲を聴きながらだと、まわりの景色がBGM付きで流れていくような感じだ。村落を通り過ぎるときは別にして、川の両岸は木立ちになっていることが覆い。そのまま林がずっと続くこともあるし、木立ちのむこうは道路だったり鉄道だったりすることもある。ただ、エニセイのようにそのまま鬱蒼とした森が続いていくという感じではない。もうひとつエニセイと違うのは両岸に頻繁に教会を見かけることだ。もちろんエニセイでは半日航行しても人里を見ないことがあるほどだから、こちらはsろえだけ多くの人々が生活しているということなのだが、教会が河畔に集中しているような印象なのは、昔これが灯台の役目をしていたのではないかという気がしてきた。昨晩ムィシキノと言われたあたりで見た教会では、塔の上の十字架に夕陽が映えて遠くからみるとまるでロウソクの炎のようであった。
 ボルガの水の色は空の色を映して水色に見えるが、船上から見下ろしたりして近くで見ると暗い茶色である。森のタンニンが溶け出してこの色になるという説を言う人もいるがほんとうだろうか。私には単なる水質汚濁のように見える。
 12時昼食。塩漬け魚のザクースカ,ボルシチ,トマトとピーマンの煮込み,アイスクリーム,コーヒー。食事中に船はコストロマの河港に近づく。

 1時過ぎに船を降りてバスでの市内観光。港の上のクレムリン跡にまず立ち寄る。草が生え放題の台座に立つレーニン像は前回見たときのままだが、ここの像の台座はよそでは見ないスタイルのもので、いかにもレーニンとはミスマッチという感じだった。それもそのはずで、今日聞いた説明では、これは元々ロマノフ王家300年を祝うモニュメントとして用意されたものの十月革命がやってきてその後レーニン像が建てられたとか。ロマノフ家400年祭までにはレーニンを撤去してはじめの設計通りに復元するプランがあるそうだから、これは今のうちに写真を撮っておかねば。
 そのあと、町はずれにある木造建築物を集めた屋外博物館。驚いたのはここが結婚式を挙げた後のカップルがやって来る「聖地」になっていたことだ。ソ連時代なら永遠の炎に花束を捧げるのが相場だったろうに、行き場を失ったのか多様化の行き着いた果てか。今日は土曜日ということもあってやってくるカップルとその縁者はひっきりなし。しかも花束をそっと置いていくというつつましやかなものでなくて、車座になっての青空二次会だからあっちからもこっちからも「ゴーリカ」の声が絶えることがない。
 次にイパチェフスキー修道院。屋外博物館のすぐ近く、コストロマ川がボルガに合流するところにある白い塀で囲まれた大きな修道院。皇子ドミトリーが亡くなったことに端を発する動乱の時代のあとの17世紀はじめ、ミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれたというモスクワからの知らせを受けた場所だとか。ロマノフ家にとってコストロマはそれこそ聖地であったのだ。
 最後にクレムリン跡のすぐ近くにあるスサーニン広場のあたり、中央ルィノックや教会のついたかつての商館の建物などを急ぎ足で見てまわってから船に戻る。

 6時半夕食。ゆでジャガイモのサラダ,ロールキャベツ,小さなケーキ,紅茶。
 そのあとは船首側のデッキに出て、チェアにもたれ、音楽を聴く。前方に見える太陽の高さが次第に低くなるにしたがって、河港から続くプロムナードの大きな街路樹の陰影がだんだんと強くなり、色も黄味がかってくる。人々は散策したり遊歩道の手すりにつかまって語り合ったりしている。日没は8時半過ぎであったろうか。まだ空には明るさが残っていたが、キャビンに戻り寝てしまう。船は9時に港を離れたはずだが、その記憶はない。


(4)ヤロスラブリ  8月21日(日)

 気がついたとき船のエンジン音が止まっていたので、ヤロスラブリに着いているのだと思ってキャビンのカーテンをそっとあけると、目にとびこんできたのは絵のような風景。目の前は数百メートルの河水を隔ててヤロスラブリの古いほうの桟橋で、上空には満月。それが川面にも映っている。さらに河岸通りに規則的に並んだオレンジ色の街路灯の光も水面に反射しえちる。ぜひ写真に撮りたいと思って着替えてデッキに出る。その間10分あるかないかだと思うのだが、デッキに出たときには街頭は全部消灯になっていた。昔、オデッサの駅がきれいにライトアップされていたのにカメラを向けた途端消灯された経験があるが、それにつぐ悲劇。人生の中で時間と勝負という場面は少なくないのだ。早朝のこの頃は満月をさえぎるものがないほど晴れていたが、1時間もするとかなり雲が増えてきた。ひとつうまくいかないことがあると次々とうまくいかないことが続くのも人生だ。

 7時15分、朝食。オレンジジュース,チーズ,オラージャという厚焼きのブリヌィみたいなものにスメタナがかかっている。ジャムとコーヒー。びっくりしたのは朝からデザートのケーキがついていることだ。昨晩食べたのと同じくらいの大きさで暗い色のスポンジの上にクリームで作った飾りがついている。ところが、ガイド氏に教えられて知ったのだが、これはケーキではなく、レバペーストだったのだ。そう言われてみるとまぎれもなくレバペーストの色だ。クリームだと思っていたのはバター。同じテーブルにレバはダメという人がいたので2人分いただいたが美味。

 8時過ぎに船を降りて市内観光。この頃はほんとうに雨具を使うことがあるのではと思うほどの曇天だったが、昼、船に帰る頃には少々暑く感じるほど晴れ上がった。最初はスパソ・プリオブラジェンスキー修道院。前夜オペラ「ボリス・ゴドノフ」の公演があったとかで、境内には仮設ステージや客席用の椅子がいっぱいに放置されていた。この修道院内もそうだし、外の川沿いの公園もそうだが、花壇の手入れがとってもよくされている。地元の農業大学の学生やOBが手入れをするそうだ。河岸のプロムナードから見下ろす洲のようなところに王冠や熊をかたどった花壇と並んで995という数字の形の花壇がある。この町の創建は995年ではないし、何の意味だろうと思ったら、市の創設から995年という意味なのだそうだ。それじゃ来年になったら花壇の形は996になるのかと尋ねるとそうだという答え。
 スパソ・プリオブラジェンスキー修道院のすぐ近く、ボルガ川に面したあたりがかつてのクレムリンの跡地だという。往時そこに建てられていたという教会の跡には三位一体を象徴するモニュメントが立ち、そこを中心として東西南北の向き、つまり建っていた教会の形に舗道が整備されている。建都1000年祭までには教会を再建する計画もあるらしい。
 その次にはイリヤ教会。内壁がフレスコ画で埋め尽くされている。冬の礼拝堂と呼ばれている小さな部屋で、また男声のカルテット。ここでもCDを買う。こうやって街々でCDを買っているので予想外の出費だ。
 昼頃船に戻る。船が港を離れた1時過ぎに船内放送があり、いつ頃何かが見えると言ったらしいが、日本語の放送がなかったのでよくわからず放置したら、1時半頃ヤロスラブリのやや上流にあるトロイツェ修道院の前を通過した。もちろん写真は撮れずじまい。今日はこと写真に関しては朝から運がない。

 午後1時、昼食。サラダのあとオクローシカ。これはクワスを使った酸味のある冷たいスープ。具として赤かぶなどの野菜がたくさん入っていて美味しい。メインはキャベツとチーズのフリッターとか。チーズのたっぷり入った洋風お好み焼きだと言った人がいたが、まぁそんなものだ。もちろんスメタナがかかっている。生の杏,コーヒー。
 昼食から夕食までの5時間近くはずっと4階船首側のデッキにいた。風はある程度強かったが天気がよかったので陽があたればそう寒くはない。両岸は針葉樹林がほとんどだSが、集落も頻繁に現れ、たまには岸が耕地や牧草地になっているところもある。うっすらと色づいているよう見える木々も見かけた。秋が近づいているのかもしれない。
 我々の乗る「レオニード・クラーシン」は単独行でなく、モスクワ出港以来ニジニ・ノブゴロド船籍の「チチェーリン」という別会社の船が伴走している。さらにいつ頃からかバイキング社の「スリコフ」というこれまた同型の船も一緒で、3艘があたかも船団を組んでいるようだ。さらにヤロスラブリを出てからそう時間が経たないうちに同じ130m級5層の客船2艘とすれちがった。これらの船がそれぞれ客をいっぱいに乗せて経営が成り立っているとしたら、ロシアの河川クルーズはちょっとしたブームになっているということではないのかとも思った。
 午後6時前、それまでののどかな風景とうって変わった都市の景観、教会の尖塔や港のクレーンなどが前方遠くに見えた。リビンスクの町だ。

 午後6時半夕食。サラダ,ナスの詰め物,菓子パン,紅茶。この夕食の間に船はリビンスクの水門を上がり、リビンスク貯水池へ出る。湖岸がかろうじて見える海のような貯水池だ。幸いが波がなく、3艘は湖面をすべるように進む。

 8時前から最上階のホールで、一昨日のグループによるクラシック音楽の夕べ。だが、いまひとつで、出口のところでCDを売っていると言われてもこればかりは買う気になれない。



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