平成12年度指定

有形文化財・彫刻
木造十六羅漢像 16躯
附 石膏型 16躯

 福岡市博多区御供所町6-1 宗教法人 聖福寺

 羅漢は、仏教の修行を完成して悟りの境地に達した聖者、また修行の中間過程にあるものとされ、なかんづく仏法護持を誓った十六人の仏弟子を十六羅漢と称しています。特に禅宗ではその厳しい修行の姿が理想化され信仰の対象となり、山門に安置されます。
 像容に一定のきまりはなく、形姿は自由に様々です。
 聖福寺の十六羅漢像は、博多櫛田前町生まれの山崎朝雲(慶応3年・1867〜昭和29年・1954)が再興された聖福寺山門のために大正五年から九年かけて制作したものです。朝雲は、郷里にあって博多仏師高田又四郎(生没年不詳)に学び、上京後高村光雲(嘉永5年1852〜昭和9年・1934)に師事、晩年文化功労者になった木彫界の重鎮です。
 もともと、聖福寺山門には博多仏師佐田文蔵作の十八羅漢像が安置されていましたが、慶応3年(1867)山門火災のため焼失してしまいました。大正元年(1912)に文蔵門人高田又四郎が二躯を作りましたが、又四郎の死去のため羅漢像再興は未完のままでした。

品質・形状等:欅材・一木造・丸彫り・彫眼・素地

法量・銘文:一覧(PDFファイル)

 従来、木彫師(きぼりし)・彫刻師(ほりものし)仏師屋(ぶしや)・宮彫師(みやぼりし)といった名で呼ばれた職人の技術や活動が「彫刻」という概念に統合して理解されるようになったのは、明治初・中期のこととされています。
 すなわち、殖産興業と欧化政策に沿った明治9年(1876)の工部美術学校における彫刻学科の設置、その後伝統美術復興を唱えた明治22年(1889)の東京美術学校における彫刻科(当初木彫のみ)の設置が、言葉としても制度としても「彫刻」の始まりだと考えられています。
 当初、封建的身分制度から解放された四民平等の文明開化世界を迎えはしたものの、彫刻界はなお「傭職ノ賤業ニ属シ上流人士ノ之ヲ学ヒ以テ身ヲ立テ名ヲ顕ス技法ト為スモノ」がなかったという実状でした(『工部省沿革報告』)。
 加えて、アンシャン・レジーム(旧制度)の解体過程でとられた神仏分離政策と廃仏毀釈の嵐は、かつての神社仏閣・幕府・諸大名以下社会の庇護・需要を失わせ、仏師は転業を余儀なくされ、伝統的木彫は衰退をたどっていました。朝雲が師事した高村光雲は、東京に残る木彫家は自分と弟子林美雲の二人くらいだったと当時を回想しています。
 そうした時代に光雲の下で朝雲が学んだものが何であったかは詳でないが、おそらく伝統的彫刻と西洋彫刻との狭間で胎動する近代彫刻の様式や技法、また造形感覚であったと想像されます。実物に即すること、モデルを使うことを基本に、人間や自然の美や動勢を表そうとした写生的・写実的造形のあり方は、本羅漢像からもうかがえます。伝統的な仏師の彫刻を見慣れた当時の人々にとって本羅漢像は「仏臭さ」を脱した一個の彫刻作品として未知の新鮮な感動を与えたに違いありません。
 技法的には油土(脂土、ゆど・あぶらつち)で原型を作り、石膏型におこし、それをさらに星取器(比例コンパス)で木材にうつして木彫としたものです。この技法の前半は明治彫刻史の第一世代である師光雲が、自由な表現を可能にする技法として憧憬した西洋の「塑像」の技術であり、荻原守衛(1879〜1910)など次世代のブロンズ制作の時代との中間に位置し、木彫の新生面を提出したものと言えます。
 また彩色を施さず、木目や木肌を生かした素地のままでの造像は言わば仏像彫刻の規矩をはずしたものであり、こうした点にも伝統と近代の矛盾相剋する中で新たな造形を追究する当時の彫刻家の創造的な姿勢を見て取ることができます。
 郷里の師博多仏師高田又四郎の遺志を継ぐ形で、岩崎庄三郎、磯野七平、太田清三他福博人士の助縁によって実現した本十六羅漢像は、以上のように、旧時代の仏師が新時代の彫刻家として彫り出した本市における近代彫刻の嚆矢であるにとどまらず、残された石膏型と相俟って伝統的な仏像彫刻が近代的な彫刻に再生する過程を示す作品として、近代美術史上おいても大きな価値を有します。



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