バイカルの畔へ (1994)


 

(7) サルマ村

 

8月14日(日)

 08時に起きて、09時に朝食。蕎麦粒のカーシャ、黒パン、バター、紅茶、紙製の箱

にはいったグレープジュースが出ました。ジュースは外国製だったのでは。

 

 前夜寝ている間に雨が降ったらしく、地面が濡れています。天気は曇で、かなり涼

しい朝でした。ナターリヤ・ニコラエヴナの「特異気象」の話とは裏腹に、ここへ来

て以来ずっと雲の多い天候で、楽しみにしていた夜空の星も見ることができないまま

です。昼間はけっこう青空も見れるのですが夕方になるとしっかり雲がかかる。でも、

内海(湖?)のせいでしょうか、湖面はこれまたずっとべた凪が続いていました。

 しかし、バイカルの嵐というのもまた有名で、私などずっと以前にその嵐の様子を

撮った写真をイルクーツクで買ったこともあります。バルグジン風とかサルマ風とか

名前のついているのもありますね。

 

 この日の午前は、そのサルマの名のついた村(いや風のほうに村の名がついたので

しょうけど)へ足をのばすことになりました。と言ってもキャンプの北の岬を超えれ

ばもうすぐ北西にサルマの村が見えるという近さ。前日船着き場へ行ったのよりずっ

と短時間でサルマ村に着きました。古い木造平屋の民家がところどころにわずかすつ

かたまっている文字通りの寒村。西側にはある程度の高さのある山並みが迫っていま

すから、そこと湖岸との間のわずかな低地にこのブリヤート人の村はひろがっていま

す。ガイド役の女性を乗せるとかである民家の前でバスはとまり、しばし自由行動と

なりましたが、ここもこれまでと同じく足元厳重注意です。その民家の裏手にフェン

スで囲まれた一角があり、背の高い風速計だの風向計だのがならんでいます。ロシア

版アメダスといったところですが(でもオンラインにはなっていないでしょうね)周

囲の風景にちょっと不釣り合いでした。

 

 集落からもう少しだけ北へ行ったところに木造の粗末な橋があり、その下を流れる

清流がサルマ川です。地元の人達の信仰では聖なる川で女の人がその「聖地」へ行く

と何かよくない異変が起こるとか。しばらくその橋のあたりで散策。

 そのあと、山上さんが「4kmぐらい歩いてもいいですか」とみんなに聞いたら異存

がないので、もう少しだけ北側の地点からサルマ川の上流に向かって散歩しました。

車の走れる道路から山の麓までは大きな石がごろごろした平地で、小さな野草が可憐

な花を咲かせていたりします。シーダのキャンプ場からもガイド役なのでしょうかロ

シア人の女性が3人ほど同行してくれたのですが、彼女達の歩くのの速いこと。それ

もペチャペチャ世間話はするは、食用だか飲用だかの野草をみつけると摘むは、そう

いうことをしながらです。靴も我々みたいなウォーキングシューズではない。ワロー

ジャはワロージャで釣りの餌にするバッタみたいな虫を取りながら歩いているけどこ

ちらも速い。歩き慣れているというのか、こちらが歩かなくなっているのですね。

 山の麓まで行く着くと、それより上のサルマの流れはちょっとした谷をかたちづく

っています。ステップ地帯ですから山はそれほど樹木が多くないどころかあちこちで

岩肌がむき出しになっているのですけれど、流れに沿ってだけはちょっと大きめの木

々が育っていて遠くからでもそこが川だということがよくわかります。川沿いの木陰

の小径は前夜の雨でしっとりと濡れていて、ぬかるみも残っています。せせらぎの音

に誘われて、木の枝を持ち上げて川を覗いてみるともうそこにはさきほどの湖を見渡

せる平地のとはすっかり違う渓谷美の世界があります。私達はほんの少し奥にはいっ

たところで引き返してきてしまいましたけど、道はずっと続いていましたから、ロシ

アの人達はきっとこうやって奥まではいっていくのでしょう。先にはもっと景色のい

いところがあるのかもしれません。

 

 邦衛さん(トーリャ)のマイクロバスでキャンプ場に戻り、14時から昼食。前夜の

ボルシチよりも色の薄いスープがでて「シチー?」って聞いたら(こういう質問をす

るのはシチーを知らない証拠?)これもボルシチという返事。考えたらおかしくあり

ませんね、日本の味噌汁だっておそらく何万というバリエーションがあるでしょうか

ら。私など学生時代に生協の食堂で「純粋な」(みの全く入っていない)味噌汁にお

目にかかったこともありますし。この日のボルシチもいかにも家庭の味というか田舎

風ので、勧められたのをよいことに我々のテーブルの4人全員がしっかりおかわりを

しました。あと輪切りにした魚のムニエルにライスを添えたの。この魚は前日ワロー

ジャがオリホン島の浜辺で串焼きにするつもりで買ったものなのでしょうか。これも

美味。ほかに、黒パンと紅茶。温かい飲物があって、誰かが「何?」と聞くと「コン

ポート」という返事です。温かいのも始めてですが、コンポートというのは果物が浮

いているものとばかり思っていました。この日のはそれこそ「純粋な」やつです。

 

 

 

 

(8) のどかな午後

 

 昼食のあとは自由時間ということで、夕食を除いては就寝時まで一切プログラムが

組まれていません。こういう場所ではこういう過ごし方が本来なのでしょうね。あち

こちでテントを張っているロシアの人達、時間で何かを決めて動き回っているという

感じはまったくありません。朝食がすむとすぐにチャーターしたマイクロバスでどこ

かへ飛び出していく日本人の集団は彼らの目にはどんなふうに映っているのかなと思

いました。

 

 ロッジの南側が湖面ですが、そこに数頭の馬が水を飲みにやってきていました。オ

リホン島では牛の水飲みでしたがここでは馬がやってくる。牛も来るときがあるのか

な、あちこちに乾燥した牛糞がありますから。馬達はやがて西側の林のほうへ帰って

いくので、ちょっと一緒に行ってみました。親子なのでしょうね、小さい馬に大きい

のがぴったり寄り添ったりしている組もあります。ちょっと小高くなった西側の林の

あたりで、草をはんだり、ちょっと走ったり、こちらもキャンプのロシア人みたいな

過ごし方をしています。緑濃い林の中に馬の白や栗色がちょっとしたコントラストを

作りますから、カメラにおさめたつもりでしたが、出来上がったのを見たらまだまだ

距離がある。及び腰で撮ったのですね(^_^;)。

 我々のグループも、釣りに出る人、地面ぎりぎりにカメラを近づけて小さな野草を

撮る人、あたりを散策する人、..と散りぢりです。私は林からもどるとロッジの東側

の斜面に細い木の台があるのを見つけて、その上に仰向けになりました。手に這って

きた虫に刺されて起こされるまで4-50分の午睡でした。

 そのあとは東側の岬を南端まで歩いてみました。今度は斜面をのぼらずに真横に、

そうオリエンテーリングでいう「コンタリング」の形です。樹木は西側の斜面よりも

う少しまばらで、牧草のような丈の草が一面に生えていて、所々に大きめの石やもっ

と大きな岩があります。気にいった場所で岩に腰をおろしてじっとしていたりします。

まわりに人の気配はなく、入り江の向こう岸から誰かのテントでかけているテープ・

デッキの音が聞こえてきます。湖面はやはり凪。1,2艘の手漕ぎのボート。たまに

モーターボートが通り過ぎて行きます。

 岬の南端を過ぎてオリホン島が見えるあたりの岩場にだいぶ長いこと腰を下ろして

いました。発条を擦ったような機械的な音を出すくすんだ色のバッタかコウロギのよ

うな虫がたくさんいます。「風の谷のナウシカ」にででも出てきそうな虫で、オリホ

ン島の船着き場の斜面にもたくさんいたやつです。

 

 そろそろロッジに戻ろうかと岬の急な斜面を上り始めようとすると、真下の湖面か

ら人の声がします。振り返ると村山さん夫妻がスラーバ,アンドレイの2人のボート

にのせてもらっています。スラーバは12歳、アンドレイは15歳とか。4人で釣りを楽

しんでいた様子です。手を振ると村山さんがボートにのらないかと言います。歩いて

帰るのはやめて乗せてもらうことにし、急な斜面を降ります。途中でカメラを構える

と、アンドレイがちょっと待てという仕草をして自分達が釣った魚を高々と持ってポ

ーズをつくりました。

 スラーバの漕ぐボートは湖面を滑るように進みます。入り江のなかにちょっと突き

だした岩場があって、そこに冷たい清水の湧き出す泉があるのです。キャンプをして

いる人達がそこへ水汲みにくる。スラーバ達はボートでそこへ我々を案内してくれて

水を飲ませてくれました。

 ボートは風呂小屋の脇にいつも置いてあるので、そこへつけてくれました。小屋の

中からは我々のグループの中の「バーニャ組」の連中の楽しげな声が漏れてくる。ボ

ートはつながずに岸へ上げ、オールだけを持ち帰るという方式です。

 

 ロッジの入り口のテラスというか濡れ縁というかそこには幾組かの家族、もっとも

男の人は見かけませんで女の人と子ども達ばかりでしたけど、バーニャのあくのを待

っています。といっても「あの日本人達いつまではいってるのよ。早くしてよ。」と

いう雰囲気は微塵もなく、おしゃべりに花が咲いて、そのまま永遠に待ち続けるので

はと思うほどです。例によって、そこにいる子に折り鶴を折ってあげることにしまし

た。暇なときに大量に折っておいて“どらえもん”のポケットみたいに次々と出して

あげるというのもすることがありますが、やはりこういう「実演販売」のほうが人気

が高い。おしゃべりに夢中だったお母さん達の視線も集めて、最後はとうとう彼女達

に色紙を渡しての「母親教室」になりました。

 

 18時半、夕食。牛肉のかたまりがいくつもはいったピラフ、オレンジ味の炭酸飲料、

黒パン、バター、紅茶。

 

 夕食のあと山田さん達とキャンプから北へ伸びる道を歩いて岬の北の湖岸へ出てみ

ました。この岸にもロシアの人達が幾張りものテントを設営しています。正面がマー

ロエ・モーリェ、左手がサルマからさらに北にのびる湖岸、右手がオリホンです。そ

の間に小さな島が浮かんでいたりして、ちょっと変化のある景色になっています。島

の上の雲は夕日を受けてほのかに赤く染まっていました。

 

 ロッジのある入り江に戻ると、入り江ではスラーバが今度はゴムボートを1人で漕

いでいます。声をかけるとまた乗せてくれる。さっきのボートはアンドレイが漕いで

いてスラーバのお姉さんエレーナを乗せています。レーナはよく食堂でも手伝いをし

ている働き者。仕事が一息つくと、こうやって休むのですね。風呂小屋は我々のグル

ープの男性に代わって、さっき順番待ちをしていた家族が入っているらしく小屋の脇

では水着姿の女性がバイカルに身を沈めています。

 

 ロッジの南西側の斜面にずっとテントを張って過ごしている家族だかグループだか

がいて、我々がここに着いた最初の日から山野さんや山岸さんは知り合いになってい

た様子です。その中に日本語を勉強している女学生がいるから行ってみたらと山上さ

んに言われて行ってみました。行ったら焚火のそばの椅子に座らせてくれて自家製の

ピローグをご馳走してくれました。人参が入っているのとか葱のとかあって、私のは

ジャガイモのでした。とても口に合って、ほんとうはもっといただきたかったのです

が、いくら何でも行っていきなりですから遠慮しました。

 山岸さん達はテントの中にしつらえた「勉強机」で日本語教室。その間、私は傍ら

にいた小さな女の子にまた鶴を折ってあげたのですが、やはりここでもお母さんが興

味をもってお母さんに教えることに。そしたらテントの中の学生もということになっ

て、日本語教室はしばしの間折り紙教室になってしまいました。

 

 上弦の月がいまにも沈みそうな高さで入り江の南の低い山の頂きの上まで来ていま

した。湖面に月が映っり、手前の風呂小屋からの煙突からは時折赤い火の粉が散って

いきます。無謀にもこれを写真にと思って部屋からカメラを持ってきたのですが、手

持ちなのにシャッターがしばらく閉じない。出来てきたのを見たら、手ブレはもちろ

んしてましたが、現像屋さんが機械で自動的に光量を調節してしまうらしく月とは思

えないくらいの明るさになってしまいました。

 

 親子で今度の旅に参加してらっしゃる山村さんのお母さんは、あれだけロシア語を

よくなさるのに、ロシアは何年ぶりとか。ろくに言葉もできないのにしじゅうロシア

へ渡っている私とは対照的です。それだけにロシアの人との交流には積極的というか

貪欲とでも言ったほうがいいくらい。

 その山村さんのお母さんが「あっちでシャシリク・パーティーをやるそうよ」と案

内してくださったのが、さきほどの日本語教室からもう少し南側にあるテント。イル

クーツクの北西にあるアンガルスクの町から来た男女の青年のグループです。22時半

から1時間ほどお邪魔しましたが、ここでも焼きたてのシャシリクと飲物をご馳走に

なりました。

S 月が落ちたあとの空はしだいに星の数が増えて銀の砂を撒いたようになってきます。

信子ちゃんが「あれが天の川かなぁ」と。日本の都会では天の川はもうすっかり見え

なくなっていますね。北極星の位置もずいぶん高い。青年達に「おやすみなさい」を

言ってロッジのほうへ戻ってからも、そのまま部屋にははいらず明かりの少ない反対

側へ回ってしばらく空を眺めておりました。

 岸の小屋の煙突からはまだ火の粉が上がり、水に飛び込む音、人の声がしています。

 

 

 

 

(9) 湖上をわたる

 

8月15日(月)

 起きたのは07時。前夜の空には満天の星でしたからこの日の朝もさぞかし好天と思

っていたのですが、案に相違してどんよりした曇空。気温も低めです。入り江に突き

出した桟橋のようなところで、寡黙なオレクが1人で釣り糸を垂れています。

 

 朝トイレに行ってみるとトイレはきれいに掃除されていました。ロッジの人が気を

使ってくれたのでしょうね。シベリア鉄道を団体で旅行すると、車掌が車両の両側に

あるトイレのうち一方を日本人客専用にして、ロシア人がくると「あっち」なんて追

い返しちゃうというのを経験された方がいらっしゃると思います。朝の混雑時にその

「あっち」へ行ってみるととても日本人には堪えられない様(サマ)だったということは

ありません?ここでもその車掌さんと同じような気配りがあったのだと私は思いまし

た。

 あ、風呂小屋のことは前に書きましたが、トイレはまだでしたね。トイレは白いペ

ンキを塗った木造の建物で、ふたつのボックスがあり、これはだいぶあとになって気

づいたのですが、いちおう一方に「М」、他方に「Ж」の表示があって男女別という

ことになっていますが、どちらも中は同じ構造。いえ、「構造」というほど複雑なも

のではありません。床板に大きな穴があけてあるだけ。それが一つのボックスに2つ

ずつあいている。だから男女それぞれ2人ずつ計4人がいっぺんに用が足せるという

のですが、「個室」に慣れている日本人は1人入ると中からロックしてしまいます。

もし順番を待っているロシア人がいたら怒りますよね(^_^;)。フジールの小学校の

トイレは男女用の間には高い仕切り板がありましたけどそれぞれはボックスにはなっ

ていなくてオープンのところに穴が並んでいただけですから、ここはボックスになっ

ている分だけ観光客に配慮しているということでしょう。

 10年ぐらい前、やはりイルクーツクに来たとき、我々のグループにいたあるご婦人

がイルクーツクの中央市場に隣接する国営デパートのトイレに行ったらこれがまった

くのオープンスペースで、目的を果たさないまま戻ってこられたことがありました。

これも国民性というか文化の違いで、ある日本の女の子が書いたモスクワ生活の本を

立ち読みしたら、モスクワの学校でも個室にはなっていなくて(もちろん床板に穴で

なくて腰掛け式の水洗トイレでしょうが)用を足している生徒の正面にその子の友達

がいて2人でおしゃべりをしているという描写がありましたが、想像するのもあゝ...

 

 09時、シーダでの最後の食事。炊いた蕎麦粒を添えたビーフストロガノフ、ゆで卵、

サラミ、チーズ、黒パン、バター、紅茶。

 

 食事のあと、西側の高台に登ってみました。前日、馬を追っていった林のさらに先

です。草地ですから下からみると簡単に登れそうに見えるのですが、勾配が急でそれ

ほど楽ではありません。それに下からはピークに見えた所も行き着いてみると踊り場

みたいな地形の先がまたのぼりになっているという具合で、いい加減あがったところ

でやめてしまいました。

 それでも東側の岬は全部見おろせて、そのさきにはマーロエ・モーリェやオリホン

島が見渡せます。空はどんよりとした低い雲におおわれ、湖面は相変わらずのなぎ状

態。道路を走ってくる自動車もなく、あの馬達はとこへ行ったのか声もせず、鴎たち

の姿も見えません。それよりもなによりもキャンプ場の内外が静かで、人の声も前日

の昼間のようなラジオ・カセッターの音も聞こえない。聞こえてくるのは林の中の鳥

の声と虫の羽音だけで、世界中がまだ目覚めてないといった感じですが、これがなん

と月曜日の朝10時のことなのです。

 ふと足元を見ると、紫や黄などさまざまの色の小さな花をつけた野草があるし、ま

だ半乾きの牛糞の上では茶色の細身の茸が精いっぱい背丈を伸ばしています。短い秋

とそのあとの厳しい冬はすぐそこまで来ているのでしょう。

 

 11時にシーダのキャンプを出発。ロッジで働いている人や周りでキャンプをしてい

て知り合った人達などが手を振って送ってくれます。こういう滞在型のツアーだと同

じ人達としばらく一緒ですから周遊型のツアーにくらべても知り合いが多くできるよ

うになるという利点がありますね。そういう意味では1ヶ所にずっといなくてもシベ

リア鉄道の旅とか昨夏のような船旅なんかもその範疇でしょう。

 

 2日前のオリホン島行きのフェリーの船着き場よりもやや手前に小さな漁村があっ

て、その村の北にこれまた小さな桟橋だけの船着き場があります。これが湖内連絡用

の大型水中翼船「コメット」の“停留所”です。ここも木が1本もない草地で、桟橋

はやはり小さな入り江の奥に作られていました。11時半に船着き場についたのですが、

船は13時の予定だとか。なら、ロッジの食堂で昼ご飯を食べてから出てくればいいの

にワロージャは何を考えてあんなに早く出たのでしょうか?いや、ほんとうは時刻表

などなくて船が来たらのるといのだったのかもしれません。

 みんなを船着き場におろしてからバスは手前の漁村のほうに向かいます。降りるの

も面倒で私は山木さんと2人でバスに乗ったままでいました。村にはその規模には不

似合いぐらいにやや大きめの学校があり、校庭にはバンガロー風のコテージがいくつ

もならんでいます。山木さんのお話ではピオニールキャンプに使うのかと。それとも

広い地域に学校がここしかなくて子ども達が寄宿しているのかな。バスが何のために

村に戻ったのかははっきりしませんが、あちこちで止めて道行く人や民家の中にはい

って何やら聞いたあげく、結局このあいだの船着き場まで行ってオリホンからのフェ

リーから魚を買ってみんなのいる桟橋に戻ってきました。個人的な買い物に行ったん

ですね。

 戻ってみると、バスから降りていたみんなはまた思い思いにあっちこっちに散って

います。バスがとまったすぐ近くには山上さんだや信子ちゃんだのが草の上に腰を下

ろしていて「いま何度だと思う?」と聞いてきます。朝の曇空は次第に晴れて青空が

広がっていました。誰かが持ってきた温度計で16℃だとか。でも涼しくて気持ちのい

い風が吹き抜けていきます。気がつくと彼女達がすわっている場所のまわりは牛糞だ

らけ。「何もわざわざ牛糞の中に座らなくても」と言ったのですが、動く様子もあり

ません。乾燥しているやつなんかもう全然気にならなくなっている様子です。

 

 ずうと向こうのオリホンとの海峡に船が見えてから船着き場に着くまでけっこう時

間がかかり、「コメット」が桟橋を離れたのは14時でしたか。ま、13時に船が出ると

いうのを本気にしていた人もいない様子で、どうということはありませんでしたが。

バスを運転してきたトーリャさんとはここでお別れと思って挨拶をしたのですが、考

えたら彼はインツーリストの職員ですから、イルクーツクでまた一度ならず会うこと

ができました。もっとふざけているのがオレク。彼ともお別れと思って私も含め何人

かがお別れの挨拶をするとちゃんと握手のお返しをしてきたのに、しっかりと船に乗

り込んでいる。

 だいたい彼の仕事というのが最後まで不明で、いま考えてみるとビール売りの商売

をしていたのかなと思えるくらいです。あの窮屈なマイクロバスに何ケースかのビー

ルを持ち込んでいて、飲みたいときはいつでもどうぞということで、ご馳走になった

人も何人かいたのです。ところが夜飲む分は彼にお金を払って買ってくださいという

ので、昼ならタダ、夜は有料というのは変だな、じゃ夜の分を昼間のうちに貰ってい

たらなどとセコいことを考えていたのですが、じつは全部有料だったんですって。昼

間の分は山上さんの会社がかぶるとか言ってましたけど。それでもかなり売れ残って、

船着き場で「まとめて買って」などと協力要請しておりました。

 

 水中翼船「コメット」は我々をのせるとすぐにオリホンの南端の海峡を抜けてバイ

カルの本体、いわゆるボリショエ・モーリェに出ます。船は私がこれまでに乗ったこ

とのある水中翼船ではいちばん大きなもので、前後に2つのキャビンがあり、あわせ

て数十人か、もしかすると百人以上乗れるようになっていたかもしれません。最後尾

には昔の特急の展望車みたいなデッキがあって喫煙所を兼ねています。

 

 船が出てまもなく昼食。シーダの食堂で用意してくれたお弁当ですが、いつものお

弁当は1人分ずつ包んであるのに、今回のは“一緒盛り”。早い者勝ちだそうで、譲

ってるとなくなる。黒パン、チーズ、ゆで卵、大きな胡瓜を適当に割ったの、丸のま

まのトマトという定番メニュー。それに、あのお茶受けに出た乾パン風のビスケット

が大量にあって、私はこれも結構食べました。

 

 バイカルはすっかり晴れ上がっているのですが、波静かだったシーダあたりと違っ

て波頭がそれぞれ白くなるくらいの波が立っています。その上を高速で走る水中翼船

の後ろには大きな波しぶきが上がり、そこに幾度も繰り返し虹が現れます。船はかな

り揺れたように思いましたけど、それがまたちょうどほどよい眠気を誘うのか、キャ

ビンでは我々のグループも含めかなりの乗客が寝ておりました。

 船はどこからやってきたのか知りませんが、我々が乗ったときにはもう既にかなり

の数の乗客がいました。でも、そのあとはどこにもとまらずにバイカルの西岸沿いに

南を目指します。西岸はやはり湖面から急に高くなっています。ということは岸より

こちら側は急激に深くなっているということが想像できます。はじめのうちはその緑

色の壁は殆ど草地で、高いところに樹木があるという植生でしたが、南下するにつれ

樹林帯が湖面近くまで降りてきます。岸には平地が殆ど見あたらないせいでしょうか、

集落らしいものもごくたまにしかみかけません。反対側の広々とした湖面の向こうに

はバルグジンの山々でしょうか、おぼろげな山影が見えます。

 

 やがてリストビャンカの集落が右手に見えてきます。それまでの風景に慣れた目に

はリストビャンカは「町」に見えますね。そのちょっと手前(北)には3つの白いド

ームと北極星のほうを向いている(と思われる)白い細長い大きな構造物からなる天

文台があって、ちゃんとここにも近代的な人間の営みがあるんですよということを強

調しているようでした。

 リストビャンカはそのまま通り過ぎて、船はアンガラ川をはさんでその反対側の岸

のポルト・バイカルの船着き場に18時半に到着。桟橋に上がらずに、横付けされたひ

とまわり小さな水中翼船「ヴォスホート」に乗り換えます。定員以上に乗ったらしく

(えてしてこういう時に転覆などの事故があるものですね)私などはイルクーツクま

での1時間、船内の売店のカウンターの前に立って、強い西日を浴び続けました。売

店にはキャンデーなのかガムなのか外国製とおぼしき菓子類もあって、子ども達も50

0とか1000Rとかついこのあいだまでなら考えられないような「大金」を握りしめて買

いにきます。船の窓から見るアンガラの水面は去年は緑色に見えたのに今回はバイカ

ルと殆ど同じ暗い青色でした。ちょっとした光線の加減でいろんなふうに見えるので

しょうか。

 

 19時半イルクーツクの河港着。でも迎えのバスが来てなくて、ホテルは20時半着。

21時、ホテルのレストランで夕食。白いパン、バター、イクラ、ジュース、トマト、

ステーキにライスを添えたの、デザートは輪切りのオレンジ、それに紅茶が出ました。

 

 そのまま寝るつもりでしたが、ちょっと早い気もしてホテルの前の川岸通りへ出て、

そこで立ち売りの絵などを見て歩きました。私は人に勧められると断れない弱気の性

格で、ここでも年輩の男の人が自分で作ったという白樺細工のサモワールを熱心に勧

めるものだから、とうとう断り切れずに買ってしまいました。$30。(安いじゃない

かと言わないでください。このドルは昨年末に$1=115円ぐらいで買ったものです。)

 

 シーダにくらべるとこの日のイルクーツクはかなり暑く感じられました。それにホ

テルの私の部屋はアンガラ側に面しているものですから西日ですっかり温室のように

なっていたのですが、二重窓を両方とも開けておいたらさすがに寝ようとする頃には

多少低めの温度になっていました。でも、これがあとでとんだことになるとは....

 

 


 

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