エニセイ旅日記 (1999)


( 5) エニセイスク

8月23日(月)

 7時半の船内放送によると気温が14℃と昨日よりは低い。天気は曇ですが、夜のう

ちにある程度の雨が降ったらしくデッキの手すりにしずくが並んでいます。船はまだ

前夜の場所に留まっていて、我々が起きてから動き出しました。船がエニセイスクの

河港に接岸したのは8時半頃だったでしょうか。これまでなら、船が早く着けるとき

には着いていて朝食前に一度岸に上がってそのあたりを散歩ということもできたので

すが、今回はそれができない。まさか、各自治体が船から時間制で岸壁の使用料を徴

収するようになったのではないでしょうね。

 

 エニセイスクは17世紀にセツルメント(何て訳せばいい?)が作られたのが始まり

で、クラスノヤルスクやイルクーツクなどシベリアのこのあたり一帯の都市はみなエ

ニセイスクから派生したのだとなかなか誇り高いのです。しかし、きっとシベリア鉄

道が南のクラスノヤルスクを通ったせいでしょうね、凋落著しく、今やクラスノヤル

スク地方の中の小都市に過ぎません。いや港から上がっての印象では都市といおうよ

り村といったほうがピッタリという風情です。もっとも、鉄道駅や空港のあるあたり

が市の中心地でそちらがずっと繁華だというのなら話は別ですけれど。でも河港から

すぐ奥のエニセイに平行な通りの名前が「レーニン通り」だからその可能性は少なそ

う。町はずれの侘びしい道にこの名前をつけることはありませんから。

 

 それにしてもこのエニセイスクの町、6年前に来たときと比べても時間が止まった

ように同じです。船着き場から町へ上がる坂道に並ぶ土産売りの人々、通りを走る年

代もののバス、港の近くの定期市の雑踏、....。昨今のモスクワに6年ぶりで行った

らこれはもう違う国へ来たのではないかと思うようなところがありますけれど、ここ

ではそれは皆無。あまりにも対照的でちょっと考えさせられてしまいそうです。もち

ろん広場のレーニン像も健在。もっとも我々のグループの男性で「あの像は誰?」と

聞いたご仁がいて、聞かれた案内役のレーナもさすがにこれには驚いたようでした。

 町を見おろすウスペンスキー寺院の鐘楼に上がらせてくれるのも6年前と同じ。さ

すがにひと撞き何ルーブルかで鐘を撞いてもよいというのは無くなっていましたけど。

教会の修復は6年前よりはずっと進んでいてイコンで飾られた正面の祭壇などはでき

あがっている感じでした。でも教会再建のための募金箱は相変わらず置いてあります。

塔の上から川岸側を見ると殆ど流れの無いように見えるエニセイが左右に広がってい

ます。

 

 船が北極圏にはいるときに「北極圏祭り」というのがあります。ま、赤道祭みたい

なもので、ネプチューンに北極圏の境を通して下さいとお願いする。川船でもネプチ

ューンでいいのかどうかよく知りませんけど。

 6年前のこれのときは乗組員がいろいろ芸をやってネプチューンのご機嫌をとって

くれて、我々乗客はゲラゲラ笑いながらそれを見て楽しんでいるだけでよかったので

すが、今回は違う。各グループごとに何か出し物を一つずつしなければならないんだ

そうです。その練習の時間が2度もタイムテーブルにしっかりと組み込まれていてそ

の1回目が今日の午後でした。うちの学校の部活の子たちに聞いても3年間で何がい

ちばん大変だったと言って3年生の追い出しコンパや合宿の打ち上げのときの芸を考

えるのほど大変なことは無かったと言っています。それを、ついこのあいだクラスノ

ヤルスクの飛行場で一緒になったばかりの大人がやれるの?と思っていたら、皆えら

く熱心に議論をしてとにかくまとまったらしい。「らしい」と書いたのは、全部英語

でコトが進んだので経過も結論も私にはよくわかってないからですけど。

 我々の英語グループはどうも大半イギリス人だとわかってきたのはこの頃になって

です。一昨日タシキノの林を歩いていたとき年輩の女性2人が声をかけてくれたので

妙に間があくのも気まずいと思ってよせばいいのに「カナダからいらしたんですか?」

といい加減なことを言ったら、全然違ってイングランドの人だそうで、「イギリスへ

はいらしたことがあるの?」「いや、ないっス。」「それじゃカナダには?」「ない

ですよ。」「じゃ、どうしてカナダ人だと思ったの?」「イギリス人とカナダ人では

アクセントが違うのよ。」とこちらもなかなか誇り高いのです。

 災厄というのは続くもので、ディナーの時の席は指定席ですから、いつも同じ席の

年輩のご夫妻にその日の晩今度は「イギリスからいらしたんですか?」と聞いたらサ

ウス・カロライナからですって。これまた失礼。「イギリス人とは発音が違う。あち

ら(と言ったと思うんですが、もしかすると「こちら」だったかもしれない。)のほ

うが重い。」とか..。難しいですね。

 このアメリカ人のご夫妻というのはキリスト教のどの宗派かわかりませんが、熱心

な信者で、晩餐にはいつもきちんと着替えていらして食事の前には必ずお二人一緒に

お祈りをなさり、ウェイトレスが飲物の注文を取りにきても絶対に氷入りの水しかお

飲みにならない。でも奥様が「お祈りがロシア語でなくて神様はおわかになるかしら?

」とおっしゃるのはもっともですね。父も子もマルチ・リンガルだったという話は聞

いたことがありませんし。

 私などは食事になったら夢中で食べるだけなのに、このご夫君のほうは窓の外にも

気を配っていて珍しい景色が見えると食事中にビデオカメラを持って立ち上がって行

きます。この彼、渋い風格とは裏腹にウェイトレスのアンナをからかってみたりする

茶目っ気もあるのですが、クラスノヤルスク教育大学の学生で将来はドイツ語教師に

なるのが夢というアンナのほうもうまく調子を合わせていますから、ま、お互いさま

といったところ。

 この紳士ジュリアンさんがおっしゃるには、サウス・カロライナとクラスノヤルス

クの時差はちょうど12時間だそうです。だから自分たちは大西洋まわりできたけど太

平洋を回ってきても同じだったと。でもジュリアンさん、それは違うのですよ。東京

とここの時差が1時間だと言ったら信じられなくて何度も聞き返したでしょ。

 このエニセイへ2度も来るのは私ぐらいと思っていたら、とんでもない。我々のグ

ループにやはり一人で参加しているスーさんという女性はロシアへの旅行は今度が3

度目で、はじめが三十何日かの旅行でモスクワあたりとここエニセイ、2回目がモス

クワから川船でペテルブルクへだったそうです。旧ソ連しか行ったことのない誰かさ

んとはもちろん大違いで、ヨーロッパ全域は別にしても、インド、ネパール、モンゴ

ル、中国、アラスカ、ペルーなどに行ったことがあると。こわされていない自然と心

を通じあえる人々との触れあいが好きで旅をなさるようで、「日本には?」と聞いた

ら「大きな都会には興味はない」とのご返事。日本にもひなびた所はありますよと言

いたかったけどやめました。今やかなりの地方都市の駅に降り立っても五反田駅前と

似てますものね。

 

 前日の夕食後は映写室でツンドラ地帯に住む何族とかいう先住民の生活を記録した

映画を上映してました。えらく学術的な映画なのにほぼ満席。ずいぶんまじめなツア

ーです。今日はツンドラに住む動物についての映画ということでしたが、英語でペラ

ペラ解説されてもわかりませんから、パスして船首のデッキに出ていました。そうし

たらくだんのプロカメラマンがやってきて大口径の望遠レンズをセットしたニコンを

デッキの手すりに置いた小さな座布団の上に据えて日没近いエニセイの風景を連写し

ていきました。日没と言ってもほとんど曇の天気。時たま雲の間から射す太陽の光が、

エニセイの岸の一角、もう葉が色づいて赤・黄・緑の混合した樹林のあたりを浮かび

上がらせていました。

 

 

 

 

( 6) ヴォローゴヴォ

8月24日(火)

 この日は夕方までずっと曇。低い雲が垂れ込めて今にも泣き出しそうというのでは

ないですが、その上層にもまた雲が広がって結局太陽は顔を出していません。

 

 起きたときに船は既にヴォローゴヴォ村の前に停まっているのですが、浮き桟橋に

は接岸していません。やはり停泊料金の関係ですかね。それとも乗客が勝手に下船す

るのを防ぐねらい?

 キャビン脇のデッキに出てみると、船が乗り上げている岸の向こうの小高くなった

ところには古い民家が2,3軒あってちょっと絵になりそうなのでカメラを向けたの

ですが、待てよ船の位置が5:3ではない..などと、よけいなことを聞いたばっかりに写

真が撮りにくくなりました。

 

 ヴォローゴヴォというのは人口1,200人ほどの、このあたりでは第一の規模の村とい

うことですが、もう見るからに寒村という感じです。船が着くと人がいく人か集まっ

てきましたけど、エニセイスクと違ってお土産売りは一人もいない。もう売るお土産

も無いのでしょう。

 気の毒なことに、この村は今年の春大洪水に見舞われたとか。エニセイのような北

へ流れる河川は上流側でさきに雪解けが始まるものだから、その融水が大きな氷のブ

ロックに遮られて洪水になったらしい。幸い避難が早くて村人全員が助かったそうで

すが、家畜なんかはダメだったのでしょう。村というのは今のエニセイの水面よりも

数mは高いところにありますから、そこが床上30cmとか、あるいは天井まで水が来る

ような洪水というのはちょっと想像を超えます。日本のように堤防によって溝の形に

された川ではないのですから、水面がそれだけの高さになるということは水びたしに

なった土地の広さがどれだけになったかというと....。

 数ヶ月後の今、村を歩くと、そのまま放棄されたらしい二、三の建物を除いてはご

く普通のたたずまいで、大きな災害にあったことを思わせるものはありません。民家

の煙突からは煙が立ちのぼり、窓の内側にはきれいな花が置かれていて、外では鶏だ

の牛だのが思い思いに歩きまわっています。家々の軒先には割ったばかりの薪が整然

と積まれていてもうじき秋どころか冬の近いことがうかがわれます。

 

 レーナが交渉してそうした民家の一軒の中を見せてもらえることになりました。入

り口を入ったところは暗い土間になっていて、その奥が農具などを置く納屋のようで

す。土間には小さな玉葱のような野菜が並べて干されていました。土間から上がると

台所、寝室、居間と続いていて、華美なところ、贅沢なものは何も見かけませんでし

たが、どの部屋も清潔そうで、必要なものはきとんと揃っている感じです。

 自宅を見せてくださったマリヤ・イワノヴナというお婆さんの写真を撮らせてくだ

さいというと、はじめは遠慮されましたが、無理にお願いして応じていただきました。

カメラを向けると背筋をピンと伸ばしてまごうことなきロシアのバーブシカの姿でし

た。

 

 桟橋に戻る途中で気づいたことがあります。家の角の太い柱、そうたいてい住居番

号を書いたプレートが貼ってあるのですが、そのプレートの上下に旧ソ連の鎌とハン

マーや永遠の炎、あるいは赤い星を形どった金属の薄板を貼り付けた住居がいくつも

あるのです。今朝、低い柵で囲まれた草だらけの土地の一角に取り残されたように建

っている戦没者慰霊碑を見たとき、そこに刻まれている名前の数が小さな村にしては

いやに多いと思ったのですが、あの家々の印の数が戦死した家族の数ということでは

ないでしょうね。

 

 天候が曇というせいもあるのでしょうが、風が非常に冷たく、デッキにいるときに

は風のあたらない場所を選ばないと長くはいることができません。茅ヶ崎の家を出た

ときは半袖のデニム1枚でしたけど、今は長袖のデニムの上にチョッキを掛け、さら

にその上にトレーナーを着ています。それでも寒い。乗客の中には冬用の防寒着でデ

ッキに出てくる人も少なくないほどです。

 

 午後2時半から昨日と同じ場所で北極圏祭りの2回目の練習。歌は日本でもよく聞

く一節ごとに「E.I.E.I.O.」というのがはいるあれです。それを替え歌にして、アン

トン・チェーホフでクルーズをしてウォトカを飲んでロシア語も習ってきれいな風景

を写真に撮って..とそんな意味らしい。それぞれにちゃんとフリが付いていて、かな

りの年齢の紳士・淑女諸氏がそれを真剣にやるものだから可愛い。歌の最後はガラリ

と調子を変えて“ブリタニア賛歌”とでもいうのでしょうか「RULE BRITANIA」をおご

そかに歌って終わる仕掛けになっています。

 何回か皆で合わせてもうこれでいいということになろうとしたとき、我々のグルー

プの中でいちばん若いカップルの奥さん、たしかパスカルさんといったと思いますが、

彼女が外国の人もいる北極圏祭りにその「ブリタニア賛歌」の最後の「never, never,

never, shall be slaves.」はまずいのではないかと言い出したのです。いや別段いい

のではという意見もあってしばしの「論争」。1人の日本人と2人のアメリカ人は黙

って成りゆきを見守るしかありません。結局、そこも別の内容に言い換えることで一

致したのですが、国際社会で「普通の国」になるというのはこういうことにも気配り

がきいて、真剣に考えることができるということなんですよね。日本の無分別なグル

ープなら「君が代」だって歌いかねないと思ったものでした。

 

 この練習の前だったか後だったか思い出せないのですけれど、船はヴォドカメンナ

ヤツングスカ川との合流点を通過。このあたりはいくつもの砂地の中州があたり大き

な岩の中島が水面から出ていたりで、風景の単調なエニセイの中では景色の変化が楽

しめる所です。船を操るほうにとっては大変でしょうけど。

 

 午後5時、コムサの近くでのグリーン・ストップ・船着き場がありませんから、6

年前のレーベジと同じで、「アントン・チェーホフ」の救命艇2艘を降ろして岸まで

ピストン輸送です。乗客全員と必要なスタッフを運ぶのに片道30分は要したでしょう。

スタッフのほうは岸で夕食の支度をしてくれていて、その間に我々はその先のタイガ

の林の中を歩きます。タイガと言っても川岸からほんの僅かなところですから、陽も

射し込んでくるし、狼も熊も出ては来ないのですけれど、苔むした倒木の上に細い若

木が伸びていたり、枝に例の藻のような植物がとりついて立ち枯れてしまった松の木

があったりで、人気のない森の中でも厳しい生存競争が繰り広げられているのがわか

ります。

 エニセイの水際から林までは30mかそれ以上の距離があって、一方水面と林の土地

とには何mかの高低差があります。その間は主として海岸の砂浜のような砂地で、林

に近い上のほうには大きな岩もゴロゴロしています。この砂地には草が生えていて黄

色だの紫色だのの花が咲き競っているのですけれど樹木は小潅木さえない。つまり、

エニセイの水位が高いときは林の際まで水で満たされるということです。この日スタ

ッフが用意してくれた夕食を我々が食べたあたりの場所は川底だったというわけ。そ

う思ってこのあとの航行のときに岸を見ると、流れ着いた倒木やら筏から抜け出てし

まった材木はどれも水際には見あたらず、全部林の際に置き去りにされていましたか

ら間違いないでしょう。

 

 このグリーン・ストップの頃になって急に天候が好転し、エニセイの上には青空が

広がりました。夜9時に船がコムサを離れてからほぼ30分ほど後の日没を見ようと船

首側のデッキに立ったのですが、正面からあたる風が冷たく、とても長くいることは

できません。久しぶりによいお天気ですから星もきれいだろうと思ったのですけれど、

陽が沈んだ側の空はいつまでも明るく、ようやく一番星の見えた11時頃にはもうまん

丸の月が川の上に浮かんでいたので星見はあきらめて寝てしまいました。

 

 

 

 

( 7) トゥルハンスク

8月25日(水)

 コムサからツルハンスクまではまとまった距離があり、ツルハンスクに着くのは今

日の午後になるために、今朝はモーニングコールがわりの船内放送はなく、朝食も10

時までにとればいいという気のきかせ方です。それでもほとんどいつもと同じ7時半

には朝食に行きました。

 

 起きてみてびっくりしたのはキャビンに暖房がきいていたことです。クラスノヤル

スクでは冷房だったのにです。

 

 朝食後、後部のデッキに出ていたらイギリス人の男性が話しかけてきました。機械

のエンジニアだった人だそうで、昨日の救命艇にイギリス製のエンジンが使われてい

て嬉しかったなどという話をしています。お子さんが3人いてもうお孫さんもいると

いうことですから、定年後の悠々自適のの生活を楽しんでいらっしゃるのでしょうね。

シベリア鉄道でウラジオストクにいらしたこともあるそうです。「日本へは?」って

うかがったらもうそれ以上のお金が無かったと笑っていましてけど、ロシアの極東部

にも中国にもいらしたことがありながら日本に行ったことはないというのはスーさん

同様日本は彼にとっても魅力がないのでしょうね。

 その彼が、ここに来ているアメリカ人を知っているかと言うのです。知っているも

いないも夕食のテーブルが一緒ですからそう言うと、彼らはキリスト教のリーフレッ

トを配って歩いているけど俺は好かんと言います。「どうして?」って聞いたら、人

はそれぞれ自分の信じているものがある、それを外から押しつけるのはいかん、まし

てロシアでは..という意見です。アメリカ人とイギリス人というのは独立戦争以来ソ

リが合わないのでしょうか。そう考えると昨日の「never, shall be slaved.」の議論

もアメリカ人おふたりを意識してのことだったのでしょうか。

 

 川の上はいっとき大きな雲に覆われて陽が陰ったときがありましたけど、あとは上

々の天気。風は冷たいものの、デッキの風当たりの弱いところを選んで座っているか

ぎり耐えられないほどの寒さではありません。

 朝一度と午後1時半頃にもう一度右岸にごく小さな集落を見た以外は両岸ともずっ

と針葉樹の林が続きます。昨日まで岸の林が少し黄色や赤く色づいているのを見ても

っと北へ行って紅葉が進んでいるところで写真を撮ればいいと思ったのは失敗でした。

このあたりにはもう色づくような樹種は無いのです。

 船尾をずっと鴎が追ってくるのもクラスノヤルスクあたりでは見られなかったこと

です。

 

 午後2時半頃、船の前方右岸の小高いところにエニセイスク以来の大きな町が見え

てきました。河港よりちょっと下流側の高台には飛行場さえ見えます。町はニジナヤ

・ツングースカ川との合流点に建てられたツルハンスク。クラスノヤルスク地方ツル

ハンスク地区の行政の中心です。

 港には旅客用の浮き桟橋がひとつあるだけですけれど、あたりの浜辺には貨物用の

コンテナがゴロゴロと置いてあって、実際何艘かの貨物船が浜に係留されています。

 例によって浜から町にはいるためには急な斜面をはい上がらなければなりません。

登ってみるとエニセイスクをさあらにふたまわりほど小ぶりにしたような町です。

 しかし、町の歴史は古く、17世紀にはロシア人がここに来たようです。ニジナヤ・

ツングースカ川の岸に、できてから300年を越すという男子修道院の一部だったという

建物があり、今でもかそれとも今になってからかはわかりませんが、宗教活動をして

いる様子でした。ロシア人が入植してまもない時期に修道院を建てるというのはやは

り先住民族を正教に帰依させる狙いだったのでしょうか。

 エニセイもこのあたりまで下流に来ると流刑地としては格好だったようで、我々が

こうやって市内(村内?)を歩いている間に別のグループ40人ほどはヘリコプターを

チャーターしてスターリン時代のラーゲリ跡の見学に行っています。ロシア革命前は

ツァーリ政府によって革命運動家が流刑にされ、ここツルハンスクには流刑中のスベ

ルドロフとスーレンという人が住んでいたという小さな家がそのまま博物館になって

います。

 それだけ行ってしまうとあとはもう見学場所もない。白樺(エニセイの岸ではもう

見なくなっていたのですが)並木の舗装してない道路、道ばたで草をはむ牛たちの群

れ、朽ちかけた橋とその向こうの傾いているような家、..そんなものを見て歩くだけ

です。今にも落ちそうなその橋の写真を撮っていたら同じグループのイギリス人の老

人が近づいてきて「クワイ川?」と言う。うーん、何十年経っても敵側は忘れていな

いのだ。

 これまでロシアの町で自転車をそう多く見ることはなかったのですけれど、この町

はどういうわけか自転車を多く見かけます。とくに子ども達が自転車でよく行き来し

ている。若者はというとサイドカー付きのオートバイ、これを多く見ます。市内に自

転車工場でもあるのでしょうか。

 工場と言えば、この町を川から見ると細くて高い煙突がいく本も立っていて、大工

場ではないにしても工場がいくつもあることが知られます。町を歩いていたら、そう

した煙突の1本の先端に風見鶏ならぬ風見猫がいるではありませんか。いや、そんな

日和見的なのではなくて、どんな向きに風が吹いても動じない猫かもしれません。煙

突の上ですからもちろん煤で黒猫になっています。田舎の町工場にしてはずいぶんな

遊び心だと感心した次第。

 この猫の近くに、我々が歩いた範囲では殆ど唯一の商店があり、行ってみました。

3階建てのこのあたりにしては立派な建物で、「百貨店」の看板と壁面には400年近い

ツルハンスクの歴史をモチーフにしたレリーフのようなのまであるという堂々とした

ものですが、実際の売り場は1階だけというのはロシアでは驚くことではないですね。

入口には営業時間とあわせて「定休日無し、昼休み無し」とこちらはロシアらしから

ぬ表示。入ってみると、肉製品、缶詰、酒、キャンデー、文房具、書籍(ソルジェニ

ツィンの小説とか)、毛皮の帽子、農具、..と脈絡のない品揃えがしてあって「百貨

店」の看板に全く偽りがないことを思い知らされて出てまいりました。

 

 船のレストランでは時々特別の趣向を凝らす日があり、昨日はイタリアン・ディナ

ーとかで、ウェイトレス達はイタリアの三色旗の蝶ネクタイに同じ三色の帽子をかぶ

ってサービス。スープはミネストローネで、メインディッシュにはたっぷりのパスタ

が付いてくるという具合。このあいだはロシア民謡を聞かせてくれたクルーによるア

マチュア・バンドも同じバラライカでオーソレミオを奏でながら食卓を回ってくれる

というサービスでした。

 今日は「海賊ディナー」だとかで、ウェイトレス連中は白黒横縞のシャツを着て、

頭にはネッカチーフを海賊巻きにしての登場です。男の子のユーリャなんかはいてい

るGパンも両膝のところでパックリ口があいている。出されたデザートの皿にはチョ

コレートパウダーで髑髏マークの海賊旗が描いてあるという念の入れようで、遊びな

がらじゃなきゃ仕事はできんと思っているのは煙突作りの職人さんだけではないこと

がよーくわかりました。あ、もちろん、海賊旗のほうはケーキで拭き取るようにして

全部食べてしまいましたらから跡形もなくなりましたけど。

 

 夜9時半から上階船首側のバーで北極圏祭り。上りの船と違って下りの船だと乗船

してからかなりの時間が経っているので、乗客どうしでもスタッフとの間でも馴染ん

できているものだから盛り上がり方が違う。6年前にはスタッフによる出し物だけだ

ったとこのあいだ書きましたが、あれは上りの船で乗船してまもない時期に北極圏を

出たからなのかもしれません。

 乗客側の出し物はドイツ語のが4グループ、英、仏、伊、露がそれぞれ1グループ

ずつで計8グループ。手品があったり、「ヘンゼルとグレーテル」の劇があったり、

小さな子のお遊戯があったりでどれも楽しめました。スタッフ側の出し物の中心は何

と6年前と同じ「アイン,ツバイ,ドライ,....」で身体を動かすのと調子を外した

「ダニー・ボーイ」。しかも演じ手がかわった分だけ気のせいか技量が落ちているよ

うな。それとも留年生が去年の講義のと同じオチを聞いてもあんまり嬉しくないのと

同じ類だったのでしょうか。でも、その場にいた大半は留年生ではありませんから大

受けの内におひらきになりました。

 時刻は11時半にもなっていたでしょうか、前夜と同じ丸い月が川の上のそう高くな

いところにあって、川面に明るく長い影を映していました。




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