リムスキー・コルサコフの墓


 オペラ「サトコ」「皇帝の花嫁」などで知られるロシア国民楽派の作曲家。  (2000年12月撮影)

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ルビンシュテインの墓


 ロシア最初の世界的ピアニスト。ペテルブルク高等音楽院の創設にも力を尽くし、その院長もつとめた。  (左:2000年12月,右:2017年1月撮影)





ボルトニャンスキーの墓


 合唱コンツェルトなど正教の教会音楽の作曲家として知られる。ア・カペラで歌われれるロシアの教会音楽の美しさは言葉では言い表せないほどだと私は思う。  (2000年12月撮影)

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クラムスコイの墓


 日本では「忘れ得ぬ女(ひと)」という絵で知られる画家。ロシア移動展派の創立者の一人。  (2000年12月撮影)

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シーシキンの墓


 同じく19世紀の移動派の画家シーシキンの墓。私は彼の風景画がとても好きで、ロシア美術館やトレチャコフ画廊を歩いていて、微妙な木洩れ陽を丹念に描きわけた彼の絵の前に来ると何分もじっと立ち止まってしまう。  (左:2000年12月,右:2017年1月撮影)





プティパの墓



 稀代の振り付け師プティパの墓。チャイコフスキーのバレエなどを手がけた。  (左:2000年12月,右:2017年1月撮影)





ヴォルコヴォ墓地


 ペテルブルク観光の際によく案内されるのは、アレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地だが、それより少し南へ行ったところにこのヴォルコヴォ墓地がある。入口近くに正教徒のお墓、奥まったところにはルター派の墓地があるのだとか。ここにも歴史的に有名な人も眠っている。  (2020年2月撮影)

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ツルゲーネフの墓


 『初恋』などで知られる文豪I.S.ツルゲーネフの墓。  (左:1995年8月,右:2020年2月撮影)





プレハーノフの墓


 10月革命以前のロシアの社会主義思想家プレハーノフの墓。同じくヴォルコヴォ墓地にある。手にしている本には「マルクス」の文字が刻んであった。日本との関係で言うと、1904年8月、第二インターナショナルのアムステルダム大会の冒頭、彼は当時日露戦争で交戦中の相手国日本の社会主義者片山潜と握手を交わして互いに強い反戦の意思を示したことでよく知られる。  (左:2020年2月,右:1995年8月撮影)





ワガノヴァの墓


 教則本「古典舞踊の基礎」で知られる20世紀前半最高の舞踊家。   (左:2020年2月,右:1995年8月撮影)





ブロークの墓


 ロシア・シンボリズムを代表する詩人A.A.ブロークの墓。   (2020年2月撮影)







ガルシンの墓


 『あかい花』などの作品で知られる作家F.M.ガルシンの墓。   (2020年2月撮影)







ゴンチャローフの墓



 遣日使節団の随員として幕末に長崎にやって来たこともある作家I.A.ゴンチャローフの墓。   (2020年2月撮影)



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ベリンスキーの墓


 19世紀屈指の文芸批評家として名高いV.G.ベリンスキーの墓。   (2020年2月撮影)







ラジーシチェフの墓


 農奴制批判の主著『ペテルブルクからモスクワへの旅』で知られる18世紀の思想家A.N.ラジーシチェフの墓。   (2020年2月撮影)







メンデレーエフの墓


 元素の周期律とそれに基づく周期表でよくその名を知られている化学者D.I.メンデレーエフの墓。   (2020年2月撮影)







パヴロフの墓



 条件反射で知られる生理学者。  (2020年2月撮影)





ニコライII世の墓所



 遺骨がウラル地方エカテリンブルクで発見されたというロマノフ朝最後の皇帝ニコライII世の墓所。ピョートル大帝以降の歴代皇帝の眠るペトロパブロフスク聖堂内にあるが、いっしょに並べられているわけではなく別室。  (1998年8月撮影)

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日露戦争戦没将兵の慰霊碑



 地下鉄ゴーリコフスカヤ駅近くの広場にある銅製の記念碑。日露戦争の開戦直後の時期、日本艦からの攻撃を受けて沈みゆく艦内で生きるために必死に闘う水兵を描いている。 ....と書いたが、どうもそうではなくて、損害を受けた艦が日本軍に捕獲されるのを防ぐため、弁を開いて自沈させる水兵を讃えたものだそうだ。  (1999年12月撮影)

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冬戦争の慰霊碑



 独ソ戦が始まる前の1939年11月にスターリンのソ連がフィンランドに攻め込んで起きた戦争の慰霊碑。自らの要求が容れられなければ武力に訴えて無理矢理にでもというのは、2022年2月に始まったプーチンのロシアによるウクライナ侵攻と同じ構図だ。  (2020年2月撮影)

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巡洋艦“オーロラ”


 1917年11月7日(露暦10月25日)21時45分、ネヴァ川のニコラエフスキー橋のそばに錨をおろしていたオーロラ号の6インチ砲の発砲により、冬宮襲撃が開始されたことで知られる。ソ連時代はレニングラード(当時)へやってくるピオネールの団体などが必ず見学していく場所の一つであった。  (最上段中;2011年12月,同左右:2020年2月,二・三段目左及び中:1987年12月,二段目右:2020年2月,四段目左:1998年8月,同中及び右:2020年2月,五,六,八段目:2020年2月,七段目:1987年12月撮影)






 この巡洋艦“オーロラ”は対馬沖海戦(日本海海戦)にも加わって撃沈を免れた数少ないロシア艦艇の一つ。
 ある時私達を案内したロシア人ガイドの説明では、この艦はロシア国産ではなく外国で建造されたもので、そのために船足が速く
逃げおおせることができたなどと自嘲的に話していたけれど、資料を見た限りではサンクト・ペテルブルクの工廠で建造されたとさ
れている。ソ連時代にも艦内の資料室には日本海軍からの被弾の写真が展示されていたが、最近訪れた時の印象ではこの日本海海戦
関係の資料が以前より充実したように感じた。


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