赤の広場



 モスクワと言えばやはりまず「赤の広場」だろう。ソ連時代にメーデーや対独戦勝記念日とあわせて11月の革命記念日にもこの「赤の広場」で大パレードが行われ、日本のテレビなどでも頻繁に報道されてきたから、この「赤」は共産党など左翼のシンボルカラーの赤のことだと思っている人もいるかもしれないが、1917年の革命以前からここは「赤の広場」という名前だった。なんでもロシア語の「赤い」というのは「美しい」という意味と重なるとか。そう思って見るとなかなかきれいな広場だ。 (1段目左から順に 1987年8月,1996年12月,2019年3月,2019年3月,2段目:2005年8月,3段目:2019年3月撮影)

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 近頃では、赤の広場いっぱいを使っていろいろな催し物が行われることが多くなり、そういう時は広場を自由に歩くことができず、次回いつここに来ることができるかわからない我々外国人旅行者にとっては、ちょっと不満が残ることがある。日本だったら、皇居前広場で「○×市」なんて催し物をするかなぁ?   (4-5段目:2017年1月撮影)






レーニン廟


 ここ赤の広場に面してクレムリンの壁の前にレーニン廟がある。ソ連時代、革命記念日やメーデーにはこの上にソ連共産党の幹部が並び、その並び順の変化を見て西側のジャーナリズムはソ連内部の権力闘争のゆくえをあれこれと憶測したものであった。廟の内部を見学するにはアレクサンドロフスキー庭園の側から長い時間並んで、警備兵の厳重な警戒の間を通っていくしかなかった。薄暗い照明の下、透明なケースに入れられているレーニンは想像したのより小柄であった。それにしても死後もこうやって遺体を公衆の面前にさらされ続けるというのは生前のレーニンには予想もしない不本意なことだったのではなかろうか。 (左:2017年1月,右:1979年12月撮影)


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レーニン廟の衛兵


 ソ連時代、レーニン廟には2人の衛兵が1時間交代で警護にあたっていた。その衛兵の交代を見るために毎正時近くなるとレーニン廟の前に大勢の観光客が集まったものだ。クレムリンの門から歩調をとってやってきた兵士がスパスカヤ塔の正時を告げる鐘と同時に一瞬のうちに交代する様はマジックでも見せられているようだった。それにしても東京ではなくモスクワだから真冬の1時間の立哨は辛いだろう。冬季には任務を終えて持ち場を離れる兵士がこれから1時間立ちっぱなしの兵士の外套の襟を立ててあげる。厳粛な雰囲気と対照的で可笑しかった。 (1985年8月撮影)


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クレムリンの壁


 レーニン廟の背後のクレムリンの壁は革命にゆかりのある多数の人々の墓所になっている。N・クループスカヤやM・ゴーリキーの墓もここにあると言われ、さらに「世界を揺るがした10日間」のJ・リード(映画「レッズ」の主人公)のもここ。上段中央の写真は、今から90年以上前に日本共産党の結成を促す重要な役割を果たした日本の社会主義者片山潜の墓。片山潜は、ロシアとの関係で言うと、1904年8月、第二インターナショナルのアムステルダム大会の冒頭、当時日露戦争で交戦中の相手国ロシアの社会主義者プレハーノフと握手を交わして互いに強い反戦の意思を示したことでよく知られる。右の写真は、世界初の宇宙飛行士Y・ガガーリンの墓。クレムリンの壁の見学は、レーニン廟の見学前後にしかできないのは今も変わらないが、かつてはその際にカメラを預けなければならない規則になっていたので、下の写真のように赤の広場から望遠レンズで撮るしかなかった。 (上段:2017年1月、下段:1985年8月撮影)

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