3分20秒の記憶



    Prologue
      −− 序 幕


 深い水の底から、すーっと浮かび上がってくるようでした。
 徐々に目覚める意識を無意識に感じながら、真治君は目をあけました。
 枕元の目覚まし時計の針は、八時を少しすぎたところを指していました。一瞬、はっとして上半身を起こした真治君ですが、すぐに思い出して、また横になりました。
 きょうは休日です。
 窓越しに見る空は、春特有の霞がみられますが、青く広がり、やっぱりよいお天気です。こうして、ぼーっとしているのもいいものだな。ほんわかとした布団の中で、真治君はそう感じていました。きょうは五月五日の子供の日です。きのうが日曜日で三日も休みだったので、三連休になります。
 真治君は、この春で小学校五年生になったのですが、こういうのって、中学生になっても、高校生になっても大人になっても、きっといいものなのだろうなあ、と思うのでした。
「真治、そろそろ起きなさい。ごはんが冷めちゃうわよ」
 暫くすると、階下から、おかあさんの声がしました。
「それにきょうは、悟おにいちゃんのところへいくんでしょ」
 真治君は、飛び起きました。そうだ、悟おにいさんと約束していたんだ。
「はーい」
 返事をすると真治君は、布団をたたんで、着替えをしながら、窓ガラスを開けました。外を覗くとまばゆいばかりです。真治君は、新鮮でまだ少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みました。道路を隔てた向かいの家の庭は、緑の間から突き立った竿に結ばれたこいのぼりがたなびいていました。吹き流しとまごいとひごいと・・・
 階段を降りて、顔を洗って、居間へ行きました。
 おとうさんは、もう食事がすんだのか、新聞を広げて朝からコーヒーを飲んでいます。
 おはようといただきますの挨拶を同時に、真治君は焼きたてのトーストにかじりつきました。

 悟おにいさんは、真治君の家が大家をやっている、隣のアパートに住んでいる大学生です。  家賃の支払いにきたり、実家に帰ったときのおみやげを貰ったり、挨拶をしているうちに、すっかり真治君ともなかよくなりました。もっとも、悟おにいさんが子供好きだということもあるみたいですが。今春、大学三年生になったので、真治君とも二年越しの付き合いになります。
 真治君にはよくわからないのですが、悟おにいさんは、大学では、理学部というところでなにやら難しい研究をしているみたいです。また、悟おにいさんは、映画研究会というサークルに所属していて、とてもその方面にも詳しいのです。テレビとか映像が大好きな真治君にとっては、悟おにいさんは神様みたいなものでした。
 時折、ロードショーの映画(もちろん、真治君でも退屈しない映画ですが)にも連れていってもらいます。映画が終わった後は、ほとんど必ず、喫茶店に入って真治君と同じパフェを頬張ったかと思うと、暫くうーんと唸って腕組みをする悟おにいさんでした。でも、その後は、映画解説者のように、良いところ悪いところを説明して、真治君がよくわからなくてもやもやしていた場面を綿菓子を溶かすように、謎解きをしてくれるのでした。
 大学の春祭が5月に催されるみたいでして、悟おにいさんはここのところずーっと、自主映画の作品製作に没頭していました。その映画が、きょうの五日にはできているはずなので、最終チェックの試写に真治君にも観てほしいと誘われているのです。
 約束の十時に、真治君は、悟おにいさんのアパートの部屋を訪ねました。
 階段を二階に上がり、ドアをトントンとノックしました。一回目では返事がなく、三回目でようやく、中から「はーい」という返事が聞こえ、ドアが開きました。
 悟おにいさんは、よれよれのジャージとTシャツの格好で、ぼさぼさの頭をかきながら、「やあ、おはよう」と声を出しました。
「そうか、もうそんな時間か。まあ、とりあえず上がって・・・」
「おはようございます。はい、ではお邪魔します」
 真治君は答えると、部屋の中へ入りました。
 何回か上がったことのある、悟おにいさんの部屋です。普段も、お世辞にもきれいとは言えない部屋ですが、きょうは一段と散らかっています。隅に丸められた布団の他に、映写機やら編集機やらルーペやら、細々とした道具が畳の上に並べられています。また、部屋の中央を左右に渡すひもが宙に伝わっていて、そのひもから、洗濯ばさみで長短様々な8ミリフィルムがぶらさがっています。でも、そんな中でも、壁に張られたポスターの、オードリ・ヘップバーンのモノトーンの笑顔だけは変わりませんが。
「あー、きょうもいい天気だね」
 窓を解放にして空を見上げて、部屋の空気を入れ換えながら、悟おにいさんは言いました。
「いやー、思ったよりも手間取ってしまって。きのうも夜遅くまで、映研の岩崎と最終の編集作業をしてたんだよ。あっ、真治君、岩崎って知っているよね」
「うん、同じ大学で一緒に映画を作っている人でしょ。ぼく、何回か会ったことがある」
「そうそう。うちに泊まっていたんだけど、あいつはきょう、アルバイトがあるからって、今朝早く出かけたんだ」
 悟おにいさんは、頭をぼりぼりとかきました。窓をバックにして、ふけが舞うのがわかります。
「そうか、それでまだこんなに散らかっているんだね」
「はは、まあそういったところだな。でも、作品の映画はとりあえずだけど、完成したよ」
 悟おにいさんは、冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをふたつのグラスに注ぎ、ひとつを真治君に渡しながら言いました。真治君はグラスを受け取ってジュースを口にしながらも、きょろきょろしています。そうして、机の上に置いてある8ミリカメラを見つけました。
「あれ、この8ミリカメラって、この前見せてもらったものよりずっと大きいや。何だかプロの人が使うみたい」
「すぐに見つけられちゃったなあ、さすが真治君だ。そうなんだよ、以前のカメラも、同じフジカのシングル8なんだけど、ZX550というやつだったもの。今度のそのカメラは、ZC1000といって、アマチュアが使う機種では最高のものなんだよ。レンズも交換できるし、すごく多機能なんだ」
 悟おにいさんは、何だか自慢気です。
「このカメラで撮影したの」
「えへん、ずばりそのとおり。結構カメラに助けられちゃったところがあるよ」
「触ってみていい?」
「うん、いいよ。でも、気をつけて。何しろ、映画研究会のなけなしの予算で買ったんだから」
 真治君は、手に余る程の大きさの8ミリカメラを静かに手に納めると、ファインダーに目を当てました。ピントを合わせると、レンズ越しに悟おにいさんが見えます。そのまま部屋の中をパンして、窓の外の風景としました。ズームで望遠側にしてみます。いつも見慣れている景色なのですが、そうやって切断されたフレームからは、別の世界が映し出されていました。そうして真治君には、その世界が全く異なった時間の流れで構成されていることも確信できたのでした。
 その間、悟おにいさんはばたばたと部屋の片づけをしていました(といっても、ほとんどものを部屋の隅に追いやった、というほうが正解ですが)。真治君が気づいたときには、壁掛けのスクリーンが張られ、映写機もテーブルの上に置かれていました。
 悟おにいさんは、真治君から受け取った8ミリカメラを机の上に置き、代わりにリールに巻かれた8ミリフィルムを手に取ると、映写機にセットし始めました。
 真治君は、ひもからぶらさがった8ミリフィルムを眺めていました。
 以前に、悟おにいさんが編集作業をするのを見ていたことがあるので、撮影されたフィルムが、シーン別に必要箇所だけカットされ、エディタでつなぎ合わされ作品ができていくのを、真治君は知っていました。
 真治君は尋ねました。
「悟おにいさん、このフィルムは?」
 悟おにいさんは、手を休め顔を上げ、しばし真治君を見つめると、少し悲しそうに言いました。
「ああ、それは編集で没になった分。でも、本当はそれだって大切にしたいんだけどね」
 一秒間に十八コマという、刹那の映像たち。それはやはり、瞬間が切り出したひとつの連続した世界・・・
 真治君は、フィルムに顔を寄せてみました。その小さな窓のひとつひとつに、振り返る、寂しげな少女が写っています。その姿を少しずつ変化させながら・・・
 悟おにいさんが、リールのフィルムをセットし終わりました。
「それじゃ、そろそろ、上映を始めるから。真治君、窓を閉めてカーテンも引いてくれないかい」
 真治君は、悟おにいさんの言う通りにすると、スクリーンの前に座りました。やっぱり、わくわくとします。
「そういえば、まだ聞いていなかったけど、どういう内容の映画なの?」
 悟おにいさんは、腕を組み首をかしげました。
「うーん、すごく、悲しくて寂しくて・・・でも、ものすごく、うれしくって・・・まあ、とにかく、観てみてよ」
 悟おにいさんが電気を消すと、部屋全体が暗くなるだけではなくて、音もしーんと静まりました。スクリーンの明るさと、映写機の立てるカタカタという音だけが、感じられます。
 やがて、銀幕のスクリーンには映像が写り始めました・・・


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