◆◆◆ 電脳PiCARO ◆◆◆ 第6弾記事

ポエニ戦争概略



カルタゴ

カルタゴは、ポエニとはフェニキアの別読みでることからして、フェニキア人(シリア、レバノンの辺り)の植民地が発達したものと言われています。当時の地中海世界の植民は主に海洋民族のギリシャ人とフェニキア人が行っていたようで、前者の代表がシラクサ、マッシリア(マルセイユ)、タランティウム(タラント)などで、後者の代表がカルタゴでした。

カルタゴの成立は、やはり古代のことですからはっきりはしないのですが、伝承によれば、その植民者はレバノンのテュロス(シュール)から出立したといわれています。伝承は真実かそれに近いものを伝えてはいるのでしょう。

昔々、あるところに、美しいフェニキア人のお姫様がいました。そのお姫様はエリッサといい、テュロスというフェニアキのお姫様でした。姫はいつしか幸せな結婚をして、幸せに暮らしていました。姫には兄がいました。名をピグマリオンというのですが、とても悪い人でした。ある時、王位を狙う兄は、お姫様の夫を暗殺し、エリッサも命を狙われてしまいました。そこで、エリッサは身の回りの財宝を船に積んで、忠実な家来達と主に祖国を脱出したのです。
船は西へ向かいました。まずは隣の島、キプロスへ立ち寄ったのです。そこで戦争の女神に仕える神官と島の娘80人を一行に加え、さらに西へ向かいました。
一行は西の果てのヘラクレスの柱といわれる(ジブラルタル)海峡を越え、また東へ引き返してエジプトへ立ち寄り、やがてまた西へ引き返しました。
安住の地を求めてさまよう彼女らは、やがて地中海のなかほどに、海に向かって放たれた矢のような岬を見つけました。岬は守りやすく素晴らしい場所だったので、エリッサはここを安住の地と定めることにしました。 エリッサは現地の住人に土地を分けてくれ、といいました。しかし、意地悪な現地の人は、一頭の牛からとれる皮の分だけ譲ってあげよう、といいます。エリッサはそこで牛皮を切り裂いて細長い紐を作り、その紐で土地を囲いました。
こうして、新しい町(フェニキア語でカルト・ハダシュト)カルタゴができあがったのです。その町の人達は船で海に乗り出し、勇敢で機智に富んでいたため、長い間栄えました。

フェニキア人は競争相手のギリシャ人達と違って記録をほとんど残さなかったために、どうしてもギリシャ人側からの資料ばかり残り、いい印象を受けていないと言われていますが、聖書などには却ってフェニキア人に好意的なようです。
フェニキア人は結局、カルタゴ以外にはあまり大きな植民地は発展していません。しかしその行動範囲は広く、もちろん本拠地の東地中海から大西洋にまで及んでいるようです。
カルタゴは紀元前8世紀頃に建設され、その消滅する紀元前2世紀まで、常に地中海で最も豊かな世界であり続けました。その場所がいかに要衝であったかは、後にカルタゴがローマの手によって再興されるや属州アフリカの拠点となり、また下ってチュニジアの首都チュニスが遺跡を郊外にもっていることからもあきらかでしょう。

カルタゴの政治は貴族政であり、恐らくは建設時以来の貴族や神官、そして市民と、階級化されていたようです。ただし、市民と貴族の間はさほど軋轢はなかったようで貿易立国の特徴の一つかもしれません。 ただし、現地人とカルタゴ人は明確に区別されていたことは事実のようで、現地人はほぼ奴隷状態にありました。

国としての基盤は、当初の貿易から、次第に肥沃な土地を利用した農業も加わわり、ほぼ完全な形をとるように成りました。得にその農業は非常に生産性が高く、後にローマ人がほぼ同じ内容のマニュアルを使うようになったことからも、有効性はうかがわれます。
ただし、これが次第に国内の政治の二極化をも引き起こすことになります。国内派と海外派で、前者は当時、非常に生産性の高かったアフリカの農地を基盤にアフリカでの勢力圏を拡大させようとし、後者は積極的に海外へ進出し、植民地などの拠点を作ろうとします。その植民地はサルディニア島の沿岸部、スペイン南部、バレアレス諸島、そしてシチリア南部に及びました。
前者の代表がハンノ一門で、後者の代表がバルカ一門であったことが知られています。

兵制は、支配階級の市民が少ないことと、金もうけに忙しいことから、傭兵制であり、それを貴族が指揮をする形でした。

共和制ローマ

ローマにも建国の伝承があります。有名なイーリアスにあるトロイ落城時にトロイ王の婿にして愛と美の女神ヴィーナスと人間との間に生まれた男子アイネイアが息子を連れて脱出し、デロス島、クレタ島、ギリシャ西岸、シチリア、アフリカとさまよい、最後にイタリア半島西岸を北上し、ローマの近くの海岸へ辿り着きます。
この息子の子孫のアルバという国の王女が叔父によって巫女にされていたところ、軍神マルスによって双子を産むことになります。それを知った叔父は自分の王位を脅かすとしてテヴェレ河(ローマ市内を流れています)に流し、河口近くで狼によって助け出されて乳を与えられ、やがて羊飼いによって育てられます。
ロムルスとレムスの兄弟は羊飼い達を組織してアルバへ攻め込み落すと、そこを捨てて自分達の育った近くで建国しました。紀元前753年といわれています。カルタゴとほぼ同じ時期なわけです。
やがてロムルスとレムスはいさかいをおこし、ロムルスがレムスを殺して王位に就きます。建国者ロムルスの名を冠しローマと呼ぶように成りました。
やがてローマ人は近くのサビーニ族を襲い、女性を略奪してきたために、サビーニ族と戦争になりますが、当のさらわれた女たちが仲裁にあたり、むしろサビーニ族はローマに移り住んできます。そしてロムルスとサビーニ族の王(やがて戦死)が両立し、元老院を作りました。

ロムルスは雷に打たれて死に二代目はサビーニ族から選ばれ、ローマのラテン民族と交互に王を出し合いましたが、やがて亡命エトルリア人の子が王位に就きます。
その頃、イタリアは北はエトルリア人、南はギリシャ人が勢力を伸ばしていました。ローマ人は特徴として他民族を容易に同化していきましたが、エトルリア人も徐々に住むようになってました。
エトルリア人は未だ言語の解読がなされていない謎の民族と言われていますが、建設技術に優れていました。エトルリア人とは時に争い、時に同盟しましたが、そのエトルリア人の子孫の王が死ぬと、その息子が王位を簒奪します。この王は傲慢王といわれ、追放されてしまいますが、エトルリア人に助けを求め、ローマとエトルリアは戦争状態になります。

ローマは執政官という民選の指導者を二人選出して強大な権力を与える、共和制をしきました。この制度の下で徐々に各組織が整えられます。
やがてローマはエトルリア人を制して同化し、苦戦しながらも、中東部の山岳民族サムニウム族を征服し、南部のギリシャ植民地を降し、または同盟関係にいれました。一時は北イタリアのガリア人の来襲によってローマが占拠され、略奪されるたうえに身の代金を払って退去してもらったり、サムニウム族に大敗してローマ連合の各都市が反旗したりしました。またローマを脅威に思ったタランティウムによって招聘されたギリシャ北西部のエピロス王国のピュロス王に大敗して一時危機に陥ったこともありました。しかし、次第に同化策と地道な拡大が功を奏し、やがて初期のローマとの同盟関係にあったローマ連合の各都市、ローマ市民権をもつ都市群、植民地などによってイタリア半島が道路網などによって結ばれ、強固な支配体制ができあがります。

ローマは1年交代で二人選ばれる執政官(コンスル)が二個軍団(当初の一個軍団から拡充)をそれぞれ率いる仕組みでした。この執政官は完全に同格で、絶対指揮権とよばれる全権を預けられました。また、他に法務官が絶対指揮権を持つこともあり、執政官が二人とも任地にいる時は彼が市民集会を開会しました。公職は全て選挙で選ばれ、ローマ市民全てに選挙権と被選挙権(年齢下限あり)がありました。
執政官は共に選出後に任地が市民集会で定められました。そのため、3個所以上で軍が必要な時は法務官がその資格で赴く時がありますが、多くは前執政官(プロコンスル)をその資格で絶対指揮権を与えて方面軍を作り出すやり方を行いました。こうして戦略の継続も可能となったわけです。前執政官は執政官の下位におかれます。
そして寡頭制といわれるローマの一大特徴が元老院です。当初の100から200、300と次第に増えていきました。他民族、都市の同化とともに、その民族や都市の有力者を元老院に取り込んでいったのは、ローマの発展に大いに役に立ったようです。正確には権限はなく、政治上、助言ができました。ただし、元老院最終勧告という強力なものがあり、それはほぼ命令に近い威力がありました。
また、平民の権益を守るために護民官という公職が新設され、平民集会で選出されました。立法を平民集会にかけて行える、強力な官職でした。
また、国家の危機には半年の任期で独裁官を選出しました。独裁官は執政官の上に立つ強力な権力者で、公職の権力分散を図るローマの例外です。外敵だけでなく疫病対策などで選出されたこともあります。
多くの決定は最終的には市民集会によって決定されるのが大原則で、いまだイタリア半島にしかその覇権が及んでいなかった時には共和制は機能したようです。

兵制は徴兵制で、市民の自弁による重装歩兵と、得に富裕層からなる騎兵で、その主力は屋台骨といわれた重装歩兵でした。一個軍団は約4000人です。さらにほぼ同数の同盟諸国の軽歩兵が加わり、中央に重装歩兵を置いた陣容でした。また、規律は非常に正しく、また各行動がマニュアル化されていました。特に野営地の組み方は近隣に定評がありました。
また、海軍などは、同盟諸国に分担させましたが、後にローマ独自の海軍を持つようになります。

ポエニ戦役

ほぼ同時期に建国されたローマとカルタゴですが、その勢力は雲泥の差がありました。最も古いとされている両国の条約はあきらかな不平等条約でしたが、ローマは未だローマとその周辺のみの国家であり、それも当然でしょう。
ポエニ戦役は三度起りました。ハンニバル戦争といわれる第二次を、このゲームは扱っています。

第一次ポエニ戦役はシチリア島を巡っての陸海戦でした。ことの起こりは、メッシーナ海峡を挟んで自領となったレギウム(レッジョ)の対岸メッシーナの救助依頼でした。この街は一時、傭兵隊によって支配されていましたが、この街をシチリア随一の強国シラクサの僭主ヒエロンによって侵略されていたのです。しかし、このシチリアは西半分をカルタゴが勢力圏に収めており、救援に決したローマの軍はやがてカルタゴと激突することになります。紀元前264年でした。
シラクサ自体はローマに敗れるとやがてローマに組することになります。僭主ヒエロンは明主で、ローマの強力さをみてとると、生涯その同盟関係を維持します。
しかし、すでにこの戦争自体がカルタゴとローマのシチリアの領有権争いに発展しています。陸では一進一退があり、特に象を使ったカルタゴによって苦しめられますが、やがてその対処法も学ぶことになります。しかし、ローマが次第に優勢になりました。問題は共に海輸が必要なために、制海権です。
ローマはよく知られているカラスという相手の船へ渡す跳ね橋状のものを船首につけ、接近戦での操船の差をなくしてしまいます。これによって大きな海戦にほぼ尽く勝利を収め、制海権を得ます。一時はアフリカへ上陸もしたのですが、合計で三度も嵐で船団が壊滅します。しかし、結局は制海権の維持は行われました。
カルタゴは後半に海外派のバルカ一門のハミルカルをシチリアへ送り込みますが、時既に遅く、国内は両派で相争い、支援が十分でなく、結局、シチリアを放棄、海軍維持の実質的な禁止を主とした講和条約が結ばれます。紀元前239年のことでした。

ハミルカルは戦後、 一門を率いてスペインへ向かいます。ここでノバ・カルタゴ(カルタヘーナ)を建設し、ここを拠点に原住民を制圧しました。スペインは銀山もあり、非常に生産性が高く、たちまち強大な経済力をここでハミルカルは得ます。ハミルカルの死後、婿のハスドバルが継ぎ、8年後に暗殺されると、ハミルカルの嫡子ハンニバルが26才で当主となります。これは本国でも承認されます。紀元前221年のことです。

一方でカルタゴはガリア(後に属州近ガリア)と呼ばれる北イタリアの制圧に取り掛かっていました。イタリア半島は支配圏に収め、またカルタゴでポエニ戦争狩猟直後に起った傭兵料の値切りによる傭兵の反乱(ハミルカルが鎮圧)のどさくさにサルディニア島とコルシカ島を奪い、シチリアも属州として、あとは北の守りを確立しようとしたのです。ローマにはカルタゴを滅ぼす気はなかったようで、シチリアを得た後は、北に専念していたようです。
ここで、ローマの同盟都市マッシリア(マルセイユ)がバルカ一門の経営するスペインの進出を脅威に感じ、ローマが仲介してエブロ河以南をその最大境界とする条約を結びます。

バルカ一門はローマへの復讐を忘れていませんでした。スペイン経営は、その基盤作りだったのです。そして、開戦の口実に、エブロ河以南にしてローマの同盟都市サグントゥムへの攻撃を選びます。
ローマはエブロ河以南にあるという理由で自領に取り込もうとしたハンニバルは紀元前219年に攻撃を開始すると、やむなくローマはカルタゴへ宣戦布告します。しかし、カルタゴにとってもそれは寝耳に水で、ハンニバルの以後の行動は追認の形となってしまいます。カルタゴのハンノは反対したものの、しかしカルタゴは以後、開戦にひきずられます。ただい、ローマもカリタゴも、大戦役に発展するとは考えていなかったようです、ローマはガリア平定中でもあり、開戦はやむなかったとはいえ、望まないものでした。

ハンニバルはサグントゥムを宣戦布告を待って陥落させると、翌紀元前218年にノバ・カルタゴをハンイバルは出撃し、エブロ河を越えました。
一方のローマは第一次の戦場であったシチリアの、対カルタゴ前線基地であったアグリジェントゥムに平民出身の執政官ティベリウス・センプローニウス・ロングスを送り込み、一方のプブリウス・コルネリウス・スキピオをスペインを任地とします。

ロングスはシチリアへ入りますが、カルタゴが何も動きを見せていないのを知ります。一方のP・スキピオはマッシリア(マルセーユ)へ入港しますが、そこでハンニバルがピレネー山脈を越え、行方不明になったことを知ります。そこでハンイバルを捜索するとともに、跡を追跡しますが、後手後手を踏み、やがてハンニバルはアルプス越えを目論んでいることを知ります。そこで、弟のグネウス・コルネリウス・スキピオに軍を任せてスペインに送り、自らは本国へ戻ってそこで新設していた軍団で北伊で迎撃を行うことにします。

ハンニバルは次弟のハスドバルをスペインに残して末弟のマゴーネを連れていきました。アルプスを半月かけて越え、歩騎2万を失ったといわれます。ピレネー越え以来、3万以上を失っていました。しかし、当然ながら反ローマであったガリア人の1万ほどを加えて戦力を回復します。

スキピオの軍とハンニバルは、ティチーノ(パヴィア)で前衛の騎兵同士で対戦が行なわれ、ヌミディアの精強な騎兵によってカルタゴが勝利します。そのうちにロングスがイタリアを縦断して合流しトレッビアで本格的な会戦が12月に行われました。スキピオはこのまま冬を超したかったようですが、ロングスは平民出身と言うことで手柄を立てようと、ハンニバルの挑発に乗ります。カルタゴは騎兵1万歩兵2万8千。ローマは歩兵3万6〜7千、騎兵4千弱。
結果は騎兵力の差がでてカルタゴが包囲に成功。2万5千を失い、ガリアを失います。

翌年、今度はアペニン山脈を越えてきたハンイバルに対し、スキピオをスペインに前執政官として送り込み、執政官はセビリウスと、平民出のガイウス・フラミニウスでした。両名はそれぞれ軍団を率いて迎撃に向かいましたが、各個撃破にあいます。朝もやのなか、トランジメーノ湖畔をすすむフラミニウスの軍は奇襲され、湖を利して包囲殲滅してしまいます。ハンニバルはローマを直撃することはせず、アドリア海沿岸を抜け、南伊へ向かい、同盟国の離反を誘うことにしたのです。

ローマは危機感を感じ、35年振りにファビウス・マクシムスを独裁官に擁立します。ファビウスはハンニバルを並々ならぬ敵と感じ、消耗を待つ戦略をとります。しかし、この持久戦主義は各都市が略奪される事実があり、反対者も現れます。ローマの大勢は積極主義でした。そこで、翌年の執政官は積極主義者のテレンティウス・ヴァッロと持久戦主義のエミリウス・パウルスが選出されます。
その紀元前216年では、史上名高いカンネの会戦で、ローマの軍は壊滅します。そこでさすがにローマも以後は持久戦をとることになります。

しかし、肝心のローマ連合と諸都市の離反はほとんど見られませんでした。ローマの同化政策と地方自治権の温存策は、ローマ連合を強固なものにしていたのです。
しかし、その例外として最も有力な都市が寝返ってしまいます。当時はナポリをしのぐ中伊の要衝の都市カプアと、忠実な同盟者ヒロエンが死亡したシラクサです。そして南伊の当時の三大都市の残り一つターラント(タラント)までハンニバルは抜いてしまうのです。
さらに、オリエント三大国家の一つマケドニアがハンニバルと同盟を結び、ローマには八方塞がりでした。

しかし、この時を境に、ローマが徐々に盛り返しはじめます。まずはマケドニアですが、使者が途中で捕まったこともあり、当初は統一行動を起こせないでいました。そこでアエトリアとペルガモンというギリシャのマケドニアの背後の国と同盟を結び、ヴァレリウス・レヴィヌスを法務官の資格で絶対指揮権を付与してこれに当たらせました。結局マケドニアは以後、この戦争にさしたる影響を与え得ることはできずに講和しています。
シラクサが裏切ったシチリアには、直ちに平民出身のクラウディウス・マルケルスをカンネの敗兵と共に送り込み、執政官、後に前執政官の資格でシラクサ攻略に当たらせます。苦戦したものの、紀元前211年に陥落させ、後に本土でハンニバルにあたります。
そして、ファビウス・マクシムスと、センプローニウス・グラッススが執政官及び前執政官の資格で常にハンニバルにあたり続けます。
そして、北伊のガリアにはヴァッロを送らせ、ハンニバルを孤立化させます。スペインではスキピオ兄弟がハンニバルの弟達に対して優勢に戦闘を続けました。
ハンニバルにとって占領地の増大が負担になりはじめ、カプアも紀元前211年についに逆に取り返されてしまいます。

しかし、好転したかにみえたローマですが、今度は終始優勢であったスペインで崩れます。買収によって現地兵が脱走し、それを追ううちにカルタゴ軍に遭遇して、逆に全滅、スキピオ兄弟は戦死します。
直ちにマルケルスの将であった名門貴族のクラウディウス・ネロが向かい、反撃を開始します。たまらず講和を申し入れるハスドルバルですが、それを信じているうちにハスドルバルは軍勢ごと窮地を脱してしまいます。ネロはこの不始末で本国へ送還されます。
この代わりに向かったのが、特例として前法務官の資格で向かったプブリウス・スキピオの次男、同じなのプブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)です。15才も下限に足りなかったのですが、元老院は民衆の熱狂的な支持もあって特例を認めてスペインに送り出します。

紀元前210年にスペインに向かったスキピオは、奇襲でN・カルタゴを抜いてしまうと、現地民を手なずけてしまいます。そしてハスドルバルの軍をベクラで散々にやぶり、スペインを手中にします。ハスドルバル達は、ここでハスドルバルを精兵でアルプス越えでハンニバルに合流させ、残りのマゴーネ、ジスゴーネがそれまで支えようという作戦に出ます。これは成功し、ハスドルバルはアルプスを越えてイタリアへ進入します。
ただし、これをハンニバルはアルプス越えに要する時間の算出を誤り、合流に北上するのが遅れ、ハスドルバルはネロの軍勢にメタウロ(リミニの南)で捕捉殲滅されます。
ハンイバルはこの時期、兵を小競り合いに持っていき、泥沼の戦いにするマルケルウスの戦術にてこずり、他にファビウス、クラッスス(後に戦死)などの将によって孤立させられ、戦略的には守勢に回ってしまいます。

紀元前206年にはイリパ(カデスの北)でスキピオはジスゴーネの軍に大勝。この時、ヌミディア王子のマッシニッサの甥を捕え、逃がします。
紀元前205年には執政官に立候補を凱旋式と引き換えに認めさせると、翌204年に前執政官の資格でシチリアへ向かい、ここからアフリカへ上陸します。しかし、寝返りを約束したヌミディア王シファチェはカルタゴ側に再度とどまり、逆にもう一人の王マッシニッサ領をおそいます。マッシニッサは身一つに近い格好でスキピオの元へ逃げ込み、ローマに加わります。この二人で逆にジスコーネとシファチェに奇襲をかけ、これを打ち破ります。
カルタゴはマゴーネに軍を持たせてジェノアへ上陸させますが、これをローマに襲われ、ジェノアから出れなくなってしまいます。

とうとう打つ手のなくなったカルタゴはアフリカの本領自体が危機に陥り、ハンニバルをアフリカへ帰還させます。スキピオは本領を回復して増援をもってやってきたマッシニッサと合流し、ザマでハンイバルと決戦して勝利を収め、ここで第二次ポエニ戦争はローマの勝利に終わります。スキピオはアフリカを制したものという意味で、アフリカヌスという称号を得ます。

以後、カルタゴは存続許され、経済的には復興しますが、そのうちにローマのカルタゴ討伐派が主流となって攻め込まれ、篭城の後に陥落し、滅亡しています。第三次ポエニ戦争といわれています。

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