◆◆◆ 電脳PiCARO ◆◆◆ 第6弾記事

地名


マップにの各スペースには非城塞スペースにもさまざまな地名がかかれています。その地名を調べてみました。


ITALY(イタリア)
地域としてのイタリアはイタリア半島をさしています。第一次ポエニ戦争以前のローマの領土に北辺の近ガリアを加えたもので、ガリア以外はローマとその市民権またはラテン市民権(投票権のみ所持しないローマ市民権)を与えられた諸都市及び諸部族、そしてローマ連合の集合体でした。北はガリア人、そして同化して久しいエトルリア人。中部にはサムニウム族。南の大都市の多くはギリシャ人の植民地でした。


LATIUMU(ラティウム)
Rome(ローマ)D(−1)◎:
ローマ連合の首府です。ティレベ河畔にある7つの丘と、その間の低湿地帯を排水して作られた平地を利用されています。外港としてオスティアをもっています。ローマの道路が集まる要衝ともなっていました。


ETRURIA(エトルリア)
未だに文字が解読されずに謎の民族とされているエトルリア人の地域です。建設技術などにすぐれ、ローマが付近のラテン人の次に相手をした地域でした。エトルリア勢力がのちに弱まったが為に、却って北のガリア人に侵入されてしまった経緯があります。

Pisae(ピサエ)◎:
現在のピサで、史実ではこおっからプブリウスとルキウスのスキピオ兄弟は対カルタゴ戦のためにマッシリアへ出港しています。エトルリア人の都市国家です。

Cosa(コサ):
ラテン人植民地で、紀元前273年に建設され、197年に大規模な増強が行われてます。

Tarqini(タルキニ):
エトルリア人の有力な都市国家で、ローマ連合の都市です。

Faesulae(フィエゾレ):
これもエトルリア人の都市国家です。

Falerii(フォリーニョ):
トランジメーナ湖畔の戦いが起った場所です。恐らくはエトルリア人の都市と思われます。トランジメーノ湖の南にあり、アリミニウム(リミニ)へのフラミニア街道上の小都市です。執政官フラミニウスと共同してハンニバルを攻撃しようと合流に南下してきた執政官セルヴィリウスがその敗報を聞いたのはここでした。


CAMPANIA(カンパーニア)
この地方は主にギリシャ人植民地の勢力が盛んであった地域であり、ローマにとって最重要地域の一つでした。街道もまずはこの地域に向かって伸ばされています。また、カンパニア族の住処でもありました。

Capua(カプア)2:
当時のローマに次ぐ最重要都市でした。ラティーナ街道とアッピア街道の交差地点でもあり、レッジョへのアンニア街道、への出発点でもありました。

Neapolis(ネアポリス)2◎:
現在のナポリです。カンパニア地方第一の港湾都市であり、かつローマの有力な同盟市でした。中南部随一の港湾です。


SANIUM(サムニウム)
サムニウムという地域名ですが正確にはサムニウム族の地域はもう少し南にずれており、ウンブリ族などの地域も含んでいます。

ariminiumu(アリミニウム):
フラミヌア街道とエリーミア街道、ポピーニア街道との三叉路リミニの地域で、当時の北辺ルビコン河のすぐ南方に位置する要地でした。特に紀元前187年に作られたエリーミア街道はガリアへの道でした。

Firmum Picenum(ファヌム ピチェーヌム):
サラリア街道の重要地ピチェーノと思われます。

Sena:
ここについては、よくわかりませんでいた。部族や都市名に似たような名前もありません。
場所的には、サラリア街道(ローマ=カストゥルム・トルエンティヌス)かカエキリア街道(サラリア街道から東へ別れてカストル・ノウムまたはハドリア地方へ)のアドリア海の終点辺りと思われます。代表都市としてハドリアをあげればよいと思います。

Praeneste(プラエネステ):
場所的には、ローマの50kmほど東に同名の植民都市がありますが、これは時代が下ってスッラの時代の植民都市です。当時の、地図版上の場所的には、アルバ・フケンスという都市がウァレリア街道上にあるます。

Terventum(テレベンツゥム):
同名の場所がありますが、実際にはあまり重要であったようではないようです。また、この付近にはローマ式の街道は通っておらず、交通の要衝ちううわけでもありません。長い間、ローマに屈服せずにいた山間民族サムニウム族の地域の北辺にあたり、恐らくローマが築いた根拠地と思われます。


APULIA(アプリア)
長靴のカカトの部分にあたります。ローマが地中海の覇者となるに従い、ギリシャ、東地中海への出口として後に重要性が非常に高まった地域です。

Tarentum(タレントゥム)2◎:
タレントゥム(ターラント)は南伊屈指の良港で、スパルタ人系の植民都市です。ローマが勢力を南に伸ばすに従いターラント人は脅威に思い、当時傭兵としてかなりの武名を持ち、アレキサンダー大王の後継者を自任していたエピュロスの王ピュロスを招聘したことは有名です。結局、ターラントは十分な支援を行わず、逆にローマの支配下に置かれてしまいます。
このターラントは特に重要地点と思い、同盟都市でありながら自治権を認めませんでした。アッピア街道が通じています。

Brundisium(ブリンディシウム)◎:
後に東への玄関口となった最重要港であり、ポエニ戦争時にもここは対マケドニアの最前線となっていました。
後にスッラが私兵で上陸し、ローマを恐怖政治で覆った時も、ポンペイウスがカエサルの強行軍におびえてギリシャへ逃れた時も、みなこの港からです。他にも重要なでき事の起点や通過点としては枚挙にいとまがありません。
ローマによる重要性の認識の証拠として、アッピア街道がカプアからターラントと順次伸ばされて、ここを終着点としたのみならず、ベネベントからミヌキア街道を別れさせ、アドリア沿岸を通り同じくここを終着点としたことからも明らかでしょう。

Cannae(カンナエ)
アプリアの寒村の名で、有名なカンナエ(カンネ)の会戦の行われた場所です。

Beneventumu(ベネベントゥム):
サムニウム族の制圧と前後して建設された根拠地で、地図版と同様に交通の要衝です。カプアから伸びたアッピア街道と、ここから別れるミヌキア街道との三叉路にあたっています。実際はサムニウム族の勢力範囲内にあります。

Arpi(アルピ)
ローマ同盟の都市で、ハンニバルの南下により、ここはハンニバルの支配下に入ります。


LUCANIA(ルカニア)
長靴のつま先にあたる地方で、ハンニバルが長い間、イタリで本拠としていた地方です。

Rhegium(レギウム)2◎:
メッサナ海峡のイタリア側にある街で、イオニア人系の植民都市です。

Brunttium(ブルンティウム族):
この地方は、多くの場所がハンニバルの占領下にあり、ブルッティウムは継続的な支援をハンニバルになしました。恐らくは、そのため、根を張ったハンニバル派の地方ということで、部族のPCマーカーとなっているのでしょう。

Croton(クロトン)◎:
ハンニバルにとって貴重な港湾都市であり、ハンニバルはここからアフリカへ帰還しています。その際にここに碑文をのこしており、50年ほど後に歴史学者がその内容を写し取って、それが貴重なハンニバルの戦力と山越えの二次資料となっています。

Heraclea(ヘラクレア):
ローマ同盟の都市で、クロトン同様、北ギリシャのアカイア系のギリシャ植民都市です。港湾都市でした。イタリア半島をローマが勢力下におさめいく途上でターラントに雇われたエピュロスの王ピュロスにローマ軍が完敗したのはこの地です。

Paestium(パエストゥム):
パエストゥムは、紀元前273年に建設されたラテン人植民地です。

Africa(アフリカ)
アフリカは西半分はヌミディア王国で、東半分がカルタゴ領です。ヌミディア王国は二つの有力な王国がありました。ヌミディアの支配によるアフリカでの戦闘でBCカード2枚は、ヌミディアの地中海一精強な騎兵によるものでしょう。


CARHAGE(カルタゴ)

Carthage(カルタゴ)D−1◎:
カルタゴ本国であり、フェニキア人の植民都市です。後にローマによって再興され、属州アフリカの首都となりました。


CARTHAGINIA(カルタゴギニア)
カルタゴ領アフリカです。非常に豊潤な地であり、後にローマの穀倉ともなりました。

Utica(ウティカ)2◎:
カルタゴ第二の土地です。元はカルタゴと同じようにフェニキア人の植民地であったようですが、カルタゴの都市となっていました。スキピオ・アフリカヌスが上陸したのがこの近くで、上陸後に囲みましたが、40日で解いています。
カルタゴ滅亡後は、属州アフリカの首都をカルタゴ市再興まで努めていました。

Hadrumetium(ハドルメティウム)◎:
スキピオ・アフリカヌスのアフリカ上陸よって本土へ帰還したハンニバルが帰り着いた港です。シチリアを起点とするローマの制海範囲をなるべく避けたためです。

Zama(ザマ):
有名なザマの会戦が起った場所で、カルタゴ、ハドルメティウム、ヌミディアの三角形の重心に位置しています。

Thabraca(サバルカ):
Hippo Regius(ヒッポレギウス):
Thapasu(タプスス):
Tacapae(タカパエ)◎:

それぞれ地名です。


EASTERN NUMIDIA(東ヌミディア)
当時はマッシニッサの父ガイア王がマッシュリ族治めていましたが、それが亡くなるや西ヌミディアのシファチェ王に侵攻され、王子マッシニッサは国も婚約も失ってローマ軍に身を寄せています。ヌミディアはそもそもは遊牧民族でしたが、紀元前200年頃には東の方では農業も始まっていたといわれます。紀元前300年頃(一説に309年)に始まったカルタゴとの同盟以来、有力な騎兵力を提供し続けていました。後には農業が盛んに行われるようになっています。

Cirta(キルタ)
東ヌミディアの首都で、後に属州ヌミディアの首都にもなっています。交通の要衝に位置しています。

Sitifis(シティフィス)
後には属州ニミディアでなく、属州マウレタニア・カエサリエンシスい属しました。

Thamugadi(タムガディ)
ヌミディアの南を東西に走るオーレス山脈の麓にあり、後に交通の要衝となりました。しかし、この地自体は紀元100年頃に退役兵用の植民都市として建設されたものであり、碁盤の目のような計画都市でした。
十数km西にあるランパエシスという街が後に軍団駐屯地になっています。

Thanbursicu(トゥブルシタ)
Thevestis(テヴェスティス)

共に東ヌミディアの地名です。テヴェスティスは後にローマ軍団の駐屯地になっています。


WESTERN NUMIDIA(西ヌミディア)
マッサエシュリ族の長、ヌミディア王シファチェが治めており、後にマッシニッサによって滅ぼされています。その後、統一ヌミディア王国領となりましたが、後にヌミディア王国がローマに滅ぼされて後、属州マウレタリア・カエサリエンシスとなっています。首都はキルタでした。

Icosium(イコシウム)◎:
Saldae(サルダエ)◎:
Zuccabar(ズッカバル):
Tupusuctu(トゥプスクトゥ):

共に内陸から100kmほどにあり、後の属州マウレタニア・カエサリエンシスの属しています。ただしこの属州の首都はイコシウムから80kmほど西のイオル・カエサレアに置かれています。

Vescera(ウェスケラ)
この街だけかなり南にあり、オーレス山脈の南側です。また、後には属州ヌミディアに組み込まれています。

Sapain(スペイン)
スペインは当時は開発が進んでいませんでしたが、バルカ一門が乗り込んできてからは非常に生産性が上がりっていました。また銀鉱があり、失ったシチリア以上の収益をスペインであげていたともいわれています。反独立国状態でした。後にローマが属州としており、ローマ化しています。


OROSPEDA(オロスペダ)
バルカ一門の本拠地が存在した土地で、ここでバルカ一門は王族のような暮らしをしていたといわれています。

New Cartage(カルタゴ・ノヴァ)2◎:
バルカ一門の本拠地で、ここからハンニバル兄弟は出撃していっています。
スキピオ・アフリカヌスは、ローマがほぼ必ず野営地を目的地で建設する習慣を逆手にとり、到着後すぐに攻城を開始しました。それによって油断していたN・カルタゴは陥落しました。

Saguntum(サグントゥム)2◎:
ギリシャ人の植民地で、当初ローマの同盟都市でした。しかし、この街はローマとハミルカルの婿の後継者ハスドルバルとで結んだ勢力境界、エブロ河の南にありました。そこでハンニバルはこの街を条約をたてに攻撃してローマの宣戦布告を誘うのに利用しています。攻囲は八ヶ月に及びましたが、さほどの要害でも無く、ローマの宣戦布告を待って抜いたといわれています。

Dianium(ディアニウム)◎:
Laminium(ラミニウム):

それぞれ、バレンシア東南東100km、トレド東南140kmにある街の地名です

Salaria(サラリア):
スキピオ・アフリカヌスがハスドルバルを破ったバクラの戦いの起った場所と思われます。サラリアという都市名はなく、辺りの地名か部族名でしょう。


BAETICA(バエティカ)
オロスペダと同じく、沿岸部はフェニキア人やギリシャ人の植民都市がありました。特にこの地方は元からのカルタゴの植民地があり、カルタゴのスペイン支配の中心でした。

Gades(ガデス)2◎:
ヘラクレスの柱といわれたジブラルタル海峡を越えた大西洋岸の植民都市です。カルタゴ・ノヴァの建設までスペインの中心地でした。貨幣鋳造を行っており、カルタゴ圏のなかでも特別な位置を占めていました。

Malaca(マラカ)◎:
Acci(アッキ):
Corduba(コルドバ):

共に都市名です。コルドバは後に属州遠スペインの首都となっています。

Hispalis(ヒスパリス):
後のセビリアです。スキピオ・アフリカヌスがカルタゴをスペインから駆逐したイリパの戦いはこの辺りで行われています。


CELTIBERIA(ケルティベリア)
ケルティベリ族の勢力範囲で、そのまま地名になっています。ローマ支配に抵抗しましたが、後にはローマ化しています。

Toletum(トレトゥム):
Segobriga(セゴブリガ):
Segovia(セゴヴィア):
Arsa(アルサ):
Salmantica(サルマンティカ):

それぞれ街の名前で、トレツゥムは後のトレドです。セゴヴィアには、有名な水道橋の遺跡があります。


IDUBEDA(イドゥベダ)
当時、スペインとローマ(実質はマッシリアのため)の間に結ばれた条約により、このエブロ河の北側の地方はカルタゴの勢力範囲ではありませんでした。この地域はハンニバルがイタリへ向かった後にスキピオ兄弟とハスドルバルらカルタゴ軍の戦いが行われていました。

Tarraco(タラッコ)◎:
後に属州近スペインの首都となる街です。また、ローマのスペインにおける対カルタゴ戦線の基地となり、スペインにおける本拠地となっていました。スキピオ兄弟が最初に根拠地として上陸したのもこの場所です。

Dertosa(デルトサ)◎:
Ilerda(イレルダ):
Azaila(アザイラ):
Iberus(イベルス):
Bilbils(ビルビリス):
Numantia(ヌマンティア):

それぞれ街名と思われますが、イベルスとアザイラは見当たりませんでした。ヌマンティアでは、後に反ローマ闘争の最後の戦いがこの街で行われています。


その他の地域
その他の地域として、勝利条件に関係するシラクサ、シチリア、コルシカ・サルディニアがあり、勝利条件上は関係が無い地位としてマッシリア、遠ガリア、リグリア、バレアレス諸島があります。

SYRACUSE(シラクサ)

Syracuse(シラクサ)2−1◎:
シラクサは当時の最先進都市のひとつであり、本国のギリシャが衰えた後、マグナ・グレタ(大ギリシャ)と呼ばれるギリシャ系植民都市の代表格でした。シラクサはコリント系ギリシャ植民都市です。
当時、有名なアルイメデスが僭主ヒエロンに招かれていました。


SICILIA(シチリア)
現在にまでシチリアは有数の穀倉地帯であり、後にローマの重要な輸入先となっています。また地勢上、中部地中海を制する絶好の場所でした。第一次ポエニ戦争までは西半分をカルタゴ、東の大部分をシラクサ、東北部をメッサナが領有していました。

Messana(メッサナ)2◎:
ポエニ戦役の発端となった都市でした。第一次ポエニ戦争勃発時には傭兵隊が街を占拠している状態でした。これに対してシラクサが攻撃を行い、この救援にローマが駆けつけ、カルタゴが介入してポエニ戦争が始まっています。

Enna(エンナ):
シチリアの中央に位置する交通の要衝です。第一次ポエニ戦争でローマがここでハミルカルに敗れていますが、その一年後に再び戦闘が起り、今度はカルタゴに止めをさしています。後の紀元前136年に大規模な奴隷放棄が起りました。

Agrigentum(アグリジェントゥム)◎:
第一次ポエニ戦争でカルタゴが当初、根拠地とした重要都市です。戦役途中からローマ軍の支配下になり、その後、属州シチリアの対カルタゴ最前線となりました。この時、住民を奴隷として売ってしまっています。その後、カルタゴが取り返し、焼き払ってしまいました。
開戦時の執政官ロングスは、この地に送られてきていました。
第二次ポエニ戦争でシラクサがカルタゴ側に裏切ったのに対してここにカルタゴが支援軍を送り込んでいますが、マルケルスに打ち破られています。

Panormus(パノルムス)◎:
現在のパレルモで、この街も第一次ポエニ戦争で激烈な攻防戦が行われています。この攻防戦ではカルタゴ軍が象を使っています。

Lilybaeum(リリュバエウム)◎:
スキピオ・アフリカヌスがアフリカヘ向かった港です。
ここも第一次ポエニ戦争の古戦場でもあります。


CORSICA SARDINIA(コルシカ サルディニア)
共に沿岸部に植民されていましたが、前述の通り文明化されていたのはその一部であり、大部分は未開部族に支配されていました。
サルディニアはカルタゴの支配下にありましたが、この支配は比較的隷属的なものであったようです。後にどさくさにまぎれてローマが領有しました。

Aleria(アレリア)◎:
アレリアはコルシカ島に、紀元前6世紀頃に建設されたイオニア人系の植民都市です。コルシカは紀元前227年に属州化されました。

Sassari(サッサリ)◎:
現在ではサルディニア島の有力都市ですが、この時代に有力な都市ではなかったようで、存在も確かめられませんでした。

Oristano(オリスターノ)◎:
ここについては、わかりませんでした。紀元前7世紀頃建設されたフェニキア人植民地タッロスのことと思われます。

Carales(カラレス)◎:
カラレスは紀元前7世紀頃のフェニキア人植民都市です。今のカリアリにあたります。

Nuoro(ヌオロ):
よくわかりませんでした。


BALEARIC ISLANDS(バレアレス諸島)

Baleares◎:
よくわかりません。ただ、別の資料には、ポエニ戦争時にはローマ支配となっています。

MASSILIA(マッシリア)
当時はこの地方随一のマッシリアの影響下にあり、後に属州ナルボネンシスとなります。

Massillia(マッシリア)2◎:
マッシリア(マルセーユ)は、紀元前6世紀頃に建設されたイオニア人系ギリシャ人植民地ですが、ローマの友邦となります。この地方随一の都市国家であり、周辺にかなりの影響力を持っていました。以後、この付近のローマ化は、ここを起点として行われています。
開戦時は、ここにスキピオ兄弟がピエサからここに入港して対スペイン戦線に当ろうとしましたが、ハンニバルがその北を通過してしまったので、それぞれ本国・スペインに発っています。

Nice(ニカエア)◎:
後には属州近ガリアと属州ナルボネンシスの境界になります。現在のフランス領ニースです。

Nemausus(ネマウスス):
ローヌ河下流の平原の中央部に位置しており、後にはローマ軍団の駐屯地になっています。

Narbo(ナルボ):
後に属州ナルボネンシスの首都となる、交通の要衝です。

Emporiae(エンポリアエ)◎:
当時マッシリアの対岸に位置する同じくイオニア人系のギリシャ植民地で、第一次ポエニ戦争後にローマの勢力下にはいります。


GALLIA TRANSALPINIA(ガリア・トランスピニア)
後にローマ化の優等生といわれるガリアですが、この当時はガリア人が未開のまま勢力をはっていました。平地も開けておらず、森や沼で覆われています。
ここがローマ化したのはユリウス・カエサルによってで、それまでは地中海世界には含まれていませんでした。


LIGURIA(リグリア)
リグリア海沿岸部で、ジェノアが後に中心となります。ここには戦役後期にマゴーネが上陸しており、即座にローマ側に反撃されています。
俗にリグリア人といわれるのは、東南から反時計周りにアブアニ族・フリニアテス族・イルウァテス族・スタティエリ族・インガウニ族などです。

ポエニ戦争の概略  部将(執政官)とその他の人物  戦略カード

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