バイカルの畔へ (1994)


 

(10) 再びイルクーツク

 

8月16日(火)

 前夜部屋を冷やすために窓を開けはなったのはよかったのですが、シーダへ出かけ

る前と同じ7階ではなく今度の部屋は4階だったのです。だから気づいたときにはあ

かり目当てにはいってきた虫がスタンドや枕元の電球に群がっていました。そこで持

参の蚊取り線香を焚いたのです。昨年夏にアントンのアパートを訪ねたときに日本の

よりひと回りも大きい蚊に寄ってこられましたから、郊外へ出るのなら必需品と思っ

て蚊取り線香を持ってきたのですが、これまで一度も出番がなく、帰る間際になって

登場してもらうことになりました。

 ところが今度はこれの臭いが部屋にしみついてしまったみたいなのです。起きたと

きにはそれほど感じなかったのですが、朝食から戻って部屋へ足を踏み入れるとひど

いにおい!これはまずいと思って窓をあけたまま出ようかと思ったのですが、ベッド

メーキングにくるメイドさんが閉めてしまうでしょうから、とにかくその前にと思っ

て窓も廊下側の扉も開放して(不用心な)必死で臭いを追い出しました。

 

 前夜はそれほど寝易くはありませんでした。シーダの小屋ではあのとてつもないス

プリングのベッドだったのに横になると瞬時に熟睡という感じだったのですが、ここ

では疲れている筈なのになかなか寝つかれない。はじめは暑さが残っている感じでし

たし、そのうち逆に夜の冷気で寒くなり窓を閉めに起きたり。アンガラ川の対岸から

は、業務放送でしょうか、鉄道駅のラウドスピーカーから女性の声が聞こえてきたり

してこれも耳につく。

 そんなのが気になっているうちに朝で、07時に起きてしまいました。天気は快晴、

窓を開けると外の空気が冷たいのがわかります。日本でなら完全に秋の風です。

 08時半、朝食。例によってバイキング・スタイルです。ボイルしたソーセージ、コ

ールスロー、胡瓜、トマト、ソフトサラミ、ジュース、カーシャ、紅茶をいただきま

した。

 

 10時からは河畔の郷土史博物館見学のプログラムが組まれていましたけど、レーナ

がナターシャと一緒にホテルへ会いに来る約束になっていましたから、これはパス。

 約束通りの時刻に2人はホテルへ来てくれました。レーナは真っ白なタートルネッ

クのセーターにGパン、ナターシャは黒のブレザーに、同じように黒っぽい色の短め

のスカート。ナターシャはヘアスタイルも3年前と同じようで、見てすぐ彼女だとわ

かりましたが、でもレーナと同じように以前にもまして綺麗になっていて、ちょっと

大人の雰囲気を漂わせています。私も高校勤めですから、レーナ達と同じ17歳の女生

徒もいつも相手にしていますが、レーナはともかくナターシャのほうはちょっと彼女

達と同年齢には見えない。大学生という感じなのです。レーナが国立経済アカデミー

への進学が決まっているのは前に書きましたけど、ナターシャのほうはアントンの実

家に近いところにある教育大学へ進むそうです。そうだ、今日が9月1日ですから、今

日から大学生ですね、2人は。ナターシャは将来数学の先生になると言っています。

レーナは?と聞くと「エコノミストになりたい」と。ところで、“エコノミスト”っ

て何をする仕事ですか。

 小1時間ほどホテルのロビーでおしゃべりをしました。と言っても私のロシア語が

ロシア語ですから、複雑な話はできないわけで、ま「お天気はどうですか」という程

度のものです。日本は今年の夏特別に暑いと言いましたら、こちらも暑い30℃ぐらい

になることもあると。これはあまりかわりませんね。ところが冬は(私の住む湘南地

方の話ですが)まあ3℃とか5℃とかそんなもんだと言いましたら、こちらでは氷点下

30℃にも40℃にもなると言っていました。イルクーツクで零下40℃にもなるんですか。

 やはり学生だけあって日本の若い人達がふだんどんな過ごし方をするのか等に興味

があるみたいです。こちらも先方のことを聞きました。水中翼船の乗り場近くの漁村

の学校にピオネール・キャンプではという施設があったから、そのピオネール・キャ

ンプのことを聞くと、今ではそれは廃止になっていて、そのかわりの子ども達のキャ

ンプは非常に高い費用を払わなければならなくなっているそうです。高い費用といえ

ば、私立学校もできていて、これも何百万Rという学費が必要なんだそうです。そう

言えば、先日ナターリヤ・ニコラエヴナもホテルへ私をおくりながら同じことを言っ

ていたのを思い出しました。

 「日本語教室」で講師役をしていた山岸さんが日本の祝日のことを説明するのだと

言ってまわりの人にいろいろ聞いていましたが、ここでは私のほうがロシアの祝日の

ことを聞きました。5月1日のメーデーなんかも名前が変わっているらしい。クリスマ

スが祝日になって1月にあるんでしょというと、2人とも口を揃えていえ12月ですよと

言います。この辺になるともうこちらの言葉が怪しいからどこかで行き違いになって

いる可能性がありますが、まさか暦まで露暦に戻ったのではないでしょうね。 5月9日

は?と聞くと「あれは今でもあることはあるけど、おじいちゃん・おばあちゃんの祝日

で私達には関係ないわ」という返事がかえってきました。

 祝日といえば、このあいだアントンの実家に行ったときに、3月8日は今でも祝日な

のかナターリヤ・ニコラエヴナに聞きました。私は毎年その日に彼女に宛てて祝電を

打っているのですが、祝日でなかったらおかしなものですから。もう10年くらい前で

しょうか、初めて打った時には、とても喜んでくれて、アントンがその電報を学校に

持って行ってみんなに見せたという返事がきたものです。ナターリヤ・Nが言うには

「そりゃ今でもあるわよ。だって男は仕事から帰ってきたらそのままテレビを見たり

しているのに、こっちは仕事から帰ってからまたひと仕事あるんだもの」。そばで聞

いていたワレンチンが苦笑いしてましたっけ。

 

 ホテルのロビーや外でもう一度写真を撮ってから2人と別れました。11時前でした。

そのあとホテルをでてカール・マルクス通りへ買い物に。なにしろイルクーツクを出

てから前夜白樺細工を買うまでの間、一銭も(1カペイカもと言いたいところですが

時代錯誤なので)使ってないのです。翌日には帰国ですから、生徒達へのちょっとし

た土産を買っておきたい。ホテルの売店にモスクワオリンピックのときの売れ残りの

「СССР」という文字の入った赤いベルトを巻いたミーシャのキーホルダーがあり

ました。何年か前にもクラブの生徒に買ったことがあるのですが、その時の生徒はも

うとうに卒業していますから「またこれがいい」と思って聞くと、11個しか残ってな

いという返事。しかたがないですね、オリンピックは80年でしたし。それで町へ出た

のです。

 でも、「贈り物」なんて看板のある店に入っても看板とは関係ない商品が多いし、

贈り物にあたるものでもバルト海産にちがいない琥珀製品とか、地元のものでもネフ

リート(シベリア翡翠)の加工品など高価なものばかりで、子ども達へのお土産とい

うわけにいきません。

 ずいぶん歩き回ったのですが、デパートの「お土産」売り場を見ても適当なものが

ないし、食品売り場なんかロシア製のものでなく輸入品ががはばをきかせていますか

ら、どうしようもない。これはもうダメだ、お土産はやめてお土産「話」にしようか

と、通りで買った1600Rのアイスクリームをなめながら考えていると、通りでチョコ

レートを売っているのが目に入りました。そこも輸入品が多かったのですが、その中

にロシア文字のあって、お客が「これは?」と聞くと「モスコフスキー」という返事。

これだ!と思ってクラブの生徒分25枚を買いました。1枚1,200R、しめて30,000Rだ

ったのは良かったけど、包み紙を見ると1R50Kと書いてあります。 物価がそういう

水準だったときに造られたチョコレートだとすると賞味期限はどいうことになるんで

すか。ま、とにかく1枚100g、全部で2.5kgを買って帰ったのですが、受け取った生徒

達がその後あまり礼を言わないところをみるとやっぱりいたんでいたのかなと不安に

思うこの頃です。(^_^;)

 

 先日と同じように、通りはたいへんな人通りです。気のせいか自動車も以前より多

くなっている感じ。ときどき日本車もみかけます。自動車の多い分、道路の横断が難

しい。歩行者優先という概念のない国だそうですし、自賠責なんかあるのかどうかも

わかりませんから、よけいおっかなびっくりになります。そうしている私のすぐ脇に

いたおばあさんが車の流れの間のちょっとした隙間をみつけて「パイジョーム」とか

言って渡ってしまう。昔は、同じ通りで「向こう側へ渡れないから手を引いて渡して」

と頼まれておばあさんの手を引いてあげたこともあったんですけどね。今では攻守と

ころを変えているわけです。交差点の信号は縦横両方向の自動車を全部とめて方向者

用の信号を全部青にするというスクランブル交差点に似た方式ですので、これは安心

です。ロシアにしては粋なやり方ですね。

 陽射しが強く、日中は暑くなりましたけど、吹いてくる風が乾燥している上に冷た

く、その風のおかげで生き返る気がしました。

 

 13時、ホテルのレストランで昼食。トマト、イクラ、白パン、バター、ボルシチ、

メインは色の薄い大きなピーマンに米と挽き肉を詰めるというすこしだけ手のこんだ

料理が出て良い味でした。ジュース、オレンジ味のアイスクリーム、紅茶。

 午後アントンの家に行くのに手土産がわりにと思ってレストランの入り口のところ

にある酒類を扱っているカウンターの後ろの棚をのぞいてみました。グルジアのワイ

ンなんかやはりありませんね。シャンパンはないのと聞くとフランス産のがあるとい

う返事。「モスコフスコエは」と言うと「ニェット」ですって。そのフランス産の大

瓶、1本10,000Rでした。先日の薔薇の花束と同じです。日本でも薔薇とシャンパン

が同じ値段でも誰も驚かないかもしれませんが、ついこのあいだまで外国製の酒類な

んか庶民のところへ届かなかったことを考えるとやはりびっくりです。2本買ってホ

テルの部屋の冷蔵庫(まったく空なのにはじめからちゃんと電源が入っていました)

に入れました。

 

 午前中郷土史博物館に行った山上さん達から博物館の売店に安くていいマトリョー

シカがあると聞いて、食後に行くことにしました。午後はもともと自由時間ですから、

市電で鉄道駅まで行く人、ルィノックへ買い物に行く人などここでもみんな思い思い

です。その前にホテルの銀行でもう5000円両替をしました。これが104000R。新潟か

ら着いた晩には102,800Rでしたから、この数日間にもう1%以上のインフレ?それと

も円高ですか。また50,000R札でも寄越すのかと思っていたらなんと1,000R札100枚

の札束がきました。札束持って買い物なんて生まれて初めてですよ。(^_^;)

 郷土史博物館の売店にはきれいな手作りのマトリョーシカが豊富にあり、1個1個

その表情を見ながら選ぶことができます。いちばん安いのが15,000Rで、それでも5

ピースぐらいの造りになっていて、中のいちばん小さいのは十数年前に買った工場製

のと同じくらいの小ささ。私はそれを5つと、20,000Rのを一つ買いました。1個1

個専用のポリ袋に入れてくれます。

 この売店で、変わった形をしたバッジを見つけました。図柄はテンが鮭を加えてい

るイルクーツク市の紋章の上にソ連時代のロシア連邦の旗(ソ連旗の左端に縦の青い

太い線が入っている)をあしらったものです。しかも珍しいことにちょうど薬局で渡

される薬のように1個ずつセロハンの袋に入っているのです。これならクラスの生徒

への土産にちょうどいい。50個あります?と聞くと、もちろんあるあるという返事です。

このたくさんの数がまとめて買えるというのがなかなかあの国ではないのです。だか

ら、あったら必ず買っちゃわなくては。去年はイガルカの町のバッジが50個買えたの

ですが、シベリアの奥の流刑地の町だけになんと有刺鉄線に囲まれたラーゲリのデザ

インで、生徒に渡すときの説明に苦労しましたっけ。それにくらべたら今度のは最高

です!

 マトリョーシカとバッジであわせて120,000R。 さきほどの札束は銀行の帯封をほ

どかないまま渡すことになってしまいました。先方も数えもせずに受け取ります。

 

 

 

 

(11) ニキータ

 

 15時20分ぐらいでしたか、冷蔵庫のシャンパンを取り出してホテルを出ました。F.

カメネツキー通りのアントンの実家に着いたのがちょうど16時くらい。アントンとご

両親、妹のアーニャ、それにご両親のお友達のオリガさんがいます。オリガさんは以

前はご両親と一緒に仕事をしていたのだそうですが、今は学校の先生。「音楽の先生?

」と聞いたら、「いえ、小学校だもの」と、あちらでも小学校低学年の先生は全科を

受け持つのでしょうか。とてもいい喉をしてらして、3年前にイルクーツクへ寄った

ときにはオリガさんのお宅でミニコンサートをやってくださいました。

 アントンはイルクーツク総合大学の学生の傍ら、コムソモーリスカヤ・プラウダの

仕事を続けています。「プラウダはもう人気がないけど、コムソモーリスカヤ・プラ

ウダは人気がある」と、なかなかプライドも高い。そう言いながら「ソビエツカヤ・

モロヂョージ」紙に掲載された彼の署名入りの記事を見せてくれました。

 私がバイカル湖から戻ったのを知ると、彼もこの夏休みにバイカルで遊んだといい

ます。それが我々と桁違いなのです。バイカル湖の東岸のある場所からほぼ南端まで

を2人乗りだかのカヌーで1週間だか10日かけて下ったというのですから。

 

 ほどなくしてアントンの奥さんアーラとアーラのおばあさん、それに翌日で1歳と

ちょうど5ヶ月になるアントンの長男ニキータがやってきました。当たり前ですけど、

1年前とは見違えるように大きくなっています。身長も80cmを超えていて、体重も15

kgだとか。もちろん、どんどん歩くし、硬い肉料理だって歯で食いちぎります。まだ、

このくらいだと人見知りはしないのですか、よそのおじさん(私)がいても全然気に

する様子がなく、とてもかわいい。

 でもまだ言葉はしゃべれません。ナターリヤ・Nが「ニキータとアキノリは同じだ

ね。ロシア語が話せないから。」とからかいますが、あちらはこのあとあっという間

に上達する筈です。

 

 みんなが揃ったところで例のシャンパンで乾杯。お酒はほかにいわゆる「スホーエ」

というさっぱりした味のワインがありました。黒パン、キャベツなどの野菜をマヨネ

ーズであえたサラダ、オームリの塩漬け、アンチョビのような魚のカナッペ。もう一

つかわった香料をつかったチーズのカナッペもありましたがけど、ヴァトルーシカの

具なのでしょうか。焼いた豚肉、胡瓜、トマト、大きなピーマン、ゆでたてのジャガ

イモと、このあいだの似たメニューでしたから、きっと「お客のときはこれ」という

定番なのかもしれません。ナターリヤ・Nが気を使って時々「もっと召し上がれ」と

言ってくだささるのですが、どれも美味しくて言われなくても手がでます。

 

 お茶が終わったら、ちょっとしたコンサートです。ワレンチンのチェロ、ナターリ

ヤ・Nのピアノ、歌はオリガさんが歌ってくれます。アーニャも母親にかわってピア

ノを弾くことがあります。アントンは中等学校の頃まではトランペットを吹いていた

のですが、ペレストロイカの頃からロックに熱中してクラシック音楽からは離れたよ

うで、この日はもっぱら父親の演奏の際の譜めくり役でした。

 はじめはピアノ伴奏付きのチェロの演奏でドボルザークの「我が母の教え給いし歌」

、そのあとオリガさんがロシアのロマンスを3曲続けて歌ってくれました。ツルゲー

ネフの詩に曲をつけたのやチャイコフスキーのだそうです。再び、チェロとピアノで

ビバルディとチャイコフスキーを1曲ずつ。ついでロシア・ロマンスをもう3曲。最

後はチェロ(もちろん伴奏あり)でサン・サーンスの「白鳥」でした。

 昼間町を歩いたときにレコード店でもデパートのレコード売り場でもクラシックを

見かけなかったので、そのことをナターリヤ・Nに言うと「そうなの」と憂い顔にな

りました。ロシアでこれまでの体制が壊れて「自由」になったはずなのに文学界など

では混迷が続いて優れた作品が出にくくなっているという話をどこかで聞いたことが

ありますが、映画とか音楽とか美術とか、文学だけでなく文化の様々な分野で同じよ

うな事態になっているのでしょうか。

 

 このお宅を訪ねると、いつも「あなたのお母さんに」と心のこもった贈り物をくだ

さるので、今回は母が日本の緑茶を私に託して届けました。コンサートのあと、それ

をあけて飲もうということになったのです。このお茶でアーニャの手づくりのタルト

(もちろん先日の残りではありません)をいただこうというわけです。私にお茶を入

れてみろといいます。でも急須がないし、紅茶のポットではお茶の葉がみんなカップ

に出てしまいます。それにポットの中でお茶の葉が膨らむと、お茶がみんなポットの

尻にまわってこぼれてしまうのです。悪戦苦闘して入れたお茶、みんなは「フクース

ナ」とか言ってくれましたが、実際私が飲んでみると苦い。葉が多かったようです。

ベテラン主婦のナターリヤ・Nは「アキノリはふだん家でやってないんでしょ。」と、

ちゃんとお見通しでした。

 

 日が落ちてしまわないうちに戸外で写真をと私が言って、みんなに外に出て貰いま

した。からだの具合があまり良くないおばあさんだけが留守番です。私はアパートの

外ぐらいに思っていたのですが、アンガラの岸まで行こうとアントンが言い出して、

結局レーナの家の近く、永遠の炎のところまでみんなで歩きました。オリガさんだけ

は玄関のところで一緒に写真を撮ったあと帰って行かれましたが。

 アントンの話では、この一角は近々に工事が行われてきれいな公園になるとか。今

だってじゅうぶんきれいな公園なんですけどね。まさか、永遠の炎を取り壊すんじゃ

ないでしょうね。それじゃ「永遠」でなくなっちゃうじゃないですか。

 

 外に出てもやはり主役はニキータです。1人で歩いたり、アーラやナターリヤに抱

き上げてもらったり、犬とたわむれたり。その都度さまざまな表情をしてみせ、その

どれもが愛らしい。ことにニキータが初孫にあたるナターリヤにとっては、それはそ

れは可愛くてしかたがないというふうでした。

 外を歩きながら、アーラに「カムチャッカに行ってみたいな」と言ってみました。

彼女はカムチャッカの出身で、お母さんは今でもペトロパブロフスクに住んでいます。

そしたら彼女の返事、「私も行きたいわよ」。結婚して以来一度も里帰りしてないと

か。なにしろカムチャッカへの飛行機代が1,000,000Rもするんだそうです。 返すこ

とばがありませんでした。

 だからアーラのご両親もニキータに直接会ったことが一度もないのです。去年の夏

撮った写真も私はアントンに2枚ずつ送りました。うち1枚ずつをカムチャッカに送

ってもらうためです。それにしてもどこの国でも小さい子はかわいくて、どんどんシ

ャッターを切ってしまいます。この頃、旅にでても私はあまり写真を撮らなくなりま

したが、この日ばかりはアントンの家に来てからだけで36枚撮りを1本以上使ってし

まいました。

 夕方は風もやんでしまって戸外はけっこう暑くなりました。ふだんは日に2度寝る

というニキータは、この日はまだ一度も寝てなくて、アパートに戻ったときにはさす

がに疲れた様子でした。21時前にアントン夫妻とおばあさんはニキータを連れて帰っ

て行きました。

 

 そのあと、ブリヌィ、紅茶、ジャムがでました。22時に「明日が早いのでおいとま

します」と言いますと、また一家でホテルまでおくってくれました。30分ほどの道の

りですが、この間ワレンチンは話に加わらず犬の番(車道に飛び出して轢かれたりし

ないように)をしていることが多く、たいていナターリヤ・Nと話ながら帰ります。

 このときはロシア民謡の話題で、「これは知ってる?」と言ってロシア語で歌った

のをこちらが日本語でというふうにしていたのですが、そのうち話題が変なほうに。

「アキノリのお母さんの夏休みはどのくらい?」ということになったのです。私は何

度もアントンのお宅に行っているのに母は一度もロシアへ行ったことがないからそう

思ったのでしょうね。たしかお盆の時期に1週間より短い休みがあった筈ですが、そ

ういう細かいことは言えないので「1週間」というと、あちらが絶句。ナターリヤは

7月はじめから8月22日まで夏休みだそうで、「学校の先生なら6月下旬から8月いっぱ

いよ」という話です。傍らで聞いていたアーニャが言います。「私テレビで見たわよ。

日本人は働くのが好きなんですってね。」 冗談じゃありませんよ、そんな報道した

の、どこの放送局ですか。

 今のロシアの経済の混乱、超インフレや生産の低下を、やはり同じように社会の価

値観が大転換した戦後の日本の時期に似ているという人がいます。でも、いったいぜ

んたい戦後の混乱期に日本の人々は2ヶ月もの夏休みをとっていたのでしょうか。

 労働者の平均月収が200,000Rとかで、薔薇の花束やシャンパン1本が10,000Rもす

るのに、市場はお客でごったがえしています。日本にいると、毎年この冬こそロシア

では餓死者が出るのではとか、そのうち日本海を越えて難民(そのときは何系ロシア

人てよぶんですかね)が押し寄せてくるのではという気分になりますが、どうもそれ

は実像と少しずれているのではないかという気がしてきます。

 

 22時半ホテルの前で何度も丁寧なわかれの挨拶をしてから、一家は帰っていきまし

た。

 

 

 

 

(12) 帰国

 

8月17日(水)

 この国ではもともと早めに時間が設定されているところへ夏時間ですから、宵には

なかなか暗くならないのに対して朝は思ったより明るくないのです。 8時にトランク

ダウンということになっていましたが、それでも余裕があるくらい早く目が覚めて、

ホテルの前の川岸に出てみました。人通りも殆どなく静かなものです。東側のホテル

などの建物に遮られてまだ太陽が見えません。対岸の鉄道の上の丘の建物には日があ

たっていて、田毎の月ではありませんが、窓1枚ずつに太陽が反射して球場の照明の

ようです。イルクーツク駅の赤いネオンがまだ点いたままで、川面に赤い影を映して

います。よく整備された川岸の花壇の上では無数の小さな虫が乱舞している。

 

 イルクーツク〜新潟便は週1便ですから、火曜日の夜にはホテルには日本人のグル

ープがいくつも集まってくることになります。今回の便もほぼ満席近くで飛び立ちま

した。07時半に慌ただしい朝食をとり、08時半頃でしたでしょうか、今度は大きめの

バスで空港に向かいます。

 

 驚いたのはイルクーツクの空港でもこの8月から空港使用料を徴収するという話で

す。ハバロフスクと違ってターミナルビルが新しくなったわけではありません。まだ

工事中です。$5か5,000Rと言われて、山上さん「シャクだからルーブルで払おう」

とみんなから集めたたいへんな金額の札を数えておりました。

 税関を通ったあとの待合い室の売店でルーブルがまったくおおっぴらに使えるので

す。考えてみると税関の職員がたしかに「ロシアのお金は持っていませんね」とカタ

コトの日本語で言うのがなかった。ルーブルの持ち込みはともかく持ち出しは解禁に

なっているのでしょうか。どうせ持ち出している間に紙屑になっていくからその分だ

けロシア経済に寄与するとか考えて....(^_^;)。

 

 例によって予定より1時間ほど遅れてから搭乗の指示があり、今度は途中で給油の

ために降りることもなく無事に戻ってまいりました。

 

 

 


 

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