モスクワからペテルブルクへ  (2005)




(5)ゴリツィ  8月22日(月)

 6時頃目覚めたとき、船はちょうどリビンスク貯水池とベーロエ湖の間の唯一の水門を上昇中であった。天候はどんよりとした曇り。水門を通過した後、川幅は広くなったりそれよりは狭くなったりしている。

 9時朝食。ジュース,ソーセージ,チーズ,セモリナ粉のプディング,ジャム,コーヒー。依然として天候は良くない。
 船がゴリツィに近づくあたりで川をまたぐ新しい橋が見えた。自動車が通っていたので既に供用開始になっていることはわかったが、コンクリートの色が橋の新しさを示しているし、何よりもたもとのところで何人もの労働者がまだ工事の仕事をしていた。このような奥地で橋を見るのは予期していなかったが、経済成長に伴って「セーヴェル」とよばれる奥深い場所でも開発が進んでいるということか。

 橋をくぐってある程度の時間が経つと前方に見覚えのあるゴリツィの尼僧院の建物が見える。尼僧院からほど遠からぬところが船着き場で、バイキング社の「スリコフ」とこれまで一度も出会ったことのない同じバイキング社の「ペテルゴフ」が既に仲良く横付けになっている。モスクワ以来一緒の「チチェーリン」はまだ着いていない。我々の「レオニード・クラーシン」は「ペテルゴフ」の脇につけることはせずにもう一つの浮き桟橋に接岸した。午前11時。
 桟橋のそばには10年前の船旅のとき乗客による露仏対抗サッカー試合をやった学校が今でもそのままあったが、今回は学校などには目もくれず、バスで近くのキリロフ村へ。
 村へ行く道は途中で小高い丘の上を通るのだが、ここからの眺めが素晴らしい。ゆるやかな起伏のある丘陵地帯に日本語で「湖」とよぶには小さすぎるいくつもの池が点在し、その池のそばに戸数の多くない集落が見られる。まだやや斜めの位置にある太陽の光によってできる樹木の影も風景の美しさを際立たせる。迫害を逃れてきたラスコリニキ達が住み着いたのがもしこのような土地だったら、それはそれで天上の楽園のようにも見えたのではなかったかと思う。
 キリロフ村にはキリロ・ベロゼルスキー修道院という大きな修道院があって、かなりの程度修復が進んでいた。シヴェルスコエ湖という小さな湖の脇に立つのだが、ここで買った絵はがきを見て、あとになって思い出したことがある。それは、5年余り前ヴォログダを訪ねたとき、もちろん郊外のスパソ・プリルツキー修道院にも行ったのだSが、ヴォログダを案内してくれた年配の女性が、この次に来るときには少し時間の余裕をもってヴォログダだけではなく、少し離れたところにある何とかという町を訪ねるとよい、そこには由緒ある修道院があるからと言われたことだ。それが実はこの修道院ではないかと思えてきた。それともヴォログダ州あたりにはこのような修道院は山のようにあってやっぱり別なのであろうか。
 院内には博物館もあって、2階には充実したイコンのコレクションが展示されており、1階ではこの地方の人々の生活用品:糸紡ぎの板とか様々な陶器類とかを見ることができた。ここはヴォログダ州の中なのでヴォログダ・レースも展示されていて“スネージンカ”ブランドのものも展示されている。
 別棟では「ベーロエ・オーゼロ」という男声のヴォーカル・グループが例によって一、二曲聴かせてはCDを売っていた。1枚350ルーブルとこれまでより格安だったが値段は聞かずにもちろん買った。それにしても、ちょっと歌って聴かせればすぐに何枚ものCDが売れていくほどの技量の芸術家がウグリチだのキリロフだのといった田舎町にさえゴロゴロいるというこの国の奥深さは怖いほどだ。
 修道院を出る頃には天候はすっかり回復していた。

 2時にゴリツィの船着き場を離岸。昼食も2時から。千切りにしたジャガイモとニンジンのサラダ,ボルシチ,カレー味羊肉のプロフ,クランベリーソースのかかったババロア,コーヒー。
 3時から3階図書室でロシア語教室と歌の練習。サヨナラパーティーで我々が歌う曲が決まった。ロシア語と日本語を混ぜての「カチューシャ」,あとは日本語で「花」と「幸せなら手をたたこう」の3曲だ。
 その後はいつも通り4階船首側のデッキでじっとしている。風がある程度あたるが、天候が良くなっているのでウィンドヤッケを羽織っていれば寒くはない。
 午後4時頃ベーロエ湖に。湖の入り口のところで右舷側に水没しかかって壊れている教会の建物が見える。10年前これを見たときにはデッキに出ていられないほどの強い雨風だったが、今日は好天で船は鏡面のようなベーロエ湖を滑るように進む。ある程度の雲が浮かんでいる澄んだ青空に、北西方向に向かって繰り返し飛行機雲が作られる。軍用機なら辺Tないを組む可能性が高いからこのあたりが民間機の定期航路にあたっているのかもしれない。
 ベーロエ湖を船が横断するのに1時間半以上かかった。リビンスク貯水池ほどではないにしても大きな湖だからはじめから対岸が見えているわけではなく、やはり海のよう。地球が丸いことを感じるにはこの程度の大きさの湖でいいということだ。なぜか湖の北側の出口近くで貨物船か油送船かわからないがそうした船の大船団と出会う。このあたりに何かの基地があるのか。

 ちょうどこの頃ひょっこりスヴェータが姉と一緒に現れた。ウグリチ以来全然見かけなかったものだからコストロマあたりで下船したと思っていたが、まだ船にいたのだ。もしかすると船客として乗っているのでなく、やはり船で働いているのかもしれない。ウグリチで会ったとき写真を撮らせてほしいと頼んだのに「あとでね」とかわされたが、今回は応じてくれた。でも、船で女性の写真を撮ってきれいな写真になったことがない。陽射しが強いのと、どうしても風があたるのでよい表情ができないのだ。今度グリーン・ストップのときに会えたらもう一度頼んでみようと思う。

 6時半、夕食。大根とキュウリのサラダ,魚のすり身をハンバーグ風に焼いたオラーディという料理 - ゆでたジャガイモと焼き茄子の付け合わせも美味しい。ハリネズミの形をしたケーキ,紅茶。

 ベーロエ湖を過ぎると水路の様相は一変する。水路の幅は狭くなり、根元まで水に漬かった樹木が両岸にびっしりと並ぶ。水路は曲がりくねり迷路のようにも見えるが枝分かれしているわけではない。分水嶺に近づいているわけだから水量が少なくなるのは当然で、船は慎重に慎重に進む。ことに対向車ならぬ「対向船」があるときは船を一旦停めるほどだ。少し北に来たせいか日没は9時前後。夕陽が右舷側の樹林の頂きをいつまでも赤く染めていた。


(6)キジ  8月23日(火)

 何時頃だったろう、船体が何かに軽くぶつかるゴツンという衝撃で目が覚めて外を覗くと水門の壁だけが見え、船は降りていくところだった。分水嶺を過ぎたわけだ。それからまたうとうとして気がつくと朝の6時頃になっていて、船は第2閘門に滑り込むところだった。このあたりまで来ると川幅は昨晩のような狭さではなくなっている。8時頃に第1閘門を通過。
 毎朝、食事の15分ほど前にモーニングコールを兼ねた案内放送が独・英・露・日の各国語で入る。今日の放送、はじめの3ヶ国語は何の問題もなかったが、オーリガの日本語放送がいけない。日付と朝の気温だけは他の放送と矛盾がなかったものの、今日はラドガ湖に出る予定で今通っている川はスビル川だという2日分も先の内容を話している。朝食で彼女の会ったときにみんなで文句を言ったら、言い訳がふるっていた。ごめんなさい、寝坊して慌てて放送室へ行ったのだけれど原稿がみんな同じような体裁だったから取り違えたの....だと。おいおい、真面目に仕事をしてよ!

 9時朝食。オレンジジュース,チーズ,ソフトサラミ,ブリヌィ,ジャム,コーヒー。この船では朝だけバターが出て、昼と夕食にはバターが出ない。
 9時半頃、船はヴェテブラ川の河口を出てオネガ湖に入る。天候は非常に良く、風は弱いので、湖面にほとんど波が立たない。プログラムとして用意されていたロシア料理についての講座やブリッジ見学などはみなパスしてほとんど終日デッキにいたので、今日だけでずいぶん焼けたような気がするほどだ。同じようにデッキでゆったりしていても川旅なら両岸の景色が次々と流れていくのだが、こんな大きな湖では景色がうつり変わるということがない。船は湖の西岸寄りを北上しているらしく左舷側遠くには岸が見えるが右舷側には陸地が見えない状態が続く。

 1時半昼食。トマトを茸の形にしたザクースカ,ハルチョというグルジアのスープ。メインは付け合わせにマカロニを添えたカツレツ。カツレツと言っても挽肉を太めの棒の形にして衣をつけずに揚げたものだ。ロシアの「カツレツ」という言葉はむやみに意味が広く、もしかすると油で揚げたら全部「カツレツ」なのかもしれないと思われるほどなので、メニューで「カツレツ」という言葉を見つけても特定の料理を想像してはならない。デザートは汁気のないコンポート。コーヒー。

 オネガの北西岸、つまりキジ島に近いあたりの湖岸の地形は非常に複雑で島も多い。松島の規模を大きく、もちろん一つ一つの島の規模も大きくしたようなもので、日本人がここに住んでいたらきっと「カレリア三景」の一つだなどと自慢したに違いない。それまで単調な湖面を移動してきた船は、今度はこの複雑な水路を島々に置かれた白い三角形の航路標識を頼りに慎重に進む。島々の中には木造で色彩のない小さな礼拝堂が建てられていることがある。
 午後4時頃、前方の島の樹林越しにキジ島のプリオブラジェンスカヤ教会の丸屋根が双眼鏡で初めて認められる。しかし、「レオニード・クラーシン」はあわてる様子もなくゆっくりと島に近づき、予定より30分近く早くキジ島の船着き場に到着、先着のバイキング社の2艘に横付けした。
 キジ島に来たのはおそらく3度目だが、こんなにお天気が良かったのは今回が初めて。しかも夕方5時〜8時近くというタイミングなので、陽がやや傾きかけていて、陰影がはっきりし、写真を撮りやすかった。ここまでは残りのコマ数を計算しながらやや節約気味にシャッターを切っていたが、ここでは思い切り写真を撮った。プリオブラジェンスカヤ教会の丸屋根をつくる白木の小片も写真では銀色に見える。このあたりにはナナカマドの木があって、そどのどれもが赤い実をいっぱいにつけている。その実を食べるでもなしに、日本で見るのとはちょっと違って見えるいく種類もの野鳥が人をこわがるそぶりも見せずにそのあたりを歩いたり、とまったりしている。
 教会のお堂や帰り道の土産物店でキジ島の絵はがきを3種類も買ってしまったが、その中でいちばん気に入っているのはセピアに近いモノクロ写真だけのセットだ。90ルーブルで買った。モノクロなだけでなく、少しシルクスクリーンのような効果を使い、縁取りも直線ではなくぼかしている。そして何よりも代表的な建造物などばかりでなく、島で働く農婦の写真も入れたりしている。ロシアの写真家はもとよりアマチュアのカメラ・ファンも、ついこのあいだのソ連時代までは現像・焼き付けまで全部自分でやっていたのだが、それにしても彼らの作品はいつ見てもつくづく上手だと思う。

 8時前に帰船し、そのまま夕食。ほぼ同時刻に、我々のあと島についた「チチェーリン」とともに島を離れる。サラダ,ジャガイモとマッシュルームの煮込み,クリームがたぷりの茸の形のケーキ,紅茶。
 キジ島に降りるとき、下船口でスヴェータを見かけたので、もう一度写真を撮らせてと頼んだ。夜9時に3階前方のデッキで会う約束をしたのだが、いくら北方とはいえ9時では日没ギリギリだ。陽がいったん沈んでしまうとあたりが暗くなるのにそう時間はかからないから気が気ではなかったが、ほぼ約束の時刻に彼女は現れた。昨日同様姉と一緒だ。姉としてはかわいい妹が見知らぬ男に呼ばれて行くのは心配で放っておけないのだろう。この姉というのも大きな目をしたきれいな人だ。陽射しが昨日ほどきつくないので、いかにもスヴェータらしい表情の写真が何枚か撮れた。しかし、船上なので髪の毛が数本風で舞い上がってしまっているのを見て彼女は可笑しがった。それに川岸の線が二人の首のあたりにきてしまって構図としては最悪だ。私にはロシアのカメラ・ファンが撮るような素敵な写真は撮れない。

 彼女たちとわかれてまもなく船は複雑な水路を抜けて広い湖面に出た。先行する「チチェーリン」の船体が夕陽に映える。まもなくオレンジ色の大きなな太陽が湖の西に沈んでいった。


(7)マンドロギ  8月24日(水)

 普段もこの旅の中でも、自分は夜途中で目が覚めるということが殆どないのだが、何故か今日は3時頃一度起きた。窓の外を見ると漁り火のような光の列が見えたので、星を見ることができるかもしれないと思って着替えてデッキに出てみた。船はオネガ湖からスビル川に入るところで、漁り火のように見えたのは岸に並ぶ街路灯であった。星のほうはというと、東京の夜空よりはずっとマシだけれど南天にさしかかっている月のせいで小さい星々までよく見えるというわけにはいかない。下弦に近くかなり欠けた月なのにデッキの上に月明かりによる影がくっきりとできるほど明るく、月の光というものがこんなにも明るいということをすっかり忘れていたのに気づいた。船は南に進んでいるとばかり思っていたのに、北極星が船首側の相当高い位置にあった。時折り流れ星が夜空に細く薄い線を描く。しばらくそうやって船首側のデッキで夜空を眺めていた。川に置かれた航路標識は赤や緑の光を出すようになっていて、あるものは点きっぱなしだが、あるものは一定間隔で点滅を繰り返している。

 8時〜8時半頃、スビル川の最初の水門を通過。
 8時半、朝食。ジュース,チーズ,ハム,ベーコンエッグ,ジャム,コーヒー。
 10時半、マンドロギでのグリーン・ストップ。グリーン・ストップというと何もないところへ船をつけて、泳いだり茸や花を摘みに行ったりというイメージだが、ここは全然そうではなくて、グリーン・ストップのための大きな専用施設になっている。船も例の「チチェーリン」をはじめ上り下りあわせて4〜5艘もいたのではないか。船着き場のすぐそばにはシャシリクを焼いて船客に振る舞うための巨大なテントがいく張りもあり、何艘もの船が一緒に着いても同時に食事ができるようになっている。周囲にはキオスク程度の規模ではない土産物店、飲食店、遊技施設がいくつもあって、何かにつけて客からお金をとる仕掛けだ。自分はそのあたりの喧噪を避けて、船着き場からやや遠めの林の中の道を歩くようにしたが、同じようなことを考える人は当然いるわけで、一人緑の中の逍遙を楽しむというわけにはいかなかった。
 12時半、件のテントで昼食。生の赤カブや玉葱などと焼いた大きなジャガイモを添えたシャシリク,ピロシキ,ゼリーなどのお菓子,赤ワイン,紅茶。

 2時半にマンドロギを離れる。例によって船首側のデッキに陣取るが、ほどなく前方にダムと水力発電所らしい建物が見えてきて、船はその手前の古びた浮き桟橋に接岸。スビルストロイという村名を書いた看板がポツンと立っている。マンドロギをほぼ同じ頃に出た我々よりひとまわり小さい4層の客船「ツルゲーネフ」はここには立ち寄らずに目の前を通り過ぎていく。グリーン・ストップが2ヶ所というのも珍しいが、おそらく明日ヴァラアムに早く着きすぎるのを避けるための時間調整なのだろう。
 スビルストロイの船着き場近くにはたしかに土産物を売る小さな店が十いくつかかたまっていたが、それを別にすれば何の特徴もごく普通の村。2時間あまりの時間があったので、ここでも少し遠くまで歩いてみた。空は晴れ渡っていて、暑いほどであった。夏の昼下がり、子どもや大人もそんなにおおぜい屋外に出ているわけではないだろうが、水運びや土運びをしている男の子、舗装されてない道を自転車で走る女の子、家のそばの池で泳ぐ子ら、....などを見かけた。
 船に帰るとき、船着き場への通路の脇にいたおばあさんが花を買っていけと声をかけてきた。庭のを摘んだか野草か知らないがビールの空き缶に挿したひと束が1ドルだという。花を買ってもと思って一旦は断ったのだが、せっかく声をかけてきたのにと思って財布を見ると1ドル札が1枚だけあったので、お婆さんのところまで引き返して買った。それを持って船に戻ると乗船口にスヴェータがいるではないか。もちろんそのまま彼女にプレゼントした。スヴェータには花がよく似合う。

 6時夕食。いろいろな野菜をとりまぜたザクースカ,ウハー,肉とジャガイモの壺焼き,甜瓜,紅茶。
 夕食中に出港し、すぐに最後の水門に入る。これを抜けてしばらくの間は岸に工場が見えるなど人々が生活しているという感じが強くする場所を通ったが、しばらく経つと両岸とも針葉樹の樹林になり、それが行けども行けども続いた。前方がすぐにラドガ湖だとわかっているから、あの角を曲がれば湖が見えるのではないかと思うのだが、曲がってみるとまた川の両岸は樹林なのだ。夕食のときはレストランに高めの西陽が差してやはり暑いほどだったが、8時を過ぎて陽が傾き始めると急に寒くなり、デッキに居続けるには長袖を1枚羽織る必要があった。

 9時にスヴェータがやってきて、思い出にと言ってミニチュアのロシア国旗をくれた。彼女が寒いからと言って船室に戻るまでのしばらくの間、そこで話をした。大学の4年生で金属工学が専攻。来年には卒業してエンジニアになるか、さらに勉強を続けるかだと言う。この船で働いているわけではなくて船客で、2階のキャビンに姉といる。ただ兄がこの船で働いていると言っていたので、その兄に誘われてこの船旅に来たのであろう。いつ船を降りるのか聞いてびっくりした。ペテルブルクで船を降りてニジゴロド州の自宅へ帰るのではなく、そのまま船でモスクワにもどるのだと言う。帰りの船は30日火曜日にペテルブルクを出て、自宅へ帰り着くのは9月4日になるとか。大学はいつ始まるのかと聞いたら9月1日だと答えてニコッと笑ってみせた。


(8)ヴァラアム  8月25日(木)

 昨晩は寝るまでに船がラドガ湖へ出ることはなかったのに今朝起きたときは既にヴァラアム島の入り江に停泊していた。結局ラドガ湖上を航行するのを自分の目で見ることなく着いてしまったというわけだ。
 7時15分朝食。ジュース,サラミソーセージ,カマンベールチーズ,蕎麦粒のカーシャ,ジャム,コーヒー。

 8時すぎに上陸。ヴァラアムでの停泊時間が5時間以上あったので、泊地から中心部のスパソ・プリオブラジェンスキー修道院まで歩くのかと思っていたらそうではなくて船着き場の近隣を散策するだけだった。桟橋のすぐ近くにあるボスクレセンスキーというスキットに寄った後少し奥へ。ロシア人のローカルガイドが例のごとく微に入り細をうがった説明をする。やれこの聖堂を寄進した大金持ちはアル中で自殺しようとしていたの何だかんだだとか、やれこの林にはリスの家族が住んでいてどうしたとかどうでもいいことがすこぶる多い。それを通訳のオリガの非常に間延びした日本語で説明されるから、もう時間の無駄というか腹立たしいくらいだ。
 ヴァラアムはその多くの部分が森で、いかにも隠者の住み家を置くのにふさわしい雰囲気。島の形も単調でなく、深い入り江があったりするので、宗教的なことに関心がなくても、木々の密生した森、そこにさしこむ陽の光、林の中に見かける小さな池や入り江が形作る変化に富んだ景観などだけでも楽しめる。
 10時半に一旦船着き場に戻り、小型の遊覧船に乗り換えてプリオブラジェンスキー修道院へ。10年前に来た時は修復に手がついたばあかりで院内の建物の床にはまだバスケットボールのコートが描かれたままだったりしたが、今ではもうおかなり修復が終わっていて、ことにメインになる聖堂の内装はほとんど完成していた。

 1時半、「クラーシン」に戻り、昼食。ザクースカ,ペリメニ入りのブイヨン,玉葱のソースをかけた固い牛肉,プラム,コーヒー。食事の間にヴァラアムを出港。
 午後は最後の歌の練習があったり、船尾側のバーでお茶の会があったりしたので、いつものように長い時間デッキにいられたわけではないが、それでも1時間半ほどは4階船首側のデッキにいた。他の客はほとんどおらずずっと自分一人だった。というのは、天気はよいのだが、風が強く、プラスチック製のデッキチェアーが甲板の上を動いていくほどだったからだ。波頭が時々白くなる程度の波があり、今回の船旅では初めて船が揺れた。さっき言った通り天気は良いものの、遠方は白く霞んでいた。そのため湖のどちらの方角を向いても岸は見えず、空には雲ひとつなく、湖面に他の船影が見えないどころか1羽の鴎も姿を見せず、ただ風の音と押し寄せては過ぎていく波に揺られて時を過ごした。少々寒かったが。

 6時前から最上階のホールでお別れの「タレント・ショー」。この時間は英語,ロシア語,日本語グループで、船客のうち圧倒的多数を占めるドイツ人のグループは8時半からということになっていた。我々日本人グループは予定通りの3曲を歌ったのだが、「幸せなら手をたたこう」には振りがついているのが好評だったようで、9時過ぎのドイツ・グループのタレント・ショーにもお呼びがかかって出かけていった。
 7時からキャプテン・ディナー。レストランの入口で一人一人船長と握手して記念写真を撮ったことと食事の前に船長のスピーチがあったことがいつもの夕食と違う。あと、ごく小さなグラス1杯のウォトカが乾杯用に振る舞われた。塩漬けの魚とイクラのザクースカ - 生野菜添え,野菜のザラニア,チョコレートケーキ,紅茶。

 ドイツ・グループのタレント・ショーで歌い終わった9時半頃、最上階のデッキに出たが、船はまだネバ川にははいらず相変わらずラドガの湖面を航行していた。風と波はおさまって船の揺れもなくなっていた。

 翌朝目覚めたとき「レオニード・クラーシン」はまだネバの上を走っており、サンクト・ペテルブルクの河港に接岸したのは予定通り朝8時であった。



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