平成16年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

H16title.png

金隈の鳶の水

kanenokuma30.jpg
民族文化財・無形民族文化財
福岡市博多区 金隈の鳶の水保存会

概要

暮から小正月にかけて行われる来訪神行事の一つです。
 特に小正月と呼ばれる年の改まった一夜(正月十四日)には扮装した青少年たちが、家々を訪れ、祝言を述べて廻る行事が全国各地で広く行われています。その行事はナマハゲ・アメハギ・ホトホト・コトコト・トロヘイ・トビトビ・タビタビ・カセドリ・カセダウチ・餅ウチ等々様々な名称で呼ばれています。
 これらの行事では、仮面を付けたり仮装したり、祝棒をもった来訪者が村の家々を訪れてめでたい言葉で祝福したり、藁馬・銭緡・粟穂・農具・俵・大判小判・杓子などの作り物をもってきて、餅や銭をかわりに貰っていったりすること、その際に水をかけられることなどが共通しているとされています。

金隈の鳶の水の現状

 ある年に疫病が流行り、多くの子供たちがなくなったため、その後、子供たちの健康を祈願して、また新しい年に福を招く意味をこめて子供たちが町内の家々を一軒々々廻るようになった、と伝えられています。また、火除け、厄除けの祈願だとも言われています。
 例年正月二日の午前中に行われます。金隈の観音堂から出発し、棕櫚皮で編んだ蓑を着、菅笠を被った年長者(中学生)の水がかり(水かぶり)と子供たちが町内各戸を訪問して廻ります。蓑は現在市販のものを購入していますが、かつては田植え用の簑を借用しました。その形が鳥の羽根に似ており、そのために「鳶」と理解されるようになったものとも思われます。水がかり(水かぶり)は訪問先で掛けられた水を勢いよく撒き散らします。災厄をはねる意味ではないかと考えられています。ワッショイワッショイの掛け声とともに町内各戸を廻った後、再び観音堂にお参りして終わります。
kanenokuma10.jpg蓑と笠kanenokuma20.jpg観音堂を出発


kanenokuma40.jpg水かぶり 左奥は横付きkanenokuma50.jpg町内を廻る鳶に付いて行く子供たち

聞き取り

 「二日の鳶の水では何も持って行かなったが、元日の早朝4時ごろから当時50戸くらいだった町内に半紙に画いた「早馬」を、はやうまと掛け声をかけて配って廻りました。鳶も早馬も中学生が頭で男子の子ども達だけでやりました。早馬を配った時に貰う祝儀で絵馬を買って毎年宝満宮に奉納しています。余ったお金ですきやきを食べたそうです。肉は家では年に何度も食べられるものではありませんでしたが、この時は一人百目食いをやったそうです。腹に入らなくなったら町内を一周走って来て食べたとか。」
 「昭和50年ごろ、友達同士の家で早馬画きを晩遅くまでやるので受験勉強の邪魔になるということになって、早馬も鳶も止めることになっりました。その後再開した時、水かぶりは中三のけんちゃんだったから、鳶の水の復活は昭和55年になります。ただ早馬はそのままになってしまいました。
 元々男子だけでやっていましたが、女子の参加希望もあり、後から付いて来て貰うようになりました。」

 「子ども育成会のお母さんたちには本当によくやって貰っていますが、これからはお父さんたちにも手伝ってもらい、マンションなどが建ち新しい居住者も増えているので、町内の各家庭が鳶の水を知っているというような工夫する必要があります。」
 「道路を渡らなければならないので、1組は廻っていませんが、来てほしいという話しもあり、二手に分かれて廻ることも方法も考えています。早馬配りを復活させたり、横付きも何か衣装を用意してやったり、昔しからの根本の精神は大事に守りながら時代にあった新しいやり方も工夫して行きたいです。」とのこと。

 

指定理由

 かつて福岡県内で行われた正月の来訪神行事の呼称には、トビ・トビトビ・トヘ・トウヘ・トーヘイ・トーヘー・トヘトヘ・トエトエ・トヘトベ・トベトベ・ドウヘイ・トヨトヨ・トシトシ・カセトリ・カセドリ・カセドリウリ・ガオンガオンなどが知られています。金隈の「鳶の水」もその一つです。
「風ふかんとては必ず鴟(とび)なく」(『萬寳鄙事記』)、「トヘゝゝ 鳶々成へし、火事ニ鳶飛前表の咄あれハ咒ひに水かくる事と成へし」(『望春随筆』)と言うことから、トビに「鳶」の字が充てられ、また火伏せの意も伝えられたことは、本行事の呼称と表記が附会の説でないことを示すとともに、同種の行事に貴重な一事例を加えます。
 宝尽くしの文様に隠蓑・隠笠が宝物として画かれるように蓑笠は神の衣装と言われ、かつては各地において蓑笠を纏い福神に扮した村の若者が新年の祝福に家々を訪れる行事があったことが知られています。しかし、そのような行事も甚だしい例では江戸時代に、さらに明治維新後の文明開化とその後の近代化の中で多くが消滅したと言われます。その意味で、現在においても継承されている「金隈の鳶の水」は本市の歴史・文化にとってかけがえのない価値を有する貴重な民俗行事と言えます。