エニセイ旅日記 (1999)


( 8) イガルカ

8月26日(木)

 起きてみると船は停泊しています。両岸のどちらにも村などがあるわけではなく、

停まっている理由がわかりません。もしかすると、昨晩の北極圏祭りで北極圏に入る

のが真夜中だとか朝だとか言っていたので、その場所で朝まで待ってくれるというサ

ービスだったのかもしれませんが、そうだとしてもそれを示すモニュメントがあるで

なし、写真の撮りようもありません。

 

 予約しておいた理容室に朝9時に行って散髪してもらいました。昨日の百貨店で12

ルーブルだったミネラルウォーターを銘柄が違うとはいえ4ドル50セントで売るほど

何でも高い船内なのに、散髪だけは12ドルとわが家の近くの行きつけの3分の1なも

のだから、ミネラルウォーター分を取り返すためにも行かなければと思ったのです。

そのかわり肩を揉んでくれるとか耳を掃除してくるとかは無い。でもね、日本の床屋

さんに言いたいのですけれど、耳の穴をきれいにしてもらいたくて理髪店に行くわけ

ではないのですよ。耳掃除は妻の膝枕がいいに決まってるでしょ。船の理容室はペル

ミからの「マヤコフスキー」で経験がありますが、やはり今回も同じで剃刀を当てる

のにシャボンを使わずにじかなんですね。シャボンに慣れている身にはあれがちょっ

とこわい。また、日本の床屋さんみたいに「どういう形にしますか」とか聞いてくれ

ない。いや聞かれても通じなかったでしょうけど。そういうわけで勝手にオールバッ

クにされてしまいました。そんなものシャワーですぐに直せるからいいですけど。

 

 この日は朝からずっと曇のお天気で、かろうじて薄日の射すくらい。デッキにいる

とかなり寒い。朝から左右に1ヶ村も見えず、両岸に針葉樹林の続く昨日と殆どまっ

たく同じ景色です。

 

 昨日と同じの極めつけは、イガルカの町の見えてきかたです。昨日のツルハンスク

の町も上流側から接近する船から見ると、川が大きく左へ屈折するところの右岸、つ

まり船の正面に位置していました。そして、町がはっきりと見えるのよりも前にまず

船の正面に3階建ての建物の高さぐらいはありそうな赤色と白に塗り分けた不思議な

「板」が見えるのです。これが今日のイガルカも全く同じ。12時半頃、まずその怪し

げな標識のようなのが見え、それより前方左側に大きな町が見えるようになりました。

遠くから見てもあれがイガルカだとすぐに見当がついたのは、町のはずれにクラスノ

ヤルスクかレソシビルスク以来の立派なアパートが何棟か建っているのが見えたから

です。

 イガルカの河港の客船用の桟橋はツルハンスクやエニセイスクと同じ型の粗末な浮

き桟橋1つだけです。ツルハンスクと違うのは貨物船の荷役をするためにのクレーン

がいくつかあること。イガルカの町そのものがエニセイ川に流れ込むごく小さな川を

境にして旧市街と新市街にわかれていて、客船の桟橋は新市街側に、貨物の積みおろ

し場は旧市街側にあります。その積み降ろし場の背後にはとてつもなく広い材木置場

があり、そこに製材された木材が整然とならべられています。ただし、川に近いとこ

ろにあるのを除いて、多くの木材はすっかり色が変わってしまっていて、船に積んで

も商品として売れるのかは不安です。1時半頃接岸しました。

 

 この町の風景にはこれまで見てきた町とは違う特徴があります。それは市内を縦横

に走る給湯用の配管にすべて木で作られた覆いが掛けられていることです。むきだし

のままのパイプは1ヶ所もない。ごく一部には管のまわりに板をくくりつけて円筒形

になっているところもありますが、大半は四角い形なので木道のようにその上を歩い

て行けるほどです。

 もう一つの特徴は、建物が、木造のもコンクリートのも、みな木の板を並べて作っ

た「袴」を履いていること。このあたりは冬には表土が凍りつき、夏には融けてゆる

むというのを繰り返すため、普通の工法では基礎が崩れて建物が傾いてしまいます。

そのために支柱を深いところまで挿し込む一方、建物は地表から浮かせるように建て

ていました。その床下部分を木の板でずっと囲んでいるのです。これって6年前に来

たときもそうだったのか、最近の研究による新しい手法なのかちょっと記憶が定かで

はありません。..と言うのは、あの時はむしろその「高床式」の基礎部分を直接見る

ことができたような気もするからです。

 

 町いちばんの「名所」は旧市街にある永久凍土研究所。でもなぜかスターリン時代

の強制収容所の展示にも力が入っていて、ラーゲリの一室を実物大に複製したものま

でありました。写真撮影には25ルーブル要ると言われて写真は撮ってきませんでした

けれど。

 歴史部門の建物を出て自然部門のほうに行くと展示室の奥に地下に入る階段があり、

それを降りると地表から10mほどのところにある水平方向のトンネルに行き着きます。

トンネルの壁面には氷の結晶がビッシリですけれど、これは凍土とは関係なくて、ト

ンネルにやってきた大勢の人間の吐き出した水分が凍土によって冷やされて固まった

ものでしょう。

 

 イガルカに入港したのは予定より30分ほど早かったのに、市内観光の時間がおした

ためか出港は逆に少し遅れました。5時をいくらかまわっていたと思います。空は相

変わらず曇っていて風が強い。出港して30分あまりで町はすっかり見えなくなり、両

岸はまた元通りの景色になりました。

 

 サン・デッキでじっとしていたら、ラフな服装をした青年が近づいてきて声を掛け

られました。ベオグラードに住むセルビア人だそうです。ついこのあいだNATOに

よる空爆のあったあのセルビアかと聞くとそうだと言ってわざわざ船室に戻って爆撃

の時の写真を持ってきてくれました。写真は絵はがき大のカラーのもので、それこそ

絵はがきのように爆撃された建物や橋の名前、あるいは「これが軍事目標か」といっ

たスローガンのような文字が印刷されています。ベオグラードの橋が爆撃によってド

ナウ川に落ちているもの、炎上するビジネスセンター、日本でも新聞報道で見たこと

のある鉄橋で「誤爆」された列車の残骸などです。彼によると、爆撃されたのはほと

んど非軍事的目標で、報道されていないけど何千人もの人が死んだそうです。コソボ

でアルバニア人が迫害されていたというのはアメリカによるプロパガンダで、NAT

Oがバルカンのほうへ拡大していくときにそれに沿わないセルビアが邪魔だから爆撃

しているのだ、小国のセルビアなんか大きなNATOにとって消えてしまってもどう

ということはない、エリツィンがはっきりダメと言えばNATOも制約を浮けたけど

経済的な弱みもあって彼はそうしなかったし....と矛先はロシアにも及びます。でも

チトーの時はみんな仲良くやってたじゃないかと言うと、今だって何も問題は無いの

にバルカンに手を伸ばそうというアメリカがナショナリズムをい煽っているのだと言

っていました。爆撃が終わった後の今の市民生活のことを聞いたところ、もちろん人

によって様々だけど、大きな工場が爆撃されたので職を失った人が多いとも言ってい

ました。

 

 重たい話を聞いた後の今日の夕食は「シベリアン・ディナー」だそうで、昨夜は海

賊に扮していたレストランのスタッフですけれど、この日はアンナ達ウェイトレスは

白のブラウスに黒のタイトスカートという普段の制服の肩にプラトークを掛けて、ユ

ーリャ達ウェイターはルパシカを着てのサービスです。スープはもちろんペリメニ。

大好物ですから、今日だけはおかわりを許していただいて2杯いただきました。

 

 一日中はっきりしなかったお天気ですけれど、夜遅くになてとうとう多少の雨も降

ってきました。

 

 

 

 

( 9) ウスチ・ポルト

8月27日(金)

 目が覚めたのが6時半くらい。船室のカーテンを開けると湖ではないかと思うくら

い広い水路を航行しています。昨日までは船から数百mのところにあった左岸が数km

も先のほうにある感じです。お天気は相変わらずで水面は波立っていました。

 

 7時半に朝食を告げる船内放送があって気温は10℃とのこと。この頃、船はさきほ

どに比べるとずっと狭い水路の岸の近くに停船したので、午前9時到着予定のウスチ

・ポルトかと思ったのですが周囲どちらを見回しても人の住んでる気配がありません。

 

 それから1時間ほど経って事情がわかりました。天候が悪くてウスチ・ポルトに近

づけないので午後まで待機して、そのかわりに午後に予定していたブリッジやエンジ

ンルームの見学を午前中に実施するという放送があったからです。

 空は厚い雲に覆われていますが、時おり雲の切れ目から陽が射すことはあります。

船のまわりには沢山の鴎が飛び回ったり、気が向くと水面に降りて翼を休めたりして

います。

 

 10時40分からさきほど案内のブリッジ等の見学。ブリッジにあった海図ならぬ川の

地図を見ると、たしかに大きな中州と左岸の間の水路に船は停まっていて、中州のむ

こうにははるかに幅広の本流のあることがわかります。

 

 岸は浜の後ろがやはり小高くなっているのですけれど、これまでのように針葉樹が

密生しているわけではなく、ことに高いところでは木が少なくなっていて、樹木にと

って育ちやすい環境ではなくなっているようです。また、浜と樹林帯の境は水面から

それほど高いところにはなく、このあたり川幅の広いところでは季節による水量の大

きな変化があっても水位はこれまでのところほどは変わらないということなのでしょ

うか。

 

 昼食を済ませた12時半頃になってかなり陽が射すようになり、船は錨を上げて動き

始めました。はじめ停船していたときの向きのまま、つまり南向きに進んで行くもの

ですからさきほどの場所が今度の旅で最も北の位置かと思ったのですが、ある程度の

時間が経ってから船は大きく回頭したため位置関係はすっかりわからなくなってしま

いました。

 

 2時近くになってでしょうか、前方右岸にウスチ・ポルトの村が見えます。高くな

った岸の上に木造の家屋が肩を寄せ合うように小さくかたまっている寒村です。

 午前中にここに来れなかったのがどうしてかわかりました。接岸できなかったから

ではありません。接岸しようにも桟橋も無いのですから。ここではコムサのように救

命艇を降ろして乗客を岸に上げるしかないのですが、それが難しかったのです。午後

我々がここに着いた時もやはり風と波があって、先日のコムサよりも艇は上下に揺れ、

ブリッジの左端で岸やボートの様子を見ているイワン・チモフェエビチにとって決断

が難しそうでしたけれど、結局上陸ということになりました。

 

 この村にはむろんロシア人もいますが、一目見てロシア人とは違うとわかるネネツ

人が多く住んでいるそうです。彼らは牧畜か何かに従事しているのでしょうか、夏に

は村にいないということで、残った子ども達のための施設が設けられています。だか

らでしょうか、村を歩くと子どもの数が多いと感じます。それと立派な体格の犬がむ

やみにいます。聞いたら冬季の交通手段だとか。

 村にはもちろん舗装道路などはなく、どこを歩いてもぬかるんでいます。村の外は

荒涼とした草地で、樹木はほとんどみかけません。ただ、あちこちに紫や白や黄色の

花が群生しています。

 村の奥に鶏を飼うケージのような箱がとてつもなくたくさん並んでいる養鶏場のよ

うな広い施設を見つけました。大半のケージが空っぽで、まさか夏だからといって鶏

をどこか別の場所に移して「放牧」はしないでしょうから、養鶏場の跡かと思ったの

ですが、そうではなくて狐の飼育場でした。大半のケージが空なのは経営が難しくな

っているからなのでしょうか。それでもいくつかの列には黒い小さな狐がいて臆病そ

うな目でこちらを見ています。驚いたのは飼育場の事務所の建物で、出入口の扉の周

囲には隙間風よけのために毛皮を貼りつめていました。

 岸辺に戻ると、船名のところに「プラヴマガジン No.630」と大書したそれなりの

大きさの貨物船が着いていて、人々がそこから穀物らしい袋だとか何かが入っている

大きな紙製の箱だとかを運び出していました。村への物資の供給はこういう巡回商店

みたいな船に頼っているのでしょうか。それも冬になれば途絶えてしまう筈ですけど。

 

 

 午後5時にウスチ・ポルトを離れて最終目的地ドゥヂンカに向かいます。波は着い

た時よりもさらに穏やかになったものの上空には厚い雲。ただ、川上・川下の遠くの

空は晴れてきています。

 来る時には今朝起きてからウスチ・ポルトまでの間に人工物は何も無かったと思っ

ていたのですが、上のデッキに上がって双眼鏡でよく見てみると岸に石油か天然ガス

を採取する櫓のあるのが見えます。それから何かの工場の廃虚のようなものも。まさ

かラーゲリ跡ではないですよね。

 

 午後6時からキャプテン・ディナーです。レストランの入口にはキャプテンをはじ

め主だったスタッフが並んで、それぞれと挨拶をかわしてからいつもの席へ。今回の

旅日記には何を食べたのかを一度も書いてないのですが、今夜ぐらいは書きましょう。

 

 ザクースカは、これまで見たことのないほどの小ささ、直系3〜4cmぐらいのブリ

ヌィ3つにそれぞれキャビア、小海老、サーモンを載せたもの。スープはオムレツを

浮かべたブイヨン。メインはヒレのロースト・ビーフ、それにジャガイモとチーズを

重ね焼きにした厚焼き卵のような大きいのが添えられています。デザートは大きなア

イスクリームを1cmぐらいの厚さに切ったのが平皿にのせて出されました。

 レストランに入るときに乾杯用のシャンペンを振る舞われ、その上にグルジア産の

グラス・ワインを頼んだものだから酔ったようで頭が少しフラフラしています。

 10日間お世話になったアンナとレーナには成田空港の売店で買ったこけしをお礼に

あげたのですが、ユーリャには何もない。「ごめんなさい、男の人用の贈り物をもっ

てないんですよ。なぜって私が男性だから」と意味不明の言い訳をして、自分がつけ

ていたネクタイピンを外して記念に受け取ってもらいました。

 

 8時から最上階の映写室で30年前のエニセイの様子を描いた映画の上映。いかにも

ソ連時代という構成と色彩(色が悪い)の古色蒼然とした映画ですが、人々のモード

なんか映画とでははっきり違うものの、通りを走っているバスの形とか川で荷物を運

んでいる鉄函みたいな船などおいおい今でも同じじゃないかというのもあって、身の

丈の大きい国だけあってなかなか総身に何かがまわりかねているようです。

 映画には新婚間もない頃と思われる船乗りイワン・チモフェエビッチの姿も一瞬出

てきて、みんな「あれ!」なんてびっくりしていました。

 

 9時半から船首側のバーで、クルーによる「特別演芸会」。北極圏まつりのときと

同じで、男性陣による「白鳥の湖」(プリセツカヤ風の「瀕死の白鳥」もちゃんとあ

る)やら椅子を馬に見立ててのモスクワ・サーカス式馬の曲乗りとか「映画スタジオ

で」など6年前にも見せてもらったのもありますが、それを含めて存分に楽しませて

もらえました。あ、「映画スタジオ」での監督は今回はスティーブン・スピルバーグ

ということになっていましたっけ。もちろん、真面目にロシアン・ロマンスを歌った

りというのもあって、その中でロシア民謡「トロイカ」を日本語で歌ってくれるとい

うサービスもありました。

 

 この催しが始まって30分ぐらいのときに急に場内がざわつきはじめました。陽の沈

む側の雲が切れて反対側に大きな虹ができていたのです。それで虹を写真に撮るため

に演芸会は5分間の休憩ということになりました。写真に撮れるほど色のはっきりし

た大きな大きな虹でした。

 

 キャビンに戻って寝る用意をしていると、ゴツンという軽い衝撃があって桟橋に着

いたように思えたのでカーテンをあけてみるとドゥヂンカの客船用浮き桟橋に接岸し

ていました。客船用の船着き場は市の外れのさびしいところにあるのですが、それで

も真夜中の11時半だというのにいくつかの水銀灯が桟橋を照らしているあたり、やは

り大都会です。

 

 さきほど虹を見たというのに、この旅に来て初めての本格的な雨になっていました。

 

 

 

 

(10) ドゥヂンカ

8月28日(土)

 午前9時からバスでの市内観光。朝、船はやはり桟橋を離れていて、再び岸とつな

がったときには「イッポリート・イワーノフ」という客船が桟橋との間に入っていて、

我々はその中を通って上陸しました。客船と書きましたが、荷も沢山積んでいるよう

で浮き桟橋を荷役の人達が忙しそうに行き来しています。

 雨はほとんどやんでいましたが、空は厚い雲に覆われ、そんなに幅の広い水面でも

ないのに向こう岸がかすんで見えます。船内放送では朝の気温は10℃、クラスノヤル

スクの放送局からのラジオは、ドゥヂンカは雨で13〜18℃と言っていましたが、これ

は今日の予報なのか昨日そうだったというのかわかりかねます。風があったせいか、

町に出ての実感では非常に寒かったですね。

 

 この町の建物の基礎が高くなっているのはイガルカと同じですけれど、板でできた

腰巻は巻いてなくてコンクリート製です。面白いのは建物の色をそれぞれに変えてい

ることです。冬季に風景が単調になるので、少しでも変化をということでしょうか。

 このあたりではロシア人ではない先住民がロシア人の入植前から生活していたとこ

ろですから、タイミール地域博物館の展示のかなりの部分はそのいくつかの先住民族

についてのものでした。実際町を歩いていても非ロシア人、むしろ我々日本人に近い

とも思える顔の人をしばしば見かけます。

 驚いたのは市内観光のあいだに一度だけ、日本の中古車を見たことです。白い小型

のトラックで運転席のドアに「××運送」と漢字で書かれていて、その下方には四角

い線で囲んで「一般」と書いてあったので、前世では緑ナンバーで活躍していたんで

すね。極東やサハリンではこんなのは珍しくも何ともないですけど、北の果てのこの

地ですからさすがにびっくりしました。クラスノヤルスク鉄道駅のキオスクに「日本

車の修理」というタイトルの本が並んでいるのにこのあいだ気づきましたけれど、そ

ういう本を出版して採算が合う実態があるわけです。そういえば午後に町を歩いたと

きに港にFESCOのコンテナが転がっているのを見ましたから、あの車、ウラジオスト

クあたりから北極海航路で運ばれたんでしょうか。

 

 この日はヘリコプターでドゥヂンカの町から少し離れたところにいる遊牧民を訪ね

る予定でした。これがはじめお昼の予定だったのですが、天候が悪くて3時半になり、

さらにローテーションの都合か何かで私は午後6時のグループにまわされてしまいま

した。それで、昼食のあとがまるまる自由時間に。でも、午後町に出かける時には

「イッポリート・イワーノフ」はもういませんでした。

 

 桟橋から市の中心に出るにはぬかるんだ道路を川沿いにかなり歩いてから大きく左

に曲がって行きます。この泥んこ道の川と反対側は川に面したかなり急な傾斜地にな

っていて夏草や小潅木が生えています。泥道に靴をとられるのも車からハネを上げら

れるのもイヤなので、この斜面の続きの中からなんとか這い上がれそうな所を選んで

登ってみました。町の中心に行くのに近道にもなるかと思ってです。上がってみると

上は貯炭場で、その高台にさらに石炭の山が築かれています。長い冬を越すためには

大変な量が必要なのでしょう。この高台からのエニセイの眺めがいい。今朝かすんで

見えにくくなっている対岸と思ったのはやはり中州で、そのむこうにもうひとつエニ

セイの流れがあります。中州と貨物港の真の水面には接岸はしない船がいく艘も錨を

おろしています。

 

 ほとんど近道にはならなかったけれど、そこから町の中心へ降りて気の向くままに

歩いてみました。陽が射してきたかと思うと雨の降り出すような気まぐれなお天気で、

途中傘を広げたりもしたほどです。

 この町も5月にエニセイの洪水にあって港はかなり水没したようですが、住宅はど

ちらかというと高台にあるので、それほどの被害は出なかったのではと思います。洪

水があったことを気づかせるものは今は何もありません。

 

 歩ける範囲をひとまわりまわって、帰りも高台経由にしようと高いほうへ高いほう

へと登って行ったのです。町の中心からは雛壇のようにアパートが並んでいるので、

さきほどの桟橋から貯炭場へ行くような難儀はありません。

 それでいちばん高いところにあるアパートのあたりまでたどり着くと、子ども達が

キャッキャッと楽しげな声を出しているのが耳に入ります。その声に誘われるように

して近づいてみると日本の団地にもよくあるちょっとした遊具のある遊び場で幼稚園

の年長ぐらいの女の子2人と小学4,5年生ぐらいのやはり女の子2人がそれぞれ別

々に遊んでいます。園児のほうにカメラを向けたら隠れてしまって撮らせてくれない。

小学生のほうは撮ってもらいたいけど素知らぬふりをしている様子です。それでこち

らの2人の写真を撮ってあげたら小さい子達もカメラの前に連れてきてくれました。

 小学生の2人はすぐ後ろのアパートの同じ棟に住むナージャとカーチャ。園児らし

い2人の姿はまもなく見えなくなってしまいましたが、今度はカーチャ達と同じ棟の

やはりナージャという小学校低学年ぐらいの子が現れて一緒に写真を撮ってほしいと

言われてカメラを向けたら何と上の2人はVサインをするじゃありませんか。あれっ

て万国共通なんですか。ロシアでは私は初めて見ましたけど。

 彼女達にさよならを言って桟橋のほうへ向かって歩き出すと、少し距離を置いて3

人と犬が1匹あとをつけくる。私のほうは知らん顔をしてスタスタ歩いたのですが、

彼女達がついてきてくれて助かった。私が出たのは貯炭場の石炭の山の上だったので

す。こうなると勝手のわかっている地元の子でないと降り口が見つからない。貯炭場

からあの泥道まで下るのだってどこからでもというわけにはいきません。アパートか

らもうだいぶ遠くなっているので心配になって帰そうとしたのですが、私が下へ降り

そこなって戻ったりしているのを見つけられて結局ナージャ達に先導してもらうハメ

になりました。船のすぐ近くまできて、ようやくむこうから「さようなら」を言って

別れたものの、遠くまで連れて来てしまって今度は彼女達のことが心配です。見てい

ると我々なら絶対登ろうとは思わない急な斜面を小学校2年生だというナージャも含

めてぐんぐん上って行きます。そして途中で何度も振り返ってはこちらに向かって大

きく手を振ってくれました。

 

 午後6時前にバスで港を出てヘリポートへ。桟橋とは町の中心をはさんで反対側の

はずれにあるヘリポートは湿地の中に土を入れて上に木の台を置いたものです。ヘリ

コプターはロシアでもっともお馴染みのMi−8。座席は硬い長椅子で、天井には穴

があいていてローターとを結ぶケーブルがむき出し。前の壁にはホーロー引きのマグ

カップがぶら下がっていたりで、旅客用というより兵員輸送用という感じです。高度

300m以下で30分弱の引こうでした。

 ドゥヂンカの町からはエニセイを渡っていくのですが、川を越えるとツンドラの景

色が広がります。樹木が無いわけではないのですが、タイガのような密林はどこにも

ありません。小さな林が形成されていても疎林です。あとは草地。そして大小の池と

いうか水たまりがいたるところにあり、時々蛇行している小河川も見えます。これら

は地図に書き込むのも難しいでしょうね。だって一旦エニセイが氾濫したらこんな池

はどこにどのくらいできるかわかりませんから。

 窓から2頭のトナカイが見えると指さされた直後にヘリコプターは降下態勢にはい

り、長さ50mか100mぐらいの池のそばに着陸しました。降りたあたりの地面には白

っぽくてやや固そうな枝分かれの激しい小さな草が一面に生えています。これがトナ

カイの餌になるそうですが、極端な寒冷地だけに生育に時間がかかり、一旦トナカイ

の餌場になったところが次に使えるようになるには9年かかるとか。

 我々が訪ねた集団は何家族から成るのかわかりませんが、トナカイの皮を張ったテ

ントのような小さな住居が3つか4つあり、そこから少し離れた所でまとまった数の

トナカイがゆっくりと歩いたりすわりこんだりしていました。今はこうして見ている

といかにものどかな風景ですけれど、このあと9ヶ月近くも続く冬のあいだはどうや

って過ごすのだろうと思いながら帰りのヘリコプターに乗りました。

 

 船に戻ったのが夜9時前で、いつになく遅い夕食。そのメインディッシュはトナカ

イ肉のシチューでした。

 

 明朝5時には下船です。




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