平成10年度指定

民俗文化財・有形民俗文化財
飯場の神楽道具(関係文書一括附) 138点

 福岡市早良区大字飯場143番地 飯場の神楽道具保存会


  早良区飯場の大山祇神社に保管される飯場神楽組の神楽道具一式と関係文書であり、神楽道具138点、関係文書87点からなる。
 神楽道具138点は、神楽面14面、太刀4振り、笛4本、太鼓1張、狩衣14着、千早10着、袴31着等々及び獅子頭2面からなる。
 関係文書87点は、『飯場神楽本』(明治25年)、『飯場大神楽略暦』(昭和35年、写)、近隣各社に奉納した際の祝詞、講金取立帳、貯金貸附帳、決算帳等からなる。
 飯場の神楽は明治25年(1892)に始められたものであり、毎年旧暦5月12日、五穀豊穣氏子安全を祈願した春祭りで奉納された他、招かれて近隣各社に奉納していたが、およそ20年位前に途絶えた。


 明治25(1892)年6月、井上種吉・結城嘉三・結城徳次・結城與曽吉・木實新作5名を創立世話人とし、寺田與吉・筒井千吉・大場盛・大場伊勢吉・結城恵八郎・結城萬吉・木實作吉・木實鶴吉・波呂卯一郎及び子供の寺田市三郎・結城寅次郎・結城伊三郎・木實磯吉以上13名を舞人及び楽人として神楽組を結成し始められた。
 装束や毛頭は、高祖神社の神官上原和光(大正5年〔1916〕没)夫妻に裁縫と編み方の指導を受けて仕立て、烏帽子は姪浜の神官に依頼して製作したもの。
 神楽面は、曲渕井上藤市所有の大桐を高祖に運び、上原和光に依頼して製作したもの。
 装束その他道具の補充・修理には、近隣各社への奉納の謝礼金を積み立てて充てていたが、漸次転出等により神楽組員が減少、大正7年(1918)には僅か7名となり、近隣各社への奉納にも支障を来した。そのため、同年新たに加入者17名と神楽保存金を募って神楽講を組織し、その基本金の利子を以て装束その他の補充・修理に充て、併せて講金を講員に貸付け相互扶助の一助とした。
 その後、残された文書によれば、昭和20年・21年をはじめ幾分の記録を欠いているが、ほぼ昭和50年代までの神楽奉納が跡づけられる。
 なお、奉納先については、石釜の熊野神社、内野の日吉神社・志々岐神社・山神社、金武の妙見神社、飯盛神社、東入部の老松神社、重留の宝満神社、野芥の地禄神社の名が記録に見えている。

曲目(『神楽次第本』 明治25年〔1892〕に拠る)
 1.神供御神楽 2.祝詞御神楽 3.四神幣帛御神楽 4.荒神御神楽
 5.敷蒔 6.引目 7.両劔 8.笹舞 9.多久佐 10.高処
 11.御弓 12.問答 13.磯羅神楽 14.神相撲延起 15.国平神楽 16.岩戸神楽  


 昔、病気が流行したため、高祖の神楽(前原市)を習い、氏子安全を願って始められたと伝えられている。
 記録によれば、飯場の神楽が始まった明治25年(1892)以前には神楽を招いて奉納していたと伝えている。その始まりの理由は明らかでないが、大正時代の神楽講の設立などから推して、当初、神楽組員間の互助的な意味があったとも考えられる。
 神社は「国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有」すべきものでないとした明治4年(1871)の太政官布告で神職の世襲制が廃止され、一般的に神楽は神官神楽から氏子の手になる神楽に移行するとされるが、現在からすると神楽存続の第一回目の危機でもあった。第二回目の危機は戦後、連合国軍最高司令部による国家神道の一掃、三回目は高度経済成長期にあったと考えられる。
 飯場の神楽は、そうした歴史の変遷の中にあって近年まで舞い続けられ、神楽奉納が途絶えた後も、その道具類については一式が保存継承されたものである。
 また、関係文書についても、他地域で行われる「筑前神楽」「筑前岩戸神楽」の意味不明の台詞を相補う台本をはじめとして、神楽と生活との関連を窺わせる多くの資料が残されている。
 かつては田島神楽(城南区)にも諸道具と記録が継承されていたが、戦災で焼失しており、現在では唯一、飯場の神楽道具一式と関係文書だけが、往時の神楽奉納の有様をつぶさに生き生きと伝えている。