戦没兵士の記憶 (ウラジオストク)
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ウラジオストクにも同じような追悼施設があった。ただ、こうした戦没者慰霊碑の脇に教会があるというのは、ソ連時代には考えられなかった構図だ。 (2007年12月撮影)
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戦没兵士の記憶 (サマーラ)
ヴォルガの川岸にあるサマーラの戦没者慰霊碑。ここでも、やはり背後に教会がある。 (2014年8月撮影)
戦没兵士の記憶 (ハバロフスク)
ハバロフスク市内、アムール河を見下ろす小高い場所に、ソ連時代から、大きな戦没者追悼碑がある。近づいてみると、そこに刻まれたおびただしい数の戦没兵士の名前に圧倒される。こんなに大きな犠牲を払ったということだ。 (2012年8月撮影)
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戦没兵士の記憶 (カリーニングラード)
写真を撮った時には「あ、この町にもこういうのがあるんだ」と、別段何も不思議に思わなかったが、旧ソ連の各都市にあるこういう追悼碑は、その地方出身の戦没者名が書かれているのが普通だ。でも、独ソ戦のとき、ソ連側に、カリーニングラード出身の将兵はいなかった筈ではないのか。そうすると、ここに名前が書かれているのは、カリーニングラード戦で命を落とした人たちということ? (2011年12月撮影)
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横断幕 (キエフ)
キエフ市のメインストリートであるクレシャチク大通りの道路の真上に掛けられた横断幕。核兵器の禁止と日本の被爆者への連帯をよびかけている。旧ソ連ではヒロシマやナガサキのことは学校でよく教えられている様子で、もう日本の子どもたちでも忘れかけている「ササキサダコ」という日本の女の子のことなどソ連全土のどこへ行っても子どもたちが良く知っていた。 (1985年8月撮影)
ポスター (ハバロフスク)
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核兵器の廃絶をめざす国際的な運動「平和の波」のポスターが空港ビルの出入り口に無造作に貼り出されていた。 (1989年8月撮影)
街頭活動 (ハバロフスク)
空港前の広場には、平和を訴える児童の手描きのポスターを掲示してカンパを求める一団の人々がいた。旧ソ連ではスローガンを書いた看板やポスターにはよくお目にかかったが、こうした街頭での地道なカンパ活動などに出会うのはまれであった。 (1989年8月撮影)
連帯 (リガ)
2014年春、クリミアやウクライナ東部をめぐってロシアとウクライナとの間の緊張が激化していた時、リガのウクライナ大使館のフェンスにはウクライナの人々への思いを寄せる花々がたくさん供えられていた。2022年春にはロシア軍がウクライナ全土に侵攻するというとんでもない事態になったが、きっとその時には大使館にはこの何倍もの花が捧げられたのではないかという気がしている。 (2014年3月撮影)
ヴァフタ・パーミチ (ボルゴグラード)
ボルゴグラードを訪れたのは1997年と2014年の二度だが、二度とも、船が河港を離れてママエフ・クルガンの正面まで来ると、デッキに出ていた乗客達が用意しておいた花を一斉に河に投げるということをした。凄惨だったスターリングラード戦の記憶を忘れまいという記念(祈念)行事。 (2014年8月撮影)
日本人墓地 (ハバロフスク)
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戦争というのはそれ自体が終わったからと言ってすぐに悲劇が終わるわけではない。戦後異国に抑留されたまま故国の土を踏むことのなかった人も少なくない。写真はハバロフスク空港に近い墓地の中にある日本人の墓。でも、こうして日本から墓参に来やすい所に墓標のある人はまだ「幸せ」なのかもしれない。 (1999年4月撮影)
左の写真は、墓に線香を手向ける日本人旅行者。 (2012年8月撮影)
日本人墓地 (イルクーツク)
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イルクーツクの日本人墓地も市の中心部から遠くないところにあって、お参りするのに不便さがない。 (2001年3月撮影)
日本人墓地 (リストビャンカ)
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イルクーツクからそう遠くないバイカル湖畔の村リストビャンカにも日本人墓地がある。写真を見るとわかるように、日本の墓参団が訪れた跡があった。 (2013年8月撮影)