国境



 左と中央の2枚はリトアニアとラトビアの国境。右はラトビアとエストニアの国境。まさかこの国境が本当の意味での国境(くにざかい)になるとは当時の私はまったく考えてもみなかった。 (1987年8月撮影)

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リガ



 ラトビアの首都リガの市街。町は第二次世界大戦で破壊されたはずだが、建築物ひとつを見ても、再建された由緒あるものと、当時のソ連としてはかなり斬新なものとが同居しているという印象であった。 (1987年8月撮影)

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リガ



 ダウガワ川にかかる橋。塔のような構造物は吊り綱の支柱なのだろうが、この独特のデザインとその高さのせいで、郊外からリガの町に近づくとき、これが見えると「ああ、もうすぐだ。」と安心できたであろう。  (1987年8月撮影)

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リガ



町の中の広場3ヶ所。 (1987年8月撮影)            前のページへ  次のページへ  目次へ戻る




リガ


 袋小路のような路地に入り込んだらこんなたたずまいが。2階の窓の外の花が人の心をなごませる。 (1987年8月撮影)


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リガ



 これも路地裏の風景。格別なにかあるというわけではないのに、なんとなく気持ちが落ち着くのは歴史のせい?  (1987年8月撮影)

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リガ


 ペレストロイカが進んでバルト三国で独立の機運が高まった時期、ソ連では「誰が誰を養っているのか」という議論があった。つまり、連邦を構成する各地域や民族のうちどこがどこを経済的に支えているのかと。バルト三国は工業などが盛んであったために、自分たちの生産した富がロシアや中央アジア諸国へ回されているという意識もあったに違いない。裏通りのような道を撮ったこの写真も、当時のソ連としてはあか抜けした雰囲気があり、そうした見方が根拠のないものではないと感じさせもした。  (1987年8月撮影)

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リガ



 当時のソ連といったら、薬局はどこも一律にただ「薬局」、パン屋は全国どこでも単に「パン屋」という看板がかかっているのが当たり前だった。なのに、ここリガでは上2枚の写真のような看板というか広告塔を見ることができた。左の写真は建物の屋根の上に飾られた“猫”。もちろんこれは看板ではないのだろうが。 (1987年8月撮影)

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サラスピルス


 リガの南にあるサラスピルスに、かつてナチス・ドイツの収容所があり、大戦中にソ連市民10万人がここで犠牲になったと言われる。当時の収容所の施設そのものは残されておらず、広大な敷地跡にいくつものモニュメントと資料館が置かれていた。 (1987年8月撮影)

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ユルマラ


 リガ近郊のユルマラは保養地として知られ、海岸は、ラトビアのみならずソ連各地からの海水浴客でにぎわっていた。海の中に立つ「JURMALA87」の看板は、観光客相手の写真屋が立てたもの。その前で記念撮影をする仕掛けだ。 (1987年8月撮影)

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漁業コルホーズ



 やはりリガ郊外にある漁業コルホーズ「ウズバラ」の缶詰工場。機械化されていなくて人手を多用しているのが意外であった。 (1987年8月撮影)

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タリン


 エストニアの首都タリンの旧市街。 (1987年8月撮影)

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