川岸の風景




 サラトフとボルゴグラードの間、ボルガ川の右岸に見つけた地層の露頭。写真ではあまりはっきりしないが、目立った褶曲や断層がなくほとんど水平方向の地層が何kmにもわたって続いていた。ロシアの大地がどのように形作られたのかという教材にさえなりそうな見事なもので、甲板に何十分も立ちつくして見とれてしまった。  (1997年8月撮影)

前のページへ
次のページへ
目次へ戻る

下の3枚は、サマーラとウソフカの間で撮ったもので、このような川岸がやはり何kmも続いていた。上の写真の露頭に比べると、雨風による侵食や植物の繁茂などによって。地層がなっきりとは見えにくくなっていることがわかる。  (2014年8月撮影)




ウソフカ (ゼリョーナヤ・アスタノフカ)




 ロシアの河川クルーズの場合、スケジュールの中に「グリーン・ストップ(ゼリョーナヤ・アスタノフカ)」というのが組まれるのが通例のようだ。これは都市とか有名な観光地に上陸するのでなく、小さな村とか場合によってはもう人家も何もないようなところに船を泊めて、船主催のシャシリク(バーベキュー)パーティーのような催しをするかあるいはそれも無しに客が勝手に泳いだり釣りをしたり茸取りをしたりというもの。

 95年のボルガの旅のときはボルガ・バルト水路のゴリツィでこのグリーン・ストップがあったが、今回のボルガの旅では往復ともサラトフ市のすぐ北のウソフカの岸辺に立ち寄った。この時は泳ぐ人がほとんどで、浜からちょっと奥にはいるともうすっかり静寂。よく見ると秋がもうすぐそこまできているのがわかる。  (1997年8月撮影)

前のページへ  次のページへ  目次へ戻る


これより下の6枚は、上の写真を撮ってから17年後の同じ場所でのグリーン・ストップの際に撮ったもの。その間に沿岸の大都市は急変貌したが、こういう場所は少しも変わっていないことがわかる。  (2014年8月撮影)




サラトフ


 サラトフ州の州都。左の写真は河港のターミナルビル。右は市の背後の小高い丘から市街とボルガ川を望んだもの。  (1997年8月撮影)

 前のページへ  次のページへ  目次へ戻る




サラトフ



 「何をなすべきか」を書いた作家チェルヌィシェフスキーはこのサラトフのあたりの出身で、左上の写真の広場にある銅像は彼を記念したもの。また、この町にはいつ頃からかドイツ人が多く定住するようになったと言われ、建物などドイツ風のものも見られる。右上の写真はそのチェルヌィシェフスキー像のほぼ正面にある高等音楽院の建物だが、どう見てもロシア風ではない。私がここを訪ねた97年の夏はモスクワの850年祭の直前だったが、ここサラトフではサラトフ県発足200年の祝賀ムードがつくられていたた。下段中・右の写真は市の繁華街の風景。  (1997年8月撮影)

前のページへ  次のページへ  目次へ戻る




ボルゴグラード




 第二次大戦のターニング・ポイントとなったスターリングラード戦で知られるボルゴグラード。2段式になったボルガの閘門を降りて船が市の中心部に近づくとまず目にはいるのが右岸のママエフの丘にそびえ立つ「母なる祖国の像」。独ソ両軍によって争奪が繰り返されたママエフの丘にはほかにも多数のモニュメントがあり、また悲惨な戦争の記憶を風化させず平和を祈る「永遠の炎」もあってロシア軍兵士によって守られている。その右の写真はやはり激戦の跡として有名な製粉工場。これはボルガの川岸にある。ただ、広島の原爆ドームと同じように戦後50年の歳月を経て傷みもひどくなっているように思われた。背後にある白い円形の建物が記念館で、スターリングラード戦についての膨大な資料を展示し、また、セバストーポリにあるクリミヤ戦争の“パノラマ”と同じようなリアルなミニチュア(というには大きするが)がある。ボルゴグラードは同様に悲惨な戦争体験を持つ広島市と姉妹都市関係にあり、「広島通り」という名の通りが下段右の写真のようにママエフの丘を望む位置にある。  (1997年8月撮影)

前のページへ
次のページへ
目次へ戻る





平和を祈る (ボルゴグラード)



 船がボルゴグラードに立ち寄る日、船内放送は朝から「町に出たら必ず花を買うように」というよびかけを繰り返していた。私はそれが何のためかわからずにいたが、出航したらすぐにまた船内放送で花を持ってデッキに出るように指示があり、やがてママエフの丘の正面あたりまでくると船が大きく汽笛を鳴らして乗客達は手に持っていた花を一斉にボルガに投じた。  (1997年8月撮影)

前のページへ  次のページへ  目次へ戻る




ボルゴグラード


 左の写真はボルゴグラードの駅舎正面。写真ではよくわからないが入り口の両側にも上方にも立派な彫刻があり、ことに上のがかわいい。中央の写真は珍しい地下市電。駅の中がステンドグラスで飾られていたり、前の電車が出て行ってから何分経ったかという電光掲示があったりするのは地下鉄に似ているが、市電なのでプラットホームに入るのに改札はないし、車体はご覧の通りの市電型。右の写真は河港の桟橋から町へ上がる階段。港町オデッサの階段のような雰囲気もあるがあそこほど高低差があるわけではない。  (1997年8月撮影)

前のページへ  次のページへ  目次へ戻る




アストラハン


 ボルガ川がカスピ海に注ぐデルタに近いアストラハンの町。16世紀までアストラハン汗国の首都であった。左の写真は市内の小公園「白鳥の湖」。実際に3羽ほどの白鳥が泳いでいた。遠方に見えるのがクレムリン。中央の写真はクレムリンの壁。右はクレムリンの中にあるウスペンスキー聖堂。  (1997年8月撮影)





アストラハン



クレムリンの門のそばにたつ塔と、その敷地の中にある教会。  (1997年8月撮影)

前のページへ  次のページへ  目次へ戻る



フレブニコフの家 (アストラハン)


 詩人フレブニコフの住んでいた家がそのまま博物館になっている。市販の観光地図にも掲載されていないような博物館だが、日本からの来訪者は私が初めてというわけではなく、私を案内してくれた管理人はかつてここを訪れた「カメヤマイクオ」という日本人が置いていったという大きな折鶴を書斎から大事そうに取り出して見せてくれた。  (1997年8月撮影)





チェルヌィシェフスキーの家 (アストラハン)


 レーニンをはじめ19世紀後半から20世紀はじめにかけてのロシアの青年やインテリゲンチャに大きな影響を与えたN・G・チェルヌィシェフスキーが20年にも及ぶシベリア流刑を解かれた後にしばらく住んでいた家。今は博物館になっている。シベリア流刑解除後もペテルブルクはもとより郷里のサラトフ県にも帰ることを許されず、北のアルハンゲリスクか南のアストラハンを選ぶように言われたのだという。で、彼は少しでも故郷に近いアストラハンを選んだのだそうだ。  (1997年8月撮影)





ウリヤーノフ氏の家 (アストラハン)


 レーニンの父イリヤ・ウリヤーノフはアストラハン出身の人だそうで、彼の生家が博物館として残されている。また、同市のクレムリンの壁の外にある小公園にはイリヤ氏の像も置かれている。  (1997年8月撮影)